だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting vol.8 「宗教の役割」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第8回
「宗教の役割」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2015年8月9日 東京・中野にて収録

西塚 『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』の第8回目ですね。まずは、カンパイしましょう。カンパーイ!

ヤス はい、カンパーイ。

西塚 そういえば、ヤスさんは今本を書いておられましたね。なんでも、もう脱稿したそうですが、その本はいつ出るのですか?

ヤス 9月14日の配本ですね。

西塚 今回の本はどんな内容ですか。

宗教の役割とは?

ヤス 今、世界ではいろいろなことが起きていますが、多くの人たちが共有する実感というのは、予想を超えたことがどんどん起こりつつあるということだと思うんです。たとえば2010年12月初めの「アラブの春」であるとか、アメリカとロシアの対立関係を背景とする「ウクライナ政変」であるとか、それから「イスラム国」ですね、突然と現れてきて中東全部を流動化させたりとか、同時に「オキュパイ運動」もあれば「ティーパーティー運動」もあるし、ヨーロッパ全域に広がる抗議運動もあります。

やはり、日常生活で普通に生きてても、突発的にいろんな運動が起きてくるわけですよ。日本でもそうですね。アベノミクスまでは常識的な感覚で受け入れられるんですが、急激に右傾化したりします。それに「日本会議」のようなものも出てきて、天皇制国家樹立かよ!みたいなことも言い出す。それで、集団的自衛権でアメリカと一体となって海外に派兵するんだと、いきなりくるわけです。

それを見るとですね、最終的に世の中の背後で何が起こっているのか、そのコアの部分を捉えたいという欲求が強まってくる。どこに向かって、何が起きてるのか。この本の一番ポイントになっているのは、世界を動かしている背後にあって主導している、一種のエネルギー源と言いますか、エネルギーの流れ、動きといったものを的確につかみたいということです。

西塚 なるほど。

ヤス おそらく、今まで抑圧されてきたエネルギーみたいなものが外部に噴出して、これまでの世界の既存の秩序を撹乱するような時代に入ったんじゃないかと。その大もとにある抑圧されたものとは何なのか? そのエネルギーの正体を捕まえたいということです。それを捕まえるために、ブログを書いたり、メルマガを書いたり、いわゆる勉強会を開いて、何とか言語化する活動をしてきたわけです。言ってみれば、今回の本は、ある意味での集大成、第一次結論みたいなものですね。

西塚 結論が出たわけですね。

ヤス ええ、出してます。

西塚 おお、それは楽しみですね。

ヤス そして、おそらく次回の次回の本というのは、どんどんそのコアといったものをもっと鮮明化できると思います。

西塚 そうなると、この『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』でも、“Spiritual”と言ってるくらいですから、いわゆる精神世界と言われているものにも切り込んでいきたいと思っているわけですが、そのあたりにも触れざるを得ないのではないですか?

ヤス かなり重要な部分になってくると思いますね。

西塚 ヤスさんが勉強会で「日本会議」のことを話されたとき、出席されてたみなさんの反応がすごかったですね。それは何なのか、目的は何なのかと…。閣僚も含め、かなりの政治家が参加してるし、ひょっとしたら本人たちもよくわからないで参加してるんじゃないかという気もします。

個人的には、よくわからないまま巻き込まれているという状況自体が好きではないですが、スピリチュアルの世界でも、よくわからないで参加してしまうということがあるんじゃないでしょうか。

ヤス スピリチュアルは昔からあるわけですが、これだけ大きなブームになった背景があると思うんですね。「スピリチュアル的なもの」に共通した一連の特徴があるんです。簡単に言うと、大きな宗教教団の衰退ですね。キリスト教でもイスラム教でも仏教でも、非常に大きな宗教教団がありますが、それらに入った場合、自分の悩みに対する「救済」が与えられるわけです。そしてその救済を受けるためには、その教団の戒律と言いますか、掟とかルールに定められた行動をしなくてはならない。祈りの仕方も含めてですね。

