これからはどんどん終末論的な言説が流布されるかもしれない。

断言してもいいが、「ネガティブ」な「情報」には必ずネガティブな「思い」や「意図」が「関わって」いる。

ここで言う「ネガティブ」とは、「不安になる」ということだ。

ネガティブ・ポジティブは本来、陰・陽みたいなことで、破壊と創造と言ってもいいし、分離と統合と言ってもいいだろうが、ともかくバランスであり、善悪とは違う。

だから、「極端にポジティブ」な「情報」にも気をつけなければならない。ここうで言う「極端にポジティブ」とは、「極端にワクワクする」ということである。

「極端に ワクワクする」ということは、ゼランドふうに言えばそれはただのユーフォリア(陶酔感)かもしれず、つまり覚せい剤などの薬物による極端な生体エネルギーの上昇からくる興奮状態みたいなものであり、それは判断を誤まらされるし、それに見合った反動を食らうことにもなる。

人間は「時空間」の中で生きながらえてきた以上、どうしても新しい物事にはまずネガティブに反応するようなクセがあるし、つまり今までの経験値で測れないものには「不安」を覚え、実際、恐れるのである。

だから、人を「不安」にさせることは簡単だ。

不安にさせたり、恐怖を感じさせるような、説得力のある「情報」を与えればいいだけだからだ。

本来は、ネガティブな情報にもポジティブな情報にもバランスよく接すればいいのだが、バランスよく接するとは、そうした情報の反面・対極面をも同時に受け入れるということだが、どうしても人は「ネガティブ」な情報に関しては「不安」のほうにより引きずられてしまう。

「情報」を真ん中に挟んで、「情報」を発する側と「情報」を受け取る側があるとすれば、その「情報」に対して受け取る側に「不安」が生じたとすると、それは両方の側に問題がある。

まっとうな発信側は、もし人をどうしても「不安」にさせるような「ネガティブ」な情報を発信しなければならないとすれば、どうやってそれに対処しなければならないかなど、何かしらの打開策や解決案も同時に発信するだろう。

そうではなく、ただひたすらにネガティブな「情報」を発信しているとなると、発信側が自覚してるかしてないかはともかく、何かしらのネガティブな「思い」や「意図」が隠れていると思って間違いない。

また、どんな内容の「情報」であっても、受け取る側がその「情報」と距離をとることができ、その「情報」に納得できる根拠があるのかどうか、真実なのかどうかを検証する必要があると思えば、そうすればいいのであって、そうした作業には基本的には「不安」はともわないはずなのである。

だから、もし「不安」を感じるとすれば、受け取る側のほうにも、本人が自覚してるかしてないかはともかく、その「不安」に関連した「思い」や「意図」が隠れているということだ。

言ってみれば、「情報」自体は中立だとしても、両方の側に人が「不安」になる「因子」みたいなものがあるわけだ。

もし、「ネガティブ」な「情報」、つまり「不安」になる「情報」に接したとしたら、そのあたりをよく見極めたほうがいい。

ましてや、「情報」の内容がとんでもなく「ネガティブ」なものであればあるほど、また検証すればするほど真実味もあるとすれば、多くの人たちの打開策や解決案などに関する「情報」が必要になるのは当たり前だ。

そして、そうした打開策や解決案を具体化していくためには、「ネガティブ」な「情報」に関するできるだけ正確な「知識」が必要であることはもちろん、その「ネガティブ」な「情報」の内容を克服しようとする多くの人たちの「思い」や「意図」が欠かせないのであり、そこには「不安」などが入り込む余地はいっさいないのである。

古代から伝わる伝承、伝説、神話などには、そうしたことに関する正確な「知識」が隠されている可能性が、かなり高い。

 

2 thoughts on “終末論を超えて”

  1.  西塚裕一様

     安心について。

     自分が頼りにできる本を探せば、ビジョンとして、最初に安心を与えてくれる内容の本にめぐり会えると思います。
    (表現を変えれば、最初に、結論を提示してくれる本です。そして、そこから、結論に至るプロセスを最大効率で歩む方法を提示してくれる本です。)
     まず、安心の中に、自分の生きる姿勢を位置づけると、学びも、その実践も、よりうまく進められると思います。
     岩根先生の本もそうですし、探せば、いろいろあると思います。
     もちろん、その内容が、真に頼りにできるものなのかについては、自己責任のもとに鋭く推論する必要があると思います。

