これから『おやすぴ』を収録しに八王子にいく。
いつも『おやすぴ』では行っていた居酒屋だが、ちゃんと収録できるかな。

でも、久しぶりの八王子なので楽しみだ。けっこうつまみがうまいんだよね。

一応、『おやすぴ』の100回記念なのだから、どこか八王子の粋な料亭ででもやろうかと思ったのだが、2、3年前の私なら迷うことなくそうしたが、事情が変わった。

手許不如意ということもあるが、そういうお金の使い方がバカバカしくなったのである。それにヤスさんこと高島康司氏も居酒屋が好きだし。

「事情が変わった」と言えば、昨夜、近所の居酒屋で飲んで、酔って帰ってテレビをつけたら、ケーブルテレビで『EYES WIDE SHUT』をやっていた。

何度も観た映画だし、ブログにも何度か書いたが、最後のほうだったがやはり観てしまった。

未鑑賞の人は微妙にネタバレになるからアレだが、ちょうど貸衣装屋のオヤジにビル(トム・クルーズ)が支払いをする場面で、支払いをしていると貸衣装屋のオヤジの娘が出てきて、ビルにあいさつをする。ビルは前の晩に娘に店で会っているのだ。

前日の深夜、ビルは衣装を借りに店に来る。すると娘が店の中でふたりの日本人と、いかがわしい行為をしようとしているところに出くわす。
オヤジに見つかり、娘と日本人ふたりはどやされる。オヤジは警察を呼ぶと怒っている。

そんなことがあったから、ビルは娘を覚えていたのだ。

そうしたら娘に続いて昨夜の日本人もぞろぞろ出てきて、オヤジに客然とした態度であいさつをかわし、店を出ていく。

オヤジもニコニコしている。ビルは唖然として、昨日、あんたは警察を呼ぶとか言ってなかったっけ? みたいなことを言う。そのときオヤジが言うのだ。

Well, things change.
事情が変わりまして…

で、また御用の向きは何なりとと言い、衣装のことに限らず…と言って、
隣にいる娘の肩を抱き寄せるのである。ビルが呆然とする…みたいなシーンだった。

しかし、この映画は不気味だ。不気味と不思議の間くらいか。ヘンである。

どこかヘンだ。

ご存じのように、スタンリー・キューブリックの遺作であり、公開される寸前にキューブリックは亡くなっている。

よく言われるように、フリーメーソンの儀式めいたシーンもあるから、陰謀論のエジキになっている映画でもあるのだが、ヘンなことはヘンなのである。

脚本もヘンだし、セリフがいちいちヘンだ。前のブログでどこまで書いたか忘れてるが、重要な映画だと思う。何かのメッセージが隠れている。

一応、原作はシュニッツラーの小説だが、英訳は持ってるが、私はいまだ読んだことがない。

だいたいがタイトルからして形容矛盾だ。「大きく目を閉じる」とはどういうことか。

映画では絶えずシモネタというか、セクシャルなセリフや場面が出てくる。登場人物全員が色情狂にでもなったかのようだ。

そして登場人物たちが話す中で、何度も繰り返し出てくるフレーズ、

to be perfectly honest…
(正直な話…)

ほかにも「夢」とか「現実」、「仮面」など、いろいろとキーワードというか、象徴的な記号が散りばめられている。

そう言えば、シュニッツラーの原作の小説のタイトルは、「DREAM STORY」だ。

ヒットした映画だから観た人も多いだろうが、まだ観たことがない人は観てください。ヘンだと思うから。

オープニングのショスタコービッチのワルツからして、どこか不穏なものが漂っているし。これはよく言われる夫婦の嫉妬の話とか、本音と建て前とかの話ではないぞ。たぶん。

前にも書いたが、『EYES WIDE SHUT』のアナグラムとして、『SEE HIS DUTY』に気づいたのだが、やりすぎかしら。

おっと時間なので、『おやすぴ』の収録が終わったら、また夜に続きを書きます。

5 thoughts on “「思い込み」のこと”