問題は、与えられる救済の中身です。大きな教団になると、だいたい「幸福のモデル」というのが決まっている。このような生き方が、人間としての幸福のモデルだと。たとえば、キリスト教のある教団であれば、死んだあとに天国で最大限の幸福が約束されているということを信じて、聖書で定められている掟、ルールに従って、現世では徹底的に自己管理して、善き人間として生きる。その最大限の幸福とはどういうものなのかは、それぞれの教団が微細に描写してくれる。

そういう幸福のモデルは、マスに適用されてきたものですね。この幸福のモデルを信じれば、今あなたが悩んでることから解放されますよ、ということです。ただ、そのマスに適用可能だった幸福のモデルが、だんだん適用できなくなってきている。別の言い方をすれば、個人の悩みがはるかに多様化してきたということですね。

西塚 個人の悩みが多様化して、キリスト教系ならキリスト教系でも、救済できなくなってきたということですね。ちょっと話がずれるかもしれませんが、僕はイスラム教は詳しくないですが、たしか現世には意味がないといったことですよね。

ヤス 僕もイスラムそのものに関しては詳しくないですが、僕の友人たちで、真摯なイスラム教徒から直に聞いた話だと、やはり現世の否定の上に成り立っています。この世に自分が生きているということは基本的に無意味なんだと。自分のすべての幸福は、死んだあとにやってくると言うんですね。なので、現在の自分自身に、最終的には自己否定を要求するという感じの宗教ですね。

西塚 各個人の考え方なので、いい悪いはないですが、個人的にはすごく抵抗がある考え方ですね。もちろん、それを俯瞰して見る目も僕の中にはありますが。現世を否定するという発想ですが、では何のために現世はあるのか。意味がないのであれば、何で意味のない現世に生きていなくてはいけないのかと、逆に悩んでしまう気がします。

ヤス 現世が何であるのか。言ってしまえば、トレーニングのためですよね。来世で幸福な生活を送るためのトレーニングの場所が現世なんだと思います。

西塚 学びの場所ですか。イスラムに限らず、そうした考え方はけっこうありますよね。

ヤス あります。キリスト教もそうだと思いますね。自分の人生に与えられたすべての困難を全部受け入れる。ただ、現世で与えられた楽しみ、享楽とか物質的な幸福感、またその反面の不幸、絶望とか、そういう現世的なものに執着すること自体が無意味なんだという考え方ですね。

西塚 現世で学ぶとして、死んだ先の世界はどういった世界なんでしょうか?

ヤス たとえばイスラムであれば、美女に囲まれて、ワインは飲み放題で…

西塚 (笑)現世的じゃないですか、それは…

ヤス 現世的な欲望がすべて満たされるといった描写ですね。

西塚 うーん、僕の中ではすごく矛盾して聞こえます。今はそれが成し遂げられないから、希望を持って先送りしているというふうにも思えますし…

ヤス 多くの宗教のアジェンダってそういうものだと思います。来世の救済の約束のもとにね、現世の人生の苦しみに耐えることを要求する。

西塚 同じイスラムでも、たとえばドバイのお金持ちが享楽的に生きていると。信仰心も篤くて、執着心もないと言うかもしれないけども、実際はすごく享楽的に生きてる人がいるとしますね、勝手な想像ですが。片や、とんでもない劣悪な環境で育った人たちが、来世を夢見て、それこそジハードで命を捨てる人たちがいるわけじゃないですか。そのあたりが、どうも一致しないと言いますか…。

ヤス 我々は、イスラム教を一般的なイメージで捉えやすいんですが、やはり中進国から先進国に近い国々にもイスラム教徒は多くて、ドバイのように経済発展してるところではかなり富裕で、世俗化したイスラム教徒たちがたくさんいると思います。そういう人たちは、自分がよきイスラム教徒として振る舞うために、寄付をしたり、貧民を助けたりして、イスラム教徒としての義務を果たす。そして自分自身が現世を否定してるかと言えば、全然そうじゃない。物質的な生活を本当に楽しんでるでしょう。言ってみれば、日本人に近い人たちが圧倒的に多いことは多いと思います。

