宗任さんという人と知り合った。
本名は別にあるが、何でもあの世の戸籍に登録してある名前らしい。

1968年生まれの男性、ということしか明かせない。
ある光の体験をし、誰もが知る超有名ロックバンドに絡んだ霊能者から、
あなたは将来、霊能者になると学生時代に言われた。

本人は霊能者とかサイキックとか占い師とか、
そう呼ばれることにちょっと抵抗があるというか、
あまりなじんでいないように見受けられる。

頼まれ役とか、天からの使われ者とか、
そういう言い方をしている。
つまり、人から何かを頼まれる。
こうしてほしいと頼まれて、その頼みを聞いてあげる。

天は、というか、ここは神でも創造主でも大いなる存在でも、
呼び方は基本的には何でもいいらしいが、
ともかく天は人を介して人に頼みごとをする。
天は人を介して、人を使うとも言える。

私はその話を事務所で聞いて、
では、私は若いときから寝転んで中途半端に首の後ろを壁にもたげ、
長年読書をし続けてきたので、背中が曲がって、
娘にも背むし男と言われてるくらいで、
もう背中の湾曲は変わらないだろうが、
体にもよくない気がするので、
何とかしてほしいと言ってみた。

すると宗任さんは、いいですよと、
そこにうつ伏せになってくださいと言う。
そして、横になろうとする私ののどの下、
両鎖骨の真ん中のちょっと上の奥のほうを指で押しながら、
あなたの場合、この奥に原因があるんですねと言う。

ここを突かれて死んでるんです、と。
専門用語で言うと、アストラルショックと言います。
今、それを取りますから、と宗任さんが言った瞬間、
私は自分の体が揺れるのを感じた。

よくうつ伏せに寝ていると、
自分の心臓の鼓動で体が揺れることがあるから、
それだなと思ったが、どうも違う。

本当に地震が起きていた。
下から突き上げるというような地震ではなく、
何か自分の周囲というか、
空間が揺れているような感じだ。

ああ、今、大天使たちが降りてきています。
動いているんですと、宗任さんが普通に言う。
そして、仰向けになってくださいと言った。
まだ、ぐらぐらと部屋が揺れている。

やがて、はい、取れました、
今度はうつ伏せになってください、と言い、
古傷になるといけないから…と呟きながら、
私の背中に手を当てている。

地震は止み、
私は、何か私は前世で殺されたんですかね?と言うと、
合戦か何かでしょうと、宗任さんがこともなげに言う。

はい、よくなりました、とのことで、
これから徐々に体が自然に戻り、
3カ月くらいでまったく変わるとのこと。

実際その翌日から、
どうも鎖骨の奥に鈍い痛みが出たが、
今は何でもない。

それに2、3年前、
ひょんなことからある美容室に取材に行くことになり、
そこの美容室の中年男性は美容室とは別に、
やはり宗任さんのようなことも行なっているということだったので、
私は当時四十肩じゃないな、右肩が五十肩っぽくて、
右の肩胛骨がときどき痛く、
ヘタすれば右肩も上がらなくなりそうな感じだったから、
それを何とかしてほしいと頼んでみた。

するとそのおじさんも、はい、わかりましたと、
私を後ろ向きに立たせ、自分は2、3メートル離れて、
やはり何ごとか私の背中に施していた。

私は、体に接触もせず、
そんな後ろから何ができるのだろうかと訝しんだが、
やがて右の背中の中に、
何かがズズッと入ってくるのを感じた。
ちらっと後ろを見てもそのおじさんの姿は見えない。
離れているからだ。

でも、何かが私の肉体ではなく、
強いて言えばアストラル体?
エーテル体? 霊体?
よくわからないが、
とにかく私の肉体じゃない体の肩胛骨あたりを、
ごそごそといじられている感触がある。

私はおじさんにそう告げると、
はい、今、それをやってるところですと言う。

5、6分だろうか、それが終わると、
どう変わったのかはそのときはわからなかったが、
それ以来、四十肩じゃない五十肩はあとかたもなく消えた。

そういう経験があるから、
宗任さんのしたこともそういうものの一種だろうと思い、
そんなに驚くこともなく、
おそらく体もよくなっていくのだと思っている。

私は仕事柄というか興味柄、
そういう人とはよく会うし、
自分なりの判定もある。

普通の人ではないように感じる、
何かしらの能力を持つ人は本当に多い。
しかし、その能力がどこからくるものかということは、
かなり重要な問題で、
だいたいがいわゆる低級霊というヤツからきていて、
キツネとかヘビだという。

