だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

スピ系の選択

すっかり春めいてきた。

知人からすでに桜の蕾の写真がラインで送られてきたりしている。

東京はこのまま雪は降らないのだろうか。

私が幼少のころは、クリスマスには当たり前のように雪が降り、正月を越えて 2 月に入れば本格的な大雪になるのが当たり前だったと記憶している。

3 月の今時分には、積もっていた雪が暖かい日に溶けてぐずぐずになっていたり、ところどころ乾いた面を見せてる道を歩いて通学していたはずだ。

小学校のときの記憶だが、間違ってるのかな ? 東京なんだけど。

だから、最近の東京の冬は冬らしくないというか、お天気の話じゃなくても、かつてのクリスマス前後のあの街の浮かれた感じもないし、ヘタすりゃハロウィンのバカ騒ぎといえばまだ品がありそうなので、気狂いぶりとか、何かの憑依現象といったほうが個人的には納得できるが、そっちのほうが盛り上がるというか毎年話題になってるし、大晦日や元日には多少は “ニッポンの正月” っぽいノリが残ってるようだが、それでも除夜の鐘の音を聞きながら 『ゆく年くる年』 を一家で観るなんてことはなくなったし、NHK だけではなく民放もぶち抜いて同じタイトルの番組を放送してたなんてことにいたっては、もはや覚えているのは私と同年代以上の御仁くらいだろう。

いや、初詣から三が日の雰囲気や、やれ、おしるこだ七草がゆだと語ってもいいし、成人式やら節分の豆まきやら、梅だ桃だ桜だと検証してもいいのだが、完全に昭和オヤジのゴタクになるからやめるが、とにかく、変わったよね……

かく言う私でさえ、正月三が日くらいは和服で過ごしてきたクチなのだが、今年いや昨年から、やめた。

というか、角帯がどこかに行って探しても見つからないので面倒になったのだ。

買えばいいじゃんってんだろうけど、それを言っちゃあおしまいよ。

そんな金があるくらいなら酒を買う、という酔っぱらいぶりはまだ保っているつもりである。

キリがないので話題を替えようと思うがと言って 「キリ」 で思い出したが、よくヤクザ映画で賭場 (とば) つまり博奕 (ばくち) の場面が出てくるが、あの作品はなんだったか、やはり賭場が出てきて、大旦那衆が遊んでいる。

大旦那ってくらいだからみんな大店 (おおだな) の主人だ。

で、ある旦那が負けて帰ろうと座敷を出ると、賭場の若い衆が後ろから羽織をかけてやる。

すると旦那が、「ああそうだ。これをもらっておくれ。お前にも世話になったからな……」 と言って、銀の煙草入れを渡そうとする。

「めっそうもねえ、旦那……」 と若い衆は断るが、せっかくの旦那の好意でもあり、「じゃあ、遠慮なく」 と受け取って頭を下げる。

旦那は、「あさっての朝にでも、キリを取りに来てもらおうか…」 と言い残して帰る。

この 「キリ」 というのは、「切り」 とか 「限」 と書き、借金の返済期限のことだと思うが、要するに借り溜めていた金を返すということだろう。

当たり前だが、賭場では手持ちの賭け金がなくなった客に金を貸す。

熱くなった客にいたっては、自分の店を担保にしてまでも賭け金を借りる。

借金が積もり積もって、あげくの果てに賭場を仕切るヤクザの組に店ごと盗られるってのがパターンなわけだ。

まあ、先の旦那も、若い衆にキリを持たせたあと自殺をするという内容だった。

博奕にイカサマはつきものだから、遊ぶほうも自業自得の部分があるが、イカサマにも限度があるから、そのへんをネタにいろいろヤクザ映画の見せ場も出てくるってわけでって、また話が途切れなくなるからやめるが、とにかくヤクザ映画に限らないが、60 年~70 年代の日本映画では今とは “言葉” の使い方が違うし、そもそも使う言葉自体が違う。

60 年~70 年代のヤクザ映画ったって、設定は明治だったり大正だったり、昭和にしても下っても戦後数年ころだったりするから、当時の言葉遣いになるわけだが、内容が明治でも大正でも、演じる役者も明治や大正や昭和の初めの生まれだから、言葉遣いもほぼ当時のノリのままだ。

言葉遣いが体に染みついてるから、先の旦那 (の役者) にしても 「キリを取りに……」 って言い方がいかにも大店の旦那って感じで、私なんかは観ててシビレてしまうわけである。

