だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

世界の創造~ゼランド編⑯の2

まだ、11日か…

何だか、濃密な日々を過ごしていたせいか、三が日がずいぶん昔のことのように感じる。もちろん濃密ったって、酒飲んだりしていたわけだが、それだけではもちろんない。いろいろとイベントに参加して取材しているのだ。書かなくてはいけない原稿もあるし、ボーッとだってしなくてはならない。

そんなことはどうでもいいか。

「世界の創造~ゼランド編」のほうが止まっている。調べたら ⑯ の 1 だった。1 と言えば 2 を書かなくてはならない。

「運命」「予知」「予言」について、まだ書き足りないとか何とかというところで終わってたと思う。実際に書き足りないし、キリがないわけで、だからこそとりあえずは「世界は鏡である」でいいのだ。これでいいのだ。

⑯ の 1 でも書いたが、運命を考えるにあたって 3 パターンあるとした。これは、運命というものに対してどのように考えているか、だいたい 3 種類の人間に分かれるということだ。3 つの選択のうち、だいたいどれかを選んでいるという言い方をしてもいい。

だから「世界は鏡である」とすれば、3つのどれもが正しいことになる。当たり前だ。世界は鏡なのだから、その人の思った通りのことが映される。

世界は、あるいは人生は、「世界(あるいは人生)は、どのようなものか当ててごらん」というクイズに答えるようなものなのだ。

世界(あるいは人生)に向かって、「お前は言うことをまったく聞かないヤツだ!」と言えば、世界(あるいは人生)は、「ハイ、そのとおりです。あなたの言うことはまったく聞きません」と答える。

「お前は無意味だ。くだらないヤツだ!」と言えば、やはり「ハイ、そうです。私はくだらなく、どうしようもないヤツです」と答える。

また、「お前は何てすばらしいのだろう!」と言えば、「ハイ、とんでもなくすばらしいですよ」と答えるし、「お前は何でもかなえてくれるね」と言えば、やはり「ハイ、何でもかなえて見せましょう」と答えるのだ。

このクイズには誰もが正解することができる。これも当たり前だ。

世界(あるいは人生)は、すべての人間の答えに「イエス」と答えるからだ。

どういうことか?

世界(あるいは人生)は、自分が選んだとおりのものになるということである。

「んな、バカな! そんなことがあるわけがねーじゃねーか!」

「ハイ、そのとおりです。そんなバカなことはありませんとも」

あまりにお金がなくて夜逃げしようと荷物をまとめてたら、古い卒業文集が出てきた。中学の卒業文集に私は、「闘争あるのみ!」と書いていた。

バカじゃなかろうか。ヤンキーじゃあるまいし。(もちろん、違う。中 2 のときはルネ・シマールと言われていたのだ。と言っても、わからないか)

そして高校の卒業文集には、「No venture、no gain」(虎穴にいらずんば、虎児を得ず)と書いている。

要するに、私は世界(あるいは人生)は自分で開拓していくもので、そこにやりがいがあると思っていたわけだ。もちろん間違いではないし、性分だからしょうがない。

実際、私はそれなりに「闘争」したし、「虎児」も得た。並行してスピリチュアル系やオカルト系も独自に研究していたが、自分では「超自然現象」という言い方をしていた。今では、それらは「自然現象」と呼ぶのがふさわしいことも知っている。

当然、「占い」や「予言」「予知」も知っていたし、『ノストラダムスの大予言』は確か中 2 のときに映画を観に行った覚えがある。映画と言えば、中 1 のときに行った『エクソシスト』が衝撃的だったが、今はその話じゃないか。

ちなみに映画に衝撃を受けたのではなく、一緒に新宿ピカデリーに映画を観に行った友人が弁当を持ってきたことと、開館時間前に並んでいたのだが、上映時間が近づくとどんどん人が増えてきて、開館するとそれまで並んでいた連中が一挙に入り口に押し寄せ、伊勢丹横の狭い通りが人で溢れかえり、ショーウィンドーはバリバリと割れるわ、悲鳴と怒号は聞こえるわとパニックになったことに衝撃を受けたのである。

私は空のビールケースが積み重なっている横で並んでいたのだが、これはまずいと思い、いち早くケースに上って上から見ていたので、この騒ぎを冷静にみることができた。結局、先に映画館に入った何人かの連中以外は、いったん締め出されてしまった。