キツネとかヘビと言っても、
低級なエネルギーをそういう動物として認知したり、
表現したり、実際に目で見るだけで、本来はエネルギーだ。

ただ、人類あるいはその人の体験の中で何かしら邪悪なもの、
強烈な恐怖や不安を感じたものがエネルギーの形となって現われだけで、
キツネやヘビ自体が邪悪ということでもない。

怖いということで言えば、生きている人間の怨みつらみが、
死んだものの怨みつらみと合体したような巨大な力、
キリスト教で言えば悪魔のようなものの存在のほうがよほど怖いし、
タチがわるい。

だから、私ごときがちょこちょこ会うような人たちの中には、
そんな大それた悪魔などはないが、
それでも私なりの判断というか、
私の力ではどうしようもない力が働き、
そういう人、言い方を変えれば縁のない人、
お互いに必要のない人とは自然と離れるようになっている。

これは、ほったらかしにして自然にまかせるという意味ではない。
私の場合は、特に自分が興味を持った人は、
必ず自分に関係しているだろうし、
何かしら必要な人だと思うから、
私なりにできる限り仕事なら仕事、
プライベートならプライベートなこととして必要なことを進めるのだが、
人によってはどうにもうまく着地しない。

だから、それもすべてタイミングとか縁とか、
そう言うしかないようなものなのだろうが、
私は個人的にそういう言い方をしたくない。

何か安易な気がするのだ。

しょせんそういうものだよとか、
結局は〇〇でしょ?とか、
そうした思考の派生として、
結論は何?とか、
何が言いたいの?とか、
そういう言い方というか思考は、
自分が理解できない苛立ちから来てるのだと思う。

相手が言ってることがよくわからないから、
早く自分の理解できる範囲での解答を求めているわけだ。

これは本でも哲学的命題でも、
今後の人類のあり方みたいなことでも同じで、
いろいろな人がいろいろな意見や考え方を出し合って、
それぞれに緻密・厳密に検討・検証していく問題であって、
誰もがわかりやすいというか、
納得しやすい結論を早急に求めないほうがいいと思う。

じゃないと、
せっかくよき方向へと進むべき事柄や物事が、
安易なキャッチフレーズやスローガンのようなものに搦め取られて、
むしろ大人数の思考を単純な感情に統一しやすくなり、
ヘンなものに操作される可能性すら出てきてしまう。

だから、極端に傾いて、
人間や社会がおかしくならないようにするには、
やはり人の言葉とか、本に書かれている内容とか、
思想とか理想は、何度も何度も吟味し、
ああでもないこうでもないとやりながら、
丁寧に思考を紡いでいくしかなく、
そういう地道な作業の中にしか本当の希望は現われてこないし、
実現もできないと思うのだ。

なので、早急に解答を求めたり、
結論を急ぎたがる人は、
そういう緻密な思考に向いてないわけで、
そういうことを考えるのではなく、
もっと別の方向でその能力を発揮すればいいと思う。

たとえば、お金を早急に稼ぐことができるとか、
ビルを短時間で建てる方法を考えるとか、
サービスが瞬く間に普及する手法とか、
いろいろあるだろう。

効率を求める思考というのは、
行動や作業をするための明快な理由を構築するということだ。
それはそれで重要なことである。

面倒臭くいけど、
やらなければならないことをやらなければならないような人や、
目的を遂げるために何をしていいかわからない人なんかにとっては、
ありがたい思考法とも言える。

しかし、なかなか明確な言葉にはできない人間の感情とか、心とか、魂とか、
ニュートン力学や相対性理論などのこれまでの科学の外にある世界のこととか、
要するに未知のこととか、新しい創造に関わることに関する思考というものは、
まずそれらに対する感性と言うか、感覚と言うか、認識と言うか、
それらのものを認知することからはじめなければならない。

