だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting vol.13 「民主主義と個の目覚め」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第13回
「民主主義と個の目覚め」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2015年9月20日 東京・中野にて収録

西塚 『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』です。今日は、13回になります。今回もまたヤスさんにおいでいただきました。今日もよろしくお願いいたします。カンパーイ。

ヤス こちらこそ。はい、カンパーイ。

安倍政権の暴挙!

西塚 これは話さなくてはいけないかなあと思いますが、昨日19日ですか、例の安保関連法案、11法案が通りましたね。参議院の本会議で可決されました。これに関してヤスさん、何かひと言ありますか?

ヤス 安保法案そのものの中身に入ると細かくなるので、基本的なポイントだけ言うと、まずあれは違憲であることは間違いない。少なくとも憲法学者の95%くらいが違憲であることを表明している。どう読んでもあれは違憲ですよね。

民主主義のシステムとは何かと言うと、憲法というものの根本的な定義に関わってくるんですが、国民が政府を管理するシステムを民主主義というわけです。国民の力によって横暴な政府の権力を抑え込むということが必要なんですね。それを可能にするのが憲法です。だから、憲法は何か国の最高法規で、いわゆる刑事訴訟法であるとか、民法であるとか、そういうものの上に立つね、何か大枠のルールであるというような感じで読んでると思うんですが、実は憲法の位置が違うんですよ。憲法とは、国家権力の横暴から国民の権利を守るための法規なんです。

じゃあ、その憲法だけでね、政府の横暴であるとか、官僚の横暴な権力の使用を規制できるのか。憲法だけで保障されてるのかというとそうではない。多くの政治家、与野党問わず、全員のコンセンサスが存在している。ある意味での常識があるわけです。こういうことはやめようねと、これをやっちゃうと国家権力の横暴になって憲法が骨抜きになるから、これはやめようねといういくつかのポイントがあったんですね。

たとえば内閣の解釈による解釈改憲はやめようと。それをやってしまうと、狂った内閣が出てきた場合、本来違憲である内容を内閣だけで解釈してそれを押しつけることになる。それは権力の横暴だからやめようと。もうひとつは、憲法を擁護するためのいろいろな機構があります。最高裁判所もそのうちのひとつですが、政府の内部にある内閣法制局もそうです。内閣法制局というのは、政府がやってることが憲法に違反してるかどうかを監督するための機構で、この内閣法制局長官は人事権は内閣にあるんだけど、手は出さないでおこうねと。

西塚 安倍が替えちゃいましたね。

ヤス そう(笑)。内閣法制局長官は、中立性の高い人物にしておかなくてはダメだと。これがふたつめでしょ。第三に公共放送に対する介入ですね。公共放送の内部に現政権が入って操作してしまうと、それは公共放送に対する権力の介入である。そうすると政府の暴走が止まらなくなる。それはやめようということだった。これは政治家全体の了解として存在していたということなんですよ。

なぜかと言うと、解釈改憲が可能になる、内閣法制局長官の首をすげ替えられる、公共放送への介入が可能になると、とち狂った政権がそれを全部やると、最終的にその政権の意向を実行するのは誰かと言えば官僚なんですね。そうなると、とち狂った政権のみならず官僚の権力に手がつけられなくなるわけです。だからそれはやめようねと。そういう、いわゆる政治家全体に共有されている空気のような常識がこの70年間あった。

これをぶっ壊したんですね。

西塚 ぶっ壊しましたね。見事に。官僚をチェックするために政治家がいるはずなのに。今回の内閣法制局長官も、あれは要するに安部が今回の安保法案の改正にノーと言わないヤツをおいたということですよね。

ヤス そうそう。お友だちにすげ替えた。

西塚 許されないですよ。

ヤス 許されない。それで、明らかに違憲であることを解釈改憲するということは、やってはならない。これもやりましたね。安保法制そのものは全部そうだし、集団的自衛権もそうです。それから第二にですね、今おっしゃったように、内閣法制局長官の首をお友だちにすげ替えた。NHKの理事長もやはり、お友だちにすげ替えた。

西塚 籾井(勝人)ですね。

ヤス 籾井ね。全部お友だちにすげ替えるわけです。これをやっちゃ、民主主義じゃなくなるだろうと。

西塚 そこで僕は思うのですが、国会議員は内閣総理大臣の安倍だけじゃなくて、他にいくらでもいるわけですよ。自民党にも。今回の総裁選の安倍の再選を見てもですね、総裁選が機能していない。野田聖子が出ましたが、派閥政治の解消としてやってきた結果なのかもしれませんが、安倍に対抗するヤツがひとりも出てこない。そうすると安倍の言うとおりになってしまう。ある種の恐怖政治、キム・ジョンウンと同じですよね。

ヤス そう。たとえば、イギリスでもアメリカでもフランスでもドイツでも、どんな民主主義国家でも、ああなる危険性があるわけですが、憲法だけで全部定めるというのは不可能なわけです。憲法の定める憲法の精神に従って民主主義が機能するように、内部のチェック機構が二重三重四重にも、五重にもあるわけですよ。そういうチェック機構の中にはね、いわゆる政治家の常識として共有されるという部分もあるわけですね。

西塚 常識のみならず、第三者機関みたいなものがしっかりあるわけですね。

ヤス しっかりあります。どの国でも内閣法制局みたいなものがやはりあるわけです。憲法裁判所という名がついてるところもあります。だから、ああいうことをやっちゃ、ある意味ナチスと同じ手口になります。基本的にナチスと同じ。

西塚 今回、まったくそうだと思いました。

ヤス ナチスは、ワイマール憲法というもっとも民主的な憲法の中で定められてる総選挙で、どんどん大きな党派になって政権を取った。それで何をやったかと言うと、ワイマール憲法という民主的な憲法の枠組みの中で、全権委任法を可決するんですね。明らかに違憲である法律を圧倒的多数で可決することによって、政府を乗っ取るわけです。

