だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

気づくこと

いやあ、世間の常識で言うところの“大人”としてはほとんど “バカ状態” というか “阿呆” の私だが、本当にそうなっている。

いずれにしろ、人は自分の “望んでいる” ところへ向かうしかないのだから、何があってもいいのだが、やはり人には迷惑をかけたくないと思うのは人情だ。

迷惑と言えば、『おやすぴ』を収録した居酒屋で若者が大騒ぎしてうるさかったと書いたと思うが、やはり会話が聞こえないというか聞こえづらく、聞くほうもストレスになるだろうから、やはりアップは断念せざるを得なくなった。

集音マイクをピンマイクにするとか、もっと本格的な工夫も必要になってくるが、そもそも居酒屋で収録すること自体が、他の客にしてみれば迷惑なのかもしれない。店主さんは OK だと言ってくれるが……

昨夜の東京は雷がすごかった。久しぶりに雷神が大暴れした感じがあったが、どうしたのだろう。

もろもろの作業に埋没していると今日が何日なのかもすぐにはわからなくなってくるし、ニュースにも触れない。埋没というとタコツボにはまっているかのようだが、そこには東奔西走の “大わらわ” も入っている……

そう言えば、台風はどうしたのだろうか。

窓の外を見てもよくわからないが、それとも私は何かトンチンカンなことを言ってるのかしら。

だいたい私は天気予報ではなく、空を見てその日の天気を決めているが、今まで困ったことはあまりない。むしろ、今日の夜雨が降るって天気予報で言ってたから傘持ってったほうがいいよと言われ、そうしたら降らなかったので傘がかさばって困ったということならある。

空を見るったって、別に気象予報士やシャーマンではないので何となく見るというだけのことで、何となくこれは午後に雨が降るかもしれないなあとか、降っても大したことはないだろうとか、今にも降りそうだから傘持ってこみたいなことだ。

「何となくそう思う」ということだが、「何か」に自分なりに「気づいている」わけだ。

この「気づき」というヤツもなかなかのクセモノで、いわゆるスピ系でも「覚醒」と並んで『水戸黄門』の印籠のような存在になっている。

「やっぱり、気づきが一番大切だよ」とか「覚醒するってそういうことだよね」なんて言われると、誰も文句が言えなくなってしまうのだ。

でも、気づきや覚醒って何だ?となると、人それぞれに解釈がいろいろとあり、参考にする経典なり資料もいろいろあり、その解釈をめぐったり、テキストの信ぴょう性を検証したりするだけでも諸説あり、要するにあまり確かなものではなく、それこそ “何となく” ただイメージが合意されているかのような言葉なのである。

同じような意味で、ほかにも「解脱」とか「悟り」とか「真我」という言葉があって、ラスボスとしては「神」という言葉もある。

「気づく」ことで言えば、もう本当にシンプルなことで、「あ」と気づくことを「気づく」と言うのだ。

先の天気でも、何となく「これは雨が降るかもしれないなあ」と気づくことを指している。

ややこしいのは、たとえばあっちのほうに灰色の雲がモクモクと沸き起こっているからとか、単純にいやな感じで空が曇っているからとか、風がどうしたとかといったことを根拠にしているわけではなく、ただそう気づいたということだ、という点にある。

人はどうしても理由づけをしたくなるのだ。

しかし、気づくことに因果関係の理由はない。気づいたから気づいただけだ。

もちろん、今日は雨が降るか降らないか確かめたいから空を見たという理由はあるし、だからこそ空を見上げたわけで、そして気づいたのだから、気づくことにまったく根拠も理由も因果関係もないわけではないという理屈も成り立つように思われるが、実際に「あ、雨が降るな」と「気づいた」ことの理由や根拠や因果関係になるわけではない。

気づいたから気づいたのだ。

これは「予感」とも関係してくることだが、予感にも何か理性が納得できるような理由や根拠や因果関係があるのではなく、ただ予感がするだけだ。

「◯◯という気がする」と「気づく」わけである。

だから逆に言えば、こうこうこうだからこうなるというような、理性が納得できる理由や根拠や因果関係をもとにした「予想」と、「気づき」や「予感」はまったく違うということだ。

もちろん、そうした予想は当たることもあるし、たしかに 1,000 円しか持ってなくて、彼女と居酒屋で酒飲んで(どうも考えにくいシチュエーションだが、最近立ち飲み屋に行くので個人的には大いにあり得る)、390 円のビールと 290 円の焼酎のお湯割りを 1 杯ずつ飲んだら勘定ができないという「予想」はできる。