その認知がなければ、それに対する思考もできない。

つまり、効率を優先する思考とは、
既存のものを整理整頓することのみに関わることであり、
私が今言うところの思考とは、創造そのもののことである。

しかし、思考にはその両面が必要だ。
お互いに両面がそれぞれ補い合えばいいのだが、
そこにしゃしゃり出てくるのが、お決まりのエゴであり、
この場合、感情と言ってもいい。

なぜなら、感情はエゴに影響を受けた思考の結果から生まれるものだからだ。

って、何だか、また書いてるうちにあっちゃこっちゃ行ってしまったが、
宗任さんに話を戻すと、いろいろ宗任さんと話してみると、
私がこれまで考えてきたこととの共通点が多く、
またきちんと話ができる人なので、しばらく話し合いをしてみて、
それをYouTubeにアップしていき(顔は見せられないが)、
みなさんの意見も聞きたいと思ったわけだ。

そして場合によっては、視聴者や読者からの相談も受け、
もちろん相談者の名前は伏せるが、
その相談事を宗任さんがどう解決するのかしないのか、
それもみなさんと共有してみたいと思う。

まもなくアップします。

6 thoughts on “宗任さんの話”

  1.  西塚裕一様
     初めてコメント致します。『おやすぴ』を90回目から視聴しています。そのキッカケで五目舎を訪問させていただくようになりました。
    『宗任さんの話』を拝読し、次の文章が、素晴らしいと思いました。
    「だから、極端に傾いて、
    人間や社会がおかしくならないようにするには、
    やはり人の言葉とか、本に書かれている内容とか、
    思想とか理想は、何度も何度も吟味し、
    ああでもないこうでもないとやりながら、
    丁寧に思考を紡いでいくしかなく、
    そういう地道な作業の中にしか本当の希望は現われてこないし、
    実現もできないと思うのだ。」
    私は「希望」という言葉が好きです。私の今ここの旅は、希望に導かれています。
    「今ここの旅」も「希望」も、宇宙の中に位置しています。宇宙は、生きていますから、宇宙の本質は、無限の生命力だと思います。
     表現を変えれば、宇宙の本質は、無限の多面体だと思います。一つひとつの「面」が、多様な個人に関わって深い意味があると思います。しかも、「面」によっては、次元が異なっている。そのような無限の多面体を、今ここの旅で一つひとつ味わっていくには、「ああでもないこうでもない」と検証するプロセスが不可欠だと思います。
     そこから生み出される、五目舎が提示してくださる思考の営みを、これから少しずつ楽しませていただきます。
     また、次の文章には、さわやかに笑ってしまいました。
    「って、何だか、また書いてるうちにあっちゃこっちゃ行ってしまったが」。
     私は、「あっちゃこっちゃ」も大好きですので、よろしくお願い致します。

    1. 好本様

      コメントありがとうざごいます。

      >宇宙は、生きていますから、宇宙の本質は、無限の生命力だと思います。

      そのとおりですね。
      その生命力の一部である私たちがどう生きていくのか。
      つまり、どういう現実を創造していくのか、
      ということですね。

      ああでもない、こうでもないということは、
      ああでもあるし、こうでもあるということとほぼ同義です。

      私たちは毎日、
      数限りない “選択” をしながら生きているとはよく言われます。

      問題は、
      その選択がすべて自分の意志や “理性” によるものではなさそうだ、
      ということです。

      自分の理性や自分の意志など、
      自己決定に関することに執着する人たちは、
      わりとその点を見逃しています。

      ベンジャミン・リベットの説を持ち出さずとも、
      人はフツーに 近未来の“予感” を得たり、
      “知らぬ間に” 決定・行動するなど、
      理性が判断する前に何事か指向性を確保していることは、
      科学的・医学的にも証明されています。

      自分の意志とか理性を信じる前に、
      自分の中に潜む “オートマティズム” と、
      “オートポイエーシス” について、
      もっとよく検証するべきかと私は思っています。