西塚 ヤスさんがかつてアメリカに留学しているときに、いろんな宗教を信じる友人たちがいたと思いますが、その差というか、違いのようなものは感じませんでしたか。

ヤス 感じます。ポイントは、完全な現世否定ではないということです。どんなに享楽的な人生を歩んでる人でもね、空虚感であるとか、虚しさとか…たとえば失恋の苦しみや人間関係の苦しみ、老いの苦しみなんかは、豊かであろうが貧乏であろうが關係ない。悩みのない人生は存在しないと思うんです。問題は、理屈で、お前の人生はすべて無意味なんだ、人生の悩みに執着しても無意味なんだと言われて、ああ、そうですか、執着が取れましたなんて人間はいないということ。だから、それぞれの宗教が、執着心を取るための装置を持っている。その装置があるがゆえに、イデオロギーではなく宗教なんです。

西塚 儀式とかですか。

ヤス 儀式です。祈りの行為であるし、儀式であるし、そういうことを通過すると、自分自身がこの現世の苦しみを本当に無意味であると、身体的に体験として感じられるようになるということですね。これは本当に無意味なんだと。自分が執着することには何の意味もないんだと実感できる。

以前に知り合ったイスラム教徒の友だちに、モスクにいって祈ったときにどういう実感をするかと聞いたら、みんな同じことを言う。ものすごく落ち着いた雰囲気の中で、自分自身の自我がフワーっと溶け出していく。溶けて、まさに自分が神に抱かれたような感じになる。それは恐ろしく静寂で、安定感がある。その落ち着きを持った実感から今の自分の悩みを見てみると、何とこんなくだらないことで俺は悩んでいたのか、ほとんど無意味なんじゃないかと思うと言うんですね。

だから、そういう装置を通して身体的に五感で得られる実感を味わいながら、自分の人生の悩みを相対化していく行為ですね。

西塚 興味深い話です。あまり話を細分化してもつまらなくなるんですが、そういう神とか宗教がなても、将来的にはテクノロジーの発展によって、脳波を安定させたり、そういう気分に自分で持っていけるということもあるのではないでしょうか。

ヤス それをやろうとしたのがオウムだと思うんですよ。

西塚 ああ、たしかにオウムはやってましたね。

戦後の日本社会を支えた大宗教教団

ヤス 超越的なものの体験から自分の人生を相対化するという見方、これが宗教一般に共通する体験だとしたならば、いかにそれを効率的に実現するかといういことを追求したのがオウムだった。

西塚 そういう言い方もできますね。

ヤス あらゆるテクノロジーをオウムは開拓しようとしたんですね。ヘッドギアも使ったし、真っ暗闇の部屋にずっと人を監禁して脳に何かの変化を与えたり、薬物を使ったりね。超越的な体験を作るためのあらゆる装置を開発しようとした。

西塚 我々日本人はオウムを体験したということは、テクノロジーが進んでそういうことが可能だとしても、ある種の危険性を孕むということなのか…

ヤス 何を危険とするかは難しいところではありますが、いずれにしろ人間の脳に関するテクノロジーはどんどん発展しますから、今まで宗教的な実践によってのみ保証されていた超越的な体験が、テクノロジーによって誰でも実現可能になるときがもうきてると思います。

西塚 これは僕の個人的な意見ですが、一番の鍵は「現世否定」だと思うんです。「自己の否定」でもいいですが、そこは根本的に重要な問題を含んでいるような気がするんですね。現世を否定する、場合によっては自分を否定するということは、やはり現実を否定し、他者を否定していくことになると思います。そうすると何でもありになると言うか、僕なんか気が弱いから、そういう人間がいたら敵わないなと思うわけですね。そこにある種の危険性と言うか、そぐわなさ感みたいなものがあります。

ヤス 現世否定的な宗教の本当の信者は、どちらかと言うと原理主義的な傾向の強い人たちですが、簡単に日常生活のルールを超えちゃうわけです。現世否定といったものの延長に何があるかと言うと、この世の自分の人生に意味があるとするならば、宗教的な意味を自分は実践するためにのみ存在してると。自分自身というものはツールにしかすぎない、ということになるんです。

西塚 そうなりますよね。

ヤス そうなってくると、宗教的なイデオロギーを拡散するために俺は何でもやると。

西塚 たとえばモーゼの十戒でもいいですが、最初にルールありきじゃないですか。「教え」でもいいですが。それを自分が体現していく。教えを広げていく。それにあたっては、自分の現世的な利益を追求する欲望を徹底的に否定する…そういう世の中というのは、どうなんでしょうか(笑)。

