だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

相対化/絶対化

ようやくひと心地ついた感はあるが、まだまだやることがある。

もうじき春爛漫。
でも、ゆっくりとイベント的な花見はできそうにもない。
それでも私は旬なつまみと行事には敬意を払うから、桜を見ながら酒は飲むだろう。

こないだ某若者ユーチューバーと中野の老舗バーで議論した。

「矛盾」についてだ。

ご存じのとおり、矛盾という語は、どんなものでも突き破る矛つまり剣と、どんな剣でも突き破ることができない盾を売ってる男の話からきている。

じゃあ、その剣でその盾を突いたらどーなるんだ?と客が聞くと、男は答えられなかったというものだ。

でも、矛盾というのはあくまで概念であって、あるものごとの状態を指して言う言葉だ。

実際の現実というかこの世では、どんな盾でも突き通す剣というものはおそらくなく、あらゆる盾を突き破りまくっている剣があり、今のところこれが最強だろうという形で現実は進んでく。

でも、やがて誰かがこれは悔しいってんで硬い盾を研究、開発して、その剣は折れてしまう。で、また悔しいってんで、誰かがとんでもなく硬い剣を研究、開発してその盾を突き破ってしまう。以下、同。

つまりこの世では、「矛盾」の故事で言うところの矛と盾は同時には存在し得ないわけだ。存在すると言い張れば、それこそ矛盾してしまう。だから、矛盾はこの世には存在できない。

ただ、概念としては存在する。

こうした概念自体がこの世に存在することはすることとして認め、実際にこの世でその概念が展開されることは不可能だとする不可能性をもコミで受け入れることを、「矛盾を生きる」という言い方で表現してもいいかもしれない。

で、現実はどうなるの?と言えば、矛と盾の性能がやたらアップしていくという方向に進んでいく。

これはそもそもが矛と盾の話からはじまっているからアレだが、場合によっては、矛と盾を硬くしていくこと自体に意義を見い出さなくなり、やーめたということになる可能性もあるにはある。そのときは、矛盾が消えた、なくなった、ということにもなろう。

こうしたことのバリエーションのひとつとして、「善」と「悪」もある。

何が「善」で何が「悪」かという話をおいとけば、早い話が、あちらが立てばこちらが立たず、ということである。

「人間万事塞翁が馬」とか「禍福はあざなえる縄のごとし」みたいなことだ。

また故事になってしまうが、承知の通り「塞翁が馬」の話は、塞翁が飼っていた馬が逃げたんで周りの者たちが気の毒にと同情したら、その馬がほかの馬をたくさん連れて戻ってきたから、周りの者たちがよかってね!って喜んだら、今度は塞翁の息子がその馬から落ちて大ケガをしたので、周りの者たちがまた気の毒がったら、そのケガのおかげで戦場に駆り出されずにすんで、息子だけ命を失わずに助かったという話だ。

「禍福はあざなえる縄のごとし」と同じで、わざわいといいことは交互にやってくるとか、よくないことだと思っても、いつそれがいいことに変わるかわからないとか、まあそんな感じで解釈されている。

善と悪も同じようなもので、ある側にとってはいいことであっても、別の側にとってはよくないことなどいくらでもある。

つまりは「相対的」だということだ。

ものごとには二面性があると言ってもいいし、ものごとには必ず相反する面があると言ってもいいが、「相対的」だでいいだろう。

この世にあるもの、この世で起きる出来事はことごとく相対的なのである。

右と左、上と下、前と後、プラスとマイナスなどは相対的なことだ。どこを基準、起点とするかによって反転してしまう。

今、自分の右側にいる人も、自分が移動すれば左側にくる場合もある。頭のはるか上にあるビルの屋上も飛行機に乗ればはるか下にある。1000 円拾えば財布の中身がプラスになるが、交番に届ければ 1000 円マイナスになる。でも、ハナから届ける気でいれば、その人の頭の中ではプラスにもなっていなかっただろう。

だから、絶対的なものはないというか、あったとしても限定付きということになる。自分がその人の左側にいるときに限り、その人は右側にいるのだ。

絶対的な善とか悪というものがあるとすれば、ある基準からそうなのであり、その基準はいろいろな人が決定し得る。

じゃあ、絶対的な絶対というか本当の絶対はどこにあるかというと、この世がことごとく相対的だとすれば、真の絶対はこの世の「外」にあるということになる。少なくとも。

じゃあ、さらに「この世」とは何だとなれば、物理学的にも哲学的にも宗教的にも、まあいろいろあるわけだ。

「この世」というか「この世」の「解釈」でもいいが、それがいろいろあるとなれば、「この世」の「外」にあるはずの「絶対」もいろいろあるということになる。

あるいは、いろいろあると予想される「絶対」が、実はひとつしかないということもあり得る。つまり、複数の「この世」の「解釈」から検証され導き出された「絶対」が、同じものだったということもあり得るということだ。

そういう意味では、かなりわかりやすく「この世」と「この世の外」を分けて概念化し、さらにその構造や仕組について、これはわかりやすくはないが、かなり詳しく考察している論考がいくつかある。

たとえばヴァジム・ゼランドは、「この世」と「この世の外」ということで言えば、それぞれ「物的形態」と「形而上学的形態」と言い、ビリー・マイヤーは「物質の世界」と「霊の世界」というようなことを言い、仏教というか仏陀は「色」と「空」と言ったのである。

