だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

『盤』第 7 回終了!

報告が遅れてしまった。
先日、『盤』の第 7 回が無事終了した。

どういうわけか『盤』の開催日は台風に直撃される場合が多いのだが、季節柄なのか何なのか、もう 3 回くらいそうなのである。

中央線、総武線ともに夜に運休になることも早くに知らされていたし、参加者の方からも欠席が相次いだ。参加していただいた方には感謝します。

私は、今回のテーマのために資料作りに勤しみ、勤しみすぎて止まらなくなり、結論から言えば、やはりそういうことだったのか……的なことにたどり着いたかもしれず、それを参加者と語り合おうと思っていたが、参加者が少ないこともあり急きょ会場を酒場に移し、映画『台風クラブ』めいた興奮もともなったのか、いつもなら番外編で突入する酒盛りをハナから開いてしまった……orz。

いわゆる「2039 年」問題だが、もっと正確に言うと「2037 年」から「2041 年」にいたる問題で、これは「ヒトラーの予言」や「ヌーソロジー」、一連の大本系(とされる)お筆先や神示に関連させて、いろいろと多くの人が解釈・分析を行なっているし、上記以外にも「聖書」を含むかなり多くの文献や人物が語っていることだ。

実際、この世のいわゆるスピリチュアルな文献は、この世の仕組み(宇宙、つまり人間の身体と意識の関係と生成サイクル)と、この世の生き方に関する指南書、備忘録のようなものであり、この世は、それらを熟知する存在がいろいろな立場で主導権を握ろうと画策していたり、それらを曲解・誤解した存在が我田引水の情報を流して混迷を拡大したりしている。

そして、私たちのほとんどは前者が仕込んだ「世界」に依存して生きていき、一部は後者の提示する世界観に依存して生きていくか、または別の生き方を生きていく。

この「別の生き方」は決して新しい生き方ではないようだ。

Commentコメント

  1. 好本健一 より:

