だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

無題

やっと 1 冊の書籍の編集が終わったというか、正式にはまだ作業はあるが確認作業的なもので山場は越えた。

発売日はまだわからないが、これも相当によい本である。外国人の武道家による精神世界の話になるが、何と言っても実践的で活き活きとしているし、地に足がついている。

こういう本に出逢うというのも編集稼業冥利ともいえるが、私がもう自分の奥底が動き出す仕事以外はできない体になってしまったから出逢えたのかもしれない。

そうやってかかわった書籍の一覧ってもそんな数はないが、だからお金もないのだろうが、よくある最近の仕事一覧的なものは掲示くらいしておかないとまずいというか、そんなこともしない会社はないわなと思う。

HP のリニューアルもまだだが、とはいえリニューアルってほどでもなく、ずっと空白だった「宣言文」を書いたり、先の仕事一覧を紹介したり、終わってるけどアップしてないコンテンツをアップしたりということだ。

昨日の深夜、やっと 1 冊が一段落したところでふと思い出したのは、あれ? 昨日は尾崎の命日ではなかったか?ということだ。

たしか 4 月 25 日だったし、きっとテレビなどでも特集かなんかやったんじゃないだろうか。

なぜ、覚えているかというと、私は当時勤めていた会社の中ではでおそらく一番早く尾崎の死を知った人間だからだ。

その日、私は通常の雑誌関係の仕事かなんかをデスクでしていたのだと思う。その会社は芸能関係のチャートを作成したり雑誌を出版していたから、一日中音楽が鳴っているような職場だったが、私のすぐ後ろの棚にもオーディオがあってしょっちゅうレコード会社から渡されるデモテープや新曲のサンプルをかけており、そうじゃないときはラジオを流していた。

で、もう時間は忘れたが、お昼過ぎだったかどうか、ラジオからふと、歌手の尾崎豊さんが死亡した模様…的なコメントが聞こえたのだ。

私は、へ?となり、しばらく固まった。そのままラジオにかじりついたと思うが、よく覚えていない。それですぐに同じフロアの連中に、おい!尾崎が死んだらしいゾ!と騒いで回ったのだ。

そんなに広くもないフロアで人もまばらだったが、彼らは別に驚いたふうでもなく、特に女性なぞは、あ、そうなんだ的な顔をしている。

おい、尾崎が死んだんだぞ!と言っても、ハイハイ、尾崎が死んだんだね、そりゃ大変だわとしれっとしている。

バカかお前は! あの尾崎が死ん……

もう、忙しいんだから、今、ヅカさんの話につき合ってるヒマはないの!

……信用されなかったのである。普段からシーモンキーが大きくなったらチビゴリラみたいになるんだぞとかヨタを飛ばしてばかりいたから、また人をかつごうとしていると思われたのだ。ちなみにシーモンキーの話は本当なのだが。

ともかく、何度も今ラジオで言ってたんスからと、林家三平(もちろん先代)のように最後には泣きが入って言って回ったのだが、誰も聞いてくれない。

私はオオカミ少年の気持ちがわかったような気がした。といっても、私は普段から嘘をつくという習慣はなく、ちょっとしたネタを面白おかしく大げさにホザくくらいのことだ。

また、当時はネットもツイッターもないから確認のしようもない。芸能の世界を取材するような会社だったけれども、やはりテレビをつけるというのは憚られる雰囲気もあったのか、テレビもそばにないからテレビのニュースもわからない。

ラジオ局に問い合わせようともしたがやめた。実際、この耳で聞いたのは間違いないし、そのうち大騒ぎになるだろうと思ったからだ。

しかし、その後のラジオでもそういったニュースは流れず、おかしいなと思ったが、そのまま仕事をしていくうちに、夕方近くになって外回りの営業の人間あたりから情報が入りはじめ、会社の中もざわついてきた。

先の女の子なんか、私のところに飛んできて、ヅカさん!尾崎が死んだらしいよ!って血相を変えている。

だから、さっきオレが言ったじゃ……

どうして死んだんだろう、あ、◯◯さんが知ってるかもしれないって勝手にどこかに走っていく。すでに私が伝えたことすら記憶から飛んでるらしい。

今にして思えば、私はそのときに何かしらを学んだような気がする。

ともかく、時間的な経過の記憶は怪しいが、そんなことがあったので 4 月 25 日は記憶に刻まれたのだ。

尾崎は一度取材がしたかった。当時、会社では週刊誌を出していたから毎週表紙撮影があるし、ほかの記事でもインタビュー取材がある。かなりの人数の歌手やアーティストに会うわけだが、尾崎には一度も会わなかった。

今でも、覚せい剤で捕まって出てきて、『夜のヒットスタジオ』に出演するという情報を得たときはテレビにかじりついて見た。「太陽の破片」を熱唱したが、まさに鬼気迫るものがあり、おそらくテレビで歌ったのはあれしかないと思うが、ほかの歌手たちというかアーティストとは別の次元の時間が流れた。

てか、『夜のヒットスタジオ』は何か憑依するのか何なのか、ほかの番組とはちょっと違う雰囲気を持った番組だった気がする。よく言えばゴージャスな感じもあり、『ザ・ベストテン』のようなこれもよく言えばメジャー感とは違い、どこか重さというか昭和の暗さっぽいところもあり、『ザ・ベストテン』のような軽薄っぽさがない。