      西塚

  2. 西塚裕一様
     ご返事、ありがとうございます。
    「ああでもあるし、こうでもある」という可能性の探究を、とてもおもしろく感じます。その可能性は、これはこうでなければならないという狭い認識の枠を超えて(多様な個性の振り幅を持つ)「あなた」と「私」が豊かにふれあう自由度を拡大してくれると思います。また、そこから生まれる(希望を内包した)思考が、未来を創造する多様な選択肢を提供してくれると思います。
     私は、西塚様の「自分の理性や自分の意志」という言葉から、それを超えたオートマティズムやオートポイエーシスと一種響き合う『失われた時を求めて』の著者であるマルセル・プルーストの「無意志的想起」という言葉を思い浮かべました。
    『きみにその力があるなら、私の通りがかりをつかまえよ、そして私がきみにさしだす幸福の謎を解くことにつとめよ。』
     『失われた時を求めて10 第七篇 見出された時』(P317)ちくま文庫
     オートポイエーシスの「オート」。これは、「自動」を意味するオートマティズムの「オート」とストレートに響き合っているのに、ギリシャ語での「オート」が「自己」を意味するのは、実におもしろいと思います。
     ところで、自分にとって理解が困難な本から引用するのは恐縮至極ですが、東晃史著『脳の主人』に次の解釈が述べられています。(P17)。『睡眠化と覚醒化の2つのポテンシャル(確率の振幅)が、脳に対発生し、この確率の振幅により脳がアクセスされて、「情報」が生まれる』。そこにある関係。『脳を舞台にして、ラプラスの魔物が、情報を創り出す』。次のステップ。『魔物の挙動の法則を解明すること』。
     文学の角度から「魔物の挙動」を体験した人物の一人がプルーストなのかもしれません。
    『しかし、まえぶれがやってきて、われわれを救ってくれるのは、ときには、すべてが失われたと思われる瞬間にである、人はすべての扉をたたいた、どの扉もどこにも通じない、ただ一つ人がはいることのできる扉、百年かかってさがし求めても空しかったであろうただ一つの扉に、それとは知らずに突きあたる、するとそれはひらくのだ。』
     『失われた時を求めて10 第七篇 見出された時』(P314)
     好本健一

    1. 好本様

      コメントありがとうございます。

      >その可能性は、これはこうでなければならないという狭い認識の枠を超えて(多様な個性の振り幅を持つ)「あなた」と「私」が豊かにふれあう自由度を拡大してくれると思います。また、そこから生まれる(希望を内包した)思考が、未来を創造する多様な選択肢を提供してくれると思います。

      まったくそのとおりだと思います。
      その「(希望を内包した)思考」というものが、
      とんでもなく重要ですね。

      多くの人が、
      それがどういうものかわからなくなっているからです。

      >「自分の理性や自分の意志」という言葉から、それを超えたオートマティズムやオートポイエーシスと一種響き合う『失われた時を求めて』の著者であるマルセル・プルーストの「無意志的想起」という言葉を思い浮かべました。

      なるほど。
      私が「自分の意志とか理性」と言い、
      それと「オートマティズム」や「オートポイエーシス」を持ち出して、
      もっと検証するべきだと言ったのは、
      自分の意志で何事かを決定したのだとか、
      自分の理性によって正しく判断したのだということを、
      無批判に信じている態度を疑ったほうがいいという意味です。

      自分の理性によって判断し、
      自分の意志によって決定したと思っていても、
      それまでの慣習やクセによって、
      自動的に反応してしまっただけなのかもしれないわけです。

      コリン・ウィルソンはそれを「ロボット」と呼びました。

      私はそうした意志や自律的な判断力を持たないロボット的なものを、
      「オートマティズム」と言いました。

      そして、オートマティズムとは違うものとして、
      自律的な自己生成力である「オートポイエーシス」を対置してみたのです。

      このふたつをよく検証・探究することなくして、
      「自分の意志とか理性」などとは、
      軽々しく言えないのではないか?
      というちょっとしたイヤミですね(笑)。

      そしてその検証は、
      コリン・ウィルソンもそうですが、
      いろいろな人がやってきています。

      また、プルーストの「無意志的想起」に関しては、
      私も非常に興味を持っています。

      先のコリン・ウィルソンもあちこちの著作で、
      いわゆる「プルースト体験」について触れています。
      ウィルソンが最後まで興味を示していた「至高体験」に通じるからです。

