だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting vol.7 「日本とドイツにみる合理性と不合理性」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第7回
「日本とドイツにみる合理性と不合理性」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2015年7月26日 東京・中野にて収録

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西塚 『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』です。もうすでに半分くらい酔っぱらっていますが。もう7回目になるんですね。

ヤス そうですね。では、いつものようにカンパーイ。

西塚 カンパーイ! 昨日の7月25日はヤスさんが主催している「ヤスの勉強会」だったんですね。僕はヤスさんの他のイベントには出てますが、「ヤスの勉強会」は初めて参加しました。これで何回目くらいなんですか?

ヤス 昨日の勉強会で16回目になります。

西塚 そうでしたか。ところで、お聞きしたことがなかったのでお聞きしますが、どうしてご自分で勉強会を主宰しようと思ったのですか?

ヤス そうですね。だいたい時期としてはリーマンショック直後の2008年くらいからなんですが、これまで社会に管理され、抑圧されてきたネガティブなエネルギーが勢いよく噴出し、それによって社会や歴史の方向性が大きく変化する時期に入ると思ったんですね。そのエネルギーは、歴史が形成した怨念やトラウマというような、抑圧された心理が作り出したものです。こうした状況を「抑圧されたものの噴出」というキーワードでまとめて見たんですよ。

その後の動きを見てみると、中間層の崩壊と格差社会の不満や民族的な怨念といった、社会に抑圧されていたものが噴出したかのような状況に実際になりました。2009年にアメリカで起こった「ティーパーティー運動」、2011年に世界的に拡散した「オキュパイ運動」、2010年のユーロ危機と強要された緊縮財政が起点となって、ヨーロッパ全土に拡大した抗議運動の嵐、そして2010年12月から突然と始まり、今のシリア内戦を引き起こした「アラブの春」などです。

さらに2013年になると、ウクライナ政変が始まりました。そして2014年になると、ロシアと欧米との第三次世界大戦の勃発さえ予感させる敵対関係、突然と現れ、世界的なテロの温床となった「イスラム国」の出現など、これまで抑圧されていた矛盾や怨念が勢いよく表面に噴出してきた感じです。「イスラム国」なんか、イスラム社会で潜在的に共有される西欧に対する怨念を象徴的に表現した組織ですよね。

もちろんこうした出来事には、それぞれ独自な背景と原因が存在しています。反格差抗議運動の背景は中間層の没落ですし、「アラブの春」の直接的な原因は強権的な独裁政権の存在です。ですので、こうした出来事をひとくくりにすることができないのは当然です。

でも、なぜ比較的に短い期間にこうした出来事がいっせいに起こったのでしょうか? 個別の出来事の深層には、感情の大きなエネルギーの潮流が存在しているように見えます。だとしたら、この感情のエネルギーの正体は何であり、そしてそれが向かう方向はどこなのかを理解したかったのです。

これは、なかなかうまい言葉にならないんですよ。そこで、自分で勉強会を主宰して、参加してくださっている多くの方に問題提起をして、対話を積み重ねながら具体的な言葉にしていく方向を模索したんです。

西塚 僕もいろんな勉強会やセミナーに参加するのですが、多くは講師をグールーのように扱いますね。「グル化」と言ってもよいと思います。ヤスさんは以前からグールーには反対するとおっしゃっていましたね。要するに、対話の場を作りたいということですね?

ヤス そうなんです。大きな対話のプラットフォームを作りたかったのです。たしかに講演会の場所によっては、依存できるグールーを求めてくる聴衆も多いし、そのようなお客さんをメインに集めているところも多いですよね。場所によっては僕も、「この人が新しいグールーよ!」という目で見られることもあったんですよ。

このような依存的な環境は不健全だと思っています。そのような環境では、みんなで対話をしながら、何か新しいものを作り上げることはできないですよね。講師と聴衆は問題意識を共有したフラットな位置関係にないといけないと思っています。

西塚 古代ギリシャの哲学者のプラトンが築いた「アカデメイア」という学校がそのような対話の場でしたよね。

ヤス そうですね。ただ、僕が意識しているのは欧米の大学のイメージです。NHKのEテレの番組で「白熱教室」というのがあるじゃないですか。教授が学生に刺激的な問題提起をして、学生と対話をしながら講義を展開するスタイルですね。もちろん、僕なんか足元にも及ばないですけどね。

ただ、問題意識を共有してみんなで考えるためには、誰かが玉を投げる役をしなければならない。そこで僕がその役をするということなんですよ。

西塚 わかりました。昨日は勉強会も懇親会も初めて参加したんですが、すごくディープなお話が多くて楽しかったです。最近は「日本会議」のような右翼組織が政治的な力を持っていますが、このようなナショナリスティックな傾向は他の国々でも出てきていますよね。たとえば、ヤスさんも勉強会で触れられた本に、イマニュエル・トッドというフランスの著名な人口学者が書いた『ドイツ帝国が世界を破滅させる 日本人への警告』という本がありますが、この本の中には、ドイツという国はすごく優秀なんだけれども、絶頂期になるとちょっと理屈では説明できない非合理的な行動に走る、とあります。この非合理な行動に極端なナショナリズムも入ります。こんなに優秀な国民が、なぜそのように行動をしてしまうのでしょうか?

