だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

無題

あた、もうこんな時間ですか。てか、こんな日数に。

ちょっと前に記事を更新したと思ったがなあ…と言いながら、3 点リーダー( … のこと)を入れるあたりに余裕を見せようという打算が働いており、つまりはちょっとあせっているわけだ。

実際、いろいろと佳境で一日が早く、酒を飲む時間もないというか飲みに行く時間はなく、陸蒸気に石炭をくべるように酒自体は飲んでいるのだが、きかんしゃトーマスほどの働きはない。

まあ、ゴタクはともかく何か書こうと思うが、噺家のまくらみたいなものでパーパー言ってるうちに筆も進んでいくってもんだ。

相変わらずときどきヤフーでニュースをチェックするわけだが、それも実は請け負っている仕事の原稿の内容を確認するという意味でもあり、別にヒマつぶしではないのだが、それなりに情報を得るので「へえ」と思うことはある。

何でも吉本の芸人が解雇されたとか謹慎になったというが、反社会的勢力の忘年会だかで闇営業をしていたというのだ。

“闇営業” とは凄い名称だが、事務所を通さないで仕事を請けることらしい。でも、闇営業はともかく、反社会的勢力とつき合ったことがまずいというわけで、スポンサー絡みもあり、処分せざるを得ないといったところだろう。

しかしまあ、芸能会ではおなじみというか、特に吉本はというか吉本に限らないだろうが、昔から暴力団やヤクザとつき合っている芸人やタレントはたくさんいて、あまり古くなると芸能事務所自体が組の傘下みたいなところもあるからアレだが、芸能界では今後もなくならない不祥事のひとつだろう。

だいたい “反社会的勢力” ってのもよくわからないが、指定暴力団とか違法ビジネスをしている連中のことだと思う。

今回は振り込め詐欺グループということらしいが、そしておそらくヤクザ関係なのだろうが、これはまだわかりやすい部類で、詐欺となると投資関係とかネットワークビジネスなど一見まともに見えるがやってることはゴロツキだったりして、最近はなかなか見抜くことも難しく、芸能人も大変だと思う。

だから、ときどき投資関係やネットビジネス関係では、スポンサーになった企業があとになって何かヘマをしたり違法なことをしていたことがバレて、広告塔だった芸能人が叩かれるということにもなる。

そんなものは小さいものも含めて調べれば過去にいくらでも出てくるだろうし、これからもそうだろう。要は芸能人なら誰もが叩かれる可能性があり、そいつがわるいというよりはちょっとした流れでそうなるだけであり、テレビ番組がスポンサーありきで成り立ち、人の弱みにつけ込んで商売をする連中がいる限りは、そうした不祥事はなくならないということだ。

しかし、最近は社会から急速に寛容さがなくなっているようで、大して大騒ぎするほどのことじゃないだろうと思うようなことでも、違法行為であれば、あるいは違法行為に関係している連中と関係しているだけでも叩かれたりする。

逆に、違法行為でなければ何をしてもいいといった雰囲気すらある。

たとえば、最近も著名人がツイッターでいわゆる “年金デモ” を批判して炎上したが、そのやりとりは読むに堪えないというか、その著名人にしても言葉遣いは違法ではないのだろうが、ほとんどヤクザだ。

ボケ!とかクソ!とか、普段、まともな人間関係をとり結んでいる人であれば、まず使用しない言葉だと思う。

『アウトレイジ』という映画があったが、あそこで西田敏行演じるヤクザの幹部が相手を「ゴミ!」と吐き捨てていたが、あれと同じだ。要するにゴロツキの言葉である。

SNS の普及は測り知れない恩恵を人類にもたらしたが、こうした素人のゴロツキ化も可視化した。

つまり、反社会的勢力の連中でも、一般人でも、著名人・文化人でも、刑務所に入るときに素っ裸にされるように、余計なモノを剥ぎ取ればみな同じ人間であり、その人間の心性だけがオリジナリティとして現われる。