ヤス まあ、いいか悪いかは別にして、そのように現世を原理主義的に規定することによって、信者は日常的な悩みからはかなり解放はされるでしょうね。むしろすっきりした、ある意味悟りの境地みたいな感じで生き続けることが可能になってくるでしょう。ただ、普通の日常生活の人間関係の感性とかルールを飛び越えていくわけです。

西塚 けっこうヘビーな話になりつつあると思いますが、ヤスさんはどう思われますか? いろんな人がいるわけで、自分の気にくわない他者の振る舞いも受け入れながら、それを楽しみに転換していくことを続けていって、しかも空虚にならずに、生きていくこと自体に喜びを見い出せるという精神状態はあり得るのか。しかもいろいろ頼らずに、教団にも頼らないし他人にも頼らないで、個人的にそれができるといったようなこと。SFっぽいですか? それは可能でしょうか?

ヤス それは可能だと思います。そういうような欲求を持っている人たちが、教団ではなくてスピリチュアリズにいくと思うんですね、基本的には。

西塚 そうですね。そういう人たちは、厳格なルールにも従いたくないし、私は自分で勝手にやりたいんだと。人も非難したくないし、傷つけたくもない。しかしスピリチュアリズムに入っていくと、やはりそこにも依存性があります。教祖は求めてないけども、何かしっかりしたものには依拠したい。でもそれが何だかわからない。わからないからいろいろ渡り歩く、探し続ける。

探し続けるということは、三次元の世界では時間が過ぎていきます。今のところは経済活動も必要ですし、現実的な享楽もありますから、本当は同時にやっていけばいいと思うんだけれども、どうもスピリチュアリズムまっしぐらになる人たちが多いような気がします。でも、そういう人たちとも楽しみたいし、いろいろと探究をしたい。その一環として、こういう場もあると思っているんですが…。

ヤス そういう人たちも含めて、最終的に残ってくる欲望ってあると思うんですよ。たとえば、衣食住。衣食住にすごく困っている人って今、日本にもいますけどね。衣食住に本当に困ってる人は、意外とスピリチュアリズムにはいかないわけです。むしろ一般的な宗教教団のほうにいくと思います。なぜかと言うと、大教団というのは、衣食住の悩みに応えられるようにアレンジしてできあがってるので、マスの解決がまだまだ通用するんですね。

西塚 たしかにそうですね。大規模なので、あちこちに支部もあるし、衣食住がまかなわれているわけですね。

ヤス なんだかんだ言いながら、いろんな人からサポートを得ながらね、衣食住は自分で何とかできるように自立できるんです。たとえば、かつて日本の高度経済成長の過程の中で、農村の分解がどんどん進んで、かなりの数の人たちが地方から都市部に出てくる。もしこれで経済成長してなければ、スラム化してたと思います。経済成長のスピードが速くても、ある程度のスラム化はまぬがれないと言われてたんですが、日本では最小限に抑えられた。その大きな背景のひとつになっていたのが、大教団の活躍だと思いますよ、プラスの意味で。

衣食住の問題がある人たちをマスとして大きく囲って、近代的な産業社会における行動様式ってありますでしょ? 勤勉に働け、朝は遅刻せずにちゃんといけと、働くことによって自分の宗教的な徳を積むんだと、そうすることによってお前は救済されるんだというふうに、徹底的に教え込む。そうすると、そうした自己の努力によって衣食住の問題は解決しちゃうわけです。大教団が果たした役割は決して無視できない。

西塚 地方では地方の共同体で衣食住がまかなわれてたんだけども、都市に出てきて、大教団によって論理的な理屈も含めて、救済されていく。実際、真面目になっていきますよね。真面目に働けば仕事の成果も上がるし、給料も上がる。幸福になりますね、現世的にも。そうか…。

