本や映画や人の言葉で気づかされたアフォリズムめいたものでもいいから毎日更新したほうがいいかも、などと出来もしないことはあまり言わないほうがいいね。今の世の中ボケーっとしている3、4日はすぐに経っちまう。
前にも書いたが、そもそもこのブログは酒にちなんだ話やスピリチュアルなことを飲み屋のバカ話程度に共有したいと始めたのだった。そう、酒場でマスターとくっちゃべってる隣に座ったおっさんとか、少し離れた席で意外にもスピリチュアル話で盛り上がってる若者グループとかとに近づいて、実は僕なんかもですねえ、かなんか言いながら交わって面白おかしく酒が飲めればいいみたいなノリ。実際酒場ではそんなです。
ここのところゼランドに話が集中したキライがあるが、「予言」に関してのことだったからだし、また「予言」に関してはゼランドが言うところのもの以上に腑に落ちるものが私の知る範囲ではなかったからだ。それでも、前回の記事はわかりにくいというか全然まとまってないし、ちょっと補足する。っても余計わかりにくくなるかなあ。
ゼランドが言ってることは、極端に言えば、未来は、いや現在も過去も自分の好きなように変えられるということなんだが、これはスゴイことだ。自分の人生は自分の思いのままになるというんだから、もしそうなら予言もへったくれもなくなる。自分で好きなように現実なり未来を創造すればいい。でも重要なのは、人は自分の世界の層しか創造できないということだ。これはパラレルワールドというのとは違う。人はみなバリアント(起こり得るあらゆる事象の構成要素)が現実化した同じ世界に住んでいるからだ。
しかし、一人一人にとってバリアントは自分だけのものなのだ。例えば運命においても、富める者と貧しい者、成功する者と失敗する者、幸せな者と不幸せな者というように、表面上からも明らかな違いがある。こうした人々は皆同じ世界に住んでいるが、各人にはそれぞれ自分の世界がある。そう考えると、貧しい者が暮らす街区と富める者が暮らす街区とがなぜ存在するのかということも分かる。(略)贅を凝らした作りの高級車の窓から世界を眺める者もいれば、ゴミ箱の中から世界を眺める者もいる。祝日で心はずむ者もいれば、自分の問題に心を悩ます者もいる。快活そうな若者たちのグループを見かける者もいれば、傍若無人にふるまう不良たちの一団を目にする者もいる。皆が同じものを見ているのに、目に映る光景はカラー映画と白黒画像のように異なる。各人がバリアント空間における自分のセクターに調整されているため、それぞれが自分の世界に住んでいる。これらの世界はすべてが互いに積み重なって層となり、私たちが住む空間を形成している。
だから、
ある層を別の層と分離することはできない。各人は自分の思考によって自分の現実を形作っている。そして同時に、この現実は取り巻いている世界と交差したり、相互に作用し合ったりしている。
ひとつの生物も存在しない地球を想像していただきたい。風が吹き、雨が降り、火山が噴火し、河が流れ、つまり世界が存在している。さて、ここで人間が生まれ、これらすべてを観察し始めた。この人間の思考エネルギーは、バリアント空間の特定のセクターでものごとを現実化させ始める。つまり、この世界においてその人間の人生を作り出すのだ。この人の人生はこの世界の新しい層である。別の人間が生まれると、もう一つの層が現れる。人が死ぬと、層は消える。あるいは死の向こう側で形を変えるのかも知れない。
(略)世界に生物がまったく存在しないと仮定してみよう。その場合、どのようなエネルギーが生物のいない空間でものごとを現実化するのだろうか。これに関しては、推測することしかできない。最後の生き物が死んだら、世界も消えてしまうのだろうか。もしその世界に誰もいなかったら、世界が存在することを誰が証明できるのだろう。もし誰もいなかったら、(私たちが理解するところの)世界が存在していて、それはこうだったと語ることすらまったくあり得ない。これでもう十分だろう。この先にあるさらに込み入った迷路に入るのはやめておこう。
ゼランドは、トランサーフィンは、自分の人生を自分の望む通りに進めていくための数ある実践的な方法のうちのひとつにしか過ぎないという。だからトランサーフィン自体にも過度の重要性を与えてはいけないともいう。この「重要性」という言葉にも解説が必要なのだが、過去記事にちょっと書いたことがあるので本を持ってない人は見てみてください。