そしてそれは、反社会的勢力に属しているからねじ曲がっているとか、一般人だから凡庸だとか、著名人や文化人だから突出して優れているというわけではないのだ。

また、そのオリジナリティも実はフェイクであったりして、本人も気づかないまま妙ちくりんなキャラクターを演じさせられている可能性すらある。

そういう場合はたいがい、まずは突然キレたり、汚い言葉を使うということがひとつのバロメーターとしてあり、あと実は “顔” に出るのだが、これはまた書くこともあるだろう。

とにかく言葉は大事というか、本当に大事に扱わなくてはいけない。

すぐ、何の話だ?ってことになるが、最近聞きかじったことでいえば、てか立ち飲み屋の同好の士から聞いたのだが、なんだ外で飲んでんじゃんって責められると弱いのだが、本当にスーパーからの帰りがけにちょっと一杯のつもりで飲んでるだけなので見逃してほしいが、何でもサザンのコンサートでは酒が飲めなくなったらしい。

いや、これは誤解を受ける言い方だが、こないだサザンのライブが東京ドームで行なわれたらしいのだが、アルコールはいっさい禁止だったというのだ。

たしかに以前から会場によってはアルコールが禁止されるライブはあったから、別に珍しくはないがどうも引っかかる。

東京ドームにしても、野球観戦ではきれいなネーチャンがいまだにビールを売りながら観客席の間を腰をくねらせて練り歩いているはずだ。

まあ、サザンのライブともなればアリーナ席もこさえるから、その収容人数も半端ではなく、帰りの誘導にしても何かことが起きたらまずいってんで酔っぱらいを警戒したのだろうが、音楽のライブで酒がないってのもねえ。

酔っぱらいったってカッパライよりはいいだろうとは落語の先輩の言葉だが、まさにそのとおりだ。

実際、その同好の士の情報によると、毎年?行なわれている日比谷野音の沖縄関係のライブでも、いつもは参加しているアーティスト自らがみんな飲みながらパフォーマンスするというもので、ステージと観客がお互いに一体となって盛り上がるという楽しいライブらしいが、去年?からだったか、アーティストのほうはスポンサーだか主催側の意向だかわからないが飲酒ができなくなり、ちょっと盛り下がったらしい。

また、これも最近ヤフーの記事で見かけたのだが、毎年盛り上がっては何かしら騒動も起こる渋谷路上のハロウィンパーティーだが、今年?からかハロウィンの期間限定で禁酒にする条例が可決したとか。

1920 年代のアメリカじゃあるまいし、まさか禁酒法が施行されるとは思わないが、何だか人々がお互いを信頼できなくなっているように思うわけだ。

先の違法じゃなければ何をやってもいいではないが、てか法治国家であれば基本的にそれは正しいのだろうが、でも合法であれば何をやってもいいとはおそらくならないだろう。

違法ではないが、かなり迷惑な行為であればいずれは違法行為になることもあるし、仮に合法であっても、たとえば私のように死刑制度や戦争行為はよくないと思っていたりすれば、その行為自体はたまたま期間限定的にコンセンサスとして合法であるだけだったりするわけだ。

いずれにしろ、社会のミラーリングが昔に比べて低くなっていることから何だかギスギスしたものが生じているのであり、というかミラーリングとは、社会で人がお互いに注意を払い合う度合いのことだが、ミラーリングが高ければ人は自分の欲望よりも人間関係を維持することを優先するので、何となく周囲の関係性がうまく機能していく。

ベタな言い方をすれば、相手の幸せを気にかけるのだ。

ミラーリングが低くなると、個人的な怒りや欲求不満によって人々は対立するようになり、そうなれば人は相手の中に最善のものを探すのではなく、間違っていると思われることを探し出すのである。

早い話が、いい大人がいい年こいてお互いにアラ探しをし出すということであり、となれば子どもたちもそうなるだろうからイジメがなくなろうはずもない。

つまりスピっぽく言うとってのもヘンだが、私たちはお互いに間違っていると思っていることがらにエネルギーを注ぎ続け、実際に一生懸命、現実化させているのである。

そして、ミラーリングが最低レベルになると、もはや人々はコミュニケーションすることをあきらめ、つまり社会に親密さが失われ、外部の力に頼らざるを得なくなってくる。

外部の力とは何か?