     西塚裕一様

     私は、『「2037 年」から「2041 年」にいたる問題』を、《今》の問題として受けとめています。《今》については、少しずつ語ります。まずひと言、地上の「今」と対比すると、《今》とは、未来の「今」になります。《今》へ向かう、今ここの旅は、まず地上の旅になります。地上の旅は、不可逆的に「過去→現在→未来」へと流れる時間軸に拘束されています。拘束されている意味は、不可逆的な時間軸を根本から超越した世界に参入する旅を終わらせるためだと思っています。「根本から」という意味は、地上の旅は、輪廻転生システムによって、不可逆的な時間軸の波動域の上位に位置する波動域とリンクして営まれていますから、そのリンクした波動域をも「根本から」越えて、輪廻転生システムの外に出ることを意味しています。私は、(大雑把な見方ですが)輪廻転生システムとは、主に相対界のシステムではあっても、絶対界のシステムとつながっているので、輪廻転生システムを相対界のシステムとしてのみ受けとめると、絶対界とのつながりを切り離すことになると思います。そうすれば、そこには普遍性が消失すると思います。しかし、絶対界の中に、輪廻転生システムを位置づければ、それによって、そこには、失われた普遍性が回復すると思います。その意味は、誰もが、一人残らず、輪廻転生システムを越えて救われる、ということです。(そして、「救われ」を求め「救われ」を得るのは、個の発心、個の課題になります。)「輪廻転生システムの外に出る」その時とは、今ここの旅の修行が成就した時です。それが《今》になります。地上の「今」が絶対界につながることによって《今》になります。修行が成就した《今》とは、地上のすべての旅を超越した《今》であり、地上に対して上位の波動域におけるすべての学びを超越した《今》であり、そしておもしろいことに、その《今》とは、同時に、(正確には―等時に)不可逆的な時間軸のすべての旅のエピソードを包み込んでいる《今》であり、それらのエピソードのすべてを「進化」に向けて応援している《今》であり、輪廻転生システムに組み込まれたすべての個の旅を、多層的に、最大効率で、地上の「今」において深化させる働きを展開する《今》だと思います。なぜなら、その《今》を構成するすべての生命たちは、多様な目的のために複数のグループ活動を展開してはいながらも、その全体における個は、「多」でありながら同時に「ひとつ」である生命形態において地上のシンクロニシティを多層的に推進し、同時に多層多重宇宙のすべてのシンクロニシティをも推進している生命体だと思うからです。そして、その生命活動は、《今》が持つ多層的な調和の知恵と力を、不可逆的な時間軸に拘束された個によって演じられたすべての過去・現在・未来の「今」(=意識活動によって個別に形成されたエネルギー)を《今》とつないでその知恵と力を、それらすべての「今」に送り込んで、その「今」を旅する様ざまな個の探求成果を踏まえて彼らの歩みを、より軽く、より精妙に、よりパワフルなものに向けてシフトさせていくと思います。私は、《今》へ向かう、今ここの旅を、とことん充実させることが、『「2037 年」から「2041 年」にいたる問題』への対応策であり、解決策だと思っています。また、『「2037 年」から「2041 年」にいたる問題』を提示してくださる西塚さんの探求姿勢は、《今》へ向かう、今ここの旅を、とことん充実させようとしている私への、とてもありがたい励ましになります。「そうなのか、時は、迫っているのか。それならば、私の、《今》へ向かう、今ここの旅に気合いを入れ直さなければならないなあ」と思いますから。ぼんやりした記憶しかありませんが、禅か、(もしくはこれまでにふれた情報からヒントを得て組み立てた表現、ということになりますが)「何もしなくていい。今ここに存在しているだけでいい」という(逆説的なニュアンスを持つ)探求の言葉があったように思います。その「今」は、《今》とつながっているように感じます。《今》に存在していれば、何もしていなくても、あらゆる生命活動とシンクロナイズして動いていることになり、当然、思いも行いもそのシンクロニシティから促されて営まれていきます。そして、ただシンクロニシティから促されて動くだけでなく、多層的な波動域と多様につながる個の思考と行動に対してもシンクロニシティを通して働きかけていることになります。宇宙の、異なる波動域における生命活動、つまり多層的な生命活動を、不可逆的な時間軸に拘束された言語を用いて描写しようとすれば逆説的な表現にならざるを得ないと思います。ある意味、矛盾したその「逆説的な表現」内容を、心に何のわだかまりもなく「行雲流水」の心境で旅するための修行が《今》へ向かう、今ここの旅だと思います。《今》に存在していれば、間の抜けたあくびをしていても、多層多重宇宙のあらゆる生命活動とシンクロナイズして動いていることになりますから、その修行が成就した未来に(私の今ここの旅がどれほどズッコケたものであろうとも)深く憧れます。私は、時には、顎が外れるほどの大あくびも楽しみながら、そして、その真っ最中においても、もちろんそれ以外の振る舞いにおいても、等時に、多層多重宇宙を、とことん愉快にクリエイティブに充実させて旅したいという大欲を抱いています。不器用で、ドジな男だからこそ安易に思い描く見果てぬ夢、と言ったほうが正確かもしれませんが。しかし、夢を持つことは、とても大切だと思います。夢については次のように考えています。「地上のすべての旅」&「その上位の波動域における学びの旅のすべて」、要するに輪廻転生システムに組み込まれたすべての旅の内容を構成するものとは、絶対界から投影された、相対的な夢だと思います。しかし、相対的な夢の中には、絶対界の夢の種子が宿されていると思います。ドリーム・カム・トゥルーという言葉がありますが、絶対界の夢を念頭におけば、そして相対界の夢の中にも絶対界の夢の種子が宿されていることを思えば、ドリーム・イズ・トゥルースdream is truthという表現がふさわしいようにも感じます。そして、地上の今ここの旅において、夢が叶うということは、本質的には、投影された絶対界の夢の種子が開花することだと思います。

     好本健一

    • nishi より:

      好本様

      ポストありがとうございます。
      熱のこもった文で、またまた圧倒されました。
      おっしゃることはよくわかります。

      2037年~2041年の話は、いろいろと厳選した文献をもとに考察すると、
      そうとしか考えられないという結果のひとつですね。
      ある種の目安といいますか、参考にはなると思います。
      今、簡単な形でまとめているところですので、
      レポートができましたらご案内します。