西塚 ヤスさんがさきほどおっしゃったことは、憲法は六法全書にあるような意味での法律ではなく、その上に立つ、法律というよりはある種の理念だということですよね。

ヤス あれは理念です。そうです。国の形だということ。

西塚 それでコンセンサスがとれているようなものがあるのに、それを踏みにじって、超えて、安倍が今回ぶち壊した。でも実際、合法的と言えば合法ですもんね。

ヤス そうです。違法性はないですね。絶対的な違法性はない。ただし、これをやっちゃおしまいだということ。

欧米人の「個」と日本人の「個」の違い

西塚 そこ、どう思われますか? 前に落語の話やドラマの話が出ましたが、それ言っちゃあおしまいだよという、寅さんのようなある種のコンセンサスがある。ジャン・ジャック・ルソーの一般意志のようなものがありますよね。それが、ヤスさんがかつておっしゃったドイツの例のように、国民の持つ集合無意識がすごいネガティブなものとして出てくるといった話にもつながるかもしれませんが、それとは別の一般意志、コンセンサス、常識的なもの、良識というものに、過度に寄りかかりすぎてきた結果だとも言えませんか、今回は。

ヤス 寄りかかった結果、これだけ大きな反対運動が起こったということだと思うんですね。

西塚 ああ、そっちのほうですね。

ヤス だから、これをやっちゃおしまいだと言うのは、たとえば職場という環境があるとする。対立する上司と部下がいる。それで、お互いにすごく憎み合ってるからといって、その場で殺し合いはしないでしょう。それをやっちゃおしまいだ(笑)。相手を個人的に傷つけるようなことを言うのも憚られますよね。それを言っちゃおしまいだと。

やはり仕事の上の対立というのは、職場という環境だったら、仕事の上でうまい具合に対立を処理するやり方があるわけですよ。ちゃんとしたね。みんながコンセンサスを持ってるやり方がある。当然、どの現場でも職場でも、対立があるのは当たり前ですから。だから、それを最小限の矛盾で解決しようという解決のメカニズムがある。

国家もそうなんですよ。憲法を守るために、これとこれというような常識があると。

西塚 前回までのお話の中で、日本人に限らないんですが、民族的なトラウマも含めて、寝た子を起こすととんでもなく暴走する可能性がある集合的な意識下に眠っているものがある。それが今回は、図らずも安倍の子どもじみた狂態と言うか無謀な振る舞いによって、実はいい面のほうが出てきたという気がするんですね。

普通の学生や主婦があのようにデモにいくといったこともそうでしょうし、今まで意識もしてこなかったものが炙り出されてきた。新聞を見てたら高橋源一郎がいいことを言ってました。僕はブランショは読んだことがないのでよくはわかりませんが、ブランショが共同体について言ってるらしく、理想的な共同体というのは一時的な共同体であると。テンポラリーなものだと。何か問題が起きたときに、みんながバーッと集まって協議する。そしてうまく解決したら解散する。そうした一時的な共同体ということを言ってるらしいんですね。

今回はそれに近いと言うか、いきなり湧き上がってきたような気がして、それは日本人のある程度良質な部分、何かおかしいんじゃね?みたいな部分が、安倍のあの暴挙によって炙り出されて、今のこの運動につながっている。僕はこれはいいことなのかなと思うんです。

ヤス いいことですよ。

西塚 反面、松原照子さんが昔の書籍で書いた、地獄の道に日本国民を連れていく安倍という、あのフレーズをつい思い出してしまうんです。あれは数年前からヤスさんが、こういうものがあるとおっしゃってたのを僕も聞いて、それについて当時も話しましたが、本当にそうなってきましたね。ただ、あれとはちょっと違う展開かなと。違うラインが出てきたというふうに僕は捉えたいのですが、そのへんはいかがですか?

ヤス おっしゃる通りだと思いますね。たとえば、日本が1945年に敗戦してGHQがきた。それでマッカーサーがですね、トルーマン大統領と関係が悪くなって召還されるんですが、召還された後にですね、上院の公聴会があるんですよ。いわゆる日本の占領政策がどういう塩梅だったのかというヒアリングがあった。そこで日本人とはどういった存在かという問いがあったんですね。それに対してマッカーサーは、ドイツ人はいわゆる成熟した大人であるのに対して、日本人は12歳の少年のようだと言った。

12歳の少年のようだと言った根拠はどこにあるかと言うと、実は「個人」がないということです。我々は明治維新以降、長い間そうだったと思うんですけど、欧米と決定的に違う点は、社会がそれぞれ孤立した自我を持つ個人によって作られているという実感がないことなんですね。アングロサクソン系の社会観というのは、社会はひとりひとり自立した個人の集まりによって形成されているということです。

ちょっと話が飛びますけど、自立した個人、バラバラの個人によって社会ができ上がってるんだけれども、ひとりひとりの個人はめちゃめちゃワガママだと。そういうワガママな個人によって社会ができ上がってるんだったら、社会なんかまともにできようがない、という発想があった。そこからホッブスの「リバイアサン」という発想になってくるんですね。それと同時にアダム・スミスの「神の見えざる手」もある。

いや、いいんだと。個人ひとりひとりがワガママで、勝手に欲望の命ずるままに生きてていいんだと。それでも神の見えざる手という需要と供給のバランスの法則性が働いて、市場はバランスすると。その市場にまかせておけば、経済は需要と供給が均衡した地点までいくのだということを説いた。本当にワガママで、自分のことしか考えない個人でも、社会や経済を構成することが可能だということを証明した思想だった。

重要なのは、そうした思想の遺産として、社会が個人によって作られたのならば、いつでも作り変えられるだろうということです。みんな集まって抗議してルールを変えれば、社会なんかはいくらでも作り変えられるという発想が根源にある。それが個が社会を作るということのひとつの発想だと思いますね。

西塚 なるほど。その後たとえばルソーの思想を受けて、フランスで言えばフランス革命が起きて、結局はロベスピエールも独裁政治に入っていくわけですね。そこで社会的な規範と言うか規制が必要だということにもなったと思いますが、近代以降は、さきほどおっしゃった個は自由でいいんだけども、資本主義が高度化していくと富が集中してきますね。