      この至高体験は、
      私がブログでバカのように繰り返し記事にしている、
      ヴァジム・ゼランドの主張する内容に、
      かなり重要な要素として絡んでいると思っています。
      決定的と言ってもいいでしょう。

      プルーストにしても、
      『失われた時を求めて』第一巻の初め数十ページの部分で、
      例のコンブレーを追想していたあとに、
      紅茶に浸したマドレーヌを口に運んで、
      とんでもない至高体験をし、
      結局あの長い長い小説を書くことになりました。

      引用された以下の部分、

      「しかし、まえぶれがやってきて、われわれを救ってくれるのは、ときには、すべてが失われたと思われる瞬間にである、人はすべての扉をたたいた、どの扉もどこにも通じない、ただ一つ人がはいることのできる扉、百年かかってさがし求めても空しかったであろうただ一つの扉に、それとは知らずに突きあたる、するとそれはひらくのだ。」

      この十数行あとに、
      プルーストは再びあのマドレーヌの至高体験に触れて、

      「それがなぜかを知らないままであきらめるようなことがあってはならない」

      と言うわけです。

      これは最終巻の第十巻に出てくる部分ですね。
      プルーストは第一巻からずっと、
      通奏低音のように鳴り響く「至高体験」とともに、
      書き綴ってきたのだと思います。

      好本様がプルーストを引用されたように、
      私も人の新しい意識・精神の形というものの探究に関しては、
      「あきらめるようなことがあってはならない」
      と思っています。

      ご紹介の東晃史氏は存じ上げておりませんでした。
      大変、興味深い内容なので、
      さっそくアマゾンで注文しました。

      ありがとうございます。

      西塚

  3. 西塚裕一様
     私の勘違いをご指摘くださって、ありがとうございます。私の読書体験は、とても限られたものなので、今後、豊富な読書体験と思考経験を積み重ねてこられた西塚様から、多方面にわたって私のコメントに浮上する勘違いをご指摘いただきたいと思っております。検証すべき第一の対象は、常に私自身だと思います。よろしくお願い致します。
     オートマティズム=ロボット。その認識はゼロでした。(一応、ネットでオートマティズムを調べたのですが、最初の情報が、アンドレ・ブルトンとの絡みで説明されていたのでシュルレアリスム関係のものかと思い込んでしまいました。また私が「オート」から思いをめぐらせていたのは、理性や意識が持つぎこちなさを超える「自動」性、不要な思考を介在させない滑らかな行動、仏教の「自然法爾(じねんほうに)」というものです。)ところで、人間の、というよりも私個人の、自覚のないロボット化が、ドジな私をさらにズッコケさせることにたいしては常に鋭く(といってもスキだらけなんのですが、それでも姿勢としては常に鋭く)見つめていきたいと思っています。
     ヴァジム・ゼランドについては、五目舎で初めて知りました。学ばせていただきます。
     東晃史氏の著作は、ほとんどチンプンカンプンなのですが、私の単細胞的思考回路を刺激するために読んでいます。今後、西塚様の鋭い考察に期待致しております。
     スピリチュアルの世界で、ワンネスが語られていますが、「覚醒状態」と「睡眠状態」に絡めて東晃史氏は「一即全」について述べておられます。これまた難解ですが。
    「本編の「2系一対の時計のモデル」における、「1つの時計」は、「覚醒状態」に、また、「もう1つの時計」は、「睡眠状態」に、それぞれ、対応している。従って、「2系一対の時計のモデル」は、「覚醒/睡眠」現象を基礎にした、「階層の間をつなぐモデル」である、と考えればよい。そして、「3階層の結合」関係が、「モデルのダイナミクス」の「中」に、含まれているのであった。元来、「時計のモデル」は、シュレーディンガー方程式の中に、『潜んでいる性質』を、具体化したものである。従って、「一即多」ならぬ「一即全」の性質を持っている。」
    『アインシュタインの悩みとファインマンの悩みの解消に向けて―宇宙と意識』P192
     好本健一

  4. 好本様

    コメントありがとうございます。

    もろもろ、おそらく好本様のかいかぶりかと思います。
    私は読書量も思考云々に関しても大したことはないです。

    まあ、いずれはお里も知れるし、
    化けの皮も剥がれるでしょうから、
    かまいませんが(笑)。

    西塚

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