私はビールケースの山の上にいたので(何人かいた)、後から映画を観るハメになったが、友人とも離れ離れになり、先に入って観たのか、どこかに行ったのかわからなくなった。狭い通りには片っ方の靴が落ちてたりしていた。

翌日学校に行って友人と話したが、友人は先に入って観たとのことだったが、弁当を失くしたとも言っていた。私は、弁当が無くなるとはどういうことかと訝った。

というか、何だかんだと結局映画の話をしているわけだが、もういいか。

占いだ。予知、予言だった。

占いに関してはあまり興味がなく、何てったって、自分が牡羊座と知ったのは大学 1 年のときだったくらいだ。

初めて会った女の子に「西塚くん、何座?」と聞かれ、私は意味がわからず、適当に応えていたら、その子が顔を曇らせて「何月何日生まれ?」とまた聞くので答えたら、「ああ、じゃあアリエスね」と言ったのだ。

私は、これはエライことになったと思った。大学に入学して初めて会った女の子に話しかけられ、好みではなかったがそれなりに可愛い子が、何か自分に哲学的な議論を吹っかけようとしている。三島由紀夫とドストエフスキーとカミュのことなら話せるが、アリエスは知らんぞとあせったのだ…

また脱線する。

とにかく占いはあまり興味がなく、基本的にはいいことを言われれば喜んでいたといった類いだ。何かよくないことを言われればまったく信じず、自分なりの理屈でネガティブな内容をポジティブに解釈していた。

そして、私には小学 5、6 年ころから、あるクセというか、独特の自己調整方法というか、うまく言葉にできないが、あえて言えば、おまじないのようなもので、ある「感覚」を自力で呼び起こすのだが、これはけっこう無敵なのだ。

この「感覚」のことは、ゼランドを読んだときと、合気柔術を学んだときによみがえり、というか密接に関係していることがわかった。

これはきっちりまとめて世に出すつもりだが、なかなか興味深いことだと思う。

また尻切れトンボになりそうだが、基本的には「予言」や「予知」は無視していい。占いにいたっては、ただの遊びである。

世界が鏡ならば、鏡には自分の好きな世界を描けばいいだけだ。つまり鏡に映る世界には無限の可能性があることになるが、中にはそうしたことを信じる(選ぶ)よりも、運命はあらかじめ何か巨大な力によって決められていて、人間(自分)の計算や予知でそれこそあらかじめ知ることができる、と考えたほうが楽な人もいるわけだ。

もちろん、世界をどう考えようと自由であり、ましてや世界は誰の考えにも同意するのである。

だから、先のようなタイプの人は、何も先がわからないことが不安なため、“あらかじめ決められている” 自分の人生や、これから起こることに関する情報やサイン、暗示などをちょっとでもいいからもらおうとして、占い師をはじめ、予言、予知、サイキックのもとへと走るのだ。そして彼らの言動の中に、自分あるいは人類の未来に関する情報の片鱗を探そうとする。

人は、自分の望む世界を好きなように鏡に描けるのに、誰かのヨタ話のほうを信じてしまう。世を覆うマスコミ、身近にいるエナジーヴァンパイア、共依存関係のコミュニティーなどなど、それらはこぞって鏡にネガティブな絵を描き出そうとする。

というより、マスコミ、エナジーヴァンパイア、共依存関係のコミュニティーの中で形成される「構造」がそうさせるだ。

しかし、先の話に戻れば、占い師、予言者、サイキックの言うことは、たいてい当たってしまうことが多い。

当たり前だ。

世界が鏡ならば、彼らの占い、予言、予知、お告げ?を聞いて、自分で鏡にそうした絵を描けば、世界はそっくりそのままそのとおりになる。というか、そういう方向に世界が動き出す

そっくりそのままに描かなくても、いったん彼らの話を聞いてしまえば、もう後戻りはできない。何かしらの影響を受けることは免れないのだ。それでも、好きなように世界を創造することはできる。

でも、まだまだここにはやっかいな問題もありそうだ。

人は自分の望む世界を創るのではなく、自分を待ち受けているものを知ろうとする。

この違いがわかりますか?

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