だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

お色直し

いきなりサイトの模様替えとなった。前よりは見やすくなったと思うのだが、いかがなのものか?

サイトをスタートさせて早 2 年ってことで、そろそろリニューアルというほどでもないが、今月 26 日発売の角田よしかず氏の書籍制作の件もあり、その書籍に付随する提案企画商品もあるので、装いも新たにってことで、知人のウェブデザイナー兼、ライター兼編集者に頼んだのである。昨日。

このサイトは WordPress のテーマを使用していて、そのテーマを今回変えたわけだが、昨日の午後に水戸芸術館で打ち合わせをし、あっと言う間に昨日の夜に移行できるのだからすごい。私にはよくわからない世界だ。

関係ないが、初めて訪れた水戸芸術館はなかなかよかった。イギリスの現代美術家・デイヴィッド・シュリグリー(写真)の個展が催されていたが、私は現代アートには明るくないが、シュリグリーの作品はいかにもイギリス人のシニシスム、ブラックユーモアにあふれるクリティカルなもので、この時代にしては意外とど真ん中な感じがあって、そのぶん骨太にも感じられるとも言えるが、手法としてはコンサバな感じもあったな。

それでも個人的には、やはりドローイングが一番楽しめたし、あとは長ぐつやタマゴの陶器のオブジェが面白かった。

ペインティングはイマイチで、アニメーションは作品によってはテーマに共感したが、それよりもアニメの中の人物の “動き” に、シュリグリーの独自性を感じた。

アートから醸し出される作家のオリジナリティというのは、やはり話しているときのその人の “身ぶり” とか “口調”、あるいは “歩き方” とか、高校の体育の授業で走り高跳びをするときの、同じベリーロールや背面飛び、正面飛びでも、それぞれの飛び方の “クセ” のようなもので、その人独特のものとしか言いようがないものである。

って、何の話になったのか。

ともかく、サイトがお色直しをし、2013年からおのれの余生をおのれの使命に沿って生きると決め、でも、もちろんおのれの “使命” って何だ?と世間にアホ面を晒しながらも、人とああだこうだと “遊んで” いく。つまり “探究” していく道半ばにおける、気分転換なのである。

ブログもそうだが、26 日発売の角田よしかず氏の書籍の内容も、実はビリー・マイヤーの説く “霊の教え”、足立育朗氏の “波動の法則”、それから “カタカムナの教え” などなどまだまだあるが、さまざまに別個にあるかのごとくの “知” が、ここにきて連関していたらしきことがわかってきて、ちょっと驚いているわけだ。

ここにきてというか、最初から関係しているのかもしれないが、あれは小島信夫のどの作品だったか、『寓話』だったか『墓碑銘』だったか、ひょっとして『菅野満子の手紙』だったかもしれないが、ってどんだけ自信がないのかって話だが、小島信夫の何かの小説のくだりに、まったく無関係に見えるものごとの間に、実は連関、つながりがあったのだとわかる瞬間というのが、一番大切だだったか、感動するだったか忘れたが、そういうような表現があって、私は心の底から共感した覚えがある。あの感覚に近い。

今度、その小説のくだりを探して紹介するが、たしかに突如降りてくる “閃き” や “直観” によってもたらせる、数学的発見や新商品、芸術作品などもものすごく大事だが、普段の生活の中で、何気なく見過ごしているバランバランだと思っていたものが、実はそれぞれが密接に関連していたのだということにハタと気づき、今までの世界を上書きするかのように、まったく新しい世界として絢爛たる様相を立ち上がらせてくる、という発見のほうが人は感動するのではないだろうか。

そしてそれは、数学や物理のような学問は前提として必要としない。おそらく誰にでも訪れる可能性のある発見だ。また、その発見は一瞬にして自分の世界を変えてしまうこともできる。

当たり前だろう。それまでの世界における、ものごととの間の “関係性” が変わってしまうのだから、敵が味方になったり、憎しみが愛になったり、無関心だったものにシンパシーを感じたりするわけだ。

人間は “普通” に “自然” に生きていれば、日々、そうした発見だらけなのだと思う。発見しまくってしまくって、毎日毎日が楽しく、いくら時間があっても足りないくらいなのではないだろうか。本来は。

そんな話にも通じるのが、今度の角田氏の書籍でもあるし、私も個人的に今後ブログに書いていこうとすることなのである。

ありゃ、「知っているものたち」の続きまで書けないな。

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