だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

世界の創造~ゼランド編③

前回、“イヤな予感” は現実化しやすいと書いた。

それは、イヤな予感やわるい予感、避けたい出来事というのは、潜在意識レベルでも理性でも心底避けたいと思っているので、よくない気分と理性が見事に一致するからである。

イヤな予感があれば、理性は理屈でいったい何が待ち受けているのか、ありとあらゆるシナリオを吟味しはじめる。あんなことが起きるんじゃないか、こういう可能性もあるなと、理性は勝ち誇ったように、いくらでもわるいシナリオを思い描くことができるのだ。

そうすると、そのうちのひとつが現実化するか、もしくはそれ以上の、理性ですら思いつかなかったわるいシナリオが展開される場合もある。

“いい予感” や “いい気分” も、必ず現実化するのだが、理性がなかなかそうはさせてくれない。いい予感やいい気分は、それ自体は確かに感じられても、それに見合った理屈がなかったりして、漠然としているからである。

理性があらゆるいいシナリオを思いついたとしても、今までの経験や “常識” に邪魔をされて、いいシナリオの正反対のシナリオのほうに引きずられてしまう。そして、現実に少しでもわるいシナリオに近い要素や芽を見つけると、どうしてもわるいシナリオのほうが勝ってしまうのだ。

実際は、いいシナリオもわるいシナリオも無限に存在しているのに、理性がわざわざわるいシナリオのほうへ焦点を合わせてしまい、わるいシナリオは潜在意識にとっても、魂にとっても、やはり本当にイヤだから、理性と魂が一致して、わるいシナリオが現実化してしまう。

じゃあ、どうすればいいのか?

まずは、少なくともわるいシナリオが展開しないようにする必要がある。ここで登場するのが “重要性” だ。

自然のエネルギーは効率よく作動する。たとえば、風のしくみで言えば、風は高気圧から低気圧への空気の移動だ。自然は常にバランスを保とうとするので、どこかで空気の圧力(気圧)が高くなれば、そのぶんだけ空気の圧力が低いほうへ空気が動こうとする。

自然のエネルギーも同じなのだ。このエネルギーとは、この世をこの世にあらしめている基本的なエネルギーのことで、今、議論になってる内容で言えば、この世の現実化を起こさせる力のことだと言ってもいい。だから、このエネルギーの性質を知っていれば、ある程度、現実をコントロールすることができる。

なぜなら、この世界を現実化させるエネルギーは、私たちの “思考エネルギー” や “感情エネルギー” と密接に結びついているからである。

たとえば、自分の部屋の真ん中に 30cm 幅の長い板切れがあったとして、その上を歩くことに何の抵抗もないだろう。当たり前だ。何でそんな板切れがあるのかということはおいといて、その上を歩くことは何てことないことだ。口笛を吹いて歩くことができる。

しかし、これがふたつの高層ビルの屋上に架けられた板切れだったらどうだろうか。下に落ちたら取り返しのつかないことになるので、板切れを渡ることはものすごいプレッシャーになり、恐怖になる。

これが “重要性” だ。

重要性は、平穏なエネルギーの分布図に擾乱をもたらす。バランスを乱すのである。歩く者は “落ちたくない!” という、極めて強い思考エネルギー、感情エネルギーを発し、周囲のエネルギー状態を乱す。

エネルギーは単純にバランスをとろうとして、つまり元の平穏な状態に戻ろうとして “動き” 出す。過剰に発生したエネルギーの偏りを解消しようとするのだ。

そして、板の上を歩いている者を下に落とそうとする。その者は振り落とされまいとして板に抱きついても、今度は強風が吹いてきたり、鳥がやってきてつつきまわったりする。現実はそういう動きをする。

なぜなら、自然のエネルギーはもっとも効率よくバランスをとろうとするので、その者が恐怖に打ち勝ちながら板切れをトロトロと渡り終えるのを待つよりも、その場で落としてしまったほうが手っ取り早いからである。

よく海外のエクストリームスポーツでも、似たような競技があるが、あれは通常の人間が持っている恐怖心がないか、別の目的による心的状態を保っているのだ。

だから普通は、部屋の中では何てことのないことが、こうした状況になれば過度な “重要性” を発生させてしまい、板切れをまともに渡ることはできない。

このエネルギーの動きは、実際に体感することもできる。よく高い場所から下を覗くと、スーッと引きこまれそうになるというが、あれがそのエネルギーの動きによる力である。

この “重要性” を過度に与えることによる、自然のエネルギーのバランシングの力は十分に物質的なことであり、現実の出来事なのである。

“重要性” とは、あることに対して必要以上に過度な “意義” を与えることだ。先の板切れ歩行で言えば、部屋の中に置かれた板切れを渡ることに対しては、何の意義も必要ではないが、高層ビルに架けられた板切れを渡る場合は、渡ることがとてつもなく大事なことに思えるので、渡り切ることに対して、とてつもなく大きな “意義” を与えてしまう。

結果、その者は自然のエネルギーのバランシングによって下に落とされるか、ものすごい悪戦苦闘を強いられて、運よく渡り切るかのどちらかになる。いずれにしろ、ロクなことにはならない。

だから、いやな予感やわるい予感、極力避けたいことなど、ネガティブな思考や感情は、そうあってほしくない形で現実化することになる。そもそもネガティブな思考や感情は、ある対象に対して、必要以上に “意義” を与えた結果、“重要性” が発生している状態だからである。

この “重要性” は、意識さえすれば下げることができる。重要性がなければ、あるいは低く保ってさえいれば、あらゆる問題は、自然のエネルギーの効率のよいバランシングの結果、一番シンプルなシナリオで解決してくれるのだ。

しかもそのシナリオは、理性が思ってもみない形でやってくる。“案ずるより産むが易し” という言葉があるのは、ゆえあってのことなのだ。

さらにここで重要なことは、自然のエネルギーには、悪意も善意もないということだ。すべては、私たちの思考、感情に原因がある。そして感情とは、対象と自分との関係性の結果、あとから発生するものであり、それは思考によっていくらでも変えることができるのである。

Commentコメント

お気軽にコメントをお寄せください

メールアドレスが公開されることはありません。