だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

魔都?

昨夜、福岡から帰ってきた。
夕方に帰ったのだが、新宿で打ち合わせがあったので、
歌舞伎町の飲み屋へ。

披露困憊の中、必死で体調を整えたが、久しぶりにきつかった。
福岡には仕事関係で行ったのだが、
おのれの未熟ぶりが露呈された形となった。

やはり私はバカなのだろうか。

それでも、とにかくもろもろのことに関して、
非常に有意義かつ、貴重な時間を過ごすことができ、
大いに考えさせられるものだった。

何かに気づいた人は、何でもいいのだが、
とにかく“気づいた”人は、それなりに“責任”がともなう。
これは、ビリー・マイヤーも書いてるし、
ヴァジム・ゼランドも書いている。

しかも、
その“きづいたこと”を徹底的に探究しようとする者に対しては、
徹底的にわからせようとする。
誰がわからせようとするかは、とりあえずおく。
そして、手段は選ばないのだ。

空っぽの心は危険だ。
何でも入るからだ。

我欲が詰まってる人は、それはそれで困り者だろうが、
場合によっては、“空”の人より安全とも言える。
我欲以外のものをなかなか受けつかないからである。
もちろん、その者の我欲の内容・質にもよるが。

だから、瞑想に関しても賛否両論があるのだ。
刃物とかと同じで、扱い方を間違えると危険なのである。

だからこそ、指針のようなものが必要で、
何度もバカのひとつ覚え(まさしく!)のように言っているが、
ゼランドふうに言えば、「重要性を引き下げる」ことだろうし、
マイヤーの言う「自然と創造の法則と掟」だろうし、
仏教、特に高橋信次で言えば、「八正道」となるのである。

上記3つのことにしても、
“内観”、“気づくことに気づく”、“マインドフルネス”などなど、
世の中の“スピ系”であっても、れっきとした“医学”でも、
似たような内容のことを提起・主張する理論?は多いが、
要するに、“自分を客観視”するということだ。
その方法や範囲が違うだけである。

あとは、この世の日常生活(働く、食べる、寝る、楽しむなど)で、
どう実践していくのかが、テーマとなる。

仏教的に言えば、“四諦”に代表されるように、
この世は苦に満ちているのだから、まず前提としてそれを知り、
苦の原因を知って、
苦の原因を創らないような“道”を知るということだろう。

それはそうだろうと思う。
何ってたって、お釈迦様が唱えたことなのだから。

ただ、個人的には、仏陀像を見ても思うのだが、
慈愛に満ち溢れた表情の中に、どうしても“悲しみ”を感じてしまう。
それはお前の中に悲しみがあるからだと言われれば、
そうなのかもしれない。
でも、感じることは確かだ。

私は個人的には、この世と言っても宇宙と言ってもいいのだが、
根本には“喜び”があると感じる。
喜びからすべてがはじまっていると思うのだ。

悲しみがあるから、喜びがあるという言い方もある。
悲しみがないと、喜びも感じられないというわけだ。

そうだろうか。

波打ち際で水遊びをして、
キャッキャ遊んでいる子どもたちには、
喜びしかないだろう。

根本には喜びがあると思う。
悲しみはあとから生まれたものだ。

だから、悲しみと喜びがあるのではなく、
喜びしかないのだが、悲しくなるときがあると言うべきで、
その悲しみは創り出される原因があるということだ。

ゼランドも八正道もそのへんを説いている。
マイヤーになるともう少し高度な思考が必要(らしい)なので、
ちょっとおいとくが、
要はそういうことだ。

だから、もともとある喜びとともに常に生きることは、
ある種のコツなり、技術がともなうことで、
その方法論を説く書物や指導者が数多く存在し、
まともなものはあまりないということなのだろうと思う。

ゼランドに至っては、自分のことを修行者とまで呼んでいる。
日常的にある“秘技”を修行している身だというわけだ。

あることがあり、深夜の福岡の片隅の駅で落ち込んでいるところへ、
女神か、はたまたダキニかが、突然現れた。

彼女は、いったい何だったのか?

いずれにしろ、私の中の何かが、惹きつけた、
あるいはおびき寄せたんだろうな。

昨夜は帰ってきて、眠りに就くまで体がしんどかった。
ひと晩寝たら、もう大丈夫だが。
これも私のパターンにひとつで、
ひと晩眠ると、昨日までのことはまったくなかったようなことになる。

それにしても、あの女は……?

くわばらくわばら。

ちなみに商売オンナとか、そういう話ではありません。

Commentコメント

お気軽にコメントをお寄せください

メールアドレスが公開されることはありません。