だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting vol.9 「超越的な体験とは何か?」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第9回
「超越的な体験とは何か?」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2015年8月23日 東京・中野にて収録

西塚 『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』の今日は、第8回目ですね。

ヤス 9回です。

西塚 だんだんもうわからなくなってきました…

ヤス 酔っぱらって(笑)。

西塚 今日もよろしくお願いします。

ヤス はい、よろしくお願いします。カンパーイ!

西塚 カンパーイ。前回は、個を超えた存在、超越的な存在といったものに話が及んだところで終ったと思いますが…

ヤス 前回の要約も含めてちょっと話しますと、マスを対象にした宗教といったものがある意味、限界に達していると。いわゆる大教団が提供してきたマス全体に通用する幸福のモデル、このように行動すればこのような幸福のモデルがつかめますよ、というもの。衣食住に困っている人が大半だった時代は、その幸福のモデルが普遍性を持って通用していた。だいたいみんな同じような悩みを持っていたわけです。同じような悩みに焦点を当てた幸福のモデルを作ればよかった。たとえば、病気とか、仕事がない、お金がないということであれば、物質的に豊かになれるためのひとつの幸福の解を作ればよかった。

当時、日本はどんどん高度経済成長してましたけども、海外もそうですが、その高い経済成長に乗っかるような新たな行動形式を身に着けるということですね。産業社会の中に適合する行動様式を身に着けさせる。その結果として、産業社会に自分が吸収されて衣食住が充足される、というような形で作用していた。その意味では、日本の大教団が果たした役割はかなり大きかったということでした。

西塚 無視できないですね。あのお話しは興味深かったです。

ヤス しかしながら、物質的に困窮しているステージが終わったあと、それぞれ「個人」というベースにおいて多様化した悩みが存在していた。物質的には問題がないんですが、生きていても空虚で意味を感じなくなり、自分自身の人生や生き方に意味を求め始める。それに関しては、マスを対象にした大教団では対応できない。対応できなくなったあとに何がやってきたかと言うと、スピリチュリズムの大きな流れだった。そのようなことを前回話しました。

西塚 そうでした。

意味を求める悩み

ヤス そこでポイントになってくるのは、個別的な悩みに焦点を当てたときに、宗教が本来持っているスピリチュアリズムというものが逆に脚光を浴びるようになってくるということです。それが個人の千差万別の悩みに対して解答を与えるための、ひとつのリソースとして使われるということだと思います。

西塚 そうなると、ブルドーザー的にですね、かつては大教団がいわゆる衣食住の充足を与えた。意図的かどうかはともかく、結果的にそうなったわけで、そうすると大教団の目的というのはやはりそこにあったということでしょうか。つまり超越的なものを求めるといったような、先ほどの個の問題に関しては、とりあえずネグレットされてきたということでしょうか?

ヤス ネグレットというよりも、むしろ大教団のほうでも気づいていなかったということなんじゃないかと思いますね、おそらく。

西塚 気づいてなかった…

ヤス 最初は個別的な悩みを抱えて入ってきた人もいたと思います。しかし、そんなことを考えてもしょうがないだろうということで、やはりマスの幸福のモデルの中に溶け込まされたんじゃないかと思うんです。溶け込めない人たちは離れていくだろうし、溶け込めない人たちの割合が年々増えていったということじゃないでしょうか。

西塚 それは、豊かになったからということですか?

ヤス そうですね。特に日本の場合、バブル期からバブルの崩壊以後、それまでの一般的な幸福のモデルの中に還元できないような、領域外層とでも言うのか、そういう人たちが増えていったと思います。それに対して大教団も対応に困ってくる。そうした人たちを包含しようとする場合、大教団が持っている幸福のモデルをどこかの部分で拡大したり、放棄せねばならなくなってくる。大教団には、その幸福のモデルの合理性とか正当性を証明するための教義があるわけですから、教義そのものを変えざるを得ないなんてとこまでいくと、それはちょっと無理なわけです。

西塚 たしかにそうですね。そうすると、バブルが崩壊して、そういう個別的な悩みに応えたいわゆる大教団ダッシュと言うか、カッコ付きの大教団の典型がオウムだったということになりますね。