もちろんその旦那だけではなく、若い衆には若い衆なりの口調があり、ヤクザはヤクザ、芸者は芸者、魚屋は魚屋とみんなが当時の “生きた” 言葉を話すのだ、

だから、登場人物の話し言葉がなんというかみんなキリリと立っていて、それだけで映画に粋 (いき) や艶 (つや) が出てくるし、スピード感もあるから芝居がにごらない。

となれば、まさにこれは落語の世界にも通じることであってというか落語においてこそ語られるべきテーマなのだが、やめましょう。本当にキリがなくなる……

落語の話はともかく 「キリ」 つながりだろうか、キリアン・マーフィーが気になってくる。

キリアンは好きな役者で、私の中では勝手にキアヌ・リーブス、ウィレム・デフォー、キリアンは同じ仲間ということになっている。

キリアンは一般的には 『インセプション』 の御曹司役の印象が強いのではないかと思うが、違うかな。バットマン系かな。

私は、『TIME』 とか 『レッド・ライト』 が好きだ。

『TIME』 は、“時間” が通貨になった近未来の世界の話である、

遺伝子操作によって人間は 25 歳になるとそれ以上歳をとらなくなり、“金持ち” つまり “時間持ち” ということだが、時間を持ってれば持ってるほど生きられる。

庶民は企業で働いていくばくかの “時間”、たとえば一日分を支給されて生きている。

働かずにいれば、やがて電池が切れるようにして死ぬ。

だが、“大金持ち” は永遠に生きることができる。そのシステムが続きさえすれば。

あまり評価は芳しくないようだったし、たしかにところどころに “キズ” があるが、私はアーサー・C・クラークの 『地球幼年期の終わり』 を思い出して背筋がぞわぞわした。

ネタバレというか深掘りはしないが、それでも 『TIME』 はかなり興味深く、笑えない作品となっている。

しかし、不気味さで言えば 『レッド・ライト』 が上だ。

詐欺師の超能力者をロバート・デ・ニーロが演じているが、さすがである。

あの凄みというか悪辣感というか、得体の知れないサイコパスな感じは、『エンゼル・ハート』 とはまた違った迫力がある。やっぱすごい役者だね。

でも、『レッド・ライト』 はどこか悲しい映画だ。

これも古い映画だからネタバレも何もないとは思うが、ネタバレはともかく深掘りはしないでおこう。

特に “スピ系” を自称する (公言していなくても) 人は観ておいたほうがいいと思う。

今後のスピリチュアルシーンの方向を指し示す重要な “問いかけ” が隠されているからだ。

「指し示す」 でまた思い出したが、ブルース・リーの 『燃えよドラゴン』 を観た人なら知ってるだろうが、稽古のシーンでリーが弟子に教え諭す場面がある。

簡単に言えば、稽古でリーが弟子に 「私を蹴ってみろ」 と言い、何度か叱られたすえに弟子が本来の蹴りを見せると、リーはにこやかに 「何か感じたか?」 と聞く。

弟子が 「そうですね、えーと……」 と考えはじめるとリーはパシッと弟子をはたき、「考えるな! 感じるのだ」 という有名なセリフを吐く。

そして、「(感じるということは) 月を指し示す指のようなものだ」 と言ってゆっくりと空を指さすから、弟子はその指先をじっと見るとまたバシッとはたかれる。

で、「指先に集中するな。さもないと天の栄光が得られないぞ」 と諭すのである。

それこそちょうど 50 年前の映画だが、以来、ずっとこのシーンは語り継がれてきており、いつの間にか 「考えるな、感じるんだ!」 は一部スピ系のスローガンとしても定着している。

言うまでもなく、ブルース・リーは仏教由来の 「指月(しげつ)のたとえ」 を引いているが、仏教では 「月を指し示す指」 を例として、「月」 を “悟り” や “真理” にたとえ、「指」 を悟りや真理を示したり教えたりする “経典” にたとえているわけだ。

「指月のたとえ」 の教訓として言われていることは、基本的に経典は “言葉” や “文字” を使って悟りや真理を示そうとするものだが、経典に熱中するあまり言葉や文字ばかりに囚われていると、肝心の悟りや真理の本質を得られないといったことかと思う。

要は、映画 『マトリックス』 でモーフィアスがネオに言ったことと同じだろう。

モーフィアスは 3 度も同じことを伝える。

最初はトレーニングプログラムの中のジャンププログラムのとき。

「私は入口を見せてあげることしかできない。きみはそこを通り抜けるべく選ばれた者なのだ」

2 度目は、初めてオラクルのところへ連れて行ったとき。

「私は入口を見せてあげることしかできないと言ったろ。自分で入っていきなさい」

最後は、ネオがエージェントに捕まったモーフィアスを超人的なパフォーマンスでビルの屋上に救い出し、自分は救世主ではないとオラクルが言ったことを伝えようとしたときだ。