     推論を重ねて、この本は、地上の旅を進展させる上において、とても役に立ちそうだし、肉体を離れたあとの旅においても、とても役に立ちそうだと判断できたら、やはり自己責任の下にその本のビジョンを実行することになります。

     もちろん不安は、つきものです。
     不安があるから、頼りにする本のビジョンを、自分の歩みの中で真剣に受けとめ直すことになります。
     その歩みを通して、自分の体験を通して、知的理解のレベルであったビジョンが、自分という個人にとって血肉化されたものになります。
     知的理解を踏まえて、実践によって血肉化されたものが、真の理解だと思います。

     単純な話、それが、腑に落ちる、ということだと思います。
     どのように素晴らしいビジョンであっても、それを絵に描いた餅の鑑賞で終わらせないためには、「腑に落ちる」プロセスを自分の頭と体で旅する必要があると思います。

     どの本を、どの師を選び取るかというプロセスにおいては、繰り返しになりますが、とことん慎重であるべきだと思います。しかし、熟慮の末に選択し終わったら、絶えず自分の歩みを内観によってフィードバックする営みを大前提にした上で、悩まない、ことが大切だと思います。

     でも、私は、岩根先生を師として選び取ったあとも、よく取り越し苦労をします。
     そのたびに、岩根先生を信頼し直すことにしています。

     安心を与えてくださる師に帰依したら苦労はなくなるのかというと、自分自身の旅を振り返りますと、そんなことはまったくありません。
     試練は、師への帰依を深めるためのものだと思います。
     私自身が、よくため息つきながら、やっとのことで試練を乗り越えることをよく繰り返すから言うのではありませんが、とことんしっかり踏ん張り続けて試練を乗り越えることはよくあることだと思います。
     大変ではあっても、師への信頼が深まることは、とてもありがたいことです。
     それによって、安心が深まるからです。

     安心をお与えくださるのは師であっても、その安心を、自分の旅の中に根を張らせるのは自分の努力だと思います。
     よくよく考えて見ますと、「安心を、自分の旅の中に根を張らせる」努力を実らせるものは、師の御指導だと思います。

     昔、太極拳に関する記事を読んでいて、「三年かけてでも良き師を探せ」ということが書いてありました。
     武術に限らず、どの分野でもそうだと思います。

     そもそも、人間が、おぎゃあと生まれて、両親によって、自然環境によって、文明環境によって、文化環境によって、多層宇宙環境によって、生かしていただいているプロセスの中で自力が培われていきます。
     人間が自分の足で立って歩み続けるには自力が不可欠ですが、自力は、様ざまな要因によって生かしていただいているプロセスの中で養成されたものという認識が大切だと思います。

     自力では、相当のことができると思いますが、「井の中の蛙大海を知らず」とは、自力の限界に思いを馳せる言葉でもあると思います。

     個人の経験は、とても限られていて、「生かしていただいているプロセス」の全体は、(多層宇宙も関係してくるため)とうてい把握できない以上、そのプロセスの集約とも言える師の存在は、極めてありがたい存在だと思います。

     肉体を離れ、地上を離れて、多層宇宙を旅するプロセスに入ると、様ざまな要因によって生かしていただいているという認識に直面するのではないかと想像します。

     そこにおける「安心」を、地上の、今ここを旅するプロセスにおいて与えてくださる師は、詳しくは知りませんが、複数おられると類推しています。
     安心を得るためには、そのような師を、体を張って探す必要があると思います。

     ネガティブな情報に接したら、その情報を、師のビジョンの中に位置づけて、その結果、その情報が、素晴らしい未来へ向かうプロセスのひとつであることを確認して安心できると思います。
     今、自分の暮らしを通して、ネガティブな情報に直面していたら、場合によっては、しっかり踏ん張る必要も出てくると思いますが、体の中に、それまで培ってきた安心が存在することを見定めて心を落ち着かせると、より無駄が少なく踏ん張れるのではないかと思います。
     物事には、すべて裏と表がありますが、今、二項対立的価値観が統合されるプロセスが進行しているように感じられます。