ヤス だと思いますよ、僕は。

西塚 95年ですね、オウム事件は…

ヤス 本来のスピリチュアリティの元にあるものは、「相対化」ということなんです。悩みの多い自分自身の人生というものを、衣食住であってもなくても、全然違った視点から俯瞰できるということなんですね。自分自身を眺めることによって、ああ、なんと自分はちっちゃなものなのかと。なんでこんなにちっちゃな悩みに執着しているのかと。ああ、バカらしい、そう思えるような視点設定だと思います。

自分自身のリアルな人生を相対化するための視点ですから、視点そのものもすごくリアルな視点じゃなくてはいけない。理屈でね、死んだらあの世に天国があるんだとか、君たちだってひとりひとりの仏なんだからとか、そうしたことを単純に信じて相対化できるかというと、そういうわけにはいかない。

オウムの特徴は、自分自身の人生を相対化するためのいわゆる超越的な視点、これを五感で体験できるリアルな装置、「祈り」という装置であるとかね、そらが様々に用意されていた。

西塚 前回も出ましたが、オウムはそこで薬物を使ったり、テクノロジーを使ったりしたわけですね。麻原(彰晃)はそのへんをわかっていたということですか?

ヤス おそらく麻原自身がビリーバーだったんだと思います。自分自身がそれを体験した。「ポアする」という言葉がありましたね。殺してしまうという。オウムの信者たちというのは、非常に悪い意味でね、まさに超越的な体験をした人たちだった。そうした人たちは、この人生を徹底的に相対化して見てるわけですよ。つまり、生に対する執着がほとんどないってことです。

西塚 そうですね。今思い出しましたが、村井秀夫がいましたね。殺されましたけど。彼は大阪大学を出たエリートでしたが、彼が言った『かもめのジョナサン』もそうですね。誰よりも高く飛ぶという、まさしくヤスさんがおっしゃった俯瞰する視点ですよね…。

そうした装置としてもオウムは機能したし、麻原自身がヨガから始まって超越的な体験をしていて、事実かどうかはともかく、空中浮揚の有名な写真もあります。そのあたり、衣食住も満ち足りたインテリたちが“ヤラれちゃった”という言い方もできるだろうし、あ、これだ!と、五感を通して認知できる超越的なものに触れた、と思ったのかもしれない…

ヤス ええ、オウムが象徴的だったのは、エリートが多かったということですね。学歴も高い。彼らというのは、大教団のマスの幸福のモデルにハマりきらないんですね、全然。彼らの持ってる悩みというのは、村井の『かもめのジョナサン』もそうですが、いわゆる「意味」に対する悩みだと思いますよ。自分は何のために生まれてここにいるのか。学歴も高く、将来も約束されてる。衣食住に困る水準ではない。そのような人たちに、自分の人生を全体的に相対化する手法を提示することによって、超越的な体験をさせる。そして精神的な悩みを解決させる。典型的な例だと思います。

西塚 ヤスさんは、あまりお聞きにならないかもしれませんが、X JAPANというバンドがあって…

ヤス ああ、はいはい。

西塚 TOSHIというボーカルが、いわゆる新興宗教にハマッたんですね。

ヤス はい、後に告発してね。

西塚 あ、ご存じですか。それで『洗脳』という本が出てベストセラーになりましたけども、僕も読みましたが、あれを読むと本当にすさまじいです。結論から言うと、10億以上持っていかれてるわけです。彼は超有名バンドのボーカルで、お金もあるんだけども、何とかってヤツの餌食になってお金ばかり吸い取られる。オウムと同じ90年以降の若者の話ですが、かたや功成り名を遂げたミュージシャンがそっちにいってコロッとハマる。あるいはエリートでインテリで、いろいろな知識もあるけど、やはりハマる。でも、両者は何か違う気がするんです。そのへんはどう思いますか?

ヤス そうですね、どこまで違うかはよくわからないですが、ただ僕の感じで言うと、オウムのエリートがなぜ学問にいったのかと言うと、もともとあった悩みだったと思うんですね。意味を求める悩みですね。自分は何でここに生まれてきて、どうなるのかとかね。俺はなんでこんなに空虚なんだろうとか。勉強ができてみんなに頭がいいと言われるんだけども、何の意味もないと。俺は今後、生き続けるために意味を発見しないとどうしようもない。そういった人たちが自然科学とか宇宙物理学とかに解を求めたんだと思います。いわゆる最先端科学に解を求めた。しかし、それはお門違いで、解を求めるどころではなかったということだと思います。