ヤス ここがうまく言葉にならないので、 僕もいつも苦悶しているところなんですが、やはりですね、文化に内在した「秩序の感覚」のようなものがあると思うんです。これは、何が正しくて何が間違っているのかを決めるときの、大もととにある感覚で、文化によって作られたものです。それは身体に刻印された「感覚」なので、理性的な判断の対象にはなりません。言ってみれば「身体に刻印された秩序の感覚」とでも呼べるものだと思います。

僕らは、こうした秩序の感覚があることをほとんど自覚しないで生きています。ほんとに日常的に当たり前の感覚なので、意識することはありません。同じ文化を共有しない外国人と外国語で話すとき、この「感覚」がぜんぜん違うことを初めて自覚することになります。僕は長年、語学を教えていますが、この感覚の違いをすごく強く実感します。

実はこの「身体に刻印された秩序の感覚」から、それぞれの文化に独自の、カルマのようなパターンが出てくると思うのですよ。9月ころに僕の新刊本が出るのですが、ここで詳しく説明しています。このパターンは当然ドイツ文化にも内在していて、その一端を今回のギリシャ危機に対するドイツの態度から見ることができると思うのですね。

西塚 ほお。そうした「秩序の感覚」がドイツにもあるのですね。それは「ものごとはこうあるべきだ」というような感覚なのでしょうか? ちょっとわかりづらいですね。

ヤス はい。まさに「ものごとはこうあるべきだ」という感覚です。うまい言葉にはならないのですが、説明して見ますね。

日本人の秩序感覚

ヤス 僕らの住んでいる日本を例にするとわかりやすくなると思います。日本できちんと社会生活をするとき、やはりどうしても守らなければならない規則がたくさんあります。そのうちのひとつで、最も重要なものは「調和のルール」と「場のルール」というようなものだと思います。

「場のルール」は、僕の英語のホームページにも詳しく解説したので、読んだことがある方も多いかも知れません。「場のルール」というのは、その場で自分に与えられた「役割」に見合った、振る舞いと行動をしなければならないというものです。

西塚 なるほど。「分をわきまえる」とか「場をわきまえる」ということですね。

ヤス まさしくそうです。どんな環境や場面でも「分をわきまえて振る舞え」ということです。たとえば、自分が車の営業マンだったら、営業マンとして適切な服装と振る舞い、そして言葉遣いをしなければなりません。相手に横柄な態度として映るような振る舞いだと、「場をわきまえていない」と言われ、非難の対象になります。つまり、社会生活のどんな場面にも「立場」があり、それに付随した適切な「振る舞い」「言葉遣い」「服装」などがあるということです。

西塚 それは、よく言われる「きちんとしている」というイメージですね。聞くまでもないかもしれませんが、もしきちんとしていなかったらどうなりますか?

ヤス そういう人は、「きちんとしていない人」というレッテルを張られて、社会生活ができていないとされて、排除されますよね。

西塚 「調和のルール」はどうですか?

ヤス 「調和のルール」というのはいろんな意味があるでしょうが、「分をわきまえて」振る舞い、突出しないということですね。その場の全員が「分をわきまえて」行動すると、理想的な「和」が自然に実現して、すべてうまくいくという感覚でしょうね。

西塚 これは理屈ではなく感覚的だということ。身体から込み上げてくる感覚だということですか?

ヤス そうです。全員が「分をわきまえた」振る舞いに徹していれば、「和」の自然な調和が宿る。そうした「和」の秩序こそ美しい。これは僕らの身体に刻み付けられた感覚的なものだと思います。理屈ではないですね。個人が自己主張して、徹底したディスカッションによってルールを決めるという、アメリカのような秩序の決定方法とは明らかに異なっています。

西塚 日本的な秩序の感覚の負の側面は存在しないのでしょうか? 「分をわきまえて振る舞う」というルールですから、「立場」ではなく「自分」を前面に出した自己主張が強ければ、どんなに主張に理が通っていても、またどんなに能力のある個人でも、「分をわきまえていない」として叩かれますよね。

