特急あずさの車中で書いている(註:途中まで)。諏訪に行くのだ。B さんと C さんと高次元情報に関する大事な会合があるからだ。ちょっと大げさかな。でもネットがすぐ繋がらなくなる。山なんですね基本的に、まわりは。山梨、長野。南アルプスのつらなりが見事だ。白くゴツく、白龍の背中のよう。それにしても酒かっくらってる初老のおじさん連中がうるさい。いや、嫌じゃないんです。むしろ酒飲んで騒いでいるくらいがいいんで、私も仲間に入りたいくらいなんだが、もうひっきりなしに喋ってる。前に黒姫山に行った帰りの電車の中でも似たようなおばさん連中と遭遇したことがあるが(やはり酒飲んでた)、その喋ること喋ること。亭主のことから、娘のこと、微妙な下ネタでぎゃっと笑うみたいな。まったく同じなんだ、このおじさんたちも。何だか感動した。男は黙ってサッポロビール(これもわからないんだろうな、今の若者は)とか、男は余計なことは喋らないとか、沈黙は金なりとか、口はわざわいのもととか、女は無口な人がいい(これは八代亜紀の「舟唄」だ)とか、あまり喋らないほうがいい的な感じがなんとなく優勢を占めてる気がするが、まあそれは一種の教訓としてあるのでしょう。確かに余計なひと言が命取りってことはありそうだし、実際あるでしょう。私もある。あ、しまった言わなきゃよかったみたいなことから、本人のためと思い、あえて苦言を呈したはいいが猛反発をくらうとか、余計に落ち込ませてしまうとか、あろうことか結局私の自画自賛的なカタチになってしまうとか、そのつもりではなくても相手がそう思うのですね。

そういえば私は昔から誤解されやすいようである。高校のとき友人の家に遊びに行って、ドアを開けたら友人のお姉さんが出てきて、あ!あなたすごく誤解されそう!って叫ばれたくらいだ。初対面の人間にいきなり言う言葉じゃないようにも思うが、あとで友人に聞いたら、お姉さんはいわゆる霊感が強い人だった。それから、ああオレは誤解されやすいんだなと自覚して、普段から誤解されないように必要以上に説明くさく、しつこく、言い訳がましい物言いになってしまったわけだ。どうしてくれるのだ。

言葉に気をつけろ、とはよくいう。たしか映画『蘇る金狼』でも松田優作が風吹ジュンにそんなことを言うシーンがある。言葉・・・気をつけたほうがいいぞ、一度口から出た言葉は二度と取り消すことはできない、みたいなことだ。なぜか印象的だったんで覚えている。流れからいっても、なんだか唐突に感じたシーンだった。なんでこの場でそんなことを言うんだろう的な。そういえば前に紹介した数学者の岡潔博士に、何か数学的な証明を学生にとうとうと喋らせて、その学生の証明の正しさを検証するといったような話しがあった。しかも逆から証明させる。正しい証明だと、逆からでもスゥーっと流れるらしい。で、証明のどこかに学生の「我」というか姑息な思案がちょっとでも入っていると、その部分の流れがふっと途切れ、おかしくなる。違和感が出る。それで岡博士はオヤと思い、やり直しさせる。私にはよくわからないが、きっと数学も音楽みたいに天から降ってくるようなものなのかもしれない。モーツァルトも音楽はすでに完成されたものとしてひらめくといっている。あとは頭にあるその曲を順番に楽譜化していけばいいだけだ。先の松田優作のセリフはなんだったのか、本人のアドリブか、監督の思惑か、いずれにしろ何か違和感があった。

自然というか人智を超えたところから降りてくるものはきっと完璧なものだろうから、人間が都合よく付け足したり引いたりできるものではないだろう。できたとしたら、すなわちそれは本物ではないのだ。これは何にでもいえることだ。雑誌の表紙にしてもデザインにしても、最初に見たときの直観や印象が大事で、たいがい最初にいいと思ったものがいいに決まっている。細かいところを見出して、自分の浅はかな知識であーせいこーせいというヤツもいるが、そういうヤツの選んだものはたいがいツマラナイ。小さいというか、そいつの小さな器を満たすだけのクダラナイものが多い。人間の思考を超えたものと繋がっているという感じ、直観が一番大事で、それだけでいいくらいだ。そこまでいくのが大変なのだが、やっぱり経験を積むしかないのだろう。