Xのその人ですが、お金持ちであったということは、お金で解決できる悩みだったら、お金で解決してると思うんですよ。それでも残る悩みは何かと言うと、やはり自分自身に対する悩みだと思いますね。お金で解決できない悩みです。お金で解決できない悩みだとしたら、場合によってはオウムにいたエリートたちの悩みと近似する悩みかもしれない。

西塚 しかも、ロックはやりたくてやってるはずです。でも、成功してもなおかつ悩む。たとえば、60年代後半とか、70年ちょっとにはですね、まあ死んじゃったドアーズのジム・モリソンでもいいですが、ああいう、突き詰めちゃった、僕に言わせれば、やけっぱちなところでドラッグにハマッて、ちょっと死んじゃったって感じに近いんですが、それともTOSHIは違いますね。すごくいいヤツで、親孝行でもあったみたいだし。それで何とかってヤツみたいな、とんでもないヤツですが、こんなヤツにコロッと騙される。統一教会の飯星景子でも、他にもいろいろいましたが、タレントで何の問題もなさそうな人たちが、いってしまう。ひと括りにしてしまえば、ヤスさんのおっしゃたように、個別の悩みが多様化してるということなんでしょうが…

最初に戻ると、超越的なもの、自分とは何だろうというものに解を与えてくれる、何か絶対的な存在があるという憧れだったり、期待だったりということは、お前はこうだよ!という安心感を求めたいということですね。

ヤス 安心感なんだけど、人から言われて、そうだって従えばそれで済むかというとそうではない。まさにここに生きてる自分の生き方、あり方、存在全体をかなり遠い視点から、宇宙的に遠い視点からね、非常にリアルに眺めて相対化できるという実感なんですね。

西塚 ああ、面白いですね。その実感というのは。たとえば、オウムだったら麻原がいて、XのTOSHIだったら何とかというヤツがいて、飯星景子だったら統一教会の文鮮明になるのかな、必ず仲介がいますよね。となると、それこそ中世の神と教会と信者の関係に似てませんか。

ヤス 仲介者が何をやるかと言うと、超越的な体験に誘(いざな)うんですよ。仲介者を絶対的に信じたからどうだっていうのは、後にくることだと思うんですね。なぜ信じるようになったかと言うと、彼らの導きに従って、自分が実感したその実感がリアルなものだったということだと思います。

西塚 ああ、それで仲介者を悪く見ないのか。僕はそこが不思議だったんですが、遠くの絶対者を見てるから、仲介者に対してあまり悪い感情だったり、疑いも含めて、持たないのかな。

ヤス 絶対者を見上げる体験ではないということなんです。そうではなくて、絶対者というものがあるとしたならば、絶対者と一緒の地点に立って自分も下を見るんですね、実際に。

西塚 一体化…

ヤス うん、一体化。神でも仏でもいいんですが、超越的なものと自分が一体化した状態。それはもうその段階で、自分自身の人生を相対化して見ますよね。相対化して見える高みから、ちっちゃな自分自身の人生を俯瞰的に見る。そうすると、なんと自分はちっちゃな存在なんだろうと。なんと自分の悩みは無意味なんだろうと、見えるわけです。

超越的体験にはトレーニングが必要

西塚 そうなると、2014年でしたか、ヤスさんがお書きになった、ハワイのハンク・ウェルスマンのような方がおっしゃる、これからは自分が神である、というような言い方にもyすながりませんか。

ヤス まさにつながりますね。ハンク・ウェルスマンが言ってるシャーマニズムの理解の仕方というのは、超越的な体験ということをリアルにやる方法なんだということなんです。

西塚 俯瞰する絶対者と自分が一体になって、また自分を見るということは、僕の言葉で言うと、自分が神になるということですよ。

ヤス そうですよ。仏になるということです。

西塚 これからは仲介者がいなくなって、本当に自分が神と一体化するという時代に入ってきたとうことですか?

