昨夜は『おやすぴ』の収録も何とかすみ、ソウル帰りの娘と途中合流しつつ、勢いあまってまあ…ダウンした。

早起きしたはいいが、さわやかな天気の中、ケーブルテレビをつけると『悪魔の棲む家』が…

懐かしい映画だ。当時ヒットしたんじゃなかったっけかな。たしかシリーズ化もしてたような。

さすがに朝っぱらから悪魔でもないだろうから観なかったが、その後、そう言えば昨日の夜にブログの続きを書くと書いたなと思い出したわけだ。

前回、「思い込み」などというタイトルをつけたが、大した意味もないのだが、それでも人の「思い」は大事だと思うわけで、すべてだと言ってもいいと思うのである。

ひと言に「思い」と言っても、何だか漠然としているが、「意識」とか「気持ち」とも違うし、というか物足りない感じがあるし、「念」「考え」「心の在り方」とも違う気がする。

「思い」は「思い」であり、それらを全部ひっくるめた感じもある。

ちなみに広辞苑で調べてみると、「思い」とは、

① その対象について、これこれだ、こうだ、こうなるだろう、または、こうだったと、心を働かせること。
② あれこれ心に掛けてわずらい、または嘆くこと。
③ 何物・何事かに働き掛ける気持。
④ 物事から自然に感じられる心の状態。

とある。

驚いた。

「思い」なんて辞書で調べたこともなかったから、ちょっとびっくらこいた。特に①なんて最高傑作ではないだろうか。広辞苑ってこんなに面白かった?

その対象について、これこれだ、こうだ、こうなるだろう、またはこうだったと、心を働かせること、なんて誰が書きつけた表現なんだろうか。

「これこれだ」とか「こうだ」なんて言い方するか? 普通、辞書で。

なかなかぶっ飛んでる気もしないでもないが、編纂した人はえらいやね。たしかにそのとおりだし、そうとしか言えないかもしれない。

それに①②③④って、人間の精神的な営みすべてを表わしてないか?

こうなると語るに落ちるというか、私がなぜ「思い」が大事なのか、「すべて」なのかなんて語らなくても、辞書に書いてあるじゃんですむ話だ。

だって、「思い」は①②③④ってことだからさ、だからすべてだし、大事なわけだ。以上終了だ。

私がバカのようにゼランドがどうしたこうしたと言っているが、ゼランドが言うのは結局、④の仕組みを解き明かし、②の原因を明確にし、②に陥らないような①と③のまっとうな方法論を紹介しているというようなことになってしまう。

しかし、「思い込み」となるとまた違ってくる。

「思い込み」はまた辞書によると、「固く信じて疑わないこと」とあるが、これはちょっと違うと思う。

「思い込み」はある「思い」に執着することだ。

本当に固く信じているならば「信じる」という作業は不要で、目の前にあるコップを見ているように自明のことなのである。

「思い込み」はある「思い」にこだわる。こうあらねばならない、こうあるべきだ、こういうことであるはずだというような、強い願望でもある。

こうなればゼランドの言うように、執着は「重要性」を生み、重要性はエネルギーの平衡力、簡単に言えばバランスを乱す。

だから執着は、その人をこうあってほしいということから、限りなく遠ざけるように働いてしまう。そしてご存じのように、強い願望は叶わない。

絶対に叶わないということではないが、ものすごい労力とエネルギーを必要とする。(それが破壊のもとになったりもする…)

ようやく叶ったとしても、強い願望や執着によって達せられたことは、実は大した「思い」でもなく、一生をかけて達成した時点で、自分の本当の「思い」は別にあった、と気づくことにもなるのである。

だから自分の「思い」は大事にしたほうがいいし、ちゃんと自分の本当の「思い」を知っておいたほうがいい、というわけだ。

そうでないと、ヘンな占いとか霊能者に頼ることになってしまう。占いや霊能者がダメだと言ってるのではない。ヘンな占いや霊能者である。だいぶ表現を和らげてはいるが。

なぜなら、占いをする者や霊能者にも強烈な「思い」があり、その占いや霊能者を信じたり頼ったりすることは、彼ら彼女らの「思い込み」の世界と関わる、ということだからである。

これは生易しい話ではなく、非常に大切なことであり、そのあたりの構図というか仕組みを知らないと、貴重な時間を無駄にしてしまう可能性があるのだ。

もちろん大きな大きな大きな意味で言えば、この世におそらく無駄はないのだろうが、その人の「今世」にとっては余計な時間である可能性があり、その代わりほかの何ものかにとっては、ありがたい時間だったりするわけだ。

私はこれまでの取材などを通して、実体験としてわかってきたことがあるが、そもそも占いや霊能者に関しては、「聖書」にもちゃんと書いてあるのである。しかも簡潔に。

続く

2 thoughts on “「思い込み」のこと②”

    1. コメントありがとうございます。

      仮説と思い込みは違うと思います。
      仮説はその後に検証があります。
      検証を重ねていく中で、
      その仮説の確からしさみたいなものを探るわけですが、
      思い込みは最初に結論のようなものがあるんですね。

      その結論を強固なものにするために、
      その結論に導くような材料ばかりを、
      意識的であれ無意識であれ、
      求めるようになります。

      ものごとの真相や真実を探究していくには、
      仮説は当然必要です。
      問題はその検証にあると思っています。

      どうしても仮説に沿ったものだけの検証になっていきます。
      これは私も失敗しています。
      仮説が間違っている場合の検証というものは、
      なかなかしないんですね。

      そういう意味では、
      仮説が間違っている場合の仮説というのも必要で、
      仮説を立てるということ自体は問題がないどころか、
      必要なことだと思っていますが、
      その検証の仕方によっては、
      仮説が思い込みになる、
      ということだと思います。
      自戒しつつ、そう思います。

      ですので、
      仮説はどんどん立てていただければと思います。

      マスコミとかアカデミズムの人たちこそ、
      思い込みで書くものが多いと思うので、
      在野の人たちの仮説は必要だと思います。

      ただネットでは、
      仮説が意図的にデマに貶められたり、
      逆に貶められた側がムキになって、
      ねつ造を行なったりすると、
      仮説の周囲が荒れてきて、
      せっかくの仮説が台無しになることもあります。

      隠蔽工作は論外ですが、
      思い込みというものにも、
      気をつけなければならないのではないでしょうか。

      西塚

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