  1. 西塚裕一様
     スタンリー・キューブリックとは縁が薄い私ですが、『EYES WIDE SHUT』はなぜか一回見ています。縁が薄いので記憶も薄いままになってますので注文して見てみたいと思います。
     とりあえず今日は『EYES WIDE SHUT』のタイトルだけから考えてみます。
    『EYES WIDE SHUT』については、英語ができない私は、三つの単語の意味を調べました。
     そして日本語的思考法で『EYES WIDE SHUT』について考えてみました。
     英語的思考法ができない日本人が、勘違いしているかもしれないけれど、日本語的思考法で大雑把に受けとめてみるとこうなるという見本です。
    『EYES WIDE SHUT』を圧縮すると『EYES 』になると思いました。
     つまり『EYES WIDE SHUT』とは、『WIDE SHUT』された『EYES』の世界。
     日常の眼差しからは、大幅に隔離された、不可視の世界。
    「to be perfectly honest」と言えば、真摯に会話しているように見えますが、その会話をする人物は、自分の位置が、『WIDE SHUT』された『EYES』の世界なのか、それともその向こう側の世界なのか、どこまで自覚して会話しているのかなと映画の記憶が薄いまま思いました。
     キューブリックの映画は、『WIDE SHUT』された『EYES』の向こう側を、幾つかの角度から見つめる趣向ではないかと今のところ考えています。
     ところで『EYES』から『WIDE SHUT』されたものは、いろいろあると思います。
     私の本棚に『暗号は解読された 般若心経 改訂版』という本があります。
     タイトルから考えると、日本で多くの人びとに親しまれてきた般若心経には、暗号が組み込まれていて、それはこれまで解読されてこなかったということになります。
     その解読されていない般若心経も、『EYES』から『WIDE SHUT』されたものの一つだと思います。
     また「灯台もと暗し」という言葉があります。
     結論から言えば「もと」を照らせない光は、遠くも照らせないと思います。
    「もと」には、「元」という意味もありますから、ここでは、ひとつの趣向として「もと」を光源と考えてみます。
     そこから「灯台もと暗し」を考えると、「灯台の光源は、暗い」という変な意味になります。
     私は、変ではないと思います。
     自分の紆余曲折の旅を振り返れば、それが現実だと思います。
     暗い光源から出る灯台の光は、足もとも、遠くも、明るく照らし出すことはできないと思います。
     その結果、道に迷います。
     だから紆余曲折の旅になります。
     そうならざるを得ないのは、灯台の光は、すべてを明るく照らし出しているという「思い込み」があるからだと思います。
     その「思い込み」に立脚して旅を続ける限り、道に迷っていることに気がつきません。
     その「思い込み」に対して、あんたは主役じゃないんだから脇にどいてくださいと声をかけてみます。
     そうしますと、光源から「思い込み」というフィルターが外されて、そこから、暗くない、まぶしい光が解き放たれます。
     実際は、フィルターは何重にもなっていると思いますから、「あんた、どいて」という営みは何回も繰り返されることになります。
     灯台の光源もまた、『EYES』から『WIDE SHUT』されたものの一つだと思います。
     決定的なひとつ、とさえ思います。
     灯台の光源の守り人は、たとえばソクラテスだと思います。
     灯台の光源が、当面、明るく照らし出そうとしているのは、善と悪、陰と陽、などの二極的価値観が統合されて「太極」になるプロセスだと思います。
     今、時代は、その方向に大きく動いていると鼻息荒くつぶやいてみると、その時代の片隅で、毎日、アタフタしている自分がすぐに見えてきますので、まずは大きく開いた鼻の穴を普通サイズに戻して、高血圧の原因になる荒い鼻息を整えて、それから、ということになります。
     好本健一

  2. 好本様

    >灯台の光は、すべてを明るく照らし出しているという「思い込み」があるからだと思います。
     その「思い込み」に立脚して旅を続ける限り、道に迷っていることに気がつきません。

    そう思います。
    人間はなかなか身近な人(妻や子、友人)や、
    自分のことはわかってなかったりしますね。
    世の中のことはわかってるつもりでも。

    西塚

  3. ※映画「アイズ・ワイド・シャット」未鑑賞の方はネタバレにご注意を(西塚) 
     

    西塚裕一様

     映画『eyes wide shut』を見ました。
     物語とは、映画であれ、文学であれ、本来、豊かな多義性のおもしろさを、様ざまな受けとめ手が、自分の旅の関心をもとに、独自に受けとめ、味わうものだと思います。そこで、私は、自分の内観の旅に、『eyes wide shut』が、どのように関わってくるのかという関心から、いろいろ類推し、考えてみました。

