いやあ、間が空いてしまったが、ちょっと夏休み的に時間をとりました。

っても、昔のようにパリだローマだロンドンだ、ソウルだペキンだタイペイだってわけにはいかずというかペキンには行ったこともなく単なる語呂合わせだが、ともかくグリーンラベルの高級ビールを飲みつつ世間を想い、来し方行く末見すえて日々沈思黙考していただけなのだが、あっという間に 10 日以上が過ぎた。

しかし、世の中いろんなことが起きはじめており、令和に入って今やもう細かな分析なぞはおっつかない次元に突入したというか、逆に、言った言わないなぞの細かなレベルにこだわっていると切った張ったの世界に引きずり込まれるという、ヤバい世界が急速に形成されつつあるようだ。

たとえばそれは、いわゆるスピ系のセミナーや勉強会それ自体はいいとしても、その主宰者やリーダーやファシリテーターの「想い」はどこにあるのかといったことがものすごく重要だとバカみたいに書いてきたが、そんな世界がついに日本の社会レベルでも現象化というか、わかりやすいレベルで可視化され出したのかもしれないということである。

私はこれまでの多くの取材経験から、いわゆるサイキックの能力というものが本当にあることに対してはもはや疑う余地はないのだが、そのサイキックの「想い」というものは、意外とその人を取り巻く人間も含めた環境の影響を受けてすぐに変わるというか、当初その能力を使おうとしていた方向からいとも簡単にずれていくものであり、もしくはその影響によって自分でも気づかなかった “本来” の「想い」の方向へと向かい出すということをよく知っている。

簡単にいえば、あるサイキックが奉仕的に能力を使おうと行動しはじめると、そうした能力の発動を察知した “もの” が近寄ってきて、そのサイキックの “欲望” を煽り、ついにはサイキック自らがその “もの” の思惑どおりの言動をとりはじめるのである。

ここでいう “奉仕的” とは、「自己奉仕」と「他人奉仕」という概念が絡むのだが、それだけで大きなテーマであり、『ラー文書』でも最大のテーマのひとつになっているくらいだが、今はおく。

結論だけをいえば、最終的にはみな他人への奉仕へと向かうようになっている。

また、近寄ってくる “もの” って何だ?ということもあるが、これもゼランドがいうところの「振り子」でもいいし、単に悪霊が取り憑くってことでもいい。

とにかく、うまく昇華できずにずっと抑圧されているそのサイキックの欲望を煽ったり、無意識の領域にある “傷” のようなものをつついて、サイキック自らが無防備にそれを癒そうとするように仕向ける “力” のことだ。

もちろんサイキックに限ったことではなく私たちにもいえることだが、こうした力に抗することはなかなか難しいにしても、できないことではない。

こうした仕組み・構造を知っていれば、引っかかることもないのである。そのテに乗るかってヤツですね。

だから、セミナーや勉強会のリーダー、特にスピ系のリーダーは十分にこうしたことに気をつけなければならない。

また、そうした会に参加しようとする人たちや参加した人たちも、その会のリーダーやその取り巻きたちの「想い」がどこにあるのかをよーく見極めるように意識しなければならない。

そうすればその会が真摯な会なのか、つまり参加者が自主性を保ちながら自由に言動できる会なのか、何だかところどころに奇妙な規制やタブーがあるカルトっぽい会なのかが自ずとわかってくる。

問題は、会が途中からカルトっぽくなることがあるということだ。つまり、リーダーなりナンバー 2 なりが、途中からおかしくなり出す。

平凡な言い方をすれば、“欲が出る” のである。

それは実はつまらないこととはいわないが、とっくに昇華あるいは自分で決着をつけておかなければならないようなことでもあり、要はいつの時代かはともかく、自分史の過去において、ああ、あのとき◯◯のように△△したかったなあとか、◯◯のように△△されたかったなあといったことだ。◯◯には他人の名が入る。

つまり、“自分” が「したかった」ということではなく、かつて誰かに憧れるなり目標にしていた他人があり、そのようになりたかった、したかったということができないままその欲望がどこかに沈潜し、たいていは他人のではなく “自分” のやりたいことやしたいことが見つかるから、それをやりながら「昔は◯◯に憧れていて、△△したかったんだよねー」などと懐かしい話をしているうちに、沈潜していた欲望が雲散霧消してことなきを得る。

でも、そうではない場合、つまり自分のやりたいことが見つからなかったり、わからなかったりする場合、何かのきっかけや拍子でどんなジャンルでもいいが “権力” を持ってしまうと、沈潜していた欲望がムクムクとヘビのように鎌首をもたげ、それなりの自己演出をともなってかつての欲望を実現しはじめる。