しかし、「あ、これは何だか知らないが、もっと飲めるぞ」という「予感」に「気づいた」ら、いつの間にか知らない客と意気投合しておごってもらったり、「今日、宝くじで 100 万円当たっちゃってさあ…」という知人が入ってきて、泥酔するまで飲むことになってしまったなんてことは、「予想」には絶対にできないのだ。

一応、言っておけば、「夢想」はできる。「ああ、あの人が全部おごってくれないかなあ」とか「宝くじが当たった知人が入ってこないかなあ」と、あらゆる都合のいいことを夢想することはできるが、そもそもこれは「予想」とは違うし、実際予想であればもっとシビアに計算して、1,000 円ぶん飲んだらさっさと店を出ることになるだろう。

また、「予感」にしても、「こないだもこういうときにこうだったから、きっとこうなるだろう」とか、「今までの経験から言っても、統計的にこういうときはこういうふうにしかならない確率が高いから、こうなると思う」というようなものは、私の言うところの「予感」や「気づくこと」とは別のことであり、やはり「予想」や「夢想」に関係することだ。

ましてや、そうした「予想」にばかり頼っていると、「気づく」こともだんだんとなくなり、本来の自分の可能性を狭い既知の理性の世界に閉じ込めることにもなる。

そうした習慣はどんどん理性に「権力」を与え、自分がせっかく何かに気づいたとしても、理性がしゃしゃり出てきて大声で打ち消しはじめ、走り回りたい犬をリードでコントロールしたり、休みたい馬を御者が鞭打つようなことになってくる。

でも、理性は禁止や規制をすることはできるが、走り回りたくない犬を走り回らせたり、水を飲みたくない馬に無理やり水を飲ませることは絶対にできないのである。

このあたりのことはゼランドの言う「魂」と「理性」に絡めて以前にも書いたし、予感や予想、夢想、願望の関係性についても取り上げているので、また話が広がらないためにもここは「気づき」の話に戻る。

要するに、まずは「気づくこと」がものすごく大事だと思うわけだ。「ひらめく」と言ってもいい。突然、何ごとかが思い浮かんだり、迷ったり悩んでいたりするときにふと解決方法がひらめいたりする。

そう言うとアルキメデスの「ユリイカ!」とか、アインシュタインがどうしたとか、何かたいそうな発見に絡んだ天才の話のようになってしまうが、実際、わたしたちは普段の日常においてものすごく多くのことに気づいているのだ。

朝起きて、あ、今日は天気がいいなとか、家になぜか誰もいない気がするとか、いきなり知人の顔が浮かんで連絡をしなくてはと思ったりとか、トイレ掃除をしたくなったりとか、外出して道を歩いていてもふと立ち止まって路地をのぞき込んだりとか、電車に乗る際に何気なく隣の車両に移ったりとか、いつもの居酒屋に飲みに行こうとしてどういうわけか別の店に入ってみたくなったりとか、それこそ人はほとんど無意識に何かに気づいて行動していると言ってもいいはずだ。

ただ厳密に言えば、そのすべてが気づきではなく、実は予想や夢想に基づくものであったり、理性が習慣化させた惰性であったりするわけで、場合によっては理性が敷いた既知のルーティンに沿って、本当に無意識に動いているだけという人もいるだろう。

コリン・ウィルソンはそうした意識のあり方を「ロボット」と呼び、『詩と神秘主義』で詳細に論じている。

しかし、こうした人間の意識のあり方にはもちろん必要性があり、ものごとを効率化して心身に叩き込むにはうってつけの機能でもあるわけだ。
 

人間がなにかむつかしいこと――話したり、書いたり、計算したり、車を運転したり、タイプを打ったり、外国語を話したりすること――を学ぶとき、学びたいことの細部に神経を集中してはじめなければならない。フランス語の基本的な語彙を学んだときでさえ、まだ自国語で考え、ひとつひとつの単語を自国語に翻訳しなければならないため、フランス語を読むのは困難である。しかし次第に、「思い出す」プロセスが存在の深いレヴェル、潜在意識における一種のロボットに伝わり、そのロボットは自国語に翻訳する必要なくフランス語を読むことができる。このロボットはあらゆる点で意識的な人格よりも有能である。
 
『詩と神秘主義』コリン・ウィルソン
 

つまり、このロボットは非常に優秀な電子頭脳のようなもので、「あらゆる種類の情報をたくわえ」、「ある行為が頻繁に繰返されると、その行為をひきつぐばかりか、意識的にするよりもはるかに効率よくおこなう」のである。