そこで、前回おっしゃったような富の再分配に関する思想として、アメリカで言えば、リバータリアニズムと民主党左派の差が出てくる。大きな政府で富の再分配を公正にやっていくというものと、いやいやそんなものを介入させないで、共同体でやるんだと。そこで分かれていくということが、個の自由の先にはあって、どうもおかしなことにもなっていくという気もするんですが…

ヤス そうですね。だから今、我々がいる地点というのは、話を戻せばルソーの言うね、一般意志ですね。一般意志は何かと言うと、勝手でワガママでバラバラの個人が討論すれば、いわゆる一般意志という特殊な集合的な理性が生まれると。その集合的な理性にまかせておけば、まさにアダム・スミスの「神の見えざる手」と同じような感じで、いわゆるバランスのいい社会ができ上がってくるんだという発想ですよ。

それが、近代の啓蒙主義の原点にあったことだと思うんです。ただ、おっしゃる通り、今生きているのははるかにその先にある社会。すなわち、神の見えざる手、それは言ってみれば市場原理主義、それから一般意志といったものに全面的に依存しても、バランスのいい社会なんてできなかったと。結果的にすさまじい格差をもたらした。不安定な、均衡を欠いた社会になってしまったんだと。じゃあ、それを是正するための何か普遍的なルールがあるのか?というところで今、いろんな思想的な議論がされてると思います。

ちょっと日本の話をしますと、欧米の場合は、どういうような原理がベストなのかと考えたときに、絶えず戻ってくるレファランスとポイントがあるんですね。それはやはり「個」なんですよ。アダム・スミスであり、ジャン・ジャック・ルソーであるといった、あのポイントに戻ってこざるを得ない。そこからもう一回考え直そうよ、ということになるわけです。

西塚 今回、戻ったと思いますね。

ヤス なぜかと言うと、個が社会を作ってるという実感が、18世紀から変わらず、今もあるということなんです。問題は、日本の場合は、その実感が根本的にない社会だということです。社会というものが、自立した自我を持つ孤立した個人の集合ででき上がってると考える人は少ないと思うんです。

西塚 それは、どう考えられますか? たとえば明治以降、近代的な自我が出てきて、要するに夏目漱石がイギリスにいってぶったまげる。そこで戻ってきて、私とは何かと。それまで集団的な熱情とか、情熱とかに溶け込ませていた自我がですよ、いきなりそこで出てくるわけですね。近代的自我というやつです。特に戦後、そういう自我が検証されて成長することもなく、またある種、高度経済成長の中に埋もれていってですね、お金を稼げればいいし、ちゃんと食えればいいんだとなる。まあアメリカの庇護のもとなんでしょうけども、そういうふうにずっと戦後70年間やってきて、ここで初めて、ちょっと待てよということになった。

それはヤスさんが言うところの個の目覚めなんですか? それともまた違う現象なんでしょうか?

ヤス 個の目覚めだと思いますね。ただ、我々の歴史の文脈からつかまなくてはならないと思うんですね。我々に近代的な自我の目覚めが本当にあったのかと。私小説の自我が近代的自我だったのかと言うと、ちょっと違う。

西塚 ああ、なるほど。

ヤス おそらくね、夏目漱石とか、北村透谷とかね、あの明治の私小説の内面から見たら、たしかに近代的自我なんですが、あれは言ってみれば、巨大な異質な文化の海の中に浮かぶ、ちっちゃな小島みたいなものなんですね。たとえば、ヨーロッパの近代的な自我はどういうものかと言うと、みんな近代的な自我を持った個人ですから、いわゆる隣の人も同じような自我を持ってる。そうすると、同じように、社会そのものがね、いわゆるバラバラな孤立した個人によって作られてるという実感を共有している。そういう実感を共有してれば、じゃあ社会を変えようよと思えば、簡単に変えられるわけですよ。これちょっとおかしくない? おかしいよね、じゃあみんなで集まってデモやろう、抗議しようとなる。

ドイツの憲法の基本法典の中には抵抗権がちゃんと書かれてるんですね。選挙と同じような意味を持つと。みんながおかしいと思ったら、社会なんかいつでも作り変えられる。国家なんかいつでも作り変えられるというタイプのもの。政府とか国家というのは、ちょっと抽象的な言い方をすると超越性を持たない。個人から自立した特殊な実体ではないわけですね。いつでも、スクラップアンドビルドできるというタイプのものです。

一方ですね、いいか悪いかでは全然ないんですが、今、自立した個人が、バラバラな個人が社会を形成するというね、認識とか思いを持ってる日本人は少ないと思います。日本人にとっての社会は何かと言うと、個を超越した存在なんですね。それは、お蔭様であり、お天道様であり、やっぱり個を超越した実体的な存在であって、個人の力ではどうしようもない。なぜ、どうしようもないものに感じるかと言うと、我々ひとりひとりが個人としての実感を持ってないからだと思うんですよ。何か個を超えたね、巨大な超越的な実体から、ずっとヘソの緒でつながっている。自我ではなくて「個我」とでも言うのか、ひとりひとりたどればみんな同じ大もとにいくんだけども、それからずっとヘソの緒でつながっててね、かりそめに分化してるといった実感の仕方ですね。

西塚 スピリチュアル系で言う「分け御霊」みたいなものですか?

ヤス そうそう、そんな感じ。分け御霊でいいと思います。

西塚 日本にはヨーロッパ的な近代的自我がなかったとして、江戸時代でもいいですけど、江戸時代にはそうした自我がないんだけれども、ある種文化的にはですね、ものすごい世界に誇るべき文化、国際都市になってもおかしくないくらいの文化を形成していましたね。もちろん士農工商もありますが、それぞれの階層の中で優れた洗練された文化を持っていて、一応共存してた。あまり大きな事故もないし、都市もきれいで、外国人のルポルタージュを見ても絶賛されてますね。何だここはと、奇跡的な都市だといったような言い方をされてます。そのときに、もし個がなかったとすれば、なぜそういうものが築けたのか。

これからは国際社会にならざるを得ないので、どんどん地球は狭くなる。すると鎖国するとか、共同体的に縮小したところでしか、ある種のユートピア的な共同体は営めないということなのか。あるいは将来的には、地球規模のグローバルな意味で個を尊重し合った、尊厳を認め合ったような社会ができるのかどうか…あまり大きな問題にする必要はないですが、そのへんはいかがですか?