     まず、結論。
     映画『eyes wide shut』とは、「本来の眼差しを回復する冒険・序章」だと思います。

    次に、全体のまとめ。
     ウィキペディアによると「eyes wide shut」は「eyes wide open」(大きく見開いた目)のモジリと書いてありました。
     そこで、意訳します。
     A「eyes wide open」=「しっかりと対象を見つめる眼差し」。
     B「eyes wide shut」=「大幅に閉ざされた眼差し」。
    (では、「A」は、閉ざされていないのかと言えば、そうではない、問題点を孕んでいると思います。)
     映画を視野に入れて「eyes wide shut」に対して二種類の意訳を試みました。
     α 日常(現れているもの)から非日常(隠されているもの)を大幅に隔離(wide shut)させる眼差し(eyes)。
     β 非日常から日常を大幅に隔離(wide shut)させる眼差し(eyes)。
    映画『eyes wide shut』は、AとBとαとβの眼差しが交錯するワンダーランド。
     そのAとBとαとβの眼差しには共通するものがあります。
     それは、《本来の眼差しを大幅に隔離させる何か》です。

     では、ここからは具体的に。
     私は、映画『eyes wide shut』をアリスの物語として見ました。
     物語の始まりから、アリスは、何かに苛立っているように感じられます。
     物語が進むと知らされますが、その苛立ちは、9年間に及ぶ結婚生活からもたらされたもの。そうすると、その苛立ちは、夫であるウィリアムの眼差しからもたらされたものになります。
     ウィリアムは善良な夫として描かれていますから、彼の眼差しは、「A」だと思います。
     しかし、アリスは、夫の眼差しに《本来の眼差しを大幅に隔離させる何か》が潜んでいて、自分を、ありのままに見つめてくれないと苛立っているように感じられます。
     本能的直感が鋭いアリス。
     苛立ちながら、錯綜する眼差しのワンダーランドをさ迷い続けるアリス。
     パーティーに出かける身支度を終わらせようとして夫に『わたし、どう?』と尋ねるアリス。夫からは『完ぺきだ』と声をかけられながらも、積み重なった苛立ちが解消されないアリスは夫に言葉を返す。
    『見もしないで』。
     この字幕のニュアンスを私なりに表現し直すと「よく見もしないで」となります。
     性急な性格をしている私は、「eyes wide shut」を「よく見もしないで」と意訳したくなります。アリスの苛立ちには、通奏低音としてこの言葉が響き続けているように感じられるからです。

     アリスとウィリアムがマリファナを吸って会話するシーンでアリスは『あなたの正体を確かめたいのよ』と言います。そのアリスの台詞の前にウィリアムは『君を愛してる』と言っています。
    (以下、二重カギ括弧『』は、映画の字幕の台詞で、カギ括弧「」は、それを私なりに受けとめ直したものです。)
     アリスの台詞は、「あなたは、《あなたの本心からの愛を込めた眼差しを大幅にシャット・アウトする何か》を超えて、本当に私を見つめようとしているのか、それを確かめたいのよ」と言っているように感じられます。
     また別のシーンで、アリスが心を動かされた男性について語りながら、『もし、あの人が、私を欲っしたら、それが、たったひと夜限りでも、すべてを捨てられると思った』と語った言葉。私は、それを次のように受けとめました。「わたしをありのままに見つめる眼差しがワイドにシャット・アウトされた世界に取り残されたわたしの虚無感。それに満たされた深刻な苛立ちから解放されるなら、わたしの暮らしのすべてを捨てられると思った」。
     そして『その時、わたしは、あなたを、愛しながら、胸が痛んでた』とアリスは語る。それは、「わたしがあなたと結婚したのは、私を真にありのままに見つめてくれるあなたを愛したから。なのに、あなたは、ありのままのわたしを無自覚的にワイドにシャット・アウトする側にいることを、結婚後にわたしは知った。あなたは、真のわたしに寄り添ってはくれない。それでいて、あなたはわたしを愛してる。その隔たりにどうしようもない苛立ちを感じる。そして、期待を込めて、かつて愛したあなたの心が、今のわたしからは手の届かない場所にいることを思い、その愛を今は二人で共に深められなくなったと感じて胸が痛んだ」と語ったように感じられました。

