だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

世界の創造~ゼランド編⑬

ゼランドの「リアリティ・トランサーフィン」のモデルでは、重要な法則として「振り子の法則」というのがある。

これは、トランサーフィン・シリーズの第 1 巻のタイトルになっていることからもわかるように、最大に重要な概念だ。

でも、ちょっと難しい。いや難しくはないが、わかりにくかったりする。

ほかにも「過剰ポテンシャル」とか「フレイル」とか「スライド」とか、いろいろと独自の言葉が出てくるのだが、言葉の定義から説明していくと煩わしいし、早い話が本を読めばいいだけのことなので、ここではなるべくそういう言葉を使わないで、わかりやすく書こうと試みているわけだ。

それはともかく、とにかく自分にとってよくない状況や望まない状況が生まれ、自分でも思ってもみない形でその状況があれよあれよと進展し、どうにもならなくなるということがあるが、それをあれよあれよと進展させるものが「振り子」なのである。

この「振り子」に関しては、またもっと先で話したいと思う。

これまで何度も書いてきたように、取りあえずは、望んでいない状況や事象が現出するのは、平穏でバランスがとれているエネルギー状態が乱されたからだ、ということを確認するだけで十分だ。

“よくない状況” というのは異常事態なのだ。普通に自然のエネルギーを乱さずに生きていれば、しかもその生き方がその人本来のものに見合っていれば、しかるべき領域にあるその人の現実化のシナリオを創造していく。

われわれは、一般に言われる、世の中は厳しい、とか、甘くない、といった “常識” に騙されてはならない。

楽観主義とか悲観主義といった話をしているのではない。楽観主義者はバラ色のメガネをかけ、悲観主義者は黒いサングラスをかけて、世の中を眺めているだけだ。

われわれを取り巻いているエネルギーのバランスが乱されるのは、われわれの思考によって何らかの対象に過剰に「意義」が与えられ、「重要性」が発生してしまったからだ。

その結果、エネルギーの分布に偏りが起こり、その偏りを解消しようとして、ありとあらゆる現実化が起こりはじめる。そしてその現実化は、そのエネルギーの偏りを起こした張本人にたいてい抗うような形で起こるわけだ。

“何らかの対象に「意義」が過剰に与えられる” というのは、たとえば、「願望」である。なぜなら「願望」は自分にないものを得ようとすることだからだ。もともとないところに、そもそもないものをあるかのように引っ張ってこようとすることだからだ。

ほかにも似たようなものとして、「不満」や「非難」「崇拝」「美化」「軽蔑」「虚栄」「優越感」「劣等感」「罪悪感」などがある。

「優越感」と「劣等感」は正反対だろと言われそうだが、本来の評価以上に自分で勝手に他人を低め、それと比較して自分を上げているか、逆に他人を上げて、それと比較して自分を下げているかの違いだけで本質は同じだ。ただ極性が+(プラス)か-(マイナス)か、符号が違うだけである。

特に、こうした評価がほかの対象と比較されてなされた場合は要注意である。

なぜなら「依存関係」ができ上がってしまうからだ。たとえば、他人との比較である評価がなされた場合、その構図、そのパターン、その周波数に固定され、なかなかそこから抜け出せなくなる。つまり、われわれの唯一の頼みの “意識性” から遠のいてしまうのだ。

こうなると望ましくない現実化が起きると同時に、その現実化に対してますます感情的になってしまい、ドツボにハマッていく可能性が高くなる。なぜなら、その人は “眠ってしまう” からだ。

歪んだ評価がほかの対象と比較されていない場合は、それほど恐ろしいことは起きない。

しかし、ほかの対象と比較されたとたん、エネルギー分布に「分極化」が起き、その分極化=偏りを除去すべくせっせと現実化が進み、それはその分極化の原因を作った本人にとって、たいがい望ましくない状況として現実が提供される。

ほかの対象と比較しない歪んだ評価とは、

「私は君を愛する」
「私は自分を愛する」
「私は君を憎む」
「私は自分が嫌いだ」
「私は優れている」
「君は劣っている」

といったもので、これはこれで自己完結しているので大したことはない。

依存関係に陥った歪んだ評価は、

「君が私を愛するなら、私は君を愛する」
「私は君たちの誰よりも優れているから、私は自分を愛する」
「君は劣ってる。なぜなら私のほうが君より優れているからだ」
「私は優れている。なせなら君のほうが劣っているからだ」
「私は自分が気に入らない。なぜなら私は誰よりも劣っているからだ」
「私は君が嫌いだ。なぜなら君は私のようではないからだ」

などなどだが、その違いはわかるだろうか? 

ゼランドに言わせれば、この違いは決定的に大きいのだ。要するにわれわれは、とにかく何かと比較して自分を高く見積もったり、低く見積もったりしてしまうということだ。

こうした人々はよく見かけるというか、ほとんどの人の内面は他人との比較できゅうきゅうとしているのである。

表面は冷静を取り繕っていても、ひょんなことから何かしらのこと、普段自分の奥深くに隠していたこと、当の本人もわからないように巧みに隠していたことに触れたりすると、突然否定的な感情が噴出してくる。

そしてここが重要なところだが、そうした自分の状態をもはやコントロールすることができなくなるのである。

そして、その制御不能な状態をどんどん煽っていくのが、ゼランドが言うところの「振り子」であり、この「振り子」につかまってしまった場合は、もはやいくところまでいかないと納まりがつかない。誰にも止めることができない。だから、恐ろしい。

酒の席の言い争いやケンカくらいで済めば、まあよくあることだしかわいいものだが、これが国レベルの戦争や世の中の常識とか良識というところまでに浸透してきて、われわれの生き方や人生に作用してくるとシャレにならなくなってくる。

と言っても、「振り子」をちゃんと説明しなければ、何のことかよくわからないかもしれないが、それも追って取り上げていこう。

そして、そういう知識を得ることのみが、「振り子」のワナにはまらないでいることができるのである。

うまく、説明できるかどうかだが……私に。

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