ヤス 人間の実感の仕方として、たとえば自我であるか、個我であるかということですが、個我であるから高度な文化は築けないかというと、全然そうじゃない。個我とういうのはなかなかうまい具合に説明できませんけども、どういう感覚かと言うと、たとえば江戸時代の人たちの自己認識、これは現代の我々にかなり通用するところがあるんですが、一番大事なのは先祖なんですね。先祖崇拝。

ラフカディオ・ハーンが『神国日本』という本を書いてるんですね。これは1904年に書かれた本で、名著です。GHQが日本を占領するときに、日本人のメンタリティーがどういうものかということを分析するために、一番参考にした文献だと言われています。それは、個がない世界とはどういうものかということを描写し尽くしてるんです。ラフカディオ・ハーンの最も学術的な思想書でありながら、日本ではほとんど評価されてないんですよ。読みたがらないんですね、日本人は。自分の鏡ですからね(笑)。

そこにはっきり書いてあるのは、日本人には自我の意識がないんだと。じゃあ、どのようにして感じるかと言うと、自分は祖先から長くつながった鎖のひとつの輪だと。そして祖先が自分に課した義務を行なう。いわゆる自分が家系に属してる者としての義務をすべて行なう。祖先に礼拝をして、祖先から与えられた土地を耕作して、子孫をどんどん増やして、そして次の世代にバトンタッチしていく。そうしたら自分は、死後ね、同じ祖先の霊として祀られて、末裔から信仰の対象としてもらえるという意識なんですね。

西塚 ラフカディオ・ハーンの話でいくと、僕はつい文学的に考えちゃうんです。それはいけないかもしれないんですが、ハーンはコンプレックスがあった。片目が見えないとか、いろいろコンプレックスがあって、たぶん西洋ではなかなか生きにくかった人ではなかったかと勝手に思ってます。日本にきて、日本人と結婚して、帝国大学で英語教師をして、夏目漱石の前任者ですね、それで日本は何とすばらしいのだろうと。そういうことも含めたものを感じながら、おっしゃる本は読んでないですが(笑)、書いていったということだと思うんです。

そこには、彼の自己のですね、自分なりの、あいまいな言い方になりますが、彼のアイデンティティに関する問題もあったと思うんですね。それが日本の文化とある種マッチングしてですね、西洋的な理性もあるでしょうからそういう論文も書く、というような見方をしてました。その論文をよく読んでないからあまり言えないんですが、そうした何となく漠然とした見方があって、『耳なし芳一』のような一連の文学的な作品も書いていった。

どうしても僕は、個人的な感情とかトラウマとかに還元しちゃうような、思考の性癖があるんですね。ヤスさんの主旨とは違っちゃうかもしれませんが。ハーンの個人的な問題と言いますか、そのへんはどう思われますか? それはそれで影響はしてるんだけども、そういうものは取っ払っちゃって、あれはすぐれた論文であり、論理的な部分を抽出して、そこを見るべきだということでしょうか。

ヤス いや、見るべきだし、僕は西塚さんの理解で全然いいと思うんですね。『神国日本』を読んでよくわかるのは、あれはまさにですね、ラフカディオ・ハーンの自己発見の書なんですよ。

西塚 ああ、そう言われると僕はわかります。

ヤス すなわち何かと言うと、日本を否定してるわけではなくてね、実は日本の、その祖先につながってる自分を自我ではなくて個我として感じ、祖先という長い系列を形成するひとつの鎖の輪として自分自身を自覚する。個人を超えた超越的なものと絶えずつながっているという実感。その実感を実は我々西洋人は忘れてしまったのではないか、ということなんですね。

西塚 ああ、なるほど。そうか、そういう本なんですね。

ヤス そうそう。だからそれを遅れてるとかね、いわゆるアジア的なものであるとか、異質なものとして見るほうが間違ってるんだと。あの文化というのは、まさに我々自身が忘れてしまった最も重要なものをね、実は内包してるような文化なんだというような理解の仕方なんですよ。

社会はいくらでも変えられる

西塚 だとすれば、一足飛びに明治からここに飛んじゃうことになりますが、ついこの間まではその中にいた日本人が、また違う何かを取り戻したのか。目覚めたのか…

ヤス 終身雇用制とか企業共同体というのは、やはり日本の明治以来の文化によって、江戸期からもそうですけどね、やはり日本文化になじんだものだと思うんですね。会社というのはもともと日本人にとって何かと言うと、家だった。それがいわゆる先祖という概念はなくなったとしてもね、先輩から脈々とつないできたひとつの輪の中のひとつになると。住友銀行って昔ありましたけども、住友マンになるんだと。トヨタならトヨタマンになると。じゃあ、そのトヨタマンになるって何かと言うと、祖先ではなくて、先輩からずっと受け継がれた、いわゆる企業の伝統を担うような一部になるわけですね。まさに輪になるわけです。それはやはり日本人の自己認識の方法として、一番マッチした方法だったんではないかと思うんですね。

何が言いたいかと言うと、これは別に悪いというわけじゃない。個を超えたある意味で超越的な実体に、多くの人間がつながっていると感じる。感じてるがゆえにね、まあ非常にいい面というのは、過剰な自己主張を抑えるわけですよ。

西塚 ことを荒立てないんですね。

ヤス どの現場にいってもね、多くの人間が最大限の満足ができるような、一番いいバランシングのポイントを探るってことをやるわけです。みんながそれをやる。だからどの現場にいっても、それなりに全員がコンフォタブルに感じて、嫌な思いをしない。ひとつのバランシングポイントでまとまった、ひとつのバランスが現出するわけです。飲み会でもそうだし、職場でもそうだし、どこでもそうだと思いますよ。それは我々の美徳だと思いますね。ただ、裏面もあります。

