だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

飛んでイスタンブール

知人からブログの更新が遅いとたしなめられ、「わかった毎日更新する」と熱燗をあおりながら言ったら、目を光らせて「いや、5 日にいっぺんでいい」と言われ、これは私の性格を見抜かれているなとちらと思った。

毎日なんてどだい無理なんだから、5 日に一度更新するようにすれば、せめて週に一度は更新されるだろうということかもしれないが、たしかにそのおりだと思ってそうしていたのだが、それも数回までで、前回の更新から調べるともう 10 日以上が過ぎていることがわかったのだった。

今、編集を請け負っているいくつかの書籍が佳境で、最後の確認作業に入っているが、ただでさえ遅れていて迷惑をかけているので、集中して作業をしているとアッと言う間に数日が経つ。

本当に浦島太郎のように時が経つのだ。

そして私の場合、ブログを書き出すと止まらなくなり、ブログを書くことが何よりも大事なことのように思われてきて延々と書き綴ってしまうところがあり、はっきり言ってそれがどこか恐ろしく、なぜなら他の仕事が止まってしまうからなのだ。

そういう意味では、いわゆる “ネタ” に困るということはまったくなく、書けばいくらでも書けてしまうっても、大した内容でもないから書けるんだろうし、重要と思っているのは自分だけだろうとも思っているが、ともかく請け負った仕事が多い場合は、結果的にブログから遠ざかることになるが、先の知人の言もあるので、というかそういう助言はありがたいので、今、あらためて最低 5 日にいっぺんの更新はしようと思った。

知人っても地元の西荻に住む同好の士というか、平たく言えば飲んだくれの仲間だが、彼は自分の友人たちに私のことを「 UFO 仲間」と言ってるらしい。

私はうまいことを言うなと感心したが、たしかに私たちが話していることは何というか誤解もされやすく、ヘタすりゃカルト宗教かスピ系の頭の弱い人たちとされてしまうが、UFO 仲間と言うとどこかムツゴロウとゆかいな仲間たちみたいで、可愛くて許されるような感じがあるじゃないですか。ない?

これも考えてみれば、テレビのバラエティ番組とかユニークなオカルト評論家のような人たちの功績かもしれず、そうしたジャンルがあるおかげでヘンに頭の固いというか意固地な陰謀史観を持つ正義漢たちがまき散らすような、これまたヘンに真面目な人たちが取り込まれやすいズレた “お話” を換骨奪胎するというか、少なくとも距離をおく余裕をもたらすエンタメに変えてくれるのだから、まだだいぶ健全だとも言えるだろう。

一方、重要な “お話” もまた同時にワヤにされる可能性もあるわけだが、何が重要であるのかないのかは、最終的には発信する側と受信する側が織りなす “世界観” の中からおのずと現われてくる。

大事なことは、受信したことをそのままバケツリレーや伝言ゲームのように他に渡さないということだろう。受け取ったものをせめて一度くらいは自分で検証し、自分で納得し、これは人にも役に立つだろうと思うことであれば伝えればいいし、というか伝えなければならないだろうし、そうでなければ控えたほうがいい。

ホイさホイさと次から次へと渡されたものを無批判に人に渡していくと、引っ越し作業なら効率はいいだろうが、もし 1 分後に爆発する爆弾でも混じっていたら、どこかで何人かが爆死することになる。

受け取った時点で誰かが、あれ待てよと流れ作業をふと止め、何かヘンだなと耳を当てたらカチカチと音がしている、これ爆弾じゃね?となれば、しかるべき対処をすれば誰も死ななくてすむのである。

ふと気がつくには、普段から意識的であるしかない。

何も四六時中、神経をピリピリさせて疑心暗鬼になるということではなく、自分の思考の流れや内容を意識するということだ。

自分の思考に意識的でさえあれば、雑多に移ろう思考にほだされたり振り回されたりすることもなく、川を流れていく小舟の舵とりができるようになり、そうしていくことでやがて周囲の風景に目をやる余裕もできてきて、やがては景色の様子が変わることにもふと気づくようになって、ありゃこれはきっと滝が近いぞとか、大きくふた手に分れた川でも、今までの “感じ” からこちらに行ったほうがよさそうだということがわかるようになるのだ。

じゃ、どうやってうまく舵をとればいいのかと言えば、これはもうとにかく “自分で” 舵をとって学ぶしかない。

「舵のとり方」みたいなマニュアルはいくつもあるが、どのマニュアルでもいいから自分でマニュアルを使いこなすというか、とにかく自分でああでもないこうでもないとやって学ばないと先へ進むことができず、ヘタすりゃマニュアルの読み方というマニュアルを探すことに時間を割くハメになる。

この先に滝があるとわかるマニュアルとか、川がふた手に分れているときにどちらに行けばいいのかわかるマニュアルなんてものを探さなければならなくなり、それがまた何種類もあるとくる。