今、たまたま “憧れ” とか “目標” とか抽象的な言い方をしたが、その欲望には他愛もないことから陰惨なことまでいろいろあり得、人によって何が出てくるかは違ってくるが、まあ世の中のいろいろな事件を眺めれば、パターンはあるもののそのバリエーションの豊かさがわかるだろう。

そして、先の “もの” は人が権力志向を持った瞬間にすかさず取り憑き、自らの力を増大させるために、その人の欲望を燃料にすべく欲望を煽っていく。

コワイですねえ。

もちろん、人間には誰でもそういう欲望があり、欲望がなくては肉体を持ってこの世では生きていけないようになっているともいえ、ひとりで山に籠もって霞みを食っていても必ず欲望はあるのだ。

要は、そういう自分の欲望をどこの馬の骨かわからない “もの” にいじくられることがないように、そういう馬の骨があるということを知り、自分の欲望を自分の力で拒絶したり、自分の方法で昇華・転化したりすればいいというだけのことだ。

それが人間に唯一与えられている “選択権” なのである。そして、それは思考と知識があれば行使できるのだ。

世の中の話だったはずが微妙にスピ系になった感があるが、先週は…じゃないか、もう先々週だが、『あいちトリエンナーレ 2019 』の「表現の不自由展・その後」が 3 日で中止になったのは驚いた。

個人的には去年、一昨年か、津田大介氏が芸術監督に就任したときも驚いたが、同時に期待した。何かやるだろうとは思ったが、結果的にやってくれた。

「表現の自由」への問題提起だ。

これはどうしたってこれからはこの “あいとれ” なしには語られなくなるだろうし、実際、大きな問題提起である。

今回の騒動が提起した問題は、簡単にいえば、その国の国民が芸術作品を芸術作品としてどの程度受け入れるのか、ということだと思う。なぜなら、国民のほとんどが芸術作品として認めればそもそも騒動もなかったからだ。

国の税金で賄われる国際芸術祭だとか、少女像や天皇がうんたらといったことはサブ的なことであり、本質は “芸術性” の問題である。

なぜなら、これが少女像や天皇とは関係のない、いわゆる超猥褻だったり超残虐だったりする作品だとしても、同じことが起きるだろうからだ。

芸術か猥褻かでいえば、昔は野坂昭如が絡んだ永井荷風の『四畳半襖の下張』裁判があったし、大島渚の映画『愛のコリーダ』のパンフレット事件もあった。

天皇絡みでいえば、戦前はそれこそ「不敬罪」があったから、皇室を攻撃したような “表現” はただではすまなかったろう。

今回の少女像の展示にしても、現在の日韓関係の影響もあるだろうが、なくてもやはり問題となったであろうし、これがいわゆる被差別部落や性的マイノリティーに関連する作品でも何かしらの騒動にはなったと思う。

つまり、芸術作品とはそういうものであり、芸術に関することでは、芸術とは何か?といった問題から逃れるわけにはいかず、国なら国の判断をいずれはどこかでしなければならない。たとえば、先の『四畳半』でいえば “有罪” であり、『コリーダ』は “無罪” だった。そして、また時代が変われば同じような案件でも判決は変わるだろう。

それでいいと私は思うわけだ。てか、それしかない。

人間の営みである以上、そのときどきの文化や慣習や “常識” が変わるのも当たり前であり、芸術作品の意味合いも変わってくる。

そういうことは、権力者が一方的に決めることではないから(そうであればひどい時代になってるということだ)、人々が話し合ったりしながら自然に決まってくるだろうし、話し合うということは、芸術作品というものに関していろいろな人がいろいろに考え、その考えをもって議論する “場” があるということだ。

私にとってそれはしごくまともで健全なことであり、今回の「表現の不自由展・その後」の中止騒動は、関係者特に津田氏や東浩紀氏は大変だったと思うが、そういう意味ではよいきっかけにもなり、というかよいきっかけにしなくてはならない。

最悪なことは、ああ、やはり芸術でも何でも日韓関係や天皇に関することはタブーなのねと、行政がらみのイベントで役人たちが忖度や自主規制ならぬ “自主検閲” をし出すことである。

でも、それでも民間が委縮せずにオープンにやっていけば、いずれは行政も動かすだろう。

今回の「表現の不自由展・その後」騒動についての私の意見をいえば、外野からの口先論評の謗りは免れないだろうが、やはり騒動を見越した “場” を設けておくことが望ましかったのではないかということだ。というか、個人的にはそうしてほしかった。