我々ひとりひとりは個我である。社会全体というのは、我々の個人の決定権を超えた超越的な存在なのであると。我々は何もできない。何かできるとしたら、その超越的な存在が変化したときに、変化の方向に適応するために敏感に態度を変えていくこと。というような感じの諦めの思想ができる。だから社会が改革すべきような対象には見えないんですね、基本的には。社会があるひとつの方向に変わったら、時代が変わったんだと言って一緒に同じ方向に走っていく。また別の方向に変わったら、やはり一緒の方向に走っていくという形の態度ができ上がってくる。

その態度の結果、どんなに間違ってると思っても、社会を改革するということを断念するわけですよ。断念したらやはり、それは文句になりますよね(笑)。飲み屋なんかで文句になる。ぐじゃぐじゃと言って、それをマスコミが取り上げて、マスコミもぐじゃぐじゃ言うわけですよ。そうしたら政治家がね、一身命を賭して改革をします!みたいなことを言うわけです。そしてガス抜きをやる。しばらく経ってみたら、まったく何も変わらない。同じ世界になってるわけですね。といったような感じの、これは現在の我々の文化に内在したひとつのカルマですね。欧米の改革型の文化とは違いますよ。ただ今回のことで明らかになったのは、カルマを乗り越え始めたということです。

西塚 本当にそういうことですね。安保法制の公聴会にしても、あの形骸化はたぶん欧米ではありえないんでしょうね。ものすごい力を持ってるらしいじゃないですか。それが日本じゃ、セレモニーみたいになっている。これから違憲訴訟にも入っていくと思います。すでに準備に入ってるようですね。地方の市議会議員などを中心に。

ヤス あとね、面白いのは刑事告発までいく。

西塚 あ、刑事ですか? 安倍に対するですか?

ヤス 憲法98条ってあるんですよ。あきらかに違憲であることを閣議決定した場合は、これは憲法違反であるとはっきり書いてありますね。刑事告発するのは一番いいと思いますね。

西塚 それは面白いですね。僕は、今回は実質憲法改正に近いと思います。条項の解釈の違いのように見えますが、憲法の改正に近くないですか。集団的自衛権の解釈のことですが。本来なら衆参両院の三分の二以上から、国民投票で過半数をとらなきゃいけない案件ですよ。レファレンダムまでいって、そこで決めなければいけない案件だと思います。それを一内閣が解釈した解釈改憲になってしまった。

それとは違う意味で、ヤスさんの大きなテーマのひとつである民族的な集合無意識にもつながる話で、わりとデリケートな問題も入っているので慎重に検証しなくてはいけないかなと僕は思いますが、取りあえずは今、声を上げ始めたと言うんですか、ああいう運動、運動という言葉は僕は好きじゃないですが、動きというのは、僕は同意します。

ヤス やはり大きな意識の転換になると思いますよ、本当に。ひと言で言うと、社会は変えられるものだと。自分たちでルールを変更して、いかにでも変えられるという認識に多くの人が目覚めた。だからまさに、民主主義の覚醒ですよ。

西塚 今日はそこまでお話しできるかどうかわからないですが、個も同じじゃないですか。自分は日本人に生まれてどうのこうの、こういう環境があって、こういうところに勤めてどうのこうの、ということに縛られるのではなくて、自分を変えられるんだということにつながると思います。

ヤス そうですね。

西塚 そういう意識にまでたぶんいくと思います。それに乗っかったスピ系の商売とか、カリスマも出てくるだろうし、第三者機関じゃないですが、内閣法制局みたいなチェックと言ったらヘンですが、そういう場はやはり必要になってくるという気がしますね。

ヤス そうそう。

西塚 ちょっと話しがとっ散らかってきました。酔っぱらってきました(笑)。

ヤス いえいえ、どうぞ(笑)。

ビッグデータに潜む盲点

西塚 そういった意味で、ヤスさんはやはり評価すると言うか…

ヤス あれはすごく評価しますよ。だから、ある意味でカルマの転換のときですね。その意味で、安倍さんありがとうとう、ですよ。こういう機会を与えてくれて(笑)。

西塚 本当にそう思いますね。

ヤス 彼はね、将来、刑事被告人になる可能性があると思いますね。

西塚 僕は御多分にもれず、というか僕だけかもしれませんが、前回まではとんでもないとこまでいくなと。これはもうちょっと絶望的と言うか、お先真っ暗な感じが半分あったんですね。今日だったかな、新聞を読んでびっくりしたんですが、今回、連休前に何としても決めたかったという自民党の方針がありましたよね? その理由が奮ってて、要するに連休が明ければみんな忘れるって言うんですよ(笑)。

それを読んだとき、たしか自民党の一部議員のコメントとして名前は出てませんでしたが、国民は忘れるんだから、連休前にとりあえず決めたかったんだと。それだけの理由なんですよ。連休があると、みんなでデモとかになってぐちゃぐちゃになって、採決も覚束なくなると。国会は27日まであるんだから、別に連休後だっていいじゃないですか、決めるのは。それを何で、19日にやるのかと…完全にナメてますよね。

ヤス 自民党というのは、ITの使い方がえらいうまい政党なんですね。たとえばインターネットであるとか、ツイッターであるとかね。民主党などの他の野党に比べるとITの使い方がめちゃめちゃうまいんです。ビッグデータの分析とか。自民党は野党から比べると2歩も3歩もずっと先にいってます。