ヤス ユングが昔、そういうことを言ったことがありますが、たとえば大乗仏教の日蓮系の仏教を見ると、いわゆる教団そのものを本来は必要としないと言うわけです。お前自身が仏なんだから、自分自身の仏のパワーを自分で引き出して成仏せよというわけですよ。だから仲介者は本来いない。しかしながら、ほとんどの宗教の場合、やはりどうしても必要とする構造がある。超越的な体験をするためには、極めて細かな行動規範や規定があると。それを全部通過しないと、なかなかそちら側に行けないわけですよ。それを全部、誘って、導いてくれる仲介者がどうしても必要になってくるんですね。

その仲介者に導かれるままに超越的な体験をしたときに、一気に自分自身の人生が相対化できる、ある超越的な視点に自分が立つことができる。そうすることによって、自分の悩みから一気に解放される。

西塚 そうなると、いろいろな芸事でも、武術でもいいんですが、お師匠さんに近いですね。お師匠さんが自分が経験したものを弟子に教えますよね。その師匠を通じて、大いなるものにつながっていくというような、修行というか稽古なんでしょうけども。ある日突然、お師匠さんが必要じゃなくなって、今度は自分が教える立場になったりする。こないだ、たまたまジャッキー・チェンの映画を観ましたが、やはり師匠がいて、お前に教えることはもう何もないとか言って、去っていくわけですよ。

ああいう形は、一番いい師匠の形かなとも思います。あとは自分自身で大いなるものとつながったとして、自分のまた新たな悩みも出てくるんでしょうが、再び格闘していくという。わりと健全かなと思います。僕の興味で言うと、そういうこと自体も何なんだろうという話になるのですが、そうすると、構造的にはみんな同じで、学校の先生でも何でも、やはりいい先生と悪い先生がいるといった話になってしまう。

ヤス そうですね。宗教指導者が成り立つためにはね、いわゆる超越的な視点への誘いを確実に行なうということですね。ただね、そういう仲介者が本来必要かどうかと言えば、原理的には必要なない。個人の努力によって可能な部分はたくさんある。なおかつ、宗教である必要性があるかと言えば、それもないかもしれない。たとえば、哲学でもそれは可能だと。マルクスの『資本論』がありますが、あれが書かれてもう150年近く経つのに、なぜいまだに人気があるのか。

西塚 人気がありますか?

ヤス 聖書並みに人気がありますよ。

西塚 おお、もはやバイブルなんですね。

ヤス バイブル。なんでバイブル並みに人気があるかと言うと、特に第1巻がそうなんですが、自分自身の自己認識が変わるんですよ。『資本論』を読むというのは、難行苦行の過程ですよね。ひとつひとつ全部理解せねばならない。全部理解して、『資本論』の枠組みを自分に適用する。そうすると、自分の異なった側面が見えてくる。ああ、俺のこうこう、こういうような考えというのは、俺の家族がこういう社会階層に所属してるから形成されたものなのかと。

社会のシステムによって形成された自分自身のある部分が、ありありと見えてくるんですね。たとえば、親とか親戚から、○○ちゃんはあんないい大学にいったのに、お前は全然ダメだったねとか、さんざん言われると。そういう価値観自体がね、うちの一族というのはそういう社会階層の出自だから、そこで共有されてる、いわゆる階級的な価値観にすぎないのではないか、と見えてくるわけですよ。

そのような階級的な価値観のもとででき上がってきてるのが、お前の悩みなのではないか、それは無意味なんじゃないか、と思うわけですよ。そのような形で自分自身が赤裸々に見えてくる。そうすると、自分自身というのが、自分の主体的な判断によって自由に創り変えられる素材として見えてくる。

言ってみれば、マルクスの『資本論』の枠組みを通してね、自分自身を相対化する。相対化することによって、今の自分自身の悩みというものが一気に解放される。そうしたひとつの方法ではある。ただ、『資本論』をずっと読み通すのもそうですし、また宗教指導者の誘いに従って超越的な体験をするにしてもそうなんですが、ある条件がある。何かと言うと、ある意味でのトレーニングの厳しさがつきまとうということです。

西塚 なるほど、トレーニング。

ヤス パッとわかるということはないわけですよ。たとえば、宗教指導者だったならば、とりあず信じてついてこいと言うわけです。ジャッキー・チェンの師匠のように(笑)。

西塚 どんな理不尽なことでもついていきますからね。

ヤス そう、ついていく。さっきの『資本論』で言えば、とにかく自分がわかるまでとことん勉強して、納得せねばならないわけですね。それはやはり、なかなか困難な過程なわけです。それと今のスピリチュアリズムは違います。本来の宗教性の中には、自分自身の人生を相対化できる超越的なものをリアルに実感する、ある視点を設定する装置というのがたくさんあるんですね。ただし、それはなかなか困難なものなんですよ。

西塚 トレーニングが必要だと。

ヤス それをマスターするのは、やはり相当時間がかかって、修行が必要になる。

西塚 なるほど。僕の解釈で言うと、やはり人間は自分の考えで生きてきてますから、なかなか自分の経験の範囲内を出ませんよね。そこを突破するある種のブレイクスルーを作るには、とんでもない理不尽なことであろうが、今までの自分の枠外からの外圧があって、ある日突然、ダムの蟻の一穴みたいな形で、ブレイクスルーの一点ができて、そこからバン!と違う世界にいく。そうしたイメージに近いですか?