差しあたっては、上の 3 人が説いていることを検証するだけでも十分すぎるくらい「世界の仕組」はわかってくる。

そしてはっきりと、たとえばゼランドやマイヤーが提示する考察には地球外知的生命あるいは高次元の存在が関与しており、仏教に関してはおそらく「般若心経」を通してのみ、仏陀の教えが伝わってきているらしいことがわかってきた。

さらにキリスト教に関しても、イエスの本来の教えがいろいろな形で世に現われ出している。

しかし仏陀もイエスも何ぶん昔のことの話であり、「◯◯教」となったイエスの教えも釈迦の教えも、パウロやナーガールジュナの影響が色濃く反映され、しかも時代時代の支配者層によってもかなり改ざんという言葉がわるければ、いじくられている。支配者層というのは、教会であったり学者だったりだ。

もちろんすべてが間違っているわけではなく、イエスや釈迦の教えもちゃんと伝わってきているが、ある種、確立されて制度化されてしまったことの中で生きている者たちによって、都合のわるいことは排除されてきたわけだ。

何でそんなことがわかるんだと言うかもしれないが、これは残された文献などを検証していけば本当にわかることなのだ。

それはともかく、私個人的には改ざんされたかどうかということよりも、隠されていた教えの内容のほうに驚くというか、マイヤーではないが、「真実」というものはそれ自らの力によって必ず明らかにされるものだということを、私自身が実感しはじめている。

なぜか。

これは『盤』の活動などを通じて参加者たちなどと検証し続けなければならないが、おそらく本当に時間がないということか、必然的な進化としてそういう時期に入ってもうかなり経っているということだと思う。

大雑把な時間的な流れで言えば、「そういう時期」というのは大きな流れの第 4 コーナーを回ったおそらく 1930 年代にはじまり、2030 年代あたりで終わる時期のことである。そう考えざるを得ないのだ。

必然的な「流れ」の、ひとまずの区切りを迎えるということだ。

相対的な世界の相対的な完結と進化である。

Commentコメント

  1. 好本健一 より:

     西塚裕一様

    『必然的な進化としてそういう時期に入ってもうかなり経っている。』

     地球的なスケールでの、ひとつの「千秋楽」が近いのですね。

    『2030年代』で『ひとまずの区切りを迎える』のですか。

     今、2018年ですから、2030年まで、あと12年未満。
     そこから10年未満で『ひとまずの区切りを迎える』のですね。

     そうしますと、

     ヴァジム・ゼランド。
     ビリー・マイヤー。
     仏陀。 

    『差しあたっては、上の3人が説いていることを検証するだけでも十分すぎるくらい「世界の仕組」はわかってくる。』

     と、ご指摘しておられる、
     その「世界の仕組」を理解しておく必要がありますね。

     私は、新しく解釈された般若心経のビジョンは少しずつ学び続けていますから、
     その内容と、
     ヴァジム・ゼランド、ビリー・マイヤーのビジョンを照らし合わせてみたいと思います。

    『イエスの本来の教え』にも関心があります。
    『神と人間:イエスの人間性―ウィリアム・ブレイク論文集』は、いつか読んでみたいと思っている本です。

    『キリストへの道』を書いたヤコブ・ベーメにも関心があります。
     ウィキペディアには、次の記述がありますね。

    『ベーメの見たヴィジョンは万物の神的な実相とでもいうべきものであった。ベーメはあらゆる存在の中に神のドラマを見て、わたしたち人間すべては神の歓びの調べをかなでる楽器の弦であるという。』

     私は、ベーメを通して西田幾太郎に関心を持ち始めました。
    『そして神が知識の対象にはなりえないことを説明する文脈において、西田は、擬ディオ
    ニシュース、スコートス・エリュゲナ、マイスター・エックハルト、ニコラウス・クザヌ
    ス、ヤコブ・ベーメなどのキリスト教的プラトン主義の思想家達の「否定の道」を示す言
    葉を引用し、それを純粋経験論における「意識統一」としての神と関連させて論じている。』
    「西田哲学とキリスト教」

    『「真実」というものはそれ自らの力によって必ず明らかにされるものだということを、私自身が実感しはじめている。』

     2030年代へ向かう「時」が、
     真実の開示に向けて、
     濃密に流れているのを感じておられるのでしょうか。

    『相対的な世界の相対的な完結と進化である。』

    「必然」について。
     たとえば「人間が死を迎えるのは、必然である」と語られる場合の「必然」と、
    『必然的な進化』と西塚さんがお書きになられた「必然」とは、
     ニュアンスが異なるように感じられます。
     その違いを、『盤』で確認させていただこうと思います。  

     好本健一

    • nishi より:

      好本様

      コメントありがとうございます。

      >『イエスの本来の教え』にも関心があります。『神と人間:イエスの人間性―ウィリアム・ブレイク論文集』は、いつか読んでみたいと思っている本です。

      イエスの教えは、今の聖書に書かれていることとはだいぶ違う可能性がありますね。
      ブレイクはそれこそ『天国と地獄の結婚』のあのアフォリズムの部分には、
      私のような非常識な高校生たちに勇気を与えてくれる言葉がありました。
      そのひとつ、
      「愚行も固執すれば賢者となるを得ん」
      そううそぶいて酒ばかり飲んでいる高校生でしたね。

      ベーメはあまり知らないです。
      今度、教えてください。

      >2030年代へ向かう「時」が、真実の開示に向けて、濃密に流れているのを感じておられるのでしょうか。

      そう考えられるひとつのラインがあるんですよ。

      >「必然」について。

      そうですね。
      先のひとつのラインを前提とすると必然的という意味です。

      西塚

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