ヤス たとえば、敗戦後の日本で考えると、1940年代の後半から50年代にかけて何があったかと言うと、労働争議です。すさまじい労働争議ですよ。昭和22年の2.1のゼネラルストライキというのがあってね、皇居の前に膨大な数の労働者が結集するわけです。へたすれば、日本は社会主義革命の瀬戸際までいっていた。そこまで追い込まれる条件が十分に整っていた。背後に何があったかと言うと、国民の怒りです。ここまで、よくこの国を破壊してくれたなという、ものすごい怒りですね。貧乏になり、飲まず食わずで家も失った。衣食住が全部成り立たない。そこまで国を荒廃させた支配層に対するすさまじい恨みがある。

もし、高度経済成長がうまくいかずに、大教団もなかったならば、そうした恨みが爆発していたでしょう。恨みの爆発が最終的にどこに向かうのか。極めて過激な社会主義政権、または日本国内そのものが分裂状態になっていた可能性もありますよね。

西塚 なるほど。戦後は、アメリカによる軍事的な庇護の中で、一生懸命経済を発展させて豊かになったわけで、アメリカに依存した幸福という側面はありますよね。

ヤス 当然あります。経済発展できるような外枠をGHQの国際戦略上、作らざるを得なかった。しかしながら、その条件をチャンスとして持ったとしても、恨みの感情はどうするのか、悲しみの感情はどうするのか。為政者に対する恨み、トラウマはどうすんだということですね。

それがどこで出たかと言うと、僕らがあまり知らされてない1940年代、50年代のすさまじいストライキ、労働争議、革命政権が打ち立てられるんじゃないかという瀬戸際までいった、共産主義、社会主義の興隆となって現れて出たんだと思います。当時の社会党や共産党というのは、日本人の抱えてるルサンチマンを代表していたんですよ。ルサンチマンの放出のエネルギーがコントロールできなかったならば、本当にそっちのほうにいった可能性があると思います。それを抑えたのが、高度経済成長と宗教的大教団だったんですね。

西塚 具体的にいうと創価学会とかですか。

ヤス 創価学会とか立正佼成会とか、日本で戦後に興隆してきた大きな教団ってあると思います。戦後、農村では独立自営論みたいのがいろいろでき上がりますね、農地改革によって。でも農地改革だけでは食えないから、農家の次男坊、三男坊たちがどんどん都会に出てくる。彼らを労働力として吸収するだけの経済成長率が確保されてないと、スラム化して、ほっとくとルサンチマンの塊りになっていく。

西塚 そういう人たちが宗教にいったということですか。

ヤス だと思います。宗教にいくか、共産党、社会党にいくかという選択肢だと思います。

西塚 右翼もあったんでしょうけど。

ヤス ただね、右翼は当時はそういう力は持っていなかった。

西塚 興味深いですね。そのあたりも今度の新しい本で書かれてるわけですね。

ヤス そうですね。だからその点から見たときに、アメリカが外枠を形成したとしてもね、なかなか高度経済成長の波に乗れなかったとしたら、たとえば朝鮮戦争がもっと長引いて、アメリカからいわゆる集団的自衛権が日本に強制される。それで警察予備隊という名目にしながら、当時の日本軍の生き残りをまとめて、新しい軍として朝鮮戦争に全面的に動員される。とすれば、日本の軍事費は突出して大きくなっていったと思います。それが先例となって、ベトナム戦争にもかなりの大部隊を送ってたかもしれません。

そうすると、韓国と同じような歴史をたどったかもしれない。つまり高度経済成長は80年代くらいまでずっと遅らされるわけです。かなり低成長の状態が続く。農村で食えない人たちがどんどん都市に進出してきますから、都市の中で膨大な過剰労働力人口ができる。彼らを吸収するだけの経済成長がないから、都市がスラム化していく。なおかつ、大教団が成立しなかったとすると、彼らのルサンチマンはどこへいくか。社会主義、共産主義ですよ。

西塚 革命が起きてたかもしれませんね、冗談じゃなく。

ヤス そう思いますね。だから、ふたつの条件が極めてうまく幸いしたのは事実だと思います。

『泥の河』という映画がありましたね。あれは現在には存在しない日本のスラムに関する話です。高度経済成長の前期(昭和31年)には、まだああいうことがあった。スラムの中には、日本の歴史が創り出したルサンチマンを背負った莫大な数の民衆の恨みが、エネルギーとして堆積しながら存在してるわけです。それが産業社会に吸収されたわけですが、僕はその緩衝地帯になったのは大教団だと思います。