そのうちそれも面倒くさいというか、そのマニュアルが正しいのかどうか、自分の判断力にも自信がなくなってきて、どうやら貨物船のような大きな船があるらしいということを聞きつけると、その船に自分の舟ごと預ける決心をしたりしてようやく安心し、しばらく遊び呆けていたら、それは奴隷船だったということがわかったりする。

振り返れば、誰にでも自分の舟がちゃんと与えられているのだから、そもそも自分で舵をとって好きなだけ好きなところへ行けばいいわけで、それはそれだけで楽しいことのはずなのだ。

自分の行き先は、舟を乗りこなしていけばそのつどわかってくる。むしろ、そういうふうにすることでしかわからないようになっているから、誰かに決めてもらうことはできないし、決めてもらったとしても心底、自分で納得することはできないだろう。

ちょっとややこしいのはいわゆる “洗脳” というヤツで、こういう言葉はあまり使いたくないのだが、先の伝で言えば、自分で舟を乗りこなしながら得たものではなく、幼いころから周囲の環境によって思い込まされたものとか、何かのきっかけで物事がうまくいった経験が続くなどして、ある特定の事柄を自分の “方法論” として自身に組み込み、それにしがみつくといった場合は、その人の世界観のようなものはなかなか崩れない。

その信念のようなものが、その人や周囲の人にとって喜ばしいものであれば何も問題はないが、そうではない場合、その人の内面が少しずつ侵されていき、いずれは必ず自分で気づかされることになる。

もちろんそれは個人レベルだけではなく、この世はすべて相似象として現われているから人類レベルにも言えることで、人類が創り上げてきたものが人類やその周辺、つまり地球環境とか近隣惑星、太陽系といったことだが、そうしたものと調和しない方向に向かっているとすれば、当然、人類がそのことに気づかされるような事象が現われてくるわけで、それが内容にディテールの違いはあるものの各宗教が説く “終末観” につながるのだ。

終末観と言えば、わが家は CATV なのだが、ここのところそうした “終末” を思わせるような番組が放映されていた。

ひとつは TBS のドラマ『岸辺のアルバム』だって古いねどうも。1977 年のドラマだから、まともに知ってる人は間違いなく 50 代以上だろう。

実は私はなぜか当時は見てなかったのだが、今回初めて観て、何だこれは “洪水伝説” とかいわゆる “立て替え・立て直し” の話ではないかと思った。

もちろん、当時からドラマの評判や多少の内容、たとえば、あ、ここから先はいろいろネタバレってヤツになるかもしれないから一応断っておくが、ともかく当時は良妻賢母のイメージが強かった女優・八千草薫の不倫というテーマや、実際に起こった多摩川の氾濫で住宅が流されるという事件に題材をとっていることから話題性はあったから、私もドラマの存在自体は知っていた。

でも、これも観たことはないのだが、話題になった不倫ドラマ『金曜日の妻たちへ』のようなものだろうと思っていたわけだ(金妻のほうが放送は後だが)。

だから、途中からだったにせよ、『岸辺のアルバム』を観たときは何とも言えない気持ちになったのである。

内容は簡単に言えば、一流商社に部長として勤める父親と献身的で家庭的な妻、勝気だが美人の長女と浪人中のイケメンの長男という、一見絵にかいたような幸せな 4 人家族が多摩川の堤防そばに建てたそこそこの家に住んでいるという話なのだが、父親の会社は一流商社の仮面の裏側で東南アジアの女たちを風俗店?にあっせんしていたり、母親が不倫をしていたり、長女が外人にレイプされて堕胎したり、長男もいわくある女とつき合っているが、物語はこの長男の目を通して展開されていく。

家人の各秘密をすべて知った長男は、それぞれの秘密を知らない・知らせない欺瞞家族自体が “インチキ” くさくて耐えられず、最終回近くですべてを暴露し、家庭内は騒然として嵐が吹き荒れるのだが、実際に外でも異常な大雨となり多摩川が氾濫、堤防は決壊し、父親の汗の結晶、家族や豊かさの象徴でもある一戸建ては流されてしまうことになる。

結局はみなで一からやり直すという、文字どおり雨降って地固まる的な最後であり、言ってみれば、大本神諭にはじまって日月神示、火水伝文、またその先へと連なる国常立尊いうところの “立て替え・立て直し” の話にも通じると言えば通じるのである。

そうした “破壊と創造” をテーマとした作品はベタでもあり、珍しいものではないが、要は放映のタイミングだ。

この『岸辺のアルバム』を観たあと、同じく CATV でアニメ映画の『 AKIRA 』が放映された。

この作品は私があらためて紹介するまでもなく、1982 年に連載された大友克洋氏の有名なマンガが原作である。そして舞台は 2019 年の “ネオ東京” であり、2020 年には “東京オリンピック” が控えているという設定。そしてその東京オリンピックの会場となるスタジアムの地下だかに、AKIRA と呼ばれる “目覚めさせてはいけない” 存在が “封印” されているというわけだ。

そしてそれを目覚めさせるのが、元は気弱な少年だったが、後にとてつもない超能力を発現させることになる鉄雄であり、鉄雄はその能力を絶望的とも言える破壊的な力として使用することになる。

