だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

世界の創造~ゼランド編⑭

前回、「振り子」という言葉に触れたが、その説明はちょっとあとにして、「エゴ」に関するゼランドの考えを取り上げてみたい。

しかし突然だが、これまで宗教というものの存在がどれだけ人々を抑圧し、弾圧し、さらには殺してきたことか…

そしてたいがいが “神” の名においてである。その “神” も場合によってはキリスト教やユダヤ教、イスラム教のように、ゴッド、エホバ、ヤハウェ、アラーなどと呼び名が違うだけで 、“同じ神” を信奉しながらいがみあうのである。

そして敬虔な信者、信仰心の篤い信者は正しく、穢れがなく、無心論者、他宗の信者は間違っており、自分たちの神を崇めるべきだと本気で思っているわけだ。

こうした各信者たちの本気度、絶対的自信はどこから湧いてくるのか? 

ゼランドに言わせれば、それは、「罪を赦してくれる神の慈悲への期待、懺悔による罪悪感からの解放、神の王国への信仰、神による救済に対する希望、同じ宗教信者たちとの一体感など、何でもござれなのだ」。

そうしたものが彼らの自信の根源だという。

それに比べると、無心論者などは最悪だ。自分の力しか頼るものがないので、罪悪感でも何でも、自分で何とかしなくてはならない。何かに頼ったほうがよっぽど楽なのである。

もちろん現代社会に生きている以上、現行の社会システムに頼らざるを得ないし、向こう三軒両隣の力も必要だ。ときには友人知人の物理的援助を請うことだってある。

しかし、“自分” を明け渡しているわけではないだろう。

信者たちを神へと導くのは、多くの場合、「恐怖」や「自信のなさ」だとゼランドは言う。そして世の中には、神に全霊を捧げていると思っている人々がいるが、それは幻想だともいう。

「彼らは自分のエゴから逃げようとしているのだ。エゴに悪いところは何もなく、エゴは傷つけられないうちは、邪魔することもない。人が自分と他人とを比較し、自分が完璧にはほど遠いことを発見すると、依存関係によってエゴが生み出される」(A)

ここにゼランドが説くところの「トランサーフィン」流のエゴに対するユニークな解釈がうかがえる。

エゴ自体はわるくないのだが、何かとの比較によって、“何か” が作動し、それまでスムーズに流れていた本人の現実を歪めていく。

エゴの唯一の目的とは、「自分の存在意義を確認すること」なのだ。だから、その確認が得られない状態に陥ると、「傷つき、本人は魂の不快を感じ、そこから抜け出そうとする」。

上記の「」内はいずれもゼランドの言葉だ。

ちょっとわかりにくいというか、言葉をもう少し詰めて考えてみる必要がある。

“エゴ” とは “自我” でいいだろう。自分であることを自分が認めている “もの” だ。そのエゴ自体には何の落ち度もなく、そもそもいいもわるいもなく、この世において主体性を確保するための “もの” でしかないだろう。

しかし、そのエゴが傷つけられると、先の(A)の言葉にあるように「エゴが生み出される」。

この(A)の文章もよく見るとわかりにくい。

「エゴに悪いところは何もなく、エゴは傷つけられないうちは、邪魔することもない」のだが、「人が自分と他人とを比較し、自分が完璧にはほど遠いことを発見すると、依存関係によってエゴが生み出される」というとき、最初に出てくるふたつのエゴと、最後に出てくるエゴとはどこが違うのか?

このあたりは、本当はロシア語の原典に当たって、翻訳との対比などを検証していかないとならないが、私には荷が重すぎる。

まあ普通に考えれば、最初のふたつのエゴは、純粋に “機能的な自我” のことを言っており、最後のエゴは、“我欲” によって、自分の存在意義を求めている “自我” のことであろう。

つまり、純粋に自分が自分であることを認識している “エゴ=自我” が、“何か” が作動したことにより自分の存在意義を求めはじめ、その存在意義が確認できない状態を確認できた瞬間に、存在意義を求めてやまないエゴ=自我が形成される、つまりエゴ=自我がそういう “もの” に変容してしまうということだ。