共産主義、社会主義という方向もあったんだけど、同じ層を対象にするわけです、大教団は。ただ、全然違うプロジェクトを採用する。共産主義、社会主義の場合、いかに革命を起こす主体として形成するか、いかに今の社会に対して異を唱える、抗議のできる主体を作るのかという方向にいきますが、大教団は、いかに産業社会になじむような人格を形成していくか、朝ちゃんと7時に起きて、一生懸命仕事をして、仕事の成果によって報酬を与えられて、それで満足するといったような人格を作り上げるかというところにポイントがあるわけです。

西塚 正直な疑問として、大教団が吸収したのは一部だと思うのです。あとは、たとえばヤクザにいっちゃったり、自分なりに苦労して成功したりという人も多くいるでしょうし。大教団がそこまで機能してたかというと、僕は疑問のような気もするんですが。

ヤス 人数そのものを見るとね、創価学会でも最大に見積もって人口の1割です。その1割の大半の人たちは、今は違うでしょうが、60年代、70年代では、もともとは下層階層の人たちですよね。何が大きかったかと言うと、数そのものの問題ではなく、どういうような行動が正常な行動として社会にみなされるのか、ある意味スタンダードな規範を設定する上で、すごく大きな力を持った。

たとえば、アメリカのような国にいくとね、スラム街が存在すると。レイシャル・マイノリティみたいな人たちがいて、それはヒスパニックだったり、アフロ・アメリカンだったりしますけど、その地域の中でスラム化しているわけです。スラムの中では独自の文化になります。その文化は、文化そのものは面白いんですけど、現代の産業社会とはまったく関係のない異質な文化になってしまいます。そのような文化の中で生まれ育ってくると、これはもうはっきり言って、産業社会の中のいわゆるスタンダードな行動様式を身に着けることは極めて難しくなる。

大教団は何をやったかと言うと、スラムの中でそのような文化を発展させなかったんですね。だから、下層社会の中に入ったとしても、普通のネクタイを締めて会社に通う大学出のサラリーマンと同じ行動様式を取れたということなんですよ。

西塚 それは検証されるべきテーマですね。

ヤス 明治の30年代の、『日本の下層社会』だとか『最暗黒の東京』というルポルタージュがあるんですね。

西塚 ああ、横山源之助の名著がありますね。

ヤス あの中に出てくる下層社会の現状は、中産から上流にかけての普通の東京の市民たちの常識とは違うわけですよ。違った世界なんですね。違った世界の探検記として書かれてる。みなさん、こんな世界が存在するんですよ、驚きでしょ?という形で書かれてる。それは、当時の日本の一般的な常識というところから見たら、決定的にズレている。独自の文化性があると。問題は、そういうような文化が戦後の日本で形成されてるとしたら、これは極めて大きな社会的な不安定性の原因になってただろうということです。

僕は、それが文化として形成されなかった大きな理由は、やはり大教団にあるのかなと思うんです。その結果、多くの人たちが産業社会に吸収される。また自営業で出発しながら会社を起こす。会社が大きくなってお金持ちになる。お金持ちになったら、これはやはり信仰によるご利益だとなる。

その第二世代、第三世代になると、親父とか祖父の時代は貧乏だったけれども、自分たちは早いうちからいい教育を受けて、むしろ中産階級の上、上流階級に近い水準で生活を送ってると。そういう人たちによって、私たちはこの教団のご利益によって支えられてるのだと、そのまま続いていくということだと思いますよ。

西塚 そう考えると、話が飛ぶようですが、やはり大本というのはすごかったわけですね。当時の日本人の相当のパーセンテージが入信していた。軍部も含めてですから。かなりの脅威でもあったでしょうし、宗教の持つ力というのは…

ヤス 大本はすごく大きな宗教だった。戦前はね。ただ大本と、戦後のいろいろな大教団の根本的な違いがあります。大本のアジェンダって何かと言うと、破滅型(笑)…

西塚 立て替え、立て直し、ですからね。

ヤス 立て替え。破滅型で、予言的なんですよ、やっぱりね。だから大本の信者が大本を信じることによって、戦前の話ですけどね、産業社会に見合ったような勤勉な行動様式を身に着けるかといったら、それとは別の次元の話になりますよね。

宗教は人に「意味」を与えられるか?

