だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

天変地異は起きるのか?

2011 年も終わろうとしている。

近所の居酒屋でカミさんとモツ鍋をつつきながらそう思った。カミさんは隣の中高年男女のシモネタ話しに聞き耳を立てているらしい。

ここ数年は 12 月になると、もう 12 月かよ、と思ったものだが、今年はなんとなく長く感じる。特に震災からは長い。8 月も長く感じた。全体的に夏が長かったように感じる。まあ、今年は暑い日が続き、本来は秋のはずなのに真夏日があったりしたからそう思うのだろう。

東日本大震災のダメージは大きい。福島の原発のこともそうだが、私の先輩のように、人生観が変わった、という人も多いようだ。私自身は、人生観が変わったというほどのことはないが、いろいろと気づかされることは多くなったように思う。これまでの人生の延長線上のラインとは、はっきり別のラインで考えることが多くなったようだ。それって、人生観が変わった、というべきなのかなやっぱり。

私の場合普段から現実の生活においても、けっこうラインということを意識していて、不快なラインにのっていると感じたら、そのラインを変えるようにしている。これはわりと無意識に昔からやってきたことだが、数年前にヴァジム・ゼランドトランサーフィンシリーズを読んで心底驚いてから、その方法論を自分なりに研究するようになった。

このシリーズは現在までに 4 冊出ていて、もう何回読み返したかわからないが、いわゆる引き寄せの法則とは似て非なるものだ。もっと自主的で、創造的で、倫理的で、他力本願的だ。なんだかわからないか、これじゃ。とにかくわくわくする本なのである。私はこの本のおかげで、これまでよりももっとスピーディに世界に対してときめいていたころの自分を取り戻すことができるようになった。

この 2 か月、12 月と 1 月だが、日本にまた大地震がくるという情報がある。サイキックの情報だけではなく、北大の森谷氏の研究に代表される(森谷氏の HP は削除された)公的機関側の人間からや、在野の地震予知関係の研究家からも同時期の地震が警告されている。日付も、12 月 10 日~17 日、1 月 4 日~7 日あたりに集中しているようだ。はたしてまた地震がくるのだろうか? おそらくくるのだろう。ただその時期と規模は今の段階ではまだ未定なのではないか。私なりにいろいろ調べたり考えたりすると、そうとしか思えない。

沖縄のサイキック比嘉良丸氏は 2010 年から 3.11 のヴィジョンを見続け、警告を発し、またなんとか回避しようとして祈りの神事をしてきた方だが、結局回避することができなかったと講演でよく語られる。自分ひとりの力ではどうにもならなかったと。そして今、再度同じようなヴィジョンを見続けている。だから、ひとりでも多くの人が、大難が小難になるように祈ってほしいと。祈りの力についてはまた別のときに書いてみたいと思う。つまり、今われわれ日本人は地震がくるようなラインにのっているとしても(そしてたぶん様々なサイキックや研究家の警告を知れば知るほどそう思わざるを得ないが)、地震が起きる時期や規模はまだ決定しているものではなく、そのラインを共有しているわれわれの思いで変えることができるのではないかと。

さらに私は、地震がまったくこないラインもあると思っている。

そのラインにみんなでのり換えれば地震はこない。でも人はひとりで生きているわけではなく、家族もいれば、友人、同僚、電車に一緒に乗り合わせた見知らぬ乗客などなど、様々な人とともに一緒に生きているから、超人的な思念の持ち主でもないかぎり自分ひとりの力で大きくラインをずらすことは難しいだろう。そのあたりのことは、先のトランサーフィンシリーズの本に詳しく書いてある。日本に起きることは、日本人の思いが創っている。もちろん海外の人間の日本に対する思いもある。日本人の多数が私利私欲に走り、自然環境を破壊する方向に行けば、そしてそれが日本の国土あるいは地球の生存に反することであれば、当然しっぺ返しをくらうだろう。『大本神諭』『伊都能売神諭』から今話題の『日月神示』にいたるまで、共通して降ろされてる神諭はそういうことをいっているのではないだろうか。

あまり無責任なことはいえないが、放射能も地震も、意識の持ちようでその意味というか影響を変えることができるのではないか。特に放射能に関しては、こちらからこちらまで両極端な意見があるので、混乱している人も多いと思う。私はできるだけネットや本で調べたり、あるいは講演会に参加したりして、極端の両方を知るようにしている。あとは自分のカンで判断するしかないんじゃないか。特に放射能については、私はわりと楽観視しています。前回紹介したリチャード・バートレットや今回のヴァジム・ゼランドを知ると、現実は自由に創造できるものなのだと考えざるを得ないからだ。しかも両氏は、こういうことは自分の個人的な考えなどで出てくるものでなない、といっている。…じゃ、どこから?

Commentコメント

お気軽にコメントをお寄せください

メールアドレスが公開されることはありません。