     アリスは、精神的に危機的な状況に陥る夢の中でウィリアムと一緒にいて服が消える体験をしますが、この「服」を《本来の眼差しをワイドにシャット・アウトする何か》と考えてみました。
     夢の力学は、アリスに《本来の眼差しをワイドにシャット・アウトする何か》が消えて、そこに剥き出しになったものを体験する覚悟はできているかと確認しているようです。
     苛立ちに引きずり回されて平穏さを失っていたアリスは、剥き出しにされた、本質的な何かに直面する姿勢が整っておらず、「服」の消滅を夫のせいにして怒ります。
     消えた「服」を捜すために夫がアリスの視界から立ち去ると風景が『まるで違う世界』に、素晴らしい世界になります。それは、苛立ちのパートナーが消えて、心に少し余裕ができたために《本来の眼差しをワイドにシャット・アウトする何か》が消えたことを喜ぶ思いが発生し、それが夢に投影されたからだと思います。
     しかし、そこに、以前心を揺さぶられた男性が現れてアリスを笑います。それは、さっき狼狽したアリスには《本来の眼差しをワイドにシャット・アウトする何か》を越えて、これまで全身で見つめたことのない本質的な生命の躍動を、裸の意識で見つめる意志が薄弱であることを感じて笑ったように思われました。
     だからアリスは、その意志を再確認するために(わたしは、あなたが笑ったような存在ではない、ということで)夢の中で彼とセックスしたのだと思います。しかし、彼は、かつて愛したウィリアムではない。苛立ちからは解放されたい。でもわたしは、夫ではない男性とセックスしている。わたしの愛は、どこにあるのか。すべてが混乱して絶望的だ。そう感じるアリスの内面が夢に反映されたのか、『ひどすぎる』夢になります。『山ほどの男たち』とファックするアリス。彼女は、自分の行いに心を引き裂かれます。
     夢の中で、そのアリスを見る夫に彼女があざけりの笑い声を大声で上げます。それは、絶望に引きずられている自分を、何もしないでただ見ているだけの夫への反発と、でも助けて欲しいという思いが絡み合ってねじ曲がった心からほとばしった、挑発的な笑い声のように感じられました。
    「あなたが男なら、そしてわたしの夫なら、そこでじっとしていないで、何とかしてよ!あなたは、これまで、わたしを愛していると言いながら、疎外されたわたしの側にはいないで、いつもそうやって、そちら側からわたしを見つめていたのよ。それがあなたの正体よ。わたしは間違っているかしら?そんなことはない。わたしは正しくあなたの正体を見抜いたのよ。これが笑わずにいられる?わたしは、そんなあなたを愛していたのよ。大笑いするしかないじゃない!」
     しかし目覚めたアリスは、その振る舞いが、あまりにシニカルすぎたと感じているかのように夫を抱きしめ哀しみに打ち拉がれます。

     怪しい仮装パーティーに友人からパスワードを聞き出して参加したウィリアム。パーティー会場に入った彼は、マスクをした女性から今すぐパーティ会場から去るように警告され、その後、儀式の主催者から仮装パーティーに潜入したことを難詰され、それからあとに起こった後日譚をも含めてウィリアムの意識には非日常の世界が侵入し、深く彼を戸惑わせます。
     彼の戸惑い。人間存在の闇を見たというショック。ウィリアムは、その闇を通して、間接的に《本来の眼差しをワイドにシャット・アウトする何か》にふれたと思います。
     戸惑いながら彼が帰宅すると、アリスは、彼が仮装パーティーでかぶったマスクをベッド置いて眠っている。
     私には、そのアリスのパフォーマンスは、「ウィリアム、あなたは、時が熟したのよ」と語っているように感じられました。
     そのパフォーマンスを見て泣き出したウィリアムは、彼の泣き声で目覚めたアリスに、善良な夫の役を降りて、それまでアリスに秘密にしていた嫉妬や仮装パーティーへの参加について『すべて話すよ』と語ります。
     それから物語は結末へと向かいます。