人はいちいち意識的に考えながら車を運転したり、自転車に乗ったりはしない。クモがムカデくんに「いったい、どうやって 100 本もの足を同時に動かすことができるんだい? ぼくは 8 本の足でも苦労しているというのに…」と聞けば、ムカデくんは「簡単さ。こうすればいいんだよ」と言ってみせた瞬間、よろけて倒れ込んでしまう……

つまり、ロボットが効率よく学んでいるものは、単なる行為の繰り返しそれ自体ではなく、そこに至るまでの意識操作、思考をも含めた過程なのだ。あくまでも人間の活力ある意識活動が初めにあって、それからロボットが効率化をはかるのである。

でも、「人間が活力と自由意志の観念のすべてを失い、ほとんどロボットのように生きるのは、きわめてたやすいことなのだ」というところに問題がある。

なぜなら、「ニーチェが指摘するように、幸福とは挑戦に打ち勝つことだ――すなわち、意志の健やかな活動を感じることなのだ。しかしわれわれは意志することの九十九パーセントをロボットに譲り渡している」からだ。

このエッセイでコリン・ウィルソンが主張していることは、「「神秘的なヴィジョン」が起こるのはわれわれが突如として人生の「鳥瞰」を得るときだということである」とし、「そのとき、つかのまにせよ、われわれは人生から「撤退」して、通常の虫の見かたの狭い焦点に制限されることなく、もっと広い視野で人生を見る。これは常に昂揚感、歓喜をもたらす」ということである。

そして、「突如として虫の見かたをすることから鳥瞰に変わった場合、実際にはなにが起こるかということだ。肉体的、心理的に、いったいなにが起こるのか」ということを考察している。

またもや話がずれていきそうな「予想」ができそうだが、つまり「ロボット」にまかせてばかりいては、なかなか「気づくこと」はできないのではないかということだ。

先のコリン・ウィルソンの話で言えば、「気づくこと」でしか、「虫の見かた」から「鳥瞰」に変わることはできないだろうと思うわけである。

そして、『盤(VAN)』でも取り上げているいくつかのテキストは、地球外知的生命あるいは高次元(別次元)の存在からもたらされたとするものだが、すべてに共通しているメッセージは、簡単に言えば先の「ロボット」から意識的に離脱し、本来の自分を生きるということなのである。

たとえば、ビリー・マイヤーにコンタクトしたプレアデス/プレヤール人とされるセミヤーゼの第一回と第三回の会見では、セミヤーゼは自分たちの任務として4つのことをあげている。

1 つは、「別の太陽系には」、「偉大な知識を獲得して生命圏から解き放たれた生物種も存在し」、「彼らは宇宙を旅行して、時折地球を訪ねたりもしてい」るが、「中には不快な同時代人も多く、一種の野蛮状態にあり、そのひどさは地球人とほとんど変わらないほど」だとし、「このような野蛮人の存在を地球人に知らせ、警告すること」だという。

2 つめは、「教派や宗教およびそれと結び付いた人間の意識の発達不全を警告すること」だ。

3 つめは、「この宇宙にすでに存在し、発展を続けている人間を守る」こと。

そして 4 つめは、「あちこちでテレパシーを使ってある種の認識を芽生えさせたり、時代が求める技術的な発明をさせたりして手助け」することだという。

これらは、セミヤーゼがいちいちひとつはこう、ふたつめはこうとあげつらったわけではないが、私なりまとめるとこうなる。

そして、これは何もセミヤーゼに限ったことでもなく、『ラー文書』でも、半田広宣氏が提唱する『ヌーソロジー』の元となった OCOT 情報でも、ベアード・スポールディングが学んだヒマラヤの大師たちでも、国常立神でも、その他、もういくつかのテキストで伝えられていることでも、すべてに共通している。

もちろんもっと細かな、ある意味で専門的というか、厳密に検証したことでもかなりぶっ飛んだ部分で共通しているが、それは『盤』に譲る。

話がとっちらかってきたキライもあるが、最初に戻って、で、「気づき」って何だ?ということだ。

そして、「気づき」や「予感」、まあこの際「予感」はおいとくが、「気づき」が「気づき」なのかどうかというところが問題なわけだが、これに関してもアンチョコやマニュアルがあるわけではなく、シンプルに「わかる」ということであり、それはやはり「知識」と関係してくるのだ。

続く

Commentコメント

  1. BBB より:

    居酒屋での収録残念です。懲りずに、またYoutubeも投稿お願いします~楽しみにしております。

  2. nishi より:

    BBB様

    ありがとうございます。

    内容、シチュエーションなど、
    いろいろバージョンアップを考えています!