ヤス そうですね。宗教的な指導者が与えることは、そのブレイクスルーを人為的に作り出していくということです。困難を作り出して。『資本論』のような思想・哲学もそうですが、自分が理解するまで徹底的に読み込む。それがひとつのブレイクスルーになるんです。

西塚 すると、人によってタイプがあるということですか? 知的な思考方法でいく人と、五感からいく人と。

ヤス そうですね。ほとんどの人たちが五感からいきたいと思うわけですよ。スポーツの体験もそうですし、いろんな形のブレイクスルーがあって、それはある意味、同じ地点に至ると。つまり自分自身の相対化という地点に至る。

北海道の中標津に、70キロのランチウェイというところがあって、酪農家が作ったハイキングルートなんですが、意外とたくさんの人がくる。それが、けっこう悩んでる人ばかりだというんです。

西塚 なんか、お遍路さんに近いですね。

ヤス ランチウェイルートを70キロ歩いて、何日かかけるんですが、最後には一番高台の丘に出て、サーッと、ものすごくきれい風景を見渡すという体験をするんですね。

西塚 俯瞰といえば俯瞰ですね。

ヤス 俯瞰なんですよ。まさに象徴的で、そこまでやると、すべてすっきりすると言われてるんですね。

西塚 それは面白いですね。ものすごい困難を克服しながら、苦労していって、俯瞰して晴れ晴れとする。

ヤス そうそう。最初は悩みを抱いてくるわけですよ。歩きながら、ずっと悩みのことばかり考えてるんだけど、そのうち疲れてくる。もう、進むのか引き返すかの選択だけになってくる。進むことを選択すると、歩くことしか考えないんですって。ただ、もくもくと歩く。そうするとだんだん風景も変わってきて、風景に魅了されるようになってくる。そこだけに単純化した作業をずっと続けていって、それで上まで出るわけですね。そして、わっと俯瞰して、ああ、俺の悩みって意味なかったよな、と思うという。

西塚 僕はこう見えても、高校時代は山岳部でしたので、よくわかります。もくもくと歩き続けるんですよ、けっこう辛いんですが。途中、もう帰りたいとか、やめちゃおうかとか考えるんですが、でも歩き続けると高みに出るわけです。するといろいろなものが全部すっ飛ぶし、大げさに言うと、ちょっと次元が変わるわけです。

ヤス そうそう。

西塚 あまり話がずれてもいけないんですが、いろいろな思考の道のりだったり、肉体的なことでも、僕はいつも構造のパターンとかを気にしてしまうんですが、先の『資本論』にしても似てますね。苦労して読むんだけども、ある日突然、高みに出る、という言い方もできる。つまり理解できてしまう。

ヤス 理解できて、高みに出た地点から見ると、自分自身を俯瞰できるわけです。俯瞰して相対化できる。「俯瞰」と「相対化」は重要なキーワードじゃないかと思いますね。

3分解脱!?

西塚 それは、80年代初頭のニューアカデミズム、ニューアカブームってありましたよね。あのとき浅田彰が「スキゾキッズ」を提唱して、要するに徹底的に逃げていく。「ホール(Whole)」は求めない。全体の「一」を求めない。徹底的にズタズタに分析していくという立場を提唱した方だと思いますが、「全体」を絶対に求めないわけですね、絶えずこう…

ヤス まあ、微分・積分していくということですよね。

西塚 そうですね、あのへんのブームも、エセインテリも含めて魅了したのは、悩みが多様化・個別化していたことに、対応してたということですね。

ヤス 言ってみれば、俯瞰と相対化の方法だったということです。当時、80年代、90年代は、すべての部分はそうだったんじゃないかと思います。俯瞰と相対化というふたつのキーワードは絶対に入ってます。ドラッグもそうだし。トリップして、自分が俯瞰できる地点まで立つということですよね。

西塚 そうしたお話しの流れに照らし合わせた場合、今はどんな状況だと思われますか?