あれ、なんの話だったか。沈黙だ。三島由紀夫も、沈黙は金とはいうが、沈黙は自分を不安にさせる、といった。おしゃべりだからね、三島は。色川武大(阿佐田哲也だ、といってもまた若者は知らないか)も、人間が 2 人以上いて黙っているのは陰険だ、といった。私自身決してお喋りではないし、どちらかというと無口なほうだと思っているが、カミさんにいわせるとフザケルナと。特に酔っぱらっているときは最悪で、際限なく喋りまくるらしい。だからカセットテープレコーダーかなんかにカミさんの声で、ウンウンとか、へーそうなんだとか、いろいろ録音しておくからそれに向かって話してくんないかなあと真剣に言われたことがある。それはともかく、やはり人はできれば話したほうがいいと思うのだがどうだろう。ひと言も喋らないで、そばにいるだけで何もかもわかり合っているような、『東京物語』の笠智衆と東山千栄子のような姿もあるが、どうもなんだか寂しい気がする。悲劇的な感じがするのは私だけだろうか。

高次元?の情報によれば、次元上昇によっていわゆる肉体を持たない意識体になるとテレパシーで会話ができるらしい。相手が考えていることがわかる。霊格のようなものがオーラの色になって現れるという話もあり、誰にでもその人の魂の品格がわかってしまう。ヨコシマなことばかり考えてたりすれば、ああこの人は霊格が低い人だなとわかる。隠すことができない。だから低い霊格の自分をさらしているとおのずから謙虚になっていく。だって隠し立てできないから、いくら見栄はって自分をエラソーに見せようとしてもバレてるから、これほど恥ずかしいこともない。霊格の高い人は黙ってても皆に敬われる。今の世界はまだゴマカシがきく。小さいころガキ大将でまわりに恐がられてたようなヤツでも、社会で揉まれるてうるちにびっくりするくらいデキた人間になってることがある。逆にいじめられてる気弱なヤツだったのが、社会的地位を得て、びっくりするくらい低次元な人間になってることもある。その他、学歴や容姿、家の環境など、昔のいろいろな劣等感がその人の品性となって現れている場合がある。霊能者までいかなくても見る人が見ればその人の霊格というか品性は見透かされるものだ。少なくとも何を考えて、何がモチーフになって、その人がそういう行動をしているのかぐらいはわかってしまう。だから、ああそのまま行けばこうなってああなって、結局本人が望んでいるようなことにはならないのになあ、それどころか真逆の結果が出るのになあ、などとわかる。

何が言いたいのかというと、高次元というものがあり、やがてそういうところに行くのであれば、思うことが瞬時に現実化するという世界なので、たいしたことのない想念のままでそこにいけば、たいしたことがない現実しか創出できないのでつまらないだろうと。ましてや極悪非道の内面のままだとしたら極悪非道の世界で生きることになる。どうやら地球は三次元的な制約が課せられてる稀有な星らしいから、いろいろ不都合もあろうが、個人的なくだらない劣等感とか、恨みとか、ひがみとか、そういうことの一時の解消のためにエネルギーを使うのではなく、本来の自分が望んでいるものに早く気づいて、それを実現することだけにエネルギーを使うほうがいいのではないかということです。困難をともなうことかもしれないが(私自身はそうは思ってない、というか人はそれを困難ではなく喜びと感じることができると思っている)、本来の自分を実現、あるいは達成する過程において体験できることのほうがはるかに喜びが大きいと思うのだが。くだらない劣等感とか恨みとか、妬みとかそねみとかを実現することが私の本当の望みだ、という人が本当にいるだろうか?

まあ私自身そういった情報に関してはいまだ研究中というと大げさだが、保留にしてることが多々ある。それでも実体験としてまわりでいろいろなことが起きていることも確かだ。いずれブログで紹介したり、出版物として企画したいと思っている。というかその最中だ。

本来は地球や人類の平和、発展のために役に立つ技術が一部の思惑により封印されてきたことだけはほぼ間違いないようだ。それも必然性があったといってしまえばその通りだろうが(『日月神示』のいう、悪もお役ぞ、とか)、問題は、それで既得権益を得てきた者たちの変革に対する抵抗と、そういう者たちに対する社会的弱者たちの現実逃避的な感情による抵抗だ。それじゃ何も進まない。暴動や戦争が関の山だ。じゃあどうするか?

文化的なこと、芸術的なことしかないと思っています。なんだよ、◯◯的って!と責めないでください。きっと具体的にしますから。仲間たちと。

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