    西塚

  3. 好本健一 より:

     西塚裕一様

     日本語でひと言、気づく、と言っても、いろんなニュアンスの相違がありますね。

    『気づくの英語。perceive、know、hear、get wind、get word、see、get a line、find out、pick up、discover 』
    https://ejje.weblio.jp/content/%E6%B0%97%E3%81%A5%E3%81%8F

     今ここの地上の旅は、多面的な暮らしを営むために、多重的な取り組みが求められますから、いろんなニュアンスの気づきが必要だと思います。そしてその多重的な取り組みから生まれる気づきは、複数のプロセスを経て純化されて意識の進化に集約されていくと思います。おもしろい点は、意識の進化に集約される気づきの旅が、肉体を通して、物質界で展開されていることです。そのひとつの意味は、肉体を離れた魂は、似たもの同士の波動を持つ魂の集合体が形成する波動域=世界でしか学べないのに比べて地上世界は、それよりはずいぶんと振り幅が大きい波動域=世界で成り立っている貴重な学びの場であるという素晴らしさがありますが、それとはまた別の視点から見ると、そもそも、魂の旅の出発点、つまり宇宙の源においては肉体は存在しなかったのですから、宇宙経綸に基づいて、源から次元降下する創造の旅の、多層宇宙的な展開を経てたどり着いた地上が、魂の天命を成就する「最終展開地点」になると思います。(遠い旅を経てたどり着いた物質界、天命成就の、心躍る星、地球!)しかし、地上から宇宙の源に向かう意識進化の旅においては、かつての魂の旅の出発点が「最終到達点」なるという点がおもしろいと思います。

     要するに、「最終到達点」に達すると、そこで反転が起こり、「最終到達点」は、「最終展開地点」に向かう「出発点」になると思います。(「パラドックス」には、「反転」という、宇宙の「理」が秘められているのではないでしょうか。)

     シンボリックにまとめます。地上人生において「花」を咲かせられたら素晴らしいと思いますが、宇宙人生におけるコズミック・フラワーは、多層多重宇宙の全体を通して、すでにあふれる輝きを宿して満開だと思います。(「すでに満開」でなければ、それを地上に投影することはできませんから、地上に「花」は咲かないと思います。)そして、開花のプロセスは、その多層性において、また多重性において、複数のプロセスがあり、それらを旅し終えて、今、物質界である地上に「花」を咲かせる時期が来ているように感じられます。
     その意味で、惑星地球とは、魂の次元降下という、宇宙創造の旅の「最終展開地点」だと思います。宇宙は、常にパラドックスに満ちていますから、次元降下の旅の「最終展開地点」において「花」が咲けば、強力に次元上昇がバック・アップされると思います。多様な、すべての個の心の奥に、「すでに満開のコズミック・フラワー」のタネが蒔かれるのですから、そのタネは、地上に「花」を咲かせる次元上昇に素晴らしい勢いをもたらすと思います。この祝福を、どこまで活かすのかは、暮らしに必要な多様な気づきを純化していく個人の気づきにかかっていると思います。

     人間とは、気づくごとに、自分が旅する世界を拡張する存在だと思います。

    『気づいたから気づいたのだ』という西塚さんのお言葉は、『「気づいた」ことの理由や根拠や因果関係』に拘泥することなく、その貴重な気づきを今ここの旅に瞬時に活かしていこうという姿勢が感じられます。『「気づいた」ことの理由や根拠や因果関係』とは、ひと言で言えば「過去」だと思います。
    『気づいたから』の『から』という助詞には、「起点」を示し、《時》の視点でそれを分析すれば、未来に関わる「時の範囲」を提示する働きがありますから、『気づいたから』という言葉には、「過去」には向かわないで、未来へ眼差しを向けるように促す勢いが感じられます。そして、その振る舞いを通して今ここの旅に気づきを活かす歩みに弾みをつけるために改めて繰り返される『気づいたのだ』という表現にはこれから生まれる気づきを歓迎している響きが感じられました。

    『こうこうこうだからこうなるというような、理性が納得できる理由や根拠や因果関係をもとにした「予想」』とは、大雑把にまとめて言えば「演繹」かな、と思いました。それに対して、「「気づき」や「予感」はまったく違う」と西塚さんは述べておられます。このご指摘を、「演繹とはまったく違う」と受けとめさせていただきますと、それは「帰納」になります。ここで岩根先生のご指摘を私のレベルで受けとめ直しますと、演繹とは、「過去からの発想」であり、帰納とは、「未来からの発想」になります。