「道を知ることと、道を歩くこととは違うのだ」

いずれも、「指月のたとえ」 が教えていることに通じている。

しかし、仏教ではなく道教 (道家) の老荘思想にも同じような指摘があり、たとえば荘子などは、簡単に言えば、「人は道を知ろうとして書物を学び、書物の言葉を重要視するが、言葉には意味があって、その意味が何かしらの本質への方向を指し示している。だから言葉自体は本質を伝えることができないのだが、人はどうしても書物の言葉を大事にする。同じように目は形と色、耳は名前と音しかわからないが、人はそれらですべてを理解していると思い込んでいる」 ということだ。

老子にも、「知る者は言わず、言う者は知らず」 という言葉がある。

いや、「指月のたとえ」 にしても老荘にしてもその通りなのだが、若干、“言葉” を見くびっちゃあいませんかと。

たとえば、仏教・道教をさらに遡った 「易」 にはこうある。

「書 (しょ) は言 (げん) を尽 (つく) す能 (あた) はず、言は意 (い) を尽す能はず、意は神 (かみ) を尽す能はず、然 (しか) れども言に非 (あら) ざれば意を現 (あらわ) す能はず、書に非ざれば言を載 (の) す能はず、抑 (そもそ) も聖賢 (せいけん) の言、偉人君子 (いじんくんし) の行 (こう)、忠臣義士 (ちゅうしんぎし) の偉挙 (いきょ)、貞女節婦 (ていじょせっぷ) の美伝 (びでん)、悉 (ことごと) く文字 (もんじ) に依 (よ) って伝 (つた) へらるるものである」

つまり、書物では言葉のすべてを伝えきれず、言葉では意味のすべてを伝えきれず、意味では神のことは伝えきれないが、書物でなければ言葉を記録することができないし、そもそも世の聖人の言葉や、偉大な王の振る舞いや、忠実な武人の武勇伝や、貞淑な婦人の美談などは、すべて文字によって伝えられてきたのである、といった意味だろう。

「易」 にはこうあると言ったが、別に私が易を調べたのではなく、出口王仁三郎が大本開祖・出口なおの偉業を記すにあたって、そう述べていたのである。

もちろん、リーも、「指月のたとえ」 も、老荘も、本来はたどり着いて会得すべきはずのものから離れて、それを指し示す言葉のほうばかりに気をとられてしまう愚を戒めたのだろう。

しかし、時代は今、その教訓はもはや不要というか、言葉と対象の一体性を感覚化する方向に入っているので、先のたとえで言えば、「指と月」 を一つとして感得させる言説が必要なのである。

やはり “言葉” なのだ。

聖書の 「ヨハネの福音書」 は 4 つある福音書の中でも最後に加えられたもので、一番新しいとされている。

実際、ほかの福音書に比べると異質であることは以前の記事にも書いた

「はじめに言 (ことば) ありき」 とはじまるあの福音書だ。

どう異質であるかなど、ここでは聖書に関しては語らないが、繰り返しになるが、言葉と、言葉が指し示す対象が分離しているという今までの “意識” は、もうすでに変容している時代に入っており、そういう認識が今は最重要であるということだ。

あと数年のうちに、そうした意識の変容を認識する人が急激に増えていくと思われる。

また、そうした認識を持つ人たちによって、その後に起こるもろもろのことを受け入れながら、それらの現象の意味を反転させていくことになる。

いきなりややこしい話に突入してしまったが、これは 『盤』 で扱うべき内容であり、ちょっとここでは紙幅の関係もあって中断せざるをえない。

簡単にまとめておくと、指導者やリーダーが弟子や生徒を教え導くという形式の意義はすでに終わりを告げており、先ほどの “認識”、別の言い方をすれば 「意識を意識する意識」 とでもいうべき知覚を発現させているものたちが集う場が必要だということだ。

だから、特にスピ系を自称する (公言していなくても) 人は、これから重要な “選択” を迫られることになる。

もちろん自身によってだ。

シュタイナーの話に入ろうと思っていたが次回に譲り、斉藤和義の 「やさしくなりたい」 という歌を引く。

言わずと知れた大ヒットドラマの主題歌であり、ミリオンセラーは今はないのか、ミリオン DL 曲だ。

歌詞の中に 「愛なき時代に生まれたわけじゃない」 とあるのだが、まさにそのとおりであり、愛はそこにあるし、人はやさしくなれるし、強くなれるし、手をつなげるのである。

「選択する」 とはそういうことだ。

私たちは 「選択」 を迫られているのである。

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