だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

時間よとまれ

今日は天気がいい。

もう少ししたら投票に行こう。そしてそのまま蕎麦屋で一杯やるか。

とは言え、木曜から風邪気味で、酒がうまく飲めるかどうかわからない。風邪気味というか風邪だ。発熱するかどうかという状態で、私なりのケアをして抑えてるだけ。いや、ケアなんてエラソーなもんでもないか。木曜の夜は、風邪を忘れるべく大酒を飲んだのだが、して実際よくなったのだが、風邪はしつこく、まだ体調がすぐれないから、性感マッサージというと聞こえが悪いが、本業は鍼灸師・気功師で、ボランティアとして名前を変えて、世の悩める奥様たちに施術をしている御仁から聞いた風邪への対処法、「∞酒林∞さん、風邪のときは、ビタミン C を飲んで寝てれば一日で治りますよ。いや、サプリメントの」と言うわけで、ありがたく実践し、例の風邪に効くツボ「風門」を温めただけだ。風門は、後ろの首筋の少し下あたりにあるが、ここに灸を据えたり、シャワーで温めたりするといいらしいが、私は面倒くさいしダルいので、ストーブの前に横になってスルメを炙るように首筋を炙ってた。そのせいかどうかはわからんが、いまだ大ごとにはなってない。今日ぐらいで治るだろう。と思いたい。

もう 2012 年も終わるということで、ふと思ったのだが、ここ 1 年で、世の中というか世界というか、周りの景色・ニュアンス・次元?がみるみる変わったといったような感覚が、個人的には 3 回あった。1 回目めは、去年の 10 月 28 日、これはちょっとブログにも書いた。そして 2 回めはこないだの 10 月か 11 月のどこか。覚えてないんだな。メモしとこうと思ったのだが、忘れた。そして 12 月 12 日だ。12 日以降は、最初の去年の 10 月 28 日と近い感覚で、あきらかに何かが変わった。周りの世界というか、おそらく自分の中の感覚だかマインドだか何かだろうが、世界でも自分でもこの際同じだ。何だこれは?といった感じもあるが、気分がいいからまあいい。そのうちもうちょっと詳しく書いてみる。

感覚と言えば、時間が速くなっているというか短くなっていると毎回バカみたいに書いてきたが、最近はもう当たり前になってきて、うちのカミさんにいたっては、午後1時過ぎるともう夕方だとか言っている。もっともこれは前に家が建ったので日当たりが悪くなり、洗濯物が乾かないという憤りからくるたわ言だが。

例のマヤの長期暦の終わりがくるという話も、フォトンベルトに突入するという話も、惑星ニビルが接近するという話も、太陽、地球、銀河の中心が一直線に並ぶという話も、一様に 12 月 21 ~ 23 日に集中していることから世の終末論も出てくるわけだが、これはしょうがない。終末がくるかどうかはわからないが、というかくるはずもないと思うが、個人的には、テレンス・マッケンナ博士のタイムウェーブゼロ理論のほうが興味深い。時間はらせん状に加速しているという理論だ。早まっているわけですね、どんどん。さっきから時間が速いとか早いとか表記がめちゃくちゃなのは、この場合どっちで表記していいかわからないからで、調べるのも面倒だからだ。

まあいい。時間が加速している。前にも書いたっけ? ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』の中の会話に、砂時計の話がある。砂時計をひっくり返したばかりでは、砂が落ちていくのはよくわからない。全然減ってないように見える。でも、残り少なくなってくると、とたんに砂が減っていく様子が目にも見え、最後のほうでは「加速度的に」減り、あっと言う間にストンと落ちる。砂がなくなる。・・・・・・というように時間がなくなる、というのがタイムウェーブゼロ理論だ。なくなるというのは違うか。また新たに砂時計がひっくり返され、新しい時間が始まる。と私は解釈する。それで、マッケンナ博士によれば、その砂時計がゼロになる時期がこれまた 12 月 21 日あたりなのだ。こっちのほうが私は気なる。というのも、去年あたりから頻繁に時間が短くなってきているのを感じていたからだ。最近にいたっちゃ、もうガキのころの記憶とか、体験した場面とか、匂いとかニュアンスとか雰囲気とかが突如間近に感じられ、おろ?私はいくつ?といったこともあるくらいで、今のオヤジの自分とガキの自分が同時にいる。若年性アルチューハイマーだという説もあるが。