    「未来からの発想」という表現を、別の表現に置き換えると、「初めに結論ありき」になります。これは、「結論」を実体験されたお方からいただく御指導、ということになりますが、これを、現代的な表現に置き換えますと、導きにおける「量子のトンネル効果」になると思います。

     もちろん「過去」があって「現在」があって「未来」があるわけですから、それぞれの「時」における営みは大切なものです。その「大切さ」が最終的に実を結ぶのは「未来」ですから、「未来からの発想」は、過去と現在に対して、その営みの結実において不要なものをそぎ落とす視点も提供してくれますから、そこから過去と現在における真に大切だった営みを浮き彫りにできると思います。そして、それらも次の新しい気づきの材料になると思います。

     岩根先生の御著書に『自分の発見』という本がありますので、「気づく」に対するいろんな英語の訳の中では、私は「discover」が好きです。「dis」には、「除く」という意味があり、「cover」には、「覆う」という意味があますから、「discover」とは、「覆いを取り除く」という意味になります。

     覆いを取り除くと生まれる気づき。

    『自分の発見』とは、(私の理解では)最終的には、『「超越意識の自分」を発見すること』になりますが、出発点としては、『「超越意識の自分にカバーを掛けている自分」を発見すること』になります。

     ここで「自分」を整理しておきます。A 超越意識の自分。B 潜在意識の自分。C 顕在意識の自分。

     Aにカバーを掛けているのは、B&Cです。

     普段、B&Cは、Aを忘れたまま今ここを旅していますから、その忘却が、Aにカバーを掛ける振る舞いになります。ところが、Aは、毎日24時間、片時もB&Cを忘れることなく、あったかい眼差しで(これは、厳しくないという意味ではまったくありませんが)見守り、導いています。

     忘却は、絶対界に永住するAが、宇宙経綸を進展するために、次元降下によって、相対界のBの中に入り込んだ時に、そしてBに対してある幅の自由意志の行使を認めた時に、Bの意識に発生し始めたと思います。(Aは、自分が超越意識であることを永遠に自覚していますから、そのことを忘却したのは、Bであり、その忘却をBから引き継いだCです。)Aは、Bが、忘却を通してAにカバーを掛け始めた振る舞いに対して、AがBに対して認めた自由意志の範囲内でそれを一時的に容認する以外になかったと思います。

     その忘却に対して、またそのカバー掛けという、自分を「岩戸」に閉じ込める振る舞いに対して、それをB&Cに、どのように気づかせるのか、ということが、地上の暮らし全体を充実させる気づきの提供も含めて、Aの最大の課題だと思います。

     物質界である地上(=地球)とは、宇宙の源から出発したAが、次元降下を通して宇宙経綸を繰り広げる「最終展開地点」なのに、B&Cからカバーを掛けられてそのミッションを思う存分果たせないでいるということは、やはり地上はミッション・インポッシブルの世界なのかなあとも思いますが、しかしインポッシブルのままだと私が抱えている苦労も終わらないのでシニカルな視点は捨てて前向きに手探りしたいと思います。(シニカルな視点は捨てますが、イーサン・ハントは好きです。)

     地球において、Aが、次元降下による宇宙創造の「最終展開」を行おうとしたら、ここにもまたパラドックスが登場します。地上での主役は、Cなので、そしてCは、Bと共にAにカバーを掛けてきましたので、Aの「最終展開」を確実なものにするために、Cは、次元上昇を確実なものにしなければなりません。ひと言で次元上昇を表現し直すと、B&CがAに掛けたカバーを取り外す振る舞い、になると思います。岩根先生のビジョンに、「降りる道」と「登る道」があります。私の受けとめ方ですが、「降りる道」とは、次元降下であり、「登る道」とは、次元上昇です。B&Cは、徹底して「登る道」を歩む必要があると思います。

     気づきが生まれるということは、当たり前なことですが、それまでは、気づかないままで今ここを旅してきたということになります。通俗的な私の頭で発想しますと、それは、「自分」に借金して旅を続けたということになります。その(私の場合、大変な金額の)借金を、どうやって返すのか、ということが、B&C側での「気づく」営みの本質だと思います。

    『「ニーチェが指摘するように、幸福とは挑戦に打ち勝つことだ――すなわち、意志の健やかな活動を感じることなのだ。』

    「意志」を整理しておきます。A 超越意識の意志。B 潜在意識の意志。C 顕在意識の意志。

     潜在意識の働きを、「ロボット」の一語に集約して話を続けますと、世の中には、潜在意識の素晴らしさを、ぜひ活用しようという本が、いろいろありますが、その本を読む時には、次の、西塚さんのお言葉を、ぜひ思い出したいと思います。