ヤス おそらくですね、90年代や2000年になる手前というのは、まだやはり、難行苦行と言うか、ある程度のトレーニングを要求するような俯瞰の方法、相対化の方法といったもののほうが、一般的だったんではないかなと思います。

西塚 装置と言ってもいいですね。

ヤス 装置。本来の宗教の中に入ってるスピリチュアリティとかなり近いものがあったかなあと思いますね。だから、それに対して今は、超越的な視点といったものが、実に安易な形でことごとく言語化されてると。「幽体離脱」ですよ、とか…

西塚 「前世」ですよとか。

ヤス 実はすぐ、あなたでも「神」と出会えるとか。

西塚 あなたは「シリウス人」ですよとか。

ヤス そうそう、「光の体験」とかね。言ってみれば、それは超越化の劣化ですね。

西塚 ああ、なるほど(笑)。超越化の劣化。面白いな。

ヤス カップヌードル化ですよ、ほとんどね。お湯さえ入れれば、誰でもできると。

西塚 インスタントだと。

ヤス そう、超越化も実にインスタントにできるということが喧伝されてしまったので、本当に超越化って簡単にインスタントでできるんだねと言って、信じ込むような人たちが多くなってきたということだと思いますね。

西塚 うーん、カップヌードルは70年代にできましたが、ここにきて精神世界のインスタント化がきたという…

ヤス きてる(笑)。

西塚 そうか、安易で、たしかに飛びつきやすいし、おいしい部分もあるけど、やはり満足はできませんよね。

ヤス 満足はできない。だから、それがどこまでの超越化かと言うと、おそらくね、やはりインスタントの超越化ってないと思うんですよ。たとえば、ハンク・ウェスルマンみたいに、シャーマニズムの手法を本当に真摯に追求するような人に言わせると、シャーマニズムというのは、超越的な体験をするための一番やりやすい方法のひとつだと。なぜかと言うと、人類は5万年間の蓄積された知識があるので、それは現代の人間の脳の構造にぴったりマッチしているからだと言うんですね。

ただ、それでもね、ハンク・ウェスルマンのシャーマン的な体験をするためには、やはりトレーニングですよ。何度も何度も繰り返しトレーニングをやらなければ、得られないんだと。一瞬のうちにパッと変わるなんていうことはあり得ない。そうすると、ほとんど今言われてるような、「3分俯瞰現象」と言いますかね(笑)…

西塚 ああ、『キューピー3分クッキング」みたいな(笑)。

ヤス そうそう、「3分解脱」。「3分解脱」なんていうのはあり得ないと言うか、たいていまやかしだと思うので、ひとつの方法では全然満足できないという人たちが、90%以上だと思うんですね。

西塚 そうなると、今の比喩で言いますと、とりあえず『3分クッキング』も重宝されたし、あるいはビジーフォーのグッチ裕三さんが言うように、いろんな出来合いのものでも、ソースを使えば簡単に料理しておいしくできると。実際、できるわけです。いろいろな方法論があって。でも、おそらく満足はできないだろうと。毎日は食べられない。そういうことが、今後ですが、スピリチュアル的にも出てくるのでしょう。じゃあ、その人たちは、何を求めればいいんでしょうか?

ヤス たとえば、ひとつの方法でね、これをやればあなたは幽体離脱できますよと。でも、そう簡単にできるわけがない。トレーニングが続きもしない。だったら、もっと簡単な方法があるかしらと思って探してみると、これもある、あれもあるとなる。そうすると、ずっとそういうような方法を探してめぐり歩くジプシーたちの、膨大な数ができ上がるということですね。

西塚 それはおそらく、ケミカルなものとか、脳に直接、電極を結ぶとか、そっちにいっちゃうんじゃないでしょうか。

ヤス おそらくね。いわゆる「スピリチュアルジプシー」のような人たちが大量に作り出す構造ですから、今の安易なスピリチュアリズムというのはね。もともと膨大な市場が存在するわけですから、彼らの市場の要求に見合った製品がどんどん開発されてくる。そのうちのひとつが、たとえばケミカルであるか、新しいテクノロジーを用いて、脳のある特殊な部分を刺激することで、いきなりそういう体験をするという方向へいくでしょう、やはり。

西塚 そう思いますね。また映画の『マトリックス』の話になりますが、サイファーという人物がいて、そっちにいったりするわけですね。そっちのほうが俺にとってはリアルだと。安易に快楽を得られて、そっちのほうがリアルなんだと。面倒くさい闘いとか、本来の自分が何だとか、コントロールされていようがなんだろうが関係なくて、そっちのほうが気持ちがいいという人たちもいると思うんですね。いい悪い、じゃないと思いますが、そのへんは分かれると思うんです。ヤスさんご自身はどう思われますか?