たとえば、安倍政権を作った2012年の衆議院選挙がありますね? あれなんてね、ビッグデータの逐次分析に基づいた選挙キャンペーンをやってるんです。ビッグデータは何かと言うと、それぞれの候補者のサイトに対するアクセス数であるとか、誰がアクセスしてるかとか、または自民党のいろんなキャンペーンサイトがありますでしょ? そのキャンペーンサイトに対するアクセス数であるとか、そのすべてのビッグデータを分析してね、そしてそれプラス、ツイッター、ソーシャルメディアなどのSNSの発言数を全部解析して、今どういうキーワードで演説をすれば、どのくらいの反響や効果があるか、全部計算しながらやってるんですね。

西塚 へえー、それで嫌中、嫌韓も出てくるんだ。反応しやすいということで。

ヤス そうそう。それをやって、それで勝った政党なんですよ。それは確かにうまくいった。民主党はビッグデータの分析なんかやってないですから。選挙キャンペーンのレベルから見てもね、ITのレベルが根本的に違う。

西塚 それは自民党が独自に民間の研究所なり、IT関係の人脈との結びつきがあるのか、あるいはアメリカの情報なのかというのは…

ヤス いやいや、契約すればいいだけですよ。ビッグデータを専門に分析する会社はゴロゴロあるんで。

西塚 ああ、じゃあアメリカとは関係ないんですか?

ヤス アメリカまでいく必要性がないくらいですね、おそらく。これくらいの水準であれば。いわゆるビッグデータを解析する会社はゴロゴロあるから、それとちゃんと契約してね、それプラス有力な選挙のキャンペーン会社、これをブランディングしてくっつけりゃいいわけですね。

西塚 そうか。僕はちょっと感化されてるのか、アメリカの指示でその通りやっちゃったのかなあと思ったんですよね。

ヤス アメリカの指示はありますよ。ただ、そこまで細かく指示はしてない。おそらく。

西塚 僕は、安倍側にそんな頭があると思ってなかった。偏見があったんです。

ヤス いや、安倍はアホかもしれないけど、背後にいる技術的なスタッフとか、技術的な戦略チームはえらい優秀ですよ。

西塚 官僚ですか?

ヤス それを率いているのは、首相補佐官ですかね。チーム世耕ですね。世耕(弘成)参議院議員ですよ。彼が率いていたチームですね、ひとつは。えらい水準が高いですよ。問題はね、ITが怖いのは、コントロールできる、予想ができる範囲が広ければ広いほど、盲点も広くなるってことなんですね。ブラックホールがわかんなくなるんです。具体的に言うと、成功例が多くなればなるほど、自分はすべて世論をコントロールするといったような、ある意味で充実感と言うか、全能感が出てくるわけですね。すべてが操作的に動くんだってことになってくる。

西塚 じゃあ、今回のデモというのは、ブラックスワンに近いんじゃないですか?

ヤス ブラックスワンです。だから、予想ができる範囲が広くなればなるほど、予想ができないものに対して盲目的になってくる。知性が豊かなやつというのは、何が予想できないかという一番の盲点を探すんですね。今回、盲点を探してないんですよ、やっぱり。いろんなところに盲点がたくさんあるわけ。政治的な発言とは関係ないようなところで、いろんな盲点が生まれてきてる。それは何かと言うと、個を主体とした動きなんですね。

たとえば、『change.org』というサイトがありますけど、日本人のね。これ、何かおかしくね?ってひとりの人間が言ったら、それにみんな集まってきて、何か運動を起こすわけですね。ちっちゃな運動が多いんですけど。でも、そのちっちゃな運動はけっこう成功例が多いわけですよ。たとえば、杉並区のあそこに歩道橋が必要なのに、区に何回言っても作ってもらえないから、みんな集まって運動をやろうよ、みたいな形のちっちゃなもんなんですよ(笑)。そういうものは成功例が多い。

それから、いわゆるクラウドファンディングみたいなものがあるでしょ? そこで新しい商品がどんどん出てきてる。そこで、3Dプリンターを持ってるようなチームがみんな連携してね、アイデアを出し合って新しい商品を生産するということが、やはりあるわけです。実はこれがブラックスワンだったということなんです。これがどれだけの大きな政治的な力になるかということを全然、見てない。

西塚 今回のアメリカのレッシングもそうですよね。クラウドファンディングで100万ドル以上集めた。

ヤス そうです。僕は世耕さんのインタビューを見たことがあるけど、傲慢ですもん。技術的には優れた人ですよ。でもほとんど、盲点を見てない。自分の知性に盲点が見つからない知性というのは、知性じゃないですね、たぶん。

西塚 それをもうちょっと具体的に言うと、盲点というのは、ここはよくわからないという部分をちゃんと認識してるということですね。

ヤス そうそう。

西塚 実際に予想をするんじゃなくて、ここの部分はどうなるかわからないと。ここらへんは、ブラックスワンになるかもしれないということをちゃんと認識してるという、そういうエリアと言いますか、それをちゃんと認識してるということですね。

ヤス そうです。ここらへんが外部だということね。我々では操作できない外部だということ。とんでもないものが現われてくるかもしれないから、とりあえずこれは監視しておかなくてはならないと。

西塚 そういう、ウォッチングするということを含めたものが、やはり知性と言うか…

ヤス そうですね。包括的な知性だと思いますが、そこまでのものを持ってなかった。それは技術的な知性の限界だと思います。だからセキュリティなんて分野がありますが、どんなにセキュリティをやっても、必ず盲点ができますから(笑)。どんどんね。優秀なセキュリティのシステムを開発してる人たちというのは、やはりすごい優秀なセキュリティを開発するんだけども、これでも敵わない、この部分はありますよと、必ず提出するんですよ。

西塚 彼らは、何かわからないけど、そういうことがあるかもしれないと言うわけですね。

ヤス こういう進行方向、こういう条件でこう進化したら、この部分が盲点になりますよと。うちは絶対、100%完璧だと言っちゃったら、終りだということだと思います。

西塚 全能感ですね。僕の言葉で言えば、単純に傲慢ですが。

ヤス 安倍の政権はやはり傲慢だった。それは国民をバカにしてるというのではなくて、自分たちが持ってるようなITの知識の全能性に浸ってしまったということだと思います。それはITを知らない、インターネットを知らないのではなく、知りすぎたがゆえに墓穴を掘ったということですね。おそらくね。