    『あくまでも人間の活力ある意識活動が初めにあって、それからロボットが効率化をはかるのである。』

     さらに「コンピューター」という言葉で考えます。
    「顕在意識コンピューター」の性能は、「潜在意識コンピューター」の性能より、遙かに劣ります。しかし、「潜在意識コンピューター」の性能が、「顕在意識コンピューター」の性能よりも遙かに素晴らしくても、そのコンピューターの働きは「潜在」しているので、地上の今ここの旅で、何を考え、何を志向し、何を選択し、何を意図するのか、ということは、「顕在意識コンピューター」の役割です。
     その意味で、西塚さんのお言葉は、「潜在意識コンピューター」の素晴らしい性能を越えて働く、「顕在意識コンピューター」の、燦然と輝く「顕在」機能の素晴らしさに光を当てておられると思います。

     ニーチェの、幸福についての定義は、味わい深いですね。しかし、「顕在意識コンピューター」の素晴らしさを目の当たりにする意識に、緊急課題が浮上します。

    『しかしわれわれは意志することの九十九パーセントをロボットに譲り渡している』

     これは、「潜在意識コンピューター」の性能が、「顕在意識コンピューター」の性能よりも遙かに優れているために、顕在意識が「思い」をプログラムして実行しようとすると、潜在意識が自分に都合のいいようにそのプログラムをコントロールしてしまうからだと思います。

     この「潜在意識コンピューター」のコントロールを抜け出すことは、ドジな私なので強調させていただきたいのですが、極めて困難です。なぜなら、その働きかけは、「潜在」した働きかけです。ということは、その働きかけは、外から、このように思いなさい、とか、このように考えなさいという形で働きかけるのではなくて、その働きかけが、あたかも自分自身がナチュラルに思ったり、考えたりしたように顕在化しますからチェックの網をかけるのが極めて困難です。また「潜在意識コンピューター」のコントロール・パワーは、顕在意識の実行を様ざまな角度から混乱させます。

     ここで、西塚さんのご指摘を、シンプルに整理します。
    「虫の見かた」から「鳥瞰」に変わることで、「気づくこと」ができる。そして、「ロボット」にまかせていては、そのような気づきは、得られない。

     そこで、決定的に重要なことは、『「ロボット」から意識的に離脱し、本来の自分を生きるということ』だと思います。

     その探求が、『盤』で進められているということは、とても素晴らしいことだと思います。その探求は、日本各地で、また世界各地で進められていると思います。なぜなら、時は、迫っているように感じられるからです。

     私は、心の師と仰ぐ岩根先生のビジョンをもとにして『「ロボット」から意識的に離脱し、本来の自分を生きる』探求を、私の一人旅を通して実行し、継続しています。

     私は、一人でやっていますけれども、『盤』での探求や、日本各地での探求や、世界各地での探求との、時空を越えたシンクロニシティに励まされて私の一人旅は可能になっていると思っています。皆様、いつも、ありがとうございます。

     実に、多種多様な『「ロボット」から意識的に離脱し、本来の自分を生きる』アプローチが地球各地に存在し、それぞれが、シンクロニシティへの深まりを促す内観を通して、時空を越えた連携を進めていると思います。
     またそれと並行して、自分の立場以外の探求に対しては、検証を踏まえて、その未知の可能性を評価し、お互いを励まし合う姿勢を維持する時、シンクロニシティは、さらに多層的に、地球全土に働きかけると思いますし、そのように信じています。

     西塚さんがまとめてくださったセミヤーゼの会見内容について。

    「中には不快な同時代人も多く、一種の野蛮状態にあり、そのひどさは地球人とほとんど変わらないほど」

     地球で乗り越えなければならない不調和が、「別の太陽系」においても、そしてそれが地球との絡み合いにおいても存在すると言うことは、複数の太陽系という、拡張された宇宙のありようにおいても、地上のスッタモンダが拡張されているということで、まあ、太陽系は異なっても、地球人を含めた宇宙人というのは、似たもの同士なのだなあ、と思いました。