中止にするのではなく、最終的には中止にすべきかどうかも含めて、論議する “場” を確保しておいてほしかったということである。

そうすれば中止にするにしてもしないにしても、それまでのプロセスが可視化され、つまり私の言葉でいえば、現象化していく運動の流れに外部のものも参加することができるので、どのような結果になったとしてもそれぞれなりに納得することができるし、得るものもある。

ちなみに、オレは納得できないね!ということだったとしても、そうしたプロセスがあればこその結果なのであって、屁理屈っぽく聞こえるかもしれないが、それも “納得” のひとつなのである。

おそらく津田氏は、寛容というか、それぞれの関係者のポジショナリティーみたいなものを鑑みて、最小公倍数的な配慮をしたのではないだろうか。

だから、大村県知事や「表現の不自由展・その後」の作家である「表現の不自由展実行委員会」の思惑を最大限に考慮した結果、あのような騒動にまでなった。

「表現の自由」は大きなテーマだ。だからこそ国際芸術祭でも問われるべき世界的なテーマであり、普遍的なテーマでもある。

大村県知事は今回の「あいとれ」の実行委員会の会長、つまりトップだ。会長にしてみても大変、意義のあるテーマだと感じ入ったであろう。また、作家の「表現の不自由展実行委員会」の面々にしても当然、確固たる主張があったわけだ。津田氏にしてもそうであり、2015 年に催された同展の作家にオファーしたのは津田氏であると聞いている。

こうした 3 人には、先の話ではないが、それぞれにそれぞれの “想い” がある。

その想いがどういうものであったのかは、ただの私のスペキュレーションになってしまうから詳らかにしようとは思わないが、大村県知事のもの言いが騒動後にだんだんトーンダウンし、しまいには展示作品の全責任は津田氏にある的なことを言い出したという報道を見たときは、だいぶ私が想像していた想いとはかけ離れているのだなあと思ったのは確かだ。

また、「表現の不自由展・その後」の作家である「表現の不自由展実行委員会」の面々を見ても、天皇制反対者やいわゆる従軍慰安婦問題を糾弾しているような元テレビ関係者、俗に左翼的とされる雑誌のスタッフなどで構成されているから、まあさもありなんとも思わないでもない。

津田氏がどういう “想い” で、2015 年に行なわれた「表現の不自由展」の作家にオファーしたのかはわからないが、「表現の自由」に関して問題提起したかったことは間違いないだろう。そして実際にその目的の一端は果たしたと思う。

しかし、やはりそれぞれの “想い” がおそらくは違っており、また違うのはいいのだが、違うなりにお互いに “納得” し合える話し合いが事前に行なわれたのかどうかについては、はなはだ疑問に思う。

何というか、私の少ない経験と知識でも、こうしたアーティスト絡みのイベントでは、話し合いは欠かすことができず、話し合いの時点ですでに意見が噛みあわずに争いが起きることも普通にあり、何ならやめろ!やめない!、出展しろ!しない!なんてやりとりは当たり前にあるわけで、でも、そうしたことをこなしてこないとイベントはまとまらないのだろうと思う。

いや、最後までまとまらないかもしれないが、何というか、ある種の “生命体” のようにイベントが存在し続けるためには、そうした話し合いというとおとなしすぎるが、ぶつかり合いというか、エネルギーの交換の場を共有していないと結局は “命” のない、つまらないものになるようだ。

その点、いまだに SNS などでも盛り上がりを見せている「あいとれ」だけに、どうにかして見に行きたいのだが、点々々。

あと、あれもびっくりしたね、小泉進次郎議員と滝川クリステル女史の結婚騒動。しかも、官邸での記者会見とは…!?

まるでロイヤルウェディングのようだ。

いろいろな意味で、できすぎているのがすごい。

あの女史は財団のトップもやってるんだね。ロゴも面白いし。

政治家といえば、今回晴れて国会議員になった N コクの立花氏も面白いねえ、あれ。

今度は NHK だけではなく、マツコ・デラックスまでぶっ壊すってんだから、どうなってんだろうか?

何でも N コクにふざけて票を入れたヤツがいるとかいないとか言ったってんで激怒し、MX の『 5 時に夢中!』の生収録現場まで行ったという…

で、今日がその 2 回目の出陣。

ちょっと前の映像は見たが、あれはスゴいわ。

おっと、ヤボ用のため、いったんおきます。

続く

 

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