それは法律であり、権力者であり、要はオーソリティーであり、お墨付きだ。

そんな社会ででき上がったオーソリティーなどに “信” をおいていいはずもない。

それよりはみんなでがんばってコミュニケーションを取り合って、ああでもないこうでもないと言いながら、お互いが相手の幸福を探し出そうとするマインドにシフトしてく社会のほうが健全だろうし、楽しいと思うわけだ。

それで思い出したが、また最近のニュースってか情報だが、ヤフーだったと思うが、トップのヘッドラインだったかな、そこに並ぶニュースのジャンルの各国の占有率のようなものに関する記事があって、詳細は忘れたが、アメリカとかイギリスとか、たいがいの先進国では国内ニュースがトップで次が海外ニュース、そしてスポーツニュースなのだが、日本は国内ニュースの次が芸能ニュースであり、それも国内ニュースとほぼ同じ%だということだった。

で、これまた著名なジャーナリストが嘆くといった記事だったのだが、たしかにわかる。たしかにその嘆きはわかるのだが、逆にすごいとも思うわけだ。

日本では海外ニュースなどより国内の、それも芸能ニュースのほうが幅を利かせてるってんだから、どんだけ日本人はバカなのかってのもわかるし、実際、私のようなパッパラパーが多いのかもしれないが、世界情勢に疎いという反面、世界の半端ではない巨大な策謀的エネルギーからはマインド的に逃れているともいえるのである。

ここは反感を買いそうな微妙なポイントでもあるが、結論からいえば、わけのわからない連中の描いた絵図などは無視して、自分の面白いと思うことに集中したほうが最終的にはいいということだ。

わけのわからない連中の描いた絵図に関しては、黙っててもそれらを分析する人、対応策を立てる人、実行する人が必ずいる。彼らはもちろん一枚岩ではないが、力のあるまともな人たちもちゃんといるのである。

これもベタであり何の補足にもなっていないかもしれないが、70 年代からしばらくさんざん批判され、そんなものばっかり見てるとバカになりますよ!と言われてきたマンガやアニメは、今ではヘタすりゃ国の基幹産業になるかもしれないってことになっている。

小説を読めとは今は誰も言わないのかもしれないが、小説にしても詩にしても活字表現のひとつの形式であって、別にエライわけではない。マンガにだって活字はあるし、アニメにも文字を組み込んだ斬新な表現もあり、今やアニメは映画に勝るとも劣らない総合芸術であり、おそらく私の知らないテクニックなりがふんだんに駆使されているのだろうし、それも見る人が見ればわかるのだろう。

そのジャパニメーションは、これまでマンガばっかり読んでたり、ゲームばっかりやってたりしてた連中(とは限らないが)が創り上げてきたジャンルなのである。

そういう意味では、国内外の妙なバイアスのかかっているかもしれないニュースを一生懸命追っかけているよりは、芸能ニュースっても芸能だけではないだろうが、よそのほうを向いている連中が多いという日本は、いい意味でもよくない意味でもユニークではあるし、私なんかはそういう国がもっと増えればいいとすら思っている。

なぜなら、世界は平面的に “一色” になるのではなく、あっちゃこっちゃに縦軸が無限に立ち上がる立体的な “一” となる方向へ向かうほうがいいだろうと思うからだ。

それに、これもヤフーで見た気がするが、スペイン人が去年『 IKIGAI 』という本を書いたが、今や世界的なベストセラーになっているという。

もちろん日本語の “生き甲斐” のことだ。著者が沖縄に滞在し、日本人の幸福観や人生観について感じたことを書いた本らしいが、私は読んでいない。

スペイン語には日本語の “生き甲斐” にあたる言葉はないというが、これは英語でも同じだろう。ちなみに英語では「 meaning of life 」が近くなるが、やはりニュアンスは違う。