    「偉大な知識を獲得して生命圏から解き放たれた生物種」

     セミヤーゼが地球人に情報提供してくれるのは、セミヤーゼと地球人の間に「縁」があるからだと思います。「縁」を、一般化して「つながり」と置き換えてセミヤーゼの情報に眼を向け直すと、「偉大な知識を獲得して生命圏から解き放たれた生物種」が存在する波動域と「つながる」波動を持つ様ざまな情報を、セミヤーゼはこれまでのアクセスを通してプレゼントしてくれているのではないかと思います。それらの情報をピック・アップし、「偉大な知識を獲得して生命圏から解き放たれた生物種」が存在する波動域が有する精神構造を手応え豊かに感じさせてくれる方向で編集して私たちにプレゼントしてくださるサポーターや、そのような内容を持つ記事の出現を楽しみにしています。

     その構造を浮き彫りにしてくれる情報群は、地球人の『発展』に多様に寄与してくれると思います。なぜなら、あらゆる情報は、生命の多層的な全体構造とシンクロナイズした多様な「部分」として、その情報を求める多様な個人の、多様な必要性を満たしつつ、その「部分」を通して、受益者の、次の一歩の前進、発展、進化を促す全体から、新しい情報を気づきとして、つまり「未来の先渡し」として贈られると思うからです。

     自分の暮らしの全体を通して、気づきを深めて、その贈りものを、暮らしの中で活かすことが、セミヤーゼの『手助け』に敬意を持って応えることに「つながる」と思います。

     セミヤーゼのメッセージについて、見晴らしのいいまとめ方をしてくださって、西塚さん、ありがとうございます。(セミヤーゼも、このようなまとめ方を喜んでいるのではないでしょうか。)

     好本健一

    • nishi より:

      好本様

      ポストありがとうございます。
      返信が遅くなってすみません。

      いやはや何とも熱量があり、
      圧倒されます。

      >しかし、地上から宇宙の源に向かう意識進化の旅においては、かつての魂の旅の出発点が「最終到達点」なるという点がおもしろいと思います。要するに、「最終到達点」に達すると、そこで反転が起こり、「最終到達点」は、「最終展開地点」に向かう「出発点」になると思います。(「パラドックス」には、「反転」という、宇宙の「理」が秘められているのではないでしょうか。)

      そうですね。
      ことごとくに反転があるようです。
      それでいながら、
      「進化」の方向へとうながす「力」もあるようですね。

      そうじゃないと、蚊取り線香のような渦巻きの上をぐるぐる回ったり、
      リスが回し車をくるくるま回すだけになる可能性があります。

      しかし、大きなサイクルというか、定めというか、
      ビリー・マイヤーふうに言えば、オキテといいますか、
      そういうものが働いて、一定の期間で、
      地球なら地球丸ごと進化させる力が働くようです。

      そのときは、
      それまでの輪廻転生のやり直しは効かず、
      しかも、そのことをほとんどの「神」すらも知らないという…
      いろいろ調べても、そう考えるしかないようです。
      うまくできてますね。

      となれば、
      2013 年以降の「予言」には気をつけなければなりません。
      「神」さえ知らないのですから、
      ましてや人間の思い込みによる予言などは、
      大したものではないでしょう。

      話が逸れました。

      たしかに反転があり、
      その反転をも含めた大きな循環を進化させるという、
      大きな力があるようです。

      >その忘却に対して、またそのカバー掛けという、自分を「岩戸」に閉じ込める振る舞いに対して、それを B&Cに、どのように気づかせるのか、ということが、地上の暮らし全体を充実させる気づきの提供も含めて、Aの最大の課題だと思います。

      A とは、どういう存在でしょうね。
      超越意識の自分とは、いったい何でしょうか。
      A=B=Cであることは間違いないと思いますが、
      ここで数学の=を使うと、またややこしくなりそうです(笑)。

      >(シニカルな視点は捨てますが、イーサン・ハントは好きです。)

      私も好きですねえ。
      なぜって、周囲が全員「Impossible!!!」
      と思っているのに、
      自分を信じて行動するからです。

      >岩根先生のビジョンに、「降りる道」と「登る道」があります。私の受けとめ方ですが、「降りる道」とは、次元降下であり、「登る道」とは、次元上昇です。B&Cは、徹底して「登る道」を歩む必要があると思います。

      2 歩下がっても、3 歩進みましょう!