そしてその作動する “何か” とは、他の対象物と “比較” することであり、つまり自分と他とを比較するという “思考” によるものなのである。

これまでにこの「世界の創造~ゼランド編」シリーズ(というほど大げさなものではないが)を読んだ人ならわかるだろうが、順風満帆、可もなく不可もなく、まずまずだなあ、でも何でもいいが、それなりに順調だったり、無難に流れていた現実の中で、あることに対する “思考”、つまりちょっとした思考=思いによって、それまで順調だった現実のエネルギー状態に擾乱を発生させてしまうことがあるという現象について取り上げたことがあった。

のどかな晴天の空に突然、一点の黒い雲が現われるようなものだ。その雲はみるみるうちに広がって、空がどんよりとうす暗くなってきて、ポツポツと雨が降ってくる。

その “思考” に対処する術を知っていれば、その雨はにわか雨に留まり、やがて雲は消えて、再び青空が広がって、暖かい日の光に照らされる。

しかし、雨が降ってきたことによって、ますます不安になり、不機嫌になり、ザーザー降りになって傘もなく、全身びしょ濡れになった日にゃあもはや怒り狂い、世界を呪い、雷が鳴りだし、稲光が空に亀裂を走らせ、嵐になり……

なんて、ここまでは普通はいかないだろうが、可能性はある。ましてや、その “思考” とやらが自分ひとりではなく、周囲のものと共有されていたり、マスコミで喧伝されていたりするとシャレではすまなくなるのだ。

それでも、こうした “構図” に関する “知識” があれば、それに巻き込まれることはないのである。

ずいぶん話が飛んだが、もとに戻すと、いずれにしろ思考が自分と他を比較し、エゴ=自我が自分の存在意義を求めはじめるも確認できないとなれば、「魂の不快を感じ、そこから抜け出そうとする」。

ここで “魂” というまたあやふやな言葉が出たが、以前の回のどこかでも書いたが、今はおおざっぱに “潜在意識” とか “無意識” でいいと思う。

抜け出そうとしてどうするかというと、2 通りある。

「エゴがまっしぐらに駆け出すように手綱を緩めてやる」か、「とにかくエゴの息の根を止めてやる」かだ。
前者は “エゴイスト” になり、後者は “利他主義者” になる。

エゴイストはエゴが攻撃に転じた状態で、罪人、悪党、冷笑家などになる。

利他主義者は、エゴが自暴自棄になり、エゴが自分で自分を否定した状態だ。自分を愛するのはわるいことで、他者を愛さなければならないとし、「自分の魂から顔を背け、支えを得るだけのために誰かや何かに自分の人生を捧げようとして、神や人々へと向かう」のである。

そして、これらのことは宗教のみならず、さまざまなイデオロギーに逃げ込む人々にも言えることで、場合によっては、その人がひっそりと信じている “考え” にさえ言える。

だから、「自分を何かの基準に合致させるべく、作り変えるよう求めてくる人々の意見に耳を貸してはならない」。あるがままの自分を自分で認め、また他人も認めることだ。

ゼランドの「リアリティ・トランサーフィン」は、イデオロギーでも宗教でも哲学でもなく、ひとつの思考のモデルであり、その実践面での取り組み方は、どちらかと言えば、武術のようなものに近いと私は思う。

そして、“モデル” である以上、これは “選択” の問題であって、人は何も宗教や政治結社や仲よしクラブに入ってはいけないということではない。あるいは、占いや予想にはまってはいけないというのでもなく、何を信じてもいいのだ。

あ、占いや予想などに関してもゼランドは興味深いことを言っている、というか「トランサーフィン」の立場から見た占い、予想、予知といったことだが、十分にうなずける内容でこれもまたおもしろい。

そして、ここも重要なことだが、ゼランドあるいは「トランサーフィン」は誰にも無理強いしてはいないし、
絶対的な真理を解き明かそうとしているわけでもない。

ある “法則性” を明らかにしようとしているだけなのである。

誰にでも自分の理論を選択し、結論を下す権利があるのだ。

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