たしかに今、日本語が世界でブームなのかどうかは知らないが、「 sushi 」や「 sake 」は当然として、フランスではほぼ全員が「 kawaii 」の意味を知っているというし、「 tsunami 」も世界の共通語であり、「お・も・て・な・し」と世界に向けてのたまったお姉さんもいた。

言葉、特に日本語は大事であり、言語学ってよりも、言ってしまえばスピ的にもかなり重要というか根本的な真相を秘めている可能性がある。

というと、どうしても右翼や神道系、あるいはもっと軽薄な日本大好き系と短絡されるおそれもあるが、もはやそういうレベルではない。

ひょっとしたらマジで日本の真価さえも外国のほうが先に気づき、外国の日本専門家や調査隊が日本の秘密を発表するなんてときがくるのかもしれない。

そのときになって初めて日本人は「へ?」となって、外国人に日本の本当の歴史を教えてもらうなんてことのないようにしたいと思うがいかがなものだろうか。

少なくとも自国民同士でののしり合っている場合ではないだろう。

でも、そうした状況もまたあるきっかけで「へ?」と気づけば、それはそれでまったく問題はないのである。

灯台もと暗し、と書いたぞばからいきなり小林よしのりの『東大一直線』に出てきた「東大もっと暮らしいい」というギャグを思い出して自分でもうんざりしたが、ともかくそういうことはある。

それでまた『レッド・ライト』という映画があったことを思い出したのだが、あれはスペインの何とかっていう監督の映画で、ネタバレ注意だが、ロバート・デニーロがまたすごかった。

デニーロは『エンゼル・ハート』のときもそうだったが、ああいう悪魔とかインチキ霊能者とか、徹底的にいかがわしい役をやると凄みが違うね。

いや、別にあまり意味はないのだが、『レッド・ライト』は超常現象やインチキ霊能者を暴く物理学者であるシガニー・ウィーバーとその助手のキリアン・マーフィー、そして大物インチキ霊能者のロバート・デニーロの物語だが、いろいろと超常現象に対する人間の向き合い方としてわりと明解な構図が提示されていて、ラストも含め、私は個人的には好きな作品だった。

ネタバレと言っておきながらってかデニーロをインチキ霊能者呼ばわりしていることがすでにネタバレなのだが、これもあまり意味がないかもしれないが、ラストは伏せておこう。

でも、この監督の意図は知らないが、あのラストはベタともいえるが真実ともいえ、こうしたことは作品を創った人間の思想・信条とはあまり関係なくでき上がるものなのだ。

これは過去に大ヒット作品を世に送り出したアーティストにもいえることで、特に歌でいえば、いわゆる “一発屋” の作品などにもとんでもないことが秘められていたりするのである。

何だか中途だが、だらだらと書きすぎたきらいもあるので、終わります。

Commentコメント

  1. 好本健一 より:

     以下のご指摘を興味深く受けとめました。

    『つまり、反社会的勢力の連中でも、一般人でも、著名人・文化人でも、刑務所に入るときに素っ裸にされるように、余計なモノを剥ぎ取ればみな同じ人間であり、その人間の心性だけがオリジナリティとして現われる。

    そしてそれは、反社会的勢力に属しているからねじ曲がっているとか、一般人だから凡庸だとか、著名人や文化人だから突出して優れているというわけではないのだ。

    また、そのオリジナリティも実はフェイクであったりして、本人も気づかないまま妙ちくりんなキャラクターを演じさせられている可能性すらある。』

     この引用文において、二回登場する「オリジナリティ」について。
     引用文は、三つの断章で構成されています。
     三番目の断章に登場する「オリジナリティ」は、二番目の断章の内容を受け継いだ「オリジナリティ」として以下の文章を書きます。

     一番目に登場する「オリジナリティ」をA、
     二番目に登場する「オリジナリティ」をB、とします。

    「オリジナリティA」とは、余計なモノを剥ぎ取った、その人間の心性としてのオリジナリティ。
    「オリジナリティB」とは、社会的視点からの一般的評価としてのオリジナリティ。