     これから師を探される皆様、様ざまなご縁を通して、二項対立的価値観が統合されるプロセスを、効率よく、有意義に旅していけるビジョンをお持ちの師にめぐり逢われますように。

     好本健一

    1. 好本様

      ポストありがとうございます。

      >もちろん不安は、つきものです。不安があるから、頼りにする本のビジョンを、自分の歩みの中で真剣に受けとめ直すことになります。その歩みを通して、自分の体験を通して、知的理解のレベルであったビジョンが、自分という個人にとって血肉化されたものになります。知的理解を踏まえて、実践によって血肉化されたものが、真の理解だと思います。

      そうですね。
      「不安」はある意味、なくならないかもしれません。
      新しいことや未体験のことに挑戦することは不安をともなうことが多いですし、
      ネガティブな情報も周囲から襲いかかってきます。

      それでも、それらは何かにチャレンジしようとか、
      目的を達成しようとする意思を実現するときに、
      同時にともなう反作用みたいなものとも言えます。

      大きく飛び上がるときは地面を強く蹴らなければなりません。
      その地面のようなものです。
      そういうものにすぎないと思います。

      だから、基本的には地面のことなどは気にせず、飛び上がります。
      目的は飛び上がることですね。

      不安に囚われる、あるいは人を不安にさせようとすることは、
      人を地面に向かわせるようなもので、
      つまり、飛び上がろうとする意思を逸らせたり、
      挫かせようとする別の意思によるものです。

      誰にも不安というものはあるでしょうが、
      何かに向かって行動している者にとっては、
      おそらく取るに足らないもの、
      ほとんど「ない」ものとなるのではないでしょうか。

      >人間が自分の足で立って歩み続けるには自力が不可欠ですが、自力は、様ざまな要因によって生かしていただいているプロセスの中で養成されたものという認識が大切だと思います。

      そうだと思います。
      人間はとかく自分の足で立っていると思いがちですね。
      「井の中の蛙」という言葉もポストにありましたが、
      「我の中の自分」みたいなものは、息苦しい感じがします。

      好本さんの師の話にもありますが、
      たしかに師探しは大きなテーマです。
      チベット仏教のティローパとナローパの話や、
      マルパとミラレパの話のように、
      師に教えを請うというテーマでもあり、
      旧約聖書のヨブ記のように、
      信仰のあり方のテーマでもあります。

      そこに共通してるのは、
      やはり我の問題です。

      >そこにおける「安心」を、地上の、今ここを旅するプロセスにおいて与えてくださる師は、詳しくは知りませんが、複数おられると類推しています。安心を得るためには、そのような師を、体を張って探す必要があると思います。

      安心は、自分が何者か、何を為す者か、
      世界はどうあるか、などを知ることで得られるように思います。

      自分と世界に対する認識、それ自体が行動になるからです。

      そして、ここからがちょっと難しい話になりますが(私にとって)、
      それは井の中の蛙、我の中の自分でも、論理的には可能であることです。

      でも、それはウェーバーの有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のように、
      基本的には筋が通っているように見えながらも、
      キリスト教カルヴァン主義の「予定説」や「資本主義」(貨幣経済)を前提としており、
      ある制限の中での整合性にすぎません。

      要するに、自分の生活水準の社会的な位置や、
      他人との比較にのみ根拠を持って成り立つ、
      ある種の幻想のようなものですね。

      だから、(おそらく)そうしたものに依拠して自足している精神は、
      やがて厳しいことになると思います。

      どこかで「気づく」必要があるのではないでしょうか。
      何に気づくか。
      それが『盤』の探究のひとつでもあります。

      好本さんの師である岩根氏の書籍に関連させれば、
      「無の修行」「空への帰還」「空からの展開」を、
      人間界=現実界でどう行なうか、
      ということになると思います。

      私の場合、
      極端な言い方になりますが、
      他者はすべて師となります。

      西塚

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