何と、記事としては丸 2 カ月以上、ご無沙汰してしまった。

ときどき、いただいたコメントに返信していたので、何となく何かしらアップしていたような気になっていたが、今さらながら驚いた。

まあ、記事と呼ぶほどのことでもない走り書きのようなものだが、さすがにこれだけ間が空くと、自分でも情けなくなる。

編集の仕事やその他いろいろ取り組まなければならないことがあったわけだが、その中にはちょっとした “総決算” もあった。

いや、私ごとだが、いわゆるスピリチュアル系・精神世界といったものに関し、自分がこれまで経てきた取材や考究を基にしたレポートの第 2 弾のことである。

すでに 0 号的なものとして『盤レポート 0 号』を発表しているが、その 1 号ということだ。その内容や構成について、どのようにしてどこまで発表しようか、と考えあぐねていたのである。

だいたい結論が出たので、これはまた順を追って発表します。

簡単に言えば、世界はやはりある方向に向かっているということだ。そして、私たちが生きているということは、世界を創造し続けているということであり、すべての現象はそのためにあるということである。

極めて単純なことで、今さらジロー的でもあるが、それが実証できるというところが重要で、つまりそうしたことに関して迷いを感じる人でも納得ができ、目が開かれる可能性が高いということである。

知識と理解がなければ、知恵にはなかなか届かない。まずは “知り” 、“わかる” ことだ。そうすれば、あとはおのずと知恵が与えられるようになっている。

たとえば、自転車というものがあり、簡単に自転車を乗りこなしている人がいることを知り、乗り方がわかれば、あとは自分で自由に行きたいところに自分の力で行けるのである。

今、社会は新型コロナウィルスで持ち切りだ。

コロナに関しては、コメント欄にいただいた投稿に返信したコメント以上のことはまだわからない。

つまり、公式に発表されている世界の数字を見る限りでは、新型コロナウィルスはインフルエンザに比べれば、その感染力も感染者数も死亡者数も比較にならないくらいに少なく、今の段階では、なぜこれほどまでに大騒ぎになっているのかよくわからないということである。

だって、安倍総理が会見したわけだが、日本の首相が、私立も含めた小中高で一カ月ほどの学級閉鎖を求める話など、これまで聞いたことがない。

学級閉鎖自体はいくらでもあるが、いちいち私が数字を挙げなくても、ちょっと調べれば、それらのときと今回の処置とを比べれば、どれくらい異常なことかはすぐわかる。

今回の大騒ぎに関しては、大雑把に言って考えられることは二つしかない。

一つは、新型コロナウィルスに関して公式に発表されている数字は虚偽で、何か重大な情報が秘匿されており、政府はそれに基づいて対応をしている。

もう一つは、政府にいる人間もマスコミにいる人間も、根拠はともかく恐怖と不安におののいて、ある種のパニック状態に陥っているということだ。

さすがに後者とは考えられないので、前者だと仮定すると、何を隠しているのか?だが、これもネットを検索すれば、いくらでも憶測が出てくることくらいは私でも知っている。

それらの情報は各人の性格や思想によって、それこそ正反対の幅を持った物語として紡がれている。そして、そうした情報をまたいろいろな人が読んで、またそれなりのバイアスをかけられてどんどん拡散されるわけだ。

武漢に限らず、中国国内の状況に関しては、共産党が発表する内容をそのまま信じるナイーブな人はおそらく世界でも少ないだろう。

これまでの共産党のウィグル人やチベット人、法輪功関係者に対する人道的非道ぶり、その他もろもろの隠ぺいを考えれば当たり前だ。

だから、中国の感染者が 8 万人以上というのもおそらくケタが違うだろう。

しかし、情報操作や数字の改ざんなど、事実に基づくそうした状況を紹介するのはいいのだが、恐怖や不安、憎悪をともなう情報までを拡散することはいかがなものだろうか。

恐怖、不安、憎悪に基づく言葉は、発する側だけではなく、受け取った側の人間の中からも引き出されていく。いわゆる “悪魔” の常套手段である。

私たちは、無知に陥って状況を能天気に甘く見るのではなく、情報に目を配って前向きな対応を考えなければならない。

問題は、ネガティブな情報のみを収集し、発信することだ。なぜなら、ネガティブな情報を発信したがる人は、そうした情報が実現することを無意識に望むからである。

このあたりのことは何とも悩ましい人間のサガがあるようだが、最悪の状況を想定しておいて、どんな状況になっても対処できる準備をしておくことはいいことだが、それは “利他的” な人にとって最大に有効なことであり、事実、利他的な人とはそういうものだが、我欲によるものだと最終的には機能しないのである。