ヤス はい、まったくその通りです。この日本的な調和の秩序の感覚には、突出したものが叩かれるという負の側面が存在しています。また、人を「立場」や「分」で見るので、多様な個人への許容度が低くなるというマイナス面があります。とてもユニークなんだけれども、「分をわきまえる」ことが不得意で、集団行動が苦手な人たちはいますよね。初めからそのようなルールを共有していない外国人もそうです。

この日本的なルールは、こうした人々にはかなり不寛容です。 「立場を分かってない」「空気が読めない」として叩き、排除します。要するに、突出すれば叩かれるんです。2004年だったですかね、イラクで人道支援を行なっていた日本人の若者がイラクの武装勢力に拘束されましたが、あのときは自己責任論がはびこり、は勝手な行動をしたからだとして日本では激しく叩かれました。これなんか、突出した行動をみんなで叩く典型的な例ですよ。

負の側面はこれだけではないと思います。僕らは分をわきまえるべき場面や状況があると、全体の「和」を尊重して「分をわきまえて」振る舞いますが、こうした場面や状況が存在しない環境では、日本人は行動の基準をなくして、傍若無人に振る舞ったりします。欲望の垂れ流しとでも言うか。電車の中なんかそうですね。僕の外国人の友人が、日本人は普通の環境で会うとすごく親切でおとなしいけれども、電車の中で傍若無人に振る舞う人をよく見かける。わけがわからないと言ってますね。

西塚 なるほど。その負の側面も僕らの身体に刻印されているんですね。これも含めて「日本的な和の秩序」だということになります。そうしたものは他の文化にもあるのではないでしょうか。アメリカにはアメリカなりの、ドイツにはドイツなりの。ヤスさんは、「今回のギリシャ危機に対するドイツの態度にこれが現れている」と言いましたが、それはどういうことですか?

ドイツの秩序感覚

ヤス 先に紹介したイマニュエル・トッドの本などによると、ドイツ人は「論理的で合理的なものにこそ最上の価値がある」と信じ込んでいるようです。最も論理的で合理性のある意見が尊重されるし、会社組織なども最も効率的に編成されています。個人の気持ちや感情が入る余地はありません。

西塚 「分をわきまえる」日本式秩序の感覚の対極にあるものですね。

ヤス どうもそのようなんです。ドイツでは、論理的に正しいものには普遍性があるとも信じられているようです。いわば「論理絶対主義」ですね。論理的に妥当性がないものは許容できない。自分たちが論理的に妥当とする結論をとにかく押し付けるということです。

西塚 今回のギリシャ危機にも現れていますか?

ヤス はっきりと現れていると思いますよ。ギリシャは、緊縮財政では経済が停滞して成長できないので、債務の一部を圧縮するか、緊縮財政を緩和してほしいとドイツに頼んでいますが、論理性と合理性を最重要視するドイツは、債務の返済をするために政府と国民が一致団結して合理的に行動するなら、返済できないはずはないと感じるようです。

ドイツではユーロが導入されてから、「ドイツ人の賃金は高すぎて、このままでは競争力が失われる。賃金の上昇を年7%に抑えるべきだ」と政府が発表したら、国民は「はい」と言って従いましたからね。合理的な判断には何の異存もなく従う。ドイツ人は、ギリシャ人もこのような合理的な行動ができて当たり前だと感じているようです。

西塚 ドイツにはナチスの忌まわしい歴史がありますよね。これはむしろ破滅に向かう不合理な行動ですね。どうして論理的なドイツにあのようなことができたのでしょうか?

ヤス それがドイツ人の気性の逆説的なところだとイマニュエル・トッドは言います。彼らの構築した合理的な秩序が成功の頂点に達すると、ドイツ人は急激に不合理な判断へと突き進んでいくとトッドは言うのです。

1933年に政権の座についたナチスは、見事な経済政策によって第一次世界大戦で荒廃したドイツを立て直しました。1937年には失業率は実質的にゼロになった。これは経済の復興を目指して合理的に編成された計画の結果です。

しかしドイツ国民は、この成功の頂点で最も不合理なナチスの計画を熱烈に支持し、取り返しのつかない殺戮と破壊へと突き進んでいったのです。

西塚 じゃあ、これからのドイツは、かつてのナチスのようになると言うことですか?

ヤス いえいえ、そうは思いません。イマニュエル・トッドもそのようには考えていないようです。おそらくドイツの向かう不合理な方向は、ユーロ圏をドイツの経済圏として吸収することで、ドイツが帝国化するという方向性ではないかと思います。EUとユーロ圏は、メンバー国の平等な権利を理念にする民主的な組織です。ドイツはこの理念の立案者でもあり、旗手です。そのドイツが、この理念をあたかも放棄したかのような帝国へと変質するのです。

西塚 これは大変に大きなテーマですね。長くなるので、今日はこのくらいにしましょう。

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