     三人で娘のクリスマスの買いものに出かけて、ウィリアムは店内でアリスに『僕たち、どうする?』と尋ね、彼女は答えます。『どうってわからない。きっと、わたしたち、感謝すべきなのよ。何とか無事に、やり過ごすことができた、危険な冒険を。それが事実であれ、たとえ夢であれ』。
     人間存在の闇を見た夫は、本能的に《何か》の片鱗にふれたと直観したアリスは、人生のパートナーに「真の旅の仲間」を見出して苛立ちから解放されたように思います。
     しかし、苛立ちから逃げないで、困惑の中でその苦しみを生き続けたアリスには、夢の中で自己破綻の危機にさえも直面したのでした。アリスの苛立ち。それは、彼女にとっては「事実」。しかし《何か》の存在を鋭く実感できない夫にとって、それは、根拠のない「夢」のようなもの。『きっと、わたしたち、感謝すべきなのよ。何とか無事に、やり過ごすことができた、危険な冒険を。それが事実であれ、たとえ夢であれ』。
     アリスは、真の旅の仲間に向かって語ります。『わたしに分かるのは、ひと夜の事なんて、まして生涯のどんな事だって、真実かどうか…』。
     本来の自分という存在を拒む眼差しを成り立たせている《何か》に向かって、たとえ苛立ちにさいなまれるというネガティブな対応しかできなかったのではあってもアリスは、その対応の核にある「本来の眼差しの光の中に出たい」という本能に育てられて成長したように感じられます。
     地上の旅のすべてが、『真実かどうか』分からなければ、どうする?
    『でも大切なのは、今、わたしたちは起きてる。そして、これからも、目覚めていたい』と、その対処法を語るアリス。彼女は、「目覚めているということは、《何か》を超えて、本来の眼差しを求めること」と言いたいのかもしれません。
     ウィリアムは、一種の夢のようなものとしてしかアリスの苛立ちを受けとめられなかった自分を反省して『夢もまたすべて、ただの夢ではない』とアリスに和解の言葉を述べます。しかし《何か》という異物の閉鎖性に長い期間苦しめられた体験のないウィリアムは、
    『これからも、目覚めていたい』と語るアリスに『永遠に』と言葉を返します。
     真の旅の仲間である夫に、距離を置くことなく寄り添ってほしいアリスは、《何か》が意識の奥に存在するから、それが二人の冒険をかけがえのないものにしていると感じているような夫に「その言葉は嫌いよ」と語ります。
    「夢を、ただの夢ではないものにしている《何か》は、通過点のようなものなのよ。それが、わたしたちの旅を永遠のものにしてるんじゃない。わたしは、あなたと一緒に、その通過点を通り過ぎてしまいたいの。そんな《何か》に永遠性を感じる錯覚を、二人で超えていきたいの。だから、わたし、永遠に、なんて、そんな言葉は嫌いよ。」

     そして最後にアリスは語ります。『でも、あなたを愛してる。だから、わたしたち大事なことを、すぐにしなきゃダメ』。『何を』と尋ねるウィリアムに、以前の苛立ちを蘇らせたようなアリスは辛辣に答えます。『ファック』。
     その『ファック』について。
    「目覚めているためには、ウィリアム、わたしたちは、錯覚という服を脱ぎ捨てなければならないわ。そして、二人とも裸になって、ひとつになるの。生涯のどんな事だって、真実かどうか分からないんだから、大切なことは、常に目覚めていること。《何か》が視界を曇らせるのだから、生涯にわたって、《何か》が核となった錯覚を脱ぎ捨てていかなければならないわ。その振る舞いの中に見出すものは、本来の眼差し。それは、あなたの本質から出てくる眼差し。そして、私もその本質を共有している。あなたの眼差しは、私の眼差し。わたしたちは、本来、ひとつ。だけど、距離感を持っているのが現実。愛し合っているわたしたちの現実は、悲しいことに離ればなれなのよ。だから、とにかくこの今の一瞬において、わたしは、その距離感を超えるように努めたいの。あなたと共に。愛するあなたと共に。でも、私には、苛立ちの後遺症も残ってる。だから、どうすべきかという問いに対する答は、シンボリックなものだけど、これまでの怒りの余韻を残した剥き出しの表現になるしかないわ。それはファックよ」。
     好本健一

  4. ※映画「アイズ・ワイド・シャット」未鑑賞の方はネタバレにご注意を(西塚)
     
    好本様

    コメントありがとうございます。
    というか、もはやコメントではないですね。
    ご見識ある論考、ありがとうございます。

    すばらしいと思います。
    好本さんが映画から得たテーマ、

    >「本来の眼差しを回復する冒険・序章」

    の物語ということですね。
    「EYES」を「眼差し」と持ってきたところが興味深いです。

    「眼差し」には意識的にせよ、無意識的にせよ、
    隠された「意志」がありますね。
    私はその意志が気になります。
    この映画は私たちに、
    その意志の存在を気づかせる作品だと思っています。