何が言いたいのかというと、もしゼランドが言うように現実を創造できるなら、いい予言ならともかく、破壊的な予言は回避できるというより無視できるのではないか。ということなのだが同時に、人は自分の世界しか創造できないのはその通りだが、他の人の層とも絡まっているので話はそう簡単じゃないゾということだ。前回も同じようなことを書いたのだが、不用意に「罪悪感」なんていう言葉を使ったので余計わかりにくくなったかもしれないから、ここで「罪悪感」についてもちょっと触れておく。
罪悪感とは純粋な形の過剰ポテンシャルである。自然界では善悪の概念が存在しない。良いふるまいも悪いふるまいも、平衡力にとっては等価値である。過剰ポテンシャルが起こると、いずれにせよ乱されたバランスの回復が図られる。あなたが悪い行いをし、それを認識し、罪悪感をいだく(我に罰を与えよ)と、ポテンシャルが作られる。あなたが良い行いをし、それを認識し、誇りを感じる(我に褒美を与えよ)と、やはりポテンシャルが作られる。平衡力は、何に対して罰するのか、または報いるのか、ということについては、まったく関知しない。平衡力は、エネルギー場において発生した異質なものを取り除こうとするだけなのだ。
罪悪感に対する報復は、常に何らかの形の罰である。もし罪悪感が生まれなかったら、その後に罰が続かないこともあり得る。残念ながら、良い行いを誇る感情も、褒美ではなくて、罰をもたらす。なぜなら、平衡力にとっては、良い行いを誇るという過剰ポテンシャルを解消することが必要だからである。もし褒美をもたらしたら、かえってその感情をあおるだけになってしまう。
このへんも、「平衡力」とか「過剰ポテンシャル」といった特殊な言葉が出てくるが、先の前記事を参考にしてください。要するに、この世はエネルギーなので、自然のエネルギーは平穏な状態がつまり常態だから、人間の思考エネルギーによって何かに過剰に意義(重要性)が与えられると、エネルギー場に擾乱が起き、それをもとに戻そうとする動きが働くということだ。
ところで、「厚かましさは第二の幸せ」という言い習わしは、なぜ存在するのだろうか? 通常、平衡力は良心の呵責に苦しんでいない人々に影響を与えたりはしない。その一方で、神はろくでなしたちを罰すればいいと思うし、正義が勝利しなくてはならず、悪は罰せられるべきだと思う。しかしながら、それがいかに痛ましくとも、自然にとって正義感というものは存在しない。逆に、生来の罪悪感を持つ真面目な人々には、常にありとあらゆる新たな災厄が襲いかかるのに対し、良心のかけらもない恥知らずな悪党たちは、しばしば罰せられずに済むばかりか、成功までも手に入れることがある。
罪悪感は必ず罰を受けるシナリオを用意する。それも、あなたの意識とは無関係に。このシナリオに従って、潜在意識があなたを、報復を受ける方向へと導く。よくても切り傷や軽い打撲、または何らかの問題が発生する。悪くすると、事故に遭って重い後遺症残るかも知れない。これが罪悪感の仕業である。罪悪感の中身は破壊することだけで、有益なことや建設的なことは何もない。良心の呵責で苦しんではいけない。良心の呵責は何の解決にもならない。それよりも、後になって罪悪感を覚えないで済むようにふるまう方がよい。しかし、もし罪悪感が生じてしまったら。無駄に苦しむのは意味がなく、そうすることはだれにとっても好転にはつながらない。
まあ、異論もあるかもしれないが、罪悪感とはできるかぎり縁を切ったほうがよさそうだ。これは「原罪」といった概念の検討にもつながることだが、話がズレる。
罪悪感を持っている人々は、罪悪感を持っていない人々の意志に常に従う。もし私が何らかのことで罪を犯しているかも知れないとの認識を潜在的にいだくとすると、私は無意識のうちに罰を受ける準備をしており、そのことはとりもなおさず、服従への用意があるということを意味する。
また、
(略)勇敢な人々は良心の呵責に苦しむことがないだけでなく、どんな些細な罪悪感に苛まれることもない。彼らは何も恐れない。なぜなら、彼らの内なる裁判官は、彼らのすることが正しいと太鼓判を押してくれるからだ。これとは反対に、臆病な犠牲者はまったく異なる立場にあることが特徴的だ。「私の行為が正しいかどうか自信がない。私は非難されても仕方ないし、誰でも私を罰することができる」。こうした罪悪感は、それがどんなに弱いものであろうとも、また、それがどれほどの深みに潜んでいても、罰を受けるために潜在意識の扉を開ける。もし私が罪悪感を覚えるのならば、略奪者やならず者に私を襲撃する権利があることを潜在的に同意していることになり、それがために私は恐怖する。