いずれにしろ、時間は人類全体の集合意識が創り出しているらしいので、これまでのリニアな、そして体制側に都合のいい因果律に不当に干渉された時間軸の流れが終わるのだとすれば、それはいいことだ。それまでの砂時計がひっくり返され、まったく別の、まったく新しい時間が創り出されるはずだからだ。と言うか、創り出さなければならないだろう。われわれがだ。

時間の概念は重要だ。われわれが生きていくうえで必ずかかわってくる問題だからだ。われわれの葛藤のほとんどは過去への後悔と未来への不安からなる。だから時間にかかわっているとも言えるが、同時に同じ過去でも、充足・完結したよき思い出があり、同じ未来でも、よき未来への期待・確信もあるので、やはりそれは選択の問題なのだ。また私がウダウダ言っても混乱するだけなので、久しぶりにゼランドに登場してもらう。

 

 運命については意見が分かれる。ある人々は、運命は所有者である本人の手のなかにあると考える。また、ある人々は、運命はあらかじめ決められていると信じる。ほかにもっと遠大な考えの人々もいて、運命を、前世における各人の行いによって条件づけられ、神や天から遣わされた天恵か宿命と考えている。どのような見方が真理にいちばん近いだろうか。

 どれもが真理に近い。どの立場も確かであり、対等でさえある。鏡である世界において、そうでないということが果たしてあり得るだろうか。鏡の前に立つ誰もが、自分の思考の形(イメージ)を確認するのである。鏡に映る自分の顔が悲しそうに、また嬉しそうに見えることが、あらかじめ決められているだろうか、と鏡に問いかけても無意味なことだ。一方で、鏡にあるがままのものが映しだされ、他方では、自分がこうありたいと望むものを目にすることになる。そのため、運命についての問題とは、あらかじめ定められた運命を選ぶか、それとも自由な運命を選ぶか、という選択の問題なのである。要するに、選んだものを受け取るとあなたが確信するだけのことである。

 

Exactly! だからみんなで、不安をあおる予言とか、もっともらしいネガティブな結論などには飛び蹴りでもくらわして、夜空の果てに消えてもらおう。とは言っても、いっときのユーフォリアとか、ベルリン陥落寸前の地下壕で酒飲んで踊りまくるヒットラーの愛人エバ・ブラウンたちのような現実逃避もよくないわな。やはり大仰なことではなく、日々の暮らしを進める・クリエイトしていくなかにヒントがありそうだ。

ここのところ、下の娘が幼稚園に入ったころのことをときどき思う。いやたそがれてるんじゃなくて、彼女が言った言葉のことだ。当時、上の男の子は小学生に入ったばかりで、毎日私は彼に、今日は学校で何をした?と聞いていた。彼は、あれを習ったこれを学んだと教えてくれた。ついでにと言ってはなんだが、そのあと一応下の女の子にも聞いた。「◯◯ちゃんは何をしたの?」「ん?ただ遊んでるだけ」。毎回同じ答えだ。

最近それが思い出されて困るのだ。われわれは、ただ遊んでるだけでいいのではないか、と。もっと言えば、世の中でわれわれが為すすべてのことは、「遊び」みたいなものではないだろうか。経済活動でも政治でも家族でも、いわばゲームを楽しんでいるようなものかもしれない。よく考えれば、まんま遊びみたいな仕事は世の中にいくらでもあるだろ。だったらガキのように遊べとは言わんが、せめてガキのころくらいの想像力と創造力をもってみんなが楽しめるゲームくらいこしらえようや。

ってことになると思うんだが、どうだろう。
年内にまだまだ更新します。←珍しくやる気マンマン。

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