だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

トランスフォーマー

また 1 カ月か。

こないだ書いたばっかだと思っていたが、あれは 3 月 30 日だから、ほんとに 1 カ月ぶりなわけだ。

なんだかこの 1 カ月もいろいろあったぞ。もちろん相変わらず飲んでたわけだが、地元の行きつけの沖縄料理の飲み屋のマスターが脳内出血で倒れた。久しぶりに店の前を通ったら、店主脳内出血から 10 日で復活、営業中、みたいなことが貼り出されていて、なぬ!とあわてて飛び込んだら、いたね、カウンターに。おいおい、大丈夫かよと詰問したが、へとも思ってない。

まあ、28 日は沖縄屈辱の日、とか店の前の看板に貼り出すような人だから、気性も激しく、なにかまた気に食わないことでもあって文字通りブチ切れたのだろう。もっと早く店に出たかったのだが、やっぱり止められてねとかいいながら泡盛飲んでんだからしゃあないわ、こういう人は。お前がいうなって感じだが。

それとあれだ、淡路島の地震。あんとき私は明石にいたのだ。というか向かっていたのだ。したらカミさんからラインで今淡路で大地震とかなんとか送ってきたから、何いってんだこいつは、一緒に来たかったのかな? 今からでもおいでったら、ほんとうに地震が起きていた。新幹線は普通に動いたからよかったが、新神戸は軽く混乱してたな。JR は止まってたから阪神で行った。なかなかいい線で、明石海峡の大橋を通り過ぎるとき、ああここがあの阪神淡路の震源地かと思いを深くしたが、海は静かに凪いでいた。

明石にはイベントの見学に行った。講演した半田広宣氏には飲みながら前から聞きたかったことを質問し解答を得たのだが、考え込んでしまった。あのお方は論理的な思考を重んじる哲学者でもありながら、やはり詩人でもあるね。

半田氏の提唱するヌーソロジーは、新しい精神というか、これまでの物質と意識といった二元論を超えた精神を空間幾何学の認識を通して発見していくというか、立ち上がらせていく思考メソッドだと勝手に解釈しているが、そこには芸術を感得する力というか、センスのようなものがないと難しい。実は私の弱い部分だ。私のような左脳偏重型というか演繹的な思考を主としてきた理窟っぽい能書きたれには芸術は難しい。文学部出身ではあるが、詩・ポエムも苦手だ。だからジャズも絵も苦手だ。芸術一般の鑑賞が苦手だ。苦手とは、感じたものをうまく説明できないという意味だ。何もいえなくなる。いわなきゃいいじゃんと思うだろうが、いいたいわけだ、屁理屈人間としては。

そういえば前に、これ書いたっけかな、ダヴィンチの受胎告知が上野にきて、カミさんと見に行った。以前も横浜に白てんがどうしたとかいったダヴィンチの絵を見に行ったが、ものすごい混雑で、ちら見しただけだったがなんとも思わなかった。受胎告知もすごい混んでて、順番に並んでぞろぞろと牛歩で進んでいくのだが、絵の近くになると思わせぶりなアンビエントな音楽が静かに流れてて、おうおうそれっぽい演出して雰囲気作っちゃってまあ、とヒネた態度をとっていた。だって、もともと並ぶということが大っきらいなうえに、別に見たくもない絵なのだがつき合いでいっただけなんだから。ゲージツはわからないし。

して、ようやく受胎告知の前にきて、ハイハイって感じで眺めたら、ぶっ倒れそうになった。文字通りぶっ倒れそうになったのだ。なんだかいきなり重たいものが頭から肩にかけて乗ったような感じで、しかも、あんまいうとバカにされそうだが、自分がダヴィンチと同じになって、あの天使ガブリエルの翼の上方の湾曲した太いあたり、あの感じを出すのをダヴィンチが一番苦労したということがわかった。呆然としていると、誰かにうながされてまた進んだが、その後、美術館を出てカミさんと居酒屋に入るまで、あれはなんだったんだとずっと考えていた。ビールを飲んでカミさんに説明しようとするがうまくいえない。で、まあさっき書いたようなことをいったのだが、つまり感動したってことじゃない?といわれ、あれが感動なのか?と驚き、あれが感動ならオレは今まで感動をしたことがないぞと叫び、それでも感動の一種ではあろうがなんとなく腑に落ちず、今でもよくわからない。その後、パリのウフィツィに行ったおり、おそるおそるまた見てみたがなにも感じなかった。

感動というのは、なにかこう胸のすくような思いというか、心の中がサーッと晴れ渡っていくようなことをいうんじゃないのか。それならわかるんだが。映画を観たり、小説を読んだり、とにかくなにかの場面に遭遇して、あるいは話を聞いて、そうした気持ちになるというか。数学や哲学の本でも、読み解いていくうちに突然パッと視界が開けるような、そういうことはあるが、感動とはそうした明晰性を持った感じじゃないのかしら。自分でいってて、ちょっと違う気もするがまあいい。

なんでダヴィンチの話になったのか。とにかく、ヌーソロジーには芸術鑑賞的な感性が必要だって話だ。そして今後は芸術・創造イコール生活・仕事といった方向しかない。というかそういうことしか人は楽しめなくなると思う。こんな酔っぱらいの私にしたってその準備をしているくらいだ。準備ったって酒飲んでみなに吠えてるだけだが。

これからは急速に言葉や数字、形といったものが、それまでの概念というか、われわれが通常使用してきたような観念とはまったく違ったフォルムをまといはじめるのを発見するだろう。ひとつの言葉やセンテンス、3 とか 5 とかの数字そのもの、三角形、正四面体といったものそれぞれ自体が新しく、人間の認識のメソッドを根底から変革するようなアイコンとして光を放ちはじめるようだ。そしてそれらを使って若い連中や未来の子どもたちが中心になって、また新しい創造をスタートさせる。われわれ大人は(酔っぱらいも含めて)その準備をしてやればいいだけだ。一緒に遊びながら。

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