その鉄雄に対する元親分格の青年が金田、そしてその女友だちがケイだ。

おそらく『 AKIRA 』の内容は、“その筋” では予言書のように扱われていると想像するが、実際検索してもそれらしき記事が出てきた。

私は大友氏のマンガは大学に入りたてのころに、それこそご多分に漏れずといった体で『ショート・ピース』や『さよならにっぽん』、『気分はもう戦争』、『童夢』などを読んだクチだが、『童夢』のテーマや超能力による破壊描写に新鮮さを感じたほか、その後の『 AKIRA 』などの作品には興味がなく、内容も近未来を扱ったものなのだろうという程度のことしか知らなかった。

むしろ私の子どもたちのほうが詳しく、私がボケーッと居間で『 AKIRA 』を観ていたら、あ、アキラじゃん、これは当時ものすごいお金をかけたんだよねとか、あの金田のバイクは今でも人気が高く、外国でもコスプレして乗ってるヤツがいるとか一丁前の口をきく。

んなことはともかく、私が興味を魅かれたのは、この放映のタイミングや今の時期ということもあるが、“鉄” 雄と “金” 田との対決であるということや、超能力者としての実験対象となった子どもたちが、それぞれキヨコ= 25 号、タカシ= 26 号、マサル= 27 号、アキラ= 28 号であり、鉄雄が 41 号として採用されること、また金田のガールフレンドで超能力に感応する能力を持つ女の名が “ケイ” であるということのほうだ。

これらのキーワードのいくつかは、「ヌーソロジー」を知る人の中には何かに気づく人もいるだろうし、私としては、出口直や王仁三郎、岡本天明や我空徳生氏、その他外国の何人かに降りている神託、いや啓示としておくが、そういうものと源を同じくしていると指摘しておきたい。

実際、まだほかにもいくつか例をあげることができるが、60 年代後半から 70 年代、80 年代前半までのマンガ、特に少女マンガの中には、今から見ると「これはどこから降りてきたのか?」と叫びたくなるものが少なくない。

このことは何もマンガだけではなく音楽もそうであり、その当時や今でもただのヒット曲でしかない作品も、その詩の内容がとんでもないことを暗示しているのではないかといったものがある。

これは実際に作品を作った本人も気づかないだろうし、そんなつもりもないだろうが、実は珍しいことでもなく昔からある形式であり、古代ではそういう関係を当たり前のように “神” と “巫女”(霊媒、シャーマン、媒体)との関係でもたらされる “神託” とされていたわけなのだ。

だから神、いや神などといわなくても、霊でもビーコンでも表現はいろいろあっていいが、あるエネルギーがある表現としてこの世に顕われる場合、そのことを可能にするのにふさわしい身体や内面を持った媒体(人間)を通じて、歌やマンガ、その他の作品となって現出するということがあるということだ。

だから、アーティスト自体は本人なりの理由があってあるテーマをとり上げたり、状況を設定したり、登場人物の名前をつけたりするわけだが、本人の理性的な理由でも直感でも、もともとはどこからくるのかということである。

そして、またしてもこのタイミングで、トルコのアナトリアで世界最古の人工的に作られた “鉄” が発見されたというニュースが流れるわけだ。

要するに、これまでの “定説” では、鉄は紀元前 1200年~1300 年にヒッタイト帝国が製造しはじめたことになっており、その製鉄技術をもって周囲を征服したとされていたが、今回見つかった人工鉄はそれよりも約 1000 年前のもので、世界史の常識が覆る発見とのことである。

しかも、同じ発掘現場では石やレンガではなく、“木造” の住居跡も発見されたというから、つまりヒッタイト帝国の前にヒッタイトに製鉄技術を伝えた民族がいるということであり、その民族は木造住宅に住んでいたということになる。

そして今回、世紀?の発見をしたのは、アナトリア考古学研究所・大村幸弘所長という日本人であった。

出口王仁三郎の『霊界物語』には神代の時代のことが詳細に書かれているが、天と地のうち “地の先祖” といわれる国常立尊の神政時代には、まだ国境はなく、聖地エルサレムを “地の高天原” として、国常立尊のもとに天使長をおいて世界を治めていたとあるが、その聖地エルサレムは今のエルサレムではなく、先の人工鉄の発見現場である古代アナトリア、つまりトルコにあったとされるのである。

まあ、キリがなくなるというか、仕事に影響するのでこのへんにするが、これからもいろいろと連関しながら、これまでの “定説” やら “常識” が覆る “発見” があることだろう。

これも当たり前で、これまでの定説や常識をでっち上げたというと語弊があるが、なぜならまともなものもたくさんあるからだが、それでもまあでっち上げてきた連中の “親玉” が “改心” してどこぞへと葬られたので、今ある定説や常識は取り残された可哀想な手下たちが必死に守っているだけのものだから、それらがでっち上げである以上は、今後も “大発見” はあとを絶たないことになる。

明日は新元号の発表もあるし、この流れがどうつながるのか、ニュースにも注意したいし、ニュースの内容によっては細かいことにも触れていこうと思う。

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