それでも人は罪悪感を持ってしまうのだが、ゼランドはそれを解消するには、許しを請うこと、自分の過ちを認めること、罪の許しを神に祈ること、懺悔することってんだが、これもまた長くなるのではぶく。ひとつだけ言うと、でもこの許しを請うということに関しては、それを利用して何度もテメエ勝手に人を服従させようとするヤカラの挑発にだけはのらないようにしなければならない。許しを請う権利は一度したらそれでおしまい、なのだ。
また話をややこしくしてるような気もするが、予言についてだった。
つまり、前回と同じことなのだが、大天変地異とかこの世の終わり的な予言は、決定したこととしてあるのではないということだ。人類がこの世に生きとし生けるものとの共存共栄を無視して、このまま傲慢な人間至上主義を続けたならば、そりゃエネルギーのバランスにおいても地球なり宇宙はなにかしらの大掃除をせざるを得なくなるのは当たり前だ。また、そうしたことに直接関わってる実感がないとしても人類の相当部分が潜在意識でそうしたことに関しての「罪悪感」を持っていたとしたら、ゼランド式に言えばそれに見合う「罰」をくらうこともあり得る。
だとすれば、そうした破壊的な未来を招来せずに済ます方法はおのずと決まってくる。早いとこ傲慢な人間至上主義的な流れを変えるか、これまでの行いの許しを一度だけ請い、罪悪感を感ぜずとも済むような方向、やはり傲慢な人間至上主義的なものではない方向への行動をとるしかない。『日月神示』の、早く改心せよ、はよ身魂を磨いてくれよ、ということだ。だって時間がないんだから。もうそこまで来てしまった。間に合わなかったら、もうしょうがない。大掃除されて残された人々で新しい世の中ができていく。それはおそらく決まっている。と思う。
天変地異は今までも起きたしこれからも起きるだろうから今に始まったことではないが、このまま行けば今回のはデカそうではある。でも重ね重ね言うけど、決定したことではないんじゃないか。だから、それぞれができることをやればいい。これまでのエネルギー調達方法がとんでもなく歪んできたのなら、フリーエネルギーを早いこと開発して普及させるとか、政治、経済、その他、すべて生きとし生けるものの生活基盤を見直すとか、そういったことにそれぞれがそれぞれの範囲内で意識的に関わっていく。
実際ここ数年というかとくに昨年からは急激にそうした人々が増えているのは間違いない。フリーエネルギーに限らず新しい物理学から言霊の真実まで必死に追求しているバカボン山田さんやchachaiさんたちグループや、そのうち独立国(国というのももはや古いか)まで築くんじゃないかといった勢いの玉ちゃんグループなど、ほかにも私が知らないだけで今の日本には相当数の人々が動いている。だから、なんとかなると私は・・・
過去、起きてしまったことはしょうがないし、また起きたからこそ変えられることもあるし、少なくともまだ起きていないこと、それも破滅的なことには焦点は合わせたくないよね。破壊的な予言はいろいろあるが、私の知る限り、その先の未来は明るいというものがほとんどだ。だったら基本的に未来は明るいと言えるわけで、問題はその過程だ。
誰だっけ、ソロモン王か、彼はどんなとんでもない状況でも泰然自若としていたが、その度に金だか銀の腕輪をチラ見していた。ある者がなんかの機会にそれを見たら、そこには、これも通り過ぎるさ、と書いてあったらしい。
結局、何が言いたいんだかわからなくなってきたが、とりあえず「予言」に関することはこれで切り上げます。またしてもだらだらと書きなぐってしまったが、読んでくれた人にはありがとう。どだい私程度の頭じゃゼランドの助けを借りてもテーマがデカすぎて手に負えんな。
でも、去年、あるスピリチュアリストにも言われたように、たしかにもろもろもう時間がないらしいんで、私も遠慮せずに?今後はガイキチ話を書きますわ。テーマというか内容ってことで言うと、誰でもイエスのようなことができるってことなんだけど、やっぱりヤバイかしら?

2 thoughts on “予言3.5”

  1. SECRET: 0
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    初めて読んだ。
    全然ヤバくない、今なら、多分。
    もっと読みたい。

  2. SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    y様
    コメントありがとうございます。
    ヤバくないですか?
    心強いです。
    この土日のどちらかでまた書きます。
    飲んでばっかりで、更新遅いですが、よろしくお願いします。

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