誤解をおそれずにいえば、無知で能天気なほうがよい結果をもたらす場合すらある。

ちょっと話が脱線したが、今は必要以上にネガティブにならずに、ネガティブという意味は、自分に入ってくる情報をやたらと恐れないということだが、冷静にことの推移を見守り、一応、最悪の事態も想定しておくということしかないだろう。

また、必要以上にという意味は、だいたいネガティブな情報を発してくる人は、言葉を荒らげたり、語気を強めたり、相手を説得・屈服させようとする態度を無意識にとる場合が多いが、そういう態度(実際に対面していなくても)に感情的に反応しないということである。

発せられている内容を客観的に検証するということが大事ではないだろうか。

そもそも情報自体にはポジティブもネガティブもなく、情報を発した側と受け取る側の心や頭の中にだけあるので、相手側のものにしろ自分側のものにしろ、あまりネガティブなことに関連づけないということだ。

でも、人間はネガティブなものに反応しやすくなっているわけだが、じゃあどーすんだ?ということになると、たとえばゼランドのコーディネーションということなり、つまり簡単にいえば、すべてをポジティブに考えるということになる。

実際、“生きる” とはそういうことだ。そもそも自分が生きている、生かされているということ自体、ポジティブなことなのだ。

世界はポジティブであり、ネガティブはその反対の概念としてあるというだけである。つまり、ポジティブでなければそもそも世界がないし、世界がなければ、現象としての二元性も因果もない。

今、ゼランドで急に思い出したが、まさに今の状況にふさわしいというとちょっと違うが、彼の書籍の中で関連する箇所がある。

「流行病(はやりやまい)」と題された項で、以下である。前後のコンテクストを説明しなくてはわかりにくい部分もあるが、差し当たっては文意に影響がないので、まあいいだろう。ちょっと長いが、紹介する。

 
 

人間が流行病にかかるのは病原体に感染するからだ。それは、当たり前過ぎて人生ラインがどうのこうのという話と関係などあり得るわけがない。おそらくあなたはそのように思っているだろう。それは正しい。しかし、実は、病原体に感染する前にあなたがそうなることをまず認めるという過程があることをご存じだろうか。

私は、マスクを着用していれば流行病にかからないなどと主張するつもりはないし、そんなことをしたって何の助けにもならないと思う。私の言うことが信じられない? それでも、純粋に思弁的にこれを証明することは私にはできない。とはいえ、本書で述べてあることすべてについても、私には証明することができない。

しかし、あなただって、風邪が蔓延する時期に、マスク着用で歩き回って、確かめようとはしないと思う。だから、私としても知っていることをただ述べるとしよう。信じるか、信じないかは、あなたの自由だ。

さて、病気の話を始めよう。病気の原因は、「流行病」という名の付いたゲームに参加しようとするあなたからの自発的同意である。

すべては、流行病、例えば風邪が、どこかですでに猛威をふるっているとの噂から始まる。風邪が空気感染や飛沫感染しやすいことは、普通の人なら誰でも知っている。そこで、普通の人のひとりであるあなたは、誰でも風邪を引くという考えをそっくり自分に取り込む。頭の中には、あなたに熱が出てきて、くしゃみや咳をしている光景がすぐさま浮かんでくる。これで手続きはほぼ終わった。この瞬間からあなたはゲームに参加したことになる。なぜなら、破壊的振り子の周波数で思考エネルギーを放射しているからだ。

あなたは、風邪に襲われることの確証を無意識に見つけ出そうとして、注意力は選択的に働き始める。周りにはくしゃみをする人々が現れる。くしゃみをする人くらいはいつもいるはずだが、以前のあなたは気に留めなかっただけだ。職場でも自宅でも、時折、風邪のことが話題になる。たとえばあなたが特別に確証を探そうとしなくても、また、風邪の話題であなたがそれほど動揺しなくても、風邪に襲われるというあなたの予想は、新たな確証を見つけ出してくる。そうしたことが勝手に起こるのだ。

もしあなたがゲームの最初から破壊的振り子の周波数に同調してしまったら、意識して参加したかどうかにかかわらず、振り子への結びつきはもっと強くなっているだろう。そして、もしあなたが発病することを嫌がっていないならば、またはそれが運命だと諦めているならば、もうあなたは振り子の最も活発な信奉者になっている。

または、反対に、病気にかからないと決めてかかり、自分は絶対的に健康であって病気にはならないとの自己暗示をかけるとしたらどうだろう。そうしたって何もならない。とにかくあなたは病気のことを考えている。ということは、病気の周波数で放射していることになる。思考の方向性が病気に賛成か反対かは無意味である。言い換えると、自分は病気にならないとして自分を説得しようとすれば、そうなる可能性を最初から認めていることになり、どのような説得も功を奏することはない。