      要は、輪廻転生も含んだ大きな大きなサイクルがあり、
      これまでの聖書を含む海外を中心にしたスピリチュアル文献では、
      最後の最後のところがよくわからなかった部分が、
      わかったかもしれないということです。

      いずれにしろ、鍵は「日本」であり、
      「日本人」ですね。

      西塚

  2. 好本健一 より:

     西塚裕一様

     今回、『「2037 年」から「2041 年」にいたる問題』についての、私なりの「対応策、解決策」について書かせていただきましたが、「あとは、実行するだけ」ということで、五目舎様への投稿は、これで、一区切りついたように感じています。

    『「2037 年」から「2041 年」にいたる問題』についての「対応策、解決策」は、複数必要だと思います。それら、複数の「対応策、解決策」によって、私は、いつ、どこで、どなたから助けていただけるのか分からないと思いますので。

     ところで、『「2037 年」から「2041 年」にいたる問題』を自覚しようとしまいと、未来へ向けて、共に今を旅する旅人たちと、探求の、豊かな結実を分かち合う意志をお持ちの皆様は、その歩みの射程内に『「2037 年」から「2041 年」にいたる問題』の乗り越え策を、(くどいようですが)自覚しようとしまいと、毎日の暮らしの営みを通して着実に準備し続けておられると、私は思います。

     地上を旅する旅人の、(もちろん、私のことでありますが)ドジで、抜けているところが多々ある「準備」に対して、天の采配は、抜かりのないものだと信じています。

     あとは、乗り越えていくだけです。私の場合、アタフタ・ジタバタを持ちこたえながら。天の采配を信じて。

     好本健一

    • nishi より:

      好本様

      ポストありがとうございます。
      これまでの好本さんの膨大な論考にも感謝いたします。
      ご許可のもとに『盤』のレポートでも取り上げさせていただきます。

      >『「2037 年」から「2041 年」にいたる問題』についての「対応策、解決策」は、複数必要だと思います。

      そうですね。
      年代はさまざまな文献から導き出された、
      ひとつの結論めいたものにしかすぎませんが、
      問題は否定的な終末観・終末論が跋扈することですね。
      これまでにもそういうのはありましたが、
      今後はますます華やかになるでしょう。

      たとえばイエスは、
      マタイの24章、マルコの13章で終末の場面について話してます。
      そして、人に惑わされないように気をつけなさいと言います。
      戦争や戦争の噂を聞いてもあわてるなと。
      そういうことは起きなきゃいけないが、
      まだこの世の終わりではないと言います。

      そしてしつこいくらいに、
      目をさましていなさいと言うわけです。
      それがいつ起こるか誰にもわからないからと。

      これは言い換えれば、
      いつ起きてもいいようにしなさいということでしょう。

      そして、それはとりもなおさず好本さんのおっしゃるように、
      天の采配にまかせて日々生きていくことですね。

      この世の大もとは論理的に考えても、感覚的にも、
      喜びであり、希望としか言いようがありません。

      生きていること自体によくよく思いを馳せれば、
      これは当たり前のことですね。

      肯定的なものがあって、否定的なものがあります。
      決して逆ではありません。

      否定的なものに「力」を与えることができるのは、
      私たちだけです。

      否定的な要素を用意周到にばらまく存在たちは、
      そのことをよく知っています。

      OCOTは、
      思考によって認識を変え、認識を変えることによって感覚を変える。
      感覚の変化は感情を凌駕し、
      人間の意識全体をまったく別のものへと変容させていく。
      意識進化とはそういうものだと言います。

      国常立尊も、
      闇を光に、不秩序を秩序に、不調和を調和にする「力」が、
      私たちにあると言うわけです。

      だからゼランドが言うように、
      私たちは妙な存在たちの否定的なワナに、
      引っかからないようにしなければなりません。

      否定的なものごとに自ら「力」を与えて、
      それに自ら縛られるようなことのないようにしなければなりません。

      それにはやはり、
      今の世ではまず「知識」が必要なんですね 。

      また、ときどき遊びにきてください。

      西塚

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