これから、安倍政権が見落としたブラックスワンのほうからね、やはり新しい提議がどんどん出てきて、非常に大きな動きになってくるんだろうなと僕は思いますよ。これが個を中心とした、新しい日本型の個ですね。それは楽しみですね。

民主主義と「個」の目覚め

西塚 楽しみですね。ちょっとヤスさんにお伺いしたいんですが、実際本会議で可決するまでは、これはとんでもないことだと。これはやっちゃいけないことなんだけど、でもやっちゃってみたら、むしろ違うものが、ブラックスワン的なものが出てくる可能性が強化されちゃったという言い方もできますね。それ自体、どうですか? 正直僕なんかは、自分の気持ちとしてちょっとね、違ったんですよ。もうダメだなという反面、じゃあどうしたらいいのかということも考えるんだけど、一端始まってみると、これは全然違うある種の転換があって、これはこれでよかったのかもしれないと僕の中でちょっと変わったんですね。ヤスさんご自身は、何か変化がありましたか?

ヤス ありましたよ。やっぱりあった。僕は、野党の演説、いろんな人の演説を聞いたんですけど、野党が変わったと思った。要するに、変わらざるを得なかったんだと思いますが、国会の外部にいる人たちに語り始めたんですね。彼らと同じ感情で語り始めた。思いとして。まあ、政治家だから、戦略的にやってる部分もあるんだけど、ただそれを超えて心を打つんですよ。山本太郎もそうだしね(笑)。たとえば、福山哲郎議員であるとか、すごく評価されてますけど、国会という枠を超えて今、興りつつある新しい意識に向って喋ってる。

西塚 意識的か、無意識的かにかかわらずですね。

ヤス そうですね。彼はその感性が豊かだったんだと僕は思うんですね。

西塚 それで、それを見る側の我々も、意識的か無意識的かにかかわらず、何かを受け取ったということですね。

ヤス たとえば、ああいうような非常に大きな国会の論戦を見たと。参議院本会議の可決のいろいろな状況を見たと。見て床につく。頭がカッカしてなかなか眠れないかもしれないけどね。多くの人間は、僕も感じたんだけど、自分の心の深い部分のどこかが変わるわけですよ。何かが変わった。クリッと、ちょっとした音を聞く(笑)。

西塚 ああ、わかります。

ヤス もっと言うと、魂の奥深いところを何か風が吹き抜けるとでも言うか。

西塚 そのニュアンスはわかります。それはそれで、ひとつのテーマとしてやりたいぐらいなんですけど。僕はまたひとつ疑問と言うか、テーマとして提起しますと、原発問題がありますね。3.11以降、まあそれ以前からも反対運動がいまだにありますが、今回の憲法に関しては全然違う大きな流れになってる。何か違いがあるんでしょうか?

ス 原発は憲法問題にはいかないんですよ。憲法問題にいかないということは、国の形をどうするかといったような大枠の議論にまではいかないということですね。原発を稼働するのかしないのかであって、日本の原発政策というね、福祉政策もある、外交政策もある、多々ある政策のうちのひとつの問題にしかならないということだと思います。

西塚 なるほど。となると今回の場合は、昔の言葉で言えば、国体ですよね。

ヤス 国体。そう(笑)。

西塚 古い言葉で、あまりいいイメージがないですけど(笑)、そこに関わる問題に反応したということ。

ヤス そうそう。だから今の日本の国体は民主主義なんですよ。その国体をどうするかという問題であるということに、多くの人たちが本当に気づいたってことだと思いますよ。

西塚 そうですね。

ヤス それが、原発問題との根本的な違いではないかと思いますね。

西塚 将来的にも、60年代、70年代の安保闘争がありましたが、それらを超えるくらいの実は大きなエポックメイキングかもしれないですね。

ヤス 今回はすごいと思いますよ。野党のほうから見たならば、民主主義の意識の覚醒という巨大なスイッチがオンになったわけですよ。それは野党にすれば巨大なリソースですね。だから本来どうやるべきかと言うと、民主党にしろ共産党にしろ、いろんな党はあるだろうけれども、オンになったスイッチをうまい具合に活用して、集まった人たちと対話集会をとにかく繰り返す。安保法制おかしいね、廃案にしようね、だけではなくて、いわゆる戦後の日本の価値観は何だったのかと。戦後の日本の価値観をベースにした場合、どういう国の形ができ上がってくるのがベストなのか。またはどのようなライフスタイルがベストなのか。どういう価値観に基づいて我々は生きていくのがベストなのか。そういったライフスタイル全体を含めるような議論をとことんやっていくことですね。そうするとね、全然違った思想ができ上がる。

西塚 嫌韓、嫌中じゃなくて、嫌米も出てきませんか?

ヤス 今回は嫌米はすごいでしょ。

西塚 そうですね、今回は民主党の議員からも、どこまでアメリカの言いなりになるんですか!といった発言がありました。

ヤス 今回の安保法制で一番ポイントになるのは、アメリカ観の違いですね。安保法制に賛成する人たちのアメリカ観というのは、冷戦期のアメリカです。1989年以前、ベルリンの壁の崩壊以前のアメリカで、日本をいつ何どきでも守ってくれる親としてのアメリカ。少し専門的な言葉になりますが、無謬性と言って、いっさい間違いを犯すことのない神のような親としてのアメリカという感覚がある。そのアメリカに対して我々は同盟関係を深めなくては、とんでもない中国に対抗できないだろうという意識がある。

しかし、反対する人たちの意識というのは、アメリカこそが一番国際法を破り、国連決議も破り、他国を侵略してね、とんでもない国家だと。ああいう国家に対して、ある程度は同盟関係を維持して防衛力を依存せざるを得ないんだけど、距離をとらなくてもいいのか、という実感ですよね。