ヤス 超越化の体験なんですけどね、長い間に確立された宗教性の持つスピリチュアリティは相当、精緻にできてる。精緻にできてるがゆえに、これほど多くの人間を獲得するんですが、それでもたとえば「祈り」の行為を止めると、なかなか長く続くものではない。それを持続させるためには、「祈り」みたいな行為をずっと継続させていくことがどうしても必要になってくる。

だから超越的な視点を確保するための、ある特定の行動なり、特定のテクノロジーでもいいんですが、継続的にずっとやっていかなくては、その視点を確保できないということだと思います。そうすると、現代の我々から見ると、そうした超越的な視点というのは、悩んだときに自分をわっと俯瞰させるのはいいんですが、この日常生活の実感と同等のレベルまでにリアルで、持続性の高いものかというとそうではない。そうすると、必ずこちらに戻ってこざるを得ないんです。

西塚 そうですね。すると、持続するべきかどうかはともかく、持続するものが求められてくるんですか?

ヤス おそらく持続することは可能だと思う。テクノロジーとか、薬物によって。だからと言って、極端に持続させた場合、日常生活の人格のバランスを崩していくんじゃないかと思いますね。重要な問題は、超越的体験というものの内実ですね。超越性一般が、すべて同じようなものかと言えばそうではない。超越的体験の中にもクオリティの違いがあるだろう。

たとえば、薬物によって体験した超越的な体験と、誰かグールーみたいな者に導かれて、作り上げられたような超越的な体験と、さきほどの70キロのランチウェイルートをずっと歩いてね、高みに出てたときに得られた超越的な体験と、やはりかなりクオリティーが違ったものだと思うんですね。

だから、もっと言えば、超越的な体験そのものの中にね、まやかしの部分、ある種の幻想の部分と言うか、体験領域としての違いがたくさんあると思うんですね。

西塚 ヤスさんのお話をうかがってて思ったんですが、そういう超越的な体験を求めない人がいますね。極端に言えば、快楽だけでいいと。この世で死ぬまで気持ちよければ、それでいいという人がいますね。でも、そうじゃない人ももちろんいて、超越的なものは求めないんだけれども、日々の日常の自分の役割みたいなものを重要視する人たちがいます。僕はそこにストイックなものを感じるし、むしろ修行とか稽古に近いものを感じます。それはいわゆるスピリチュアル的なものを求める人とわりと共通してる気がするんです。

そうじゃない人たち、本当に快楽だけ、自分は難しいことはよくわからないし、今が楽しければいいという、昔の言葉で言えば刹那的なんでしょうが、そういう人たちが圧倒的に多いと思うんです。僕はその3つのタイプがあると思います。もう一度言うと、哲学的な、スピリチュアル的なものを、知識としても追求していくような人たちと、日々の生活の中に溶け込んで、自分の役割をきちんと認識して、傍から見れば普通の平凡な人たちに見えちゃうんだけども、自分なりのある種の戒律を定めてそれを遵守して生きてる人と、それらとまったく関係なく、楽しければいい、気持ちよければいいとして生きてる人。簡単に言えばその3つがあるというふうに思うんです。そのへんはどうですか?

ヤス 僕もその通りだと思いますよ。ただ、その3つに共通してるのは、やはり「意味」だと思うんですね。今が楽しければいいという人は多いし、僕の周りにもそういう若い人たちは多いですが、長く続かないです。

西塚 ああ、続きませんか?