西塚 たしかにそうですね。そうなると、今のスピリチュアリズムや精神世界にいく人たちは、僕の印象ですけど、大本的な「大変革」を期待してるような人たちが多くないですか?

ヤス そうそう。そうするとね、ある意味で日本の宗教は、特に大教団を中心として成功したと言えると思うんですね。たとえば、産業社会をちゃんと下から支えたし、産業社会の中におけるマスの意味での幸福といったものを、ひとつのモデルとして確保することができた。それが1980年代になって、マスの幸福にどうしても人は満足できなくなってきた。

80年代以降、キリスト教も仏教も、イスラム教もそうですけど、マスの宗教教団が衰退していく。マスの宗教教団のポイントは何かと言うと、産業社会に見合った行動様式を身に着けた個人を生んでいくということ。それを宗教的な救済として実施していく。本当に結果が出るわけです。それでどんどん満足していくということだと思うんですね。

ただ、80年代以降は衣食住が完璧に充足されるわけです、バブル以降。そうなってくると、人間の持っている次の段階の悩みが出てくる。それは何かと言うと、「意味」を持つことです。

西塚 そこですよね。

ヤス 私は、なぜ生まれてきたのか。私という存在に対して意味を模索する。

西塚 ゴーギャンの世界になってきますね。我々はどこからきて、何者で、どこへいくのか、という…

ヤス そうそう。それを根本にした悩みが出てくる。衣食住には困ってないけれども、なぜ、私だけがこういう人間関係のトラブルに巻き込まれるのかとかね。なぜ、私だけが人からのこのようにいじめられるのかとか。または、私は今まで問題なく生きてるけど、すごく空虚だと。これ以外に、何か私という存在に意味はないのかとか。私は、何かの使命を実現するために生まれてきたような感覚がしてたまらないとかね。そういったタイプのものですね。

そういう人に対して、あなたはこの信仰を真面目にやって、善き市民として、善き会社員として、とことん真面目に働いて結果を出すことが、あなたの幸福につながるんですよと言ったとしても、意味がないわけです。そういう人たち用の多様な意味、生きる意味に対する多様な欲求といったものを埋め合わせる何かが必要になってくる。それが、スピリチュアリズムだと思います。

西塚 スピリチュアリズム自体が、そういった疑問を追求したり、自分のアイデンティティを確認したいということですね。だからそれだけでは、僕の言い方で言うと、生きること自体が目的になってしまうような気がして、要するにつまらないんですね。どうしたら楽しいのかとか、もちろん根本には哲学的、実存的なテーマがあるんですが、楽しむということを同時に絡めた模索と言うか…

ヤス もっと言うと、楽しみたいんだけど、なぜ私は楽しめないのか、とか。

西塚 (笑)

ヤス 私ね、毎日、楽しいって言えば楽しいんだけど、でも空虚なの。そういうことですよ(笑)。彼らの求めるものは、「あなたの生きる意味はこうなんですよ」という、お告げみたいなものです。

西塚 そういうことでしょうね。

ヤス そうすると、「私がお告げを与えてあげます」みたいなグールーがたくさんいるわけです。

西塚 ヤスさんも、グールーになり得ますよね。

ヤス いやいや、グールーじゃないんだけども、まったく。

西塚 依存する人にとってはそうなりますよね。

ヤス ああ、なりやすいとはいわれた、たしかに。

西塚 ヤスさんにはその気がないのでしょうが。

ヤス 違う違う(笑)。

西塚 だから、戦略としてやろうと思ったら簡単かもしれないし、それがスピリチュアリズムのある種、悪影響と言うか、ダークな側面が可能性としては相当あって、今後はやはり広がっていく気がします。

ヤス 広がりますね。だから、個人が持っているそのような悩み、簡単に要約すると「意味を求める悩み」ですね。衣食住では足りない。意味を求める悩みは、個人個人によって解答が全部違うんですよ。マスの解答では無理なんです。一番、健康的な方法は、個人個人が自分の解答をみずから見出していくことです。