      >潜在意識の働きを、「ロボット」の一語に集約して話を続けますと、世の中には、潜在意識の素晴らしさを、ぜひ活用しようという本が、いろいろありますが、その本を読む時には、次の、西塚さんのお言葉を、ぜひ思い出したいと思います。
      『あくまでも人間の活力ある意識活動が初めにあって、それからロボットが効率化をはかるのである。』

      これは、コリン・ウィルソンの言葉ですが、
      私もそう思っているので引用しました。

      「人間の活力ある意識が初めにあって」しかるべきですが、
      中には、とんでもない方向に活力がある人もいるので、
      ちょっと言葉が足りなかったかもしれません。
      そう受け取る人はいないと思いますが・・・

      >その意味で、西塚さんのお言葉は、「潜在意識コンピューター」の素晴らしい性能を越えて働く、「顕在意識コンピューター」の、燦然と輝く「顕在」機能の素晴らしさに光を当てておられると思います。

      おっしゃる通りです。
      なんだかんだ言っても、
      私たちが長年つきあっていく連れ合いみたいなものですから。

      けんかしたり、いやみを言ったり、罵倒したりは当たり前で、
      むしろ、ごまかしたり、ウソをついたり、
      いつまでも憎んだりしていたら、
      他人との関係と同じで、いつかおかしくなります。

      ましてや自分なのですから。
      本音でつきあいたいですね。

      >これは、「潜在意識コンピューター」の性能が、「顕在意識コンピューター」の性能よりも遙かに優れているために、顕在意識が「思い」をプログラムして実行しようとすると、潜在意識が自分に都合のいいようにそのプログラムをコントロールしてしまうからだと思います。

      >この「潜在意識コンピューター」のコントロールを抜け出すことは、ドジな私なので強調させていただきたいのですが、極めて困難です。なぜなら、その働きかけは、「潜在」した働きかけです。ということは、その働きかけは、外から、このように思いなさい、とか、このように考えなさいという形で働きかけるのではなくて、その働きかけが、あたかも自分自身がナチュラルに思ったり、考えたりしたように顕在化しますからチェックの網をかけるのが極めて困難です。また「潜在意識コンピューター」のコントロール・パワーは、顕在意識の実行を様ざまな角度から混乱させます。

      私は、顕在意識を覆うものこそ、最大限に警戒すべきだと思います。
      潜在意識は、ポジティブだろうが、ネガティブだろうが、
      発動するときには発動します。

      しかも、潜在している「もの」の、
      そもそもの入り口は顕在意識です。

      顕在意識が何かに覆われていると、
      自分にとって取り入れていいものかどうか、
      潜在させていいものかどうかの判断ができなくなります。

      その何かとは、
      先入観だったり、思い込みだったり、
      イデオロギーだったり、信仰だったり、
      あるいはそれらを利用した洗脳だったり、
      いろいろあるでしょう。

      いずれにしても、
      取り入れたものに見合ったものが潜在していきます。

      だから、顕在意識は常に磨いておかなければなりません。
      磨くと言っても、ただ意識的であればいいだけです。
      そして、素直に自分で判断すればいいのだと思います。

      >「縁」を、一般化して「つながり」と置き換えてセミヤーゼの情報に眼を向け直すと、「偉大な知識を獲得して生命圏から解き放たれた生物種」が存在する波動域と「つながる」波動を持つ様ざまな情報を、セミヤーゼはこれまでのアクセスを通してプレゼントしてくれているのではないかと思います。

      マイヤーの本によれば、
      セミヤーゼたちは今の人類に責任を感じているようですね。
      だから放っておけないみたいです。
      セミヤーゼと私たちは同じ祖先を持っているようです。
      と、本にはあります。

      西塚

  4. 好本健一 より:

     西塚裕一様

     ご返事ありがとうございます。

    『超越意識の自分とは、いったい何でしょうか』

     これまでの複数の投稿でいくつかの角度から述べてきた通りですので、ご自由にお受けとめいただきたいと思いますが、それらすべての文章をひと言でまとめると「仮定」になります。自分の人生のすべてを賭けて、自分自身に向かって実証していく以外にないものだと思います。

     やはり、そのプロセスは、気の武術の修行に似ています。気の武術の修行においては、師の指導が不可欠なのと同じように、「超越意識の自分」と一体化するには師の指導が不可欠だと思います。

     そのプロセスは、『光あるうちに』に投稿した文章の「光」の言葉を「超越意識の自分」に置き換えれば、その文章の全体が、そのプロセスになります。ただし、『光あるうちに』に投稿した文章には、師の指導については、いっさい省かれています。

     好本健一

    • nishi より:

      好本様

      お返事ありがとうございます。

      そうですね。
      この世は稽古に似ているかもしれません。
      ぞれぞれの「道」を歩む「場」、つまり「道場」なのでしょう。
      稽古の面白さ、厳しさなどもまたそれぞれにあって、味わい深いです。

      西塚

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