聞こえるように発せられた言葉は単なる空気振動であり、独り言は総じて何でもないことだが、信じ込むということは、たとえそれが聞こえなくても、強力なエネルギーである。あわてて予防接種に行っても、あなたは病気から逃れられない。いずれにせよ一定期間、何らかの形で病気にかかる。

病気による最初の兆候が現れた時点で、あなたは本格的に病気になるのかならないのかという選択を迫られる。あなたは弱々しく抵抗した後、病気に譲歩してしまう。これによってあなたの思考放射に最終的な修正が加わり、あなたは病気の全過程が繰り広げられる人生ラインへと乗り移ることになる。

誘導転移は振り子を受け入れる瞬間から始まる。もしあなたが本当にこの流行病を頭から相手にしなければ、病気にかかる人生ラインへの転移は起こらないだろう。または、あなたが休暇中で誰とも交流がなく、ニュースも耳にせず、流行病についても何も知らないのなら、振り子はあなたに影響を及ぼさないで、どこへともなく消え失せる。

ところで、医者はどうして病気に感染しないのかと不思議に思ったことはないだろうか。多くの医者は勇敢にもマスクすらしないで働いている。彼らが予防接種をしているからというわけではない。それにすべての病気に対する予防接種をしておくことなどできるはずもない。医者たちも病気の振り子のゲームに積極的に参加しているのだが、彼らに与えられた役割はまったく別なのである。

似たようなケースとして、飛行機で働くフライト・アテンダントたちを見てみよう。この善良なる麗しき妖精たちは、乗客全員にベルトを着用するよう粘り強く勧めるが、自分たちはあちらこちら飛び回っている。あたかも、何かあった時には、ハチドリのように空中で静止していられるかのように。

「では、エイズに感染してしまった乳児の場合は? 乳児も転移エネルギーを放射しているの?」と知りたがり屋さんが質問してくるかもしれない。第一に、ここでは流行病についての問題を、傾向として検討しているのである。第二に、いかなる感染も存在せず、あるのは病気の周波数で行われる思考エネルギーの放射だけ、ということを私は証明しようとしているわけでもない。

トランサーフィンはドグマでもなく、真実の最終審でもない。ひとつの思想たりとも絶対視してはならない。法則性の参考として受け入れるだけである。真実とは、いつも「どこか近くに」あるのだが、それがいったいどこなのか、正確なところはわからない。

 
 

ちょっとわかりづらい内容かもしれないが、ゼランドは聖書を含む重要な古史古伝の “キモ” に触れることを述べている。

今回の新型コロナは、上記の「流行病」といったニュアンスよりも深刻化する可能性もあるので、続いて述べられている「パニック」という項も紹介しておこう。

 
 

これは最も強烈で急激な誘導転移である。パニックは誘導転移の特徴を一番はっきり際立たせている。第一に、スパイラルの巻き込む力が非常に強い。なぜなら、現実的な危険のシグナルが例外なく大変切迫していて、人はすぐに破壊的振り子のゲームに入り込んでしまうからである。同じ理由で、振り子の振幅も、ほとんどなだれのように急激に増大する。

第二に、人は自分をコントロールすることがほとんどできなくなり、つまり最高度の受信機と化してしまい、同時に振り子の振動の強力な中継器にもなる。そして、最終的に振り子自身が、パニックに陥った群衆という形で理想的に物質化するのだ。

残念ながら、これらすべての要素のために、振り子から身をかわしたり手なずけたりすることは極めて難しい。この時点で、振り子との闘いを受けて立とうなどということは誰の頭にも思い浮かばない。

しかしながら、そんな中にあっても、もし自分を失わず、パニックにも陥らずに踏みとどまっていられたならば、自分自身や親しい者たちの命を救うことのできる確率はずっと高くなるだろう。

例えば、今まさに沈没しようとしている船の上では、いく艘かの救命ボートの付近で必ず大乱闘が起こるが、その近くには誰も乗っていない救命ボートが浮かんでるものだ。周囲を見回すほんの僅かな瞬間が必要なだけなのだ。

それにしても、そういうところにこそ誘導転移の狡猾な特徴が現れていると言える。誘導転移は漏斗のように働き、先端にでも引っかけた者はすべて飲み込もうとするものだ。

 
 