西塚 本当にその通りですね。

ヤス 見出すためのプロセスだけはね、ティーチングではないんですけど、このようなあり方がありますよといった形でね、まあワークショップ的に誰かが、当然僕ではないけども、トレーニングすることは可能なんだと思いますね。

西塚 『マトリックス』の映画じゃないですが、わかりやすく言えば「選択」だと思います。自分で決めるしかないでしょう。自分は誰かに依存しなくてはいけない、誰かがいないと不安でしょうがないから探すんだとなれば、当然そうなるわけです。そうじゃなくて、自分は自分でやっていくんだと、どんな艱難辛苦がこようが、自分はそれに耐えて進んでいくんだとなれば、やはりそうなるし。

今日はその話はできないかもしれませんが、「エゴ」の問題もありますね。ちょっとでも人に影響を与える立場になったりすると、もちろん全員じゃないだろうけど、ムクムクと本人の意識・無意識にかかわらず、「支配欲」が出てくる。

ヤス ああ、出てくる出てくる。

西塚 それを通して自分のアイデンティティを確認したり、確立したりする。かつてのルサンチマンが、クライアントである相手を助けるのではなく苦しめることによって、自分にフィードバックされて解消されるといった妙なことが起きたりもする。その発動の仕方は、個人個人の持っているトラウマによって違うんでしょうが、そういうこともこれからどんどん増えていくと思うんです。スピリチュアリズムとか精神世界というのは、かなり混乱・迷走していくことが予想される。

ヤス たとえば、自分が、まあ西塚さんでも僕でもね、自分の存在の意味みたいなものを見出す旅をすると。いろんな形で瞑想したり、内観したり、自分自身を見つめ直すという過程がどうしても必要になってくる。それで何を発見するかと言うと、とんでもない自分自身の欲望とかエゴとかね、自分の否定的な面を見ざるを得ないわけです。同時に、自分の隠れた欲望が解除されて、それに気づく過程もあるだろうしね。じゃあ、そういう自分自身をどうやって処理したらいいの?ということになります。

マスの宗教に戻れるかと言うと、そんな衣食住だけに焦点をおいたものには戻れない。じゃあ、どうやって自分を納めればいいのか、落としどころはどこになるのか、モデルは何なのかと、求めますよね。でも、いろんなところで提示されてるモデルはどれもピッタリこない。その探索、探求の過程で一番まっとうな方法は何なのかということですね。

それは、結論に至るかどうかわからないけれども、とりあえず結論めいたものにたどりつけるかもしれないということで、そうした探求の方法を提起するのが、僕は非常に健康なスピリチュアリズムじゃないかと思うんです。

西塚 まったくおっしゃる通りだと思います。

ヤス やはり、これから焦点になってくるのは「個」ですね。個のあり方です。個のあり方を人間がどうやって落としどころをつけていくかということです。自分自身の内面、自分自身のダークサイドも含めて。その向こう側に、個を活気づける大きな生命力とか、エネルギーの源泉みたいなものが発見できるんだと思うんですね。

これは、結論でもなんでもなく、場合によっては間違ってるかもしれませんが、やはり未知の世界はある。未知の世界とは何かと言うと、エゴを超えた向こう側の世界ですね。それは確実にあると思うんですよ。

自分が生まれた意味ってなんだろうかとか、悩みというのは、個に対する執着からきてる場合がほとんどですよね。自己に対する執着がないとそのような悩みは生まれないので。自己に対する執着がない限りは、他人からの厳しい言葉で傷つくこともないわけです。

だから、自己というものを前提にして汲み上げられた世界像というものがあってね、その世界像の中で我々は循環して悩み、悩みが蓄積されてるっていう感じだと思うんですよ。その向こう側に何があるのか。じゃあ、死というものを迎えないと向こう側に至らないのかと言うと、きっとそうじゃないんだろうと思う。

西塚 僕もそう思います。

ヤス それは、死というものではなくてね、場合によっては我々の個の命と言うか、個の中にもともと存在している何ものかもしれないなと思いますよ。

西塚 今度、そのあたりを突っ込んで話していいですか?

ヤス ええ、今度そこらへんを。

西塚 じゃあ、もうちょっとディープな話になるかもしれませんが、よろしくお願いします。

ヤス 今日はこのへんで。

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