    >私は、映画『eyes wide shut』をアリスの物語として見ました。

    なるほど。
    私はビルとアリス、それぞれふたりのモノローグの世界に焦点をあて、
    ふたりのダイアローグを通して、
    好本さんがおっしゃる「眼差し」が浮上してくる物語という側面を見ます。

    たしかに「衣服」の使い方は象徴的です。
    映画の冒頭からして、
    アリスが服を脱ぎ捨てるシーンからはじまります。
    そしてビシッとタキシードに身を包んだビルが登場してきます。

    アリスの夢の話に出てくる「服」。
    そして仮面を被った秘密の仮装パーティー。
    ビルはパーティーに「貸衣装屋」で「衣裳を借りて」参加するわけです。

    パーティーに参加するパスワードは「FIDELIO」。
    ベートーベンのオペラですが、
    これは妻が男に変装して牢屋にいる夫を助けに行く話です。

    しかしその牢屋には政治犯がたくさんいるし、
    FIDELIOには「忠誠」という意味もあれば、
    「同盟」という意味にもつながるので、
    いろいろとややこしくもなるわけです。
    例の秘密パーティーは、
    忠誠と同盟で結ばれた牢屋みたいなものとも言えます。

    いろいろと詮索するビルにビクターを言いますね。

    すべてシャレード、ステージだとしたら?

    要するにビルが経験した一連の出来事は、
    すべて喜劇、舞台、フェイクだったと言うわけです。

    死ぬヤツは死ぬし、
    そんなことは今までだって当たり前にあったし、
    これからだってそうだとも言うわけです。
    ポンとビルの肩に手をおいて。

    貸衣装屋の店名が「RAINBOW」。
    ビルがビクターのパーティーでふたりのモデルに誘惑され、
    どこへ行くんだ?とたずねると、
    モデルたちは「the rainbow ends」と言います。
    虹のふもとに行こうと言うわけです。

    この世界は秘密の同盟が作り出した幻の虹の世界で、
    私たちは貸衣装屋が貸し出す衣裳を身にまとって、
    虹の世界で夢を見ているだけなのかもしれません。

    >期待を込めて、かつて愛したあなたの心が、今のわたしからは手の届かない場所にいることを思い、その愛を今は二人で共に深められなくなったと感じて胸が痛んだ」と語ったように感じられました。

    好本さんは小説をお書きになったらいかがでしょうか。
    アリスとビルの心理小説的な描写は見事ですね。

    たしかに冒頭のアリスの脱衣からはじまるだけに、
    この映画はアリスの物語なのかもしれません。

    >映画『eyes wide shut』は、AとBとαとβの眼差しが交錯するワンダーランド。

    まさに、不思議の国のアリス、というわけです。

    いや、この映画は語ることが多すぎて止まらなくなります。
    このへんで(笑)。

    西塚

  5. 西塚裕一様

     ご返事、ありがとうございます。また「未鑑賞の方はネタバレにご注意を」のご配慮、ありがとうございます。

     西塚さんが、豊かな教養を踏まえてスタンリー・キューブリックの世界を受けとめ直しておられる眼差しには、私の限定された視点とは、まるで異なる『アイズ・ワイド・シャット』の、奥行き豊かな文化的な受けとめ方が可能になるように感じられて、素晴らしいと思いました。
     特に、パスワードに関する言及に関して。
     私には、そのような論考は不可能であります。
     文化の歴史的な奥行きを継承した現代を構成するひとつの現場において、当事者のお一人としてそこに関わってこられた方の、眼差しの豊かさ、というものを感じます。
     私は、文化から、(選択の余地なく、ということではありますが)相当はみ出した領域を旅してきましたから。

     小説の執筆を、お勧めくださいまして、ありがとうございます。
     実は、ファンタジーを(小説の執筆には慣れておりませんので四苦八苦しながら、しかしそれを楽しみながら)執筆しておりまして、書き上げたらエンターテインメントの新人賞に投稿しようと思っています。
    (ご期待くださいませ。)

     五目舎を訪問させていただきますと、西塚さんの考察から、またその他の皆様の情報群から多様に学ばせていただくことができますし、それについてコメントを書いていると新しい気づきが生まれますし、コメントに対するご返事をいただきますと、励まされますし、また粗忽な私の反省点も確認させていただくことができて、嬉しい限りです。
     ありがとうございます。

     好本健一

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