それは、どこに向かうかと言うと、SEALDsっていますでしょ? SEALDsは20代の人たちなんですけど、彼らの年代を考えてみるとですね、9.11以降に育ってるんですね。9.11のときに10歳とか8歳だった。それからのイラク侵略戦争を見てるしね。とんでもないアメリカを見てるわけです。彼らのアメリカ体験というのは、はっきり言ってとんでもない凶暴な国なわけですね。おそらくね。そのようなアメリカ観の違いというのは、非常に深く根底にあると思いますね。

西塚 SEALDsはいろいろですね、公聴会やテレビの討論にも出てきて、もちろん場慣れもしてないのでいろいろ批判もありますけど、彼らは純粋と言うか、当たり前のことを主張してるだけです。僕は好感を持ってます。明治学院の学生が中心メンバーなので、やはり高橋源一郎などの後ろ立てもあるし、それで感化された人たちもいるでしょう。

しかも今回降って湧いたわけではなくて、活動自体は2年くらい前からやってましたからね。それが今につながるわけで、決してファッション的にやってるわけではないということは押さえておきたいですね。そういう人たちが増えてきているし、デモに対する違和感もなくなってきてます。本人たちも、外国人特派員協会の会見で言ってましたよね、正直に。デモなんかダサくね? 何のためにいくの? といった意識が変わってきたと。あの意識ですね。

ヤス 僕も安保法制に賛成しているいろんな人たちと話しましたが、やっぱり幻想ですよ。お前さあ、ちょっとネットで情報調べたほうがいいんじゃない?というくらいの幻想ですね。あのアメリカ観というのは…。大好きなんですよ、アメリカが。

西塚 そこがですね、僕はついアナロジーとして、あるいは構造的に見ちゃうクセがあるんですが、個人も同じだと思っています。たとえば、強い父性のもとで育ってきた人たちとかは、やはり幻想を持ってたりするじゃないですか? 父親が立派だとか、たしかに立派だったりもするんだけど、ある種の幻想にすぎなくて、自分が個であるためにはその父親のこともちゃんと見なきゃいけない。

とんでもないことをやってるかもしれないし、実際にやってるという場合もある。そんな聖人君子がいるわけないんですから。そこと向き合うと言うんですかね。今のアメリカにしても、あまりにも依存しすぎてる。その依存が幻想だということにまず向き合って、そこから初めて個人、自分、あるいは父親、アメリカ、日本に向き合えるというところにようやく今きてるのかなと。僕は自分も含めて思いました。

ヤス たとえばよくね、日本人の多くは洗脳されてるって言い方をされますが、洗脳という以上に自分で選択して作った考え方なんですね。だから60年代、70年代のアメリカ像ですよ。まあ『奥さまは魔女』のね(笑)、あれだけの大きな邸宅に住んでてね、普通の庶民がですよ、みんな車を2台とか3台持ってね、そうしたアメリカの消費社会に憧れたという。あのアメリカの消費社会が作り出したショーウィンドーとしてのアメリカ。それがやはり根強く今でもありますね。

西塚 でも、ある程度年齢のいった年代の一部じゃないでしょうか…

ヤス そうです。やはり見てると若い人には少ない。60代、70代だと思いますね。

西塚 経営者とかじゃないですか?

ヤス 経営者は強いですよ。いろんな経営者を知ってますが、基本的には強い人が多い。僕も小さいころ、最初は1968年、小学校低学年のときにアメリカにいってましたけど、やっぱりびっくりしますよ。まさに『奥さまは魔女』の世界ですよね。ゲーッと思いますよ。

いずれにしろ、そういう最初に思った、アメリカが偉大な国だというひとつの衝撃。そのような偉大なアメリカに保護されてね、まさに日本があるといったようなアメリカ観ですね。重要なのは、それは日本人全般で共有してるものではなくて、もはや現代では60代70代以降の、本当に特殊な層によって支持されてる、非常に特殊なアメリカ観にしかすぎということだと思いますね。

西塚 僕もそう思います。それでさきほどの話で申しわけないですけど、そうなるとやはり60代70代の人たちの子どもがいるわけで、そういう人たちのもとで育ちますから感化されますよね。つまり、日本が子どもでアメリカが父親だとしたら、そういう構造が家庭にもある。今ようやく日本全体がアメリカから脱して、個としての日本とは何なのかという方向にいく。と同時に個人も、父親からも脱して、自分は個として何なのかという方向にいく。僕はすごくリンクしてる気がするんですね。

ヤス そうですね。今回の結論から言うと、ひとつの民主主義の目覚めであり、それはどういうことかと言うと、新しい個の目覚めだったということです。いわゆる社会というのは個によって作られ、その個によって作り変えられるようなものであって、超越的な実体ではないということですね。その実感がやはり多くの人たちに今回、共有されるようなところまでいった。

それを政治運動として指導してくるようなね、もし野党のほうが党派の利害対立で分裂せずに、この湧き上がった大きな国民の流れの中に身を投じてですね、ディスカッションを繰り返していくというような方向をとると、すごい政治的な流れになってくると思いますね。ただし楽観はできない。何かと言うと、安倍のほうですね。日本国民をナメてる安倍のほう。あれはね、簡単には手放さない。あらゆる手を使いますよ。暴力も使うと思う。

西塚 国家権力ですね。

ヤス 国家権力を使いますよ。秘密保護法は使うわ、警察権力は…

西塚 マイナンバーも来月きます。

ヤス マイナンバーもくるし、あらゆる手を使って徹底的に締め上げるという方向をとりますから。おそらくね。だからそれに対する抵抗というひとつの闘いが、今度は待ってますね。抵抗するだけじゃなくて、それを乗り越えて、戦後日本の価値を母体にした新しいライフスタイルとか、我々が望んだライフスタイルとか生き方はこうなんだということをはっきりと出さねばならない。そこまで思想として昇華できるかどうかというのがひとつのポイントだと思いますね。

それは、やはりスピリチュアリズムを含めねばならない。そうじゃないと説得力はない。深みはない。

西塚 そのへんは、次回突っ込んでやりたいと思います。今日はありがとうございました。

ヤス はい、来週ということで。どうもどうも。

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