「振り子」とか「誘導転移」については、また別の機会に触れることもあるだろうが、振り子に関しては、これまでにも何回か引用してきた気がする。

今回は別のことを書こうと意気込んでいたのだが、何だか流れでこうなった。まあ、いいか。

ともかく、少なくとも「パニック」にならない方法の一つとしては、「知識」がある。

「情報」ではない。

情報はもちろん必要だが、受け取る情報は受け取った側の知識・知性によって精査され、さらに新しい情報となり、知識・知性を持った人同士の間で交換されながら、またさらに新たな知識になっていく。

だから、さまざまな情報の中から必要なものをとり、いろいろな情報と情報との関連性を見定め、自分ひとりだけではなく、複数の人たちと検証し合うということが大事になってくる。

くれぐれも、ある特定の個人やグループの独自の恐怖や妄想の渦に巻き込まれないようにして、本来の自分を見失わないようにしたいものだ。

本来の自分とは、たいがいは子どものころのよい思い出の中にあるものである。

 

2 thoughts on “正念場”

  1.  西塚裕一様
     新型コロナウイルスの、フィジカル・レベルでの特徴のひとつは、免疫系の暴走だと思います。
     侵入したウィルスに対して、免疫細胞が過剰に反応する免疫系の暴走。
     これは、西塚さんが指摘しておられる、メンタル・レベルでの、ウィルスに対する過剰反応と「対」になっているように感じられます。
     ここで、とてもシンプルに免疫システムを定義します。
     正常な営みを阻む異質性の侵入に対し、これを正常な営みにフィードバックするシステム。
     たとえば、西塚さんが紹介しておられるゼランドのコーディネーション。
     彼のビジョンは、フィードバックを実践するに当たって、有益な取り組み方を提示していると思います。
     その「有益性」を、頼りになるものにするのは、実践に取り組む個々の皆様の内観に掛かっていると思います。
     新型コロナウイルスは、2020年3月29日現在、177の国に出現し、メンタル・レベルで考えれば、人類規模で、心の暴走をフィードバックし、正常な営みへと戻す課題を、私達に提示していると思います。
     ここで、私なりに「暴走」を定義します。
     多層宇宙の調和を運営する意思に背を向けて、閉じた自己保全に終始する意思エネルギーの働き。
     侵入する異質性の影響力を「小」と判断すれば、閉じた自己保全に終始する意思エネルギーの暴走のスケールも小さなものとなり、大きな弊害を他に波及することはないと思います。
     しかし、正常な判断力が、多層宇宙の調和を運営する意思との同調からもたらされると考えれば、閉じた自己保全に終始する意思エネルギーの判断力には、常にズレがつきまとい、暴走しやすくなると思います。
     暴走が「対」で起こる以上、ワクチンの開発は、フィジカル・レベルと同時にメンタル・レベルでも行う必要があると思います。
     ゼランドのコーディネーションは、メンタル・レベルでの暴走に対する「ワクチン」のひとつだと思います。
     また、世に複数存在する、メンタル・レベルでの暴走に対する「ワクチン」は、継続する内観によって、その真価を、魂レベルで血肉化されることを待っていると思います。
     逆から見れば、人類一人ひとりの心の中に存在する閉じた自己保全に終始する意思エネルギーの暴走に歯止めを掛けて、人類規模で正常な営みを続けるためのフィードバックが、まさに「個の課題」になったのが、2020年3月だと思います。
     内観の必要性について、響き合うゼランドの言葉。
    「しかし、実は、病原体に感染する前にあなたがそうなることをまず認めるという過程があることをご存じだろうか」
     情報を、血が通った新しい情報にシフトさせ、さらに、それを、人と人のつながりを充実させるあたたかい心の通った「新たな知識」にシフトさせるものは、内観だと思います。
    「個の課題」の克服が、人類規模で求められている今とは、地球人類にとって、いや、それよりも、なによりも、まず私個人にとって、「正念場」です。
     そして、個の「正念場」を、「あなたと私のつながり」の中に拡張すれば、その進展のプロセスと、西塚さんが「真実を探求する問答43」に私がコメントした内容にご返事くださった言葉、「いわゆる占いや予言などの解釈や、またはサイキックなどの託宣的なもの」の「無効化」のプロセスもまたそこに重なってくると思います。
     今、私は、個も人類も、歴史的な大転換期のど真ん中を旅しているように感じられます。

    1. 好本様

      ポストありがとうございます。

      まさにおっしゃるとおりかと思います。
      ほぼ同意します。

      「ほぼ」というのは、表現には個人差があるというくらいの理由です。

       

      >今、私は、個も人類も、歴史的な大転換期のど真ん中を旅しているように感じられます。

      そうですね。
      これまでの「延長」としての「歴史」的にもそうなるでしょうし、これまでとはある種、別次元の “歴史” の始まりを “体験” する人たちも出てくるのではないでしょうか。

      西塚

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