     ここで、ロジカルなユーモアも込めながら、しかし真剣にコメントを続けます。

     引用文中の「フェイク」を、《人間の心性》に対するフェイクと受けとめます。
     そして、そのフェイクに引っかかった人が収容される場所を《刑務所》とします。

     すると。

    《刑務所》を出る条件は、素っ裸になることです。

    「素っ裸」の上にまとうものが「オリジナリティB」。
     つまり『そのオリジナリティも実はフェイクであったりして』ということですから。

    「余計なモノ」とは、ひと言でまとめれば、「社会的視点からの一般的評価」。

     要するにその「社会的評価」も、『実はフェイクであったりして』。

     大切なものは、「オリジナリティA」。

     その「心性」を、とことん積極的に定義します。

    『本人も気づかないまま妙ちくりんなキャラクターを演じさせられている可能性』を根本から脱ぎ捨てる力を持つもの。

     ヴァジム・ゼランドは、その「心性」に対して、とことん積極的に生きてください、と励ましのウィンクを贈っているように感じます。

     時代潮流は、「オリジナリティB」を「用済み」として退場させながら、
    (「オリジナリティB」のカテゴリーには、実に様ざまなものが含まれると思います、たとえば、グローバルな新自由主義経済なども。そして)
    「オリジナリティA」を、
     個の人生の表舞台に、
    (この「オリジナリティA」のカテゴリーに含まれるものも、実に様ざまなものがあると思います、たとえば『日本の真価』なども。)
     そして地球に滞在する人類の、
     惑星の表舞台に登場させようとして急展開しているように感じられます。

     退場途中の「オリジナリティB」なのだから、自らの「心性」に立脚して自分から「オリジナリティB」を脱ぎ捨てたほうが人生展開は早いですよと、以下の文章で、西塚さんは語っておられるようにも感じました。

    『ひょっとしたらマジで日本の真価さえも外国のほうが先に気づき、外国の日本専門家や調査隊が日本の秘密を発表するなんてときがくるのかもしれない。』

    • nishi より:

      好本様

      ポストありがとうございます。

      返事が遅れて申し訳ありません。
      私が書きなぐっている記事に解説までつけていただき、ありがとうございます。

      そうですね。要は、オリジナリティとは何かってことですね。
      「~らしさ」みたいなものが近いかもしれませんが、これもけっこう、
      自認している人でも、人を評する人たちでも、
      根拠があいまいというか、固定されてるものではなさそうです。

      自分も人も、年齢を積み重ねていきますし、世の中も環境も変わるので、
      いろいろと影響を受けて、好みも考えも変わるので、
      「~らしさ」に対する認識も変わる可能性があります。

      でも、お子さんがいる人だとわかりやすいかもしれませんが、
      いくら子どもが年齢を積み重ねたとしても、
      何かのかげんでその子の幼児期のときの「~らしさ」が、
      ふと出てくるときがあります。

      本人がわからなくても、親ならけっこうわかったりします。
      ひょっとしたら、オリジナリティは自分ではわからないものかもしれませんね。

      そのへんは、芸術の世界にひとつの回答があるかもしれません。

      私はSNS上に限らず、何だか多くの人がまんまと誰かが仕組んだ、
      もしくは勝手にでき上がった “レッテル貼り” のゲームの “コマ” に、
      落とし込まれているように見えるわけです。

      私も含めてですが、みんないろんなことを言うわけですが、
      その考えや思いが、どこから来ているのかということです。

      意外とというか、意外ではないのですが、これはかなり深刻なことで、
      けっこう人は “動かされて” いるようです。

      もうすでに、特に若めの人に多いですが、そういうことを見抜くというか、
      わかってて人に接している人がたくさんいます。

      また、そういう人同士でももうわかっているんですね。

      あ、私も、酔っぱらいなら、そいつが何を考えてるかけっこうわかりますけどね(笑)。

      西塚

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