だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

夢見る大人

事務所泊まり込みや、徹夜が続いている。
徹夜が続くと言っても、ずっと続いてるわけはない。
朝方までかかって仕事をし、約束があればそのまま出かけ、
なければ仮眠したり、弁当を買いに行ったりするわけだ。
要するに睡眠不足だ。

私はこの睡眠不足にすこぶる弱い。
ものすごく嫌いである。
平気な人もいるんだよね、あれ。
何かやらなくてはいけないことがあると、
なーに、2、3日徹夜すればいいんだから、
とか言って。

私はそういうことを聞くと、
そら恐ろしいことを言う人だなと思うが、
おそらくそういう人よりもトータルで言えば、
私のほうが徹夜をしているだろう。

実際、睡眠なんかはちょっとでいいと言う人もいる。
せっかくこの世に生まれたんだから、
眠るのはもったいないとかね。
どうせ、死んだらたっぷり眠れるんだからとか。

この世で肉体を持ってるから、
ヨガの達人とか、霞食ってる仙人とかじゃない限り、
その肉体を維持していくために眠るんだと思うのだが…
代謝を落として修行する必要はない。普通は。

死んだら眠れるというのもねえ。
死んだら意識がなくなると思うから、そう言うんだろうけど。
眠ってても意識はあるじゃん。
だから夢を見るわけだ。

そう言えば昔、
赤ちゃんも夢を見るのかしら、
とか何とか言ってるCMがあったような気がする。
何のCMだったか。

そりゃ、赤ちゃんだって夢を見るに決まってるわな。
ただ、大人の言う現実と夢の区別がないだけだ。
これはけっこうな年齢までない。
4歳くらいまではないだろう。
56歳くらいになってもないヤツを私は知っている。

何の話だ。
ブログを10日くらい更新してないことを思い出し、
深夜の仕事の途中でつれづれなるままに書き出しただけだから、
話がどこにいくのかわからない。

あ、でも、さっきの夢と現実の話は誤解を招くな。
赤ん坊に夢と現実の区別がないというのは、
意識の上ではたぶん同等だということである。
こちらが夢で、こちらが現実だという区別がないということだ。

でも、56歳の大人のほうの、
夢と現実の区別がないという話は、
眠って見る夢の現実と、
目が覚めて肉体活動をしているときに見ている現実との違いは認識しているが、
両方とも意識が経験しているリアルなものであるということで、
両者に差はないという意味だ。

赤ん坊から成長して、
そうだな、人によって程度の差はあるだろうが、
幼稚園生から小学校4年生くらいまでは、
さすがに、眠って見る夢と、
目が覚めて肉体活動しているときに見ている現実との違いはわかる。
でも、その現実の中において、夢を見ることもできるのだ。

いわゆる、遊びだ。
何とかごっこでもいい。
鬼ごっこでも、忍者ごっこでも、ウルトラマンごっこでも、
おままごとでも何でもいいが、
現実の中でも別の現実を創造することができるのである。
そして、その“ごっこ”の現実の中で、
マジで、リアルに、“生きる”ことができる。
たいがいの子どもはそういうことができる。

自分が医者なり、ウルトラマンなり、サスケになって、
友人の患者なり、バルタン星人なり、大猿大助なりに対して、
現実の相手としてコミュニケートする。
もちろん友人たちも、
マジで自分が患者やバルタン星人や大猿大助だと思っている。
現実の中で、もうひとつの現実をみんなで創り出しているのだ。

でも、隣のおじさんがやってきて、
お前たち、何してんの?と言うと、
え? お医者さんごっこだよ、とか言うわけだ。
要するに、自分たちで好きな楽しい現実を創り出して、
その中でリアルに生きてはいるものの、
それは“ごっこ”であることをガキんちょ全員が、
ちゃんと認識している。

だから、日が落ちてきて暗くなってくると、
誰からともなく、そろそろ帰ろうかとか、
あ、俺、塾だからとか言って“現実”に帰り、
家で夕飯を食ったりするわけだ。

つまり、幼稚園生から小学4年生くらいの子どもたちは、
意識性が高いのである。
○○ごっこを真剣に生きることができるが、
それがしょせん、“ごっこ”であることも知っているということだ。

それで、小学5年生くらいから徐々に、
そんな“ごっこ”を創り出していくことをしなくなり、
いつのまにか、
いいかげんもう子どもじゃないんだからという周囲の声に従って、
やれ常識だとか、ルールだとか、
受験とか、就職とか、資本主義とか、働かざる者食うべからずとか、
成功するのはひと握りの者とか、努力しろとか、
身のほどをわきまえろ、などなど、
どこかの得体の知れない大人が創り出した、
“別”の“ごっこ”に参加させられていく。

そして、意識性の高かったはずの“元”子どもたちは、
目が覚めて肉体活動をしているときに見ている現実の中で、
誰かが創ったいくつかの“ごっこ”にいつの間にか参加させられたあげく、
その“ごっこ”を唯一の現実だと思ってしまうのである。

キミたち、何してんの?と聞かれても、
もはや誰も、受験戦争ごっこだよとか、就職ごっこだよとか、
資本主義ごっこに決まってるじゃんとか、
努力ごっこをしてるところだから邪魔しないで、
などとは言わないし、
ましてや、もう遅いから帰ろうかとか、
あ、俺、別の用があるからなどとも言わないのである。

みんな、その“ごっこ”の現実しかないと思っているからだ。

してみると、そういう大人たちは、
幼稚園生や小学4年生たちよりも意識性が低いということになり、
もうほとんど“眠っている”状態と言っていいだろう。
まるで誰かに催眠術でもかけられたようではないか。

子ども時代の鬼ごっこやかくれんぼ、カンケリ、忍者ごっこなら、
楽しいから毎日でも遊んでもいいが、
それは彼らには帰る家があるから、
毎日でも楽しめるんであって、
家にも帰れず、ずっと医者をやらされたり、患者やらされたり、
サスケだったり、ウルトラマンだったりしたら、
さすがに彼らも飽きるだろう。

飽きれば、まあ、役の交換をしてもいいが、
物語自体、つまり“ごっこ”自体を変えたくもなるだろうし、
実際は、本当の自分が別にあるわけである。

いつの間にか大人になった者たちにしても、
ようやく資本主義ごっこやその他、
賞味期限切れの“ごっこ”から抜け出すことができたとしても、
すでに自分の帰るべき家がどこにあるのか、
わからなくなっていたりする場合もある。

何だか、ちょっとブログを更新しようと思っただけなのだが、
面倒くさい話になってきたぞ。

途中端折って、強引に前回の話に結びつけるならば、
これからはハッと目が覚めて、
その“ごっこ”から抜け出す人が増えてくるはずだが、
自分の家がどこだったかはすぐには思い出せないので、
ハイハイ、こちらですよと、
どこぞの温泉街のインチキ旅館の客引きみたいなヤツらが、
ワラワラと出てきて、
手前どもの温泉はかけ流しですとか、
超美人のコンパニオンがいますよとか、
あることないこと言うような時代に突入すると思うわけだ。
だから、気をつけようという話。

そんな連中に案内してもらわなくても、
デルポイの神殿やエメラルドタブレットに書かれた、
数行の文字を知るだけで、本当は十分なのである。

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