そういえば、中森明菜がヒットスタジオで「難破船」を歌ったシーンも記憶に残っており、スタジオには作曲した加藤登紀子と当時交際していた近藤真彦もいたと思う。

このときの明菜もどういうわけか鬼気迫る感を醸し出していたが、次の年には自殺未遂を起こすことになる。

また、ヒットスタジオ関係では例のキヨシローのタイマーズが放送事故も起こしていて、強烈な反原発を打ち出したタイマーズはリハーサルの曲を本番で差し替えて、♪ FM トーキョオー、腐ったラージオ♪とやりはじめ、あろうことか♪オ◯◯コ野郎♪と歌ったのである。

まあ、タイマーズの面目躍如たるものがあるが、生番組だからこそやらかせたわけで、今のように録画収録だったり、自分のセリフすらもプロンプターをなぞることしかできないような番組では起こり得ないことだ。

だから、またそこにはそのアーティストの人間臭さも現れているし、そのときの時代が持っている何かが、何千万人もの人間が視聴する場に出演する歌手やアーティストの生の肉体を通して、何かを訴えて出てくるのである。

しかし、考えてみればどれも同じような時期で、明菜が難破船を歌ったのが 1988 年、尾崎の太陽の破片も 1988 年、タイマーズが 1989 年だ。

まさにバブルの真っ最中というか、わからないところではバブルの翳りを見せはじめる時期でもあり、反核を掲げたライブイベントなども 1985 年あたりから野音で盛り上がっており、尾崎なんかも参加していたはずだし、当時東芝 EMI と契約していたキヨシローも反原発活動の影響ですったもんだあった時代だ。

そして、1989 年に昭和天皇が崩御し、明菜が自殺未遂を起こし、1992 年に尾崎も死んで、バブルも終わる。

特に天皇崩御の 1989 年を挟んで世界も大きく変化した。1989 年には中国で天安門事件が起きているし、ベルリンの壁も崩壊し、1991 年にはついにソ連が倒れる。

また、1989 年といえば 11 月 11 日に半田広宣氏に冥王星の OCOT からいきなり交信が入る年でもあり、1991 年からは中矢伸一氏の『日月神示』シリーズが刊行されはじめ、同じく 1991 年に我空徳生氏の『火水伝文』も手売りで販売され出すのである。

OCOT によれば 1989 年は新しい「定質の発振」がスタートする年であり、占星術の世界でも 1989~1990 年は「宝瓶宮時代」のスタートとなる。

どんな事象にも必ずその背後に動いているエネルギーのようなものがあり、そのある種のメカニズムに関してもいろいろなご高説があるわけだが、ここにきてもうすでに文科省の教科書的な世界観はすでに崩壊し、むしろネットで飛び交う未確認情報のほうが力を持ちつつあり、すでにそれを見越していた “いつもの” ヤカラたちがさまざまな “専門家” たちに目をつけはじめ、欲望を巧みに利用した誘導によって操作される(かもしれない)という、ちょっと危険な状況に今はあるといっていいと思う。

そのあたりは、何気なく流れる日々の一見重大ではないニュースや、身近な居酒屋のオッサンたちや、電車の中の会話っても最近は電車の中でわいわい話している連中をあまり見なくなった気もするが、そういうある意味 “生きた会話” の中に顔をのぞかせるものに注意していると何かがわかる。

特に芸能関係のような世界ではそれが生々しく現われ、それは “いつもの” ヤカラが操作しようがしまいが現われるもので、操作したならしたなりにその操作自体が露見するから興味深い。

なぜなら、人間が作るもので人間に大きな影響を与えるものは芸術とか芸能といわれるジャンルのものしかないからだ。

問題は、たとえばピカソやダリの芸術やダビヴィンチやゲーテの芸術など、芸術作品にもいろいろあり、それを評論する評論家の目というか感性が重要で、それは彼らが表現者だから影響が大きいからだが、よき評論家というのはやはり優れた芸術家にならざるを得ないということもあって、小林秀雄が典型だと思うが、小林秀雄タイプではない評論家は対象を描写する記録係やデータ収集家になるしかなく、すべからく人間は芸術家であるべきだと思っている私のようなヤツにとっては、そういう評論家や専門家は人間の理性のダメさかげんの側面のみを無意識に強化しているといわざるを得ず、それは先の “いつもの” ヤカラが待ってましたとばかり飛びつく御仁たちでもあり、それはそれでヤカラたちの常套手段でもあるということだ。

しかし、すでに日本列島のみならず世界を覆っていたスモッグのようなものは取り払われているので、それこそ私たちが『もののけ姫』のアシタカのように “くもりなきまなこで見定め、決めて” いけばいいだけなのである。

前回の続きを書くつもりだったが、尾崎の話を前置きにしたおかげで話がそこまでいかなくなったというか、時間がなくなった。

いずれにせよ、あの時代、つまり 1985、6 年から 1992、3 年というのは、何かへの移行期だったし、今、今年からまた大きな変化への流れがはじまっているのは間違いないのである。

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