ヤス 絶対、あり得ないですよ。今が楽しければいいって言いますが、楽しめなくなるときがくるんですね。歳いってみろと。体力はなくなるしさ、食欲も…まあ僕はあるけど(笑)、食欲なくなる人が多いしね、性欲もなくなる人が多いし。だから衰えてくるわけですよ。そうすると、今が楽しめなくなる。

西塚 ああ、なるほど。

ヤス 楽しめなくなったときに、お前どうやって生きるの、ということになる。そんなのすぐきますよ。今が楽しければいいなんて、お前、30代初めくらいまでだぞと。おそらく。

西塚 そうか。逆に言うと、そういう人たちが今を楽しめなくなったときに、へんなところにいっちゃう可能性がありますね。

ヤス そういう人たちが一番、安易にいくでしょう。安易に超越したい、安易に私は自分自身の人生を相対化したい、わかっちゃいたいとかね。なんで、そうした超越性を求めるかと言うと、やはり最終的に楽しめなくなるので、楽しめない自分自身に深い意味を感じないと、生き続けることができないということだと思います。

西塚 そうなると、陳腐な結論を言っちゃうと、求道的にならざるを得なくなってくるということですね、人間というのは。

ヤス そうですね。そのようにできてると言うか。それが、我々の持ってる大脳のもたらす機能ですよ。いいにしろ悪いにしろね。

ちょっとそれとは逸れるけども、今後問題になってくると思うのは、超越的な体験そのものの内実ですね。かなり危険な超越的な体験もあると思います。自分自身の全人生を無意味化してしまうとか。超越的な視点から立って見たならば、この世における自分自身の人生は無意味であって、ツールにしかすぎないと。だったならば、何でもやれるという状態にしてしまう、といった超越性のあり方だってあると思います。

「宇宙人」の存在意義とは?

西塚 また逸れてもいけませんが、超越的な神とか創造主というのはおいといて、その中間のですね、さきほどの宗教教団であれば教祖がいたりしますけれども、最近では、「宇宙人」という話もありますよね。シリウスでもプレアデスでも何でもいいんですが、それもある種、会ったことはないけれども、また絶対的存在でもないんだけれども、中間として想定して、自分自身をプチ俯瞰して、あーだこーだ言うような、ある種のフィールドと言うか、シーンがありますね。それはそれで僕も実は興味があるんですが、あれはどうなんでしょうか?

中途半端といえば中途半端な気もしますが、絶対的なものと自分とのちょっとした質疑応答をする。闘うのではなく、宇宙人とか、天使でもいいんですが、まあそういう存在を仮定しておいて、そこを介して、たとえば絶対的なものとのコミュニケーションを行なう。生身の教祖はいないかもしれませんが、それは構造としては似てる気がするんですね。

ヤス そうですね。だから、超越的な体験をどう呼ぶのかという、たとえば、「光の体験」という括り方もあるだろうし、または「幽体離脱」とか「前世」という括り方もあります。あるいは、自分には宇宙人のDNAが入っているとして、そういう宇宙人というものを提示することによって、見えない側面に光があたるわけです。あなたにはシリウスのDNAが入っていて、シリウスに通じた魂であるとかね。別に僕はそれを否定しようという気は全然ない。場合によっては本当にそうなのかもしれない、わからない。

ただ、それがどういう効果をもたらすかと言うと、そのようなシリウス系のDNA、プレアデス系のDNAがあるということによって、今までまったく認識できなかった自分自身の影の側面が見えるわけですよ。それはまさしく、俯瞰することによって初めて発見できるような側面なんですね。そういうことで言うならば、自分自身を俯瞰して相対化するというひとつの方法なんだろうなと思います。

西塚 何か新たな物語を作り出して、それに頼りたいのかなという気もします。たとえば古代・中世だったら、アウグスティヌスでもなんでもいいですが、聖者も含めて、直に神とつながるということがある。または現代で言えば、薬物を使って直に超越的なものとつながりたいという欲求もある。また別に、いろいろな物語、ドラマでもいいし、映画、文学、そうした物語を読んだり見たりすることによって、自分の生活なり人生も物語化して、そこで何となく自分の立場を納得すると言うか、認識していくといったやり方もありますよね。それが今ここにきて、新たな物語、超越的なニュアンスを醸し出しているような、宇宙とかスピリチュアル的なものですね、そうした物語が求められてきているのかなという気がします。

ヤス 我々の超越的な意味と言うのは、直に体験するか、または神話を通してでしか体験できないんですよ。神話というのはまさに物語なんです。我々というのは、まず現在の自分自身の人生を俯瞰して、第二に相対化して、相対化することによって新しい自分自身の在りか、存在の意味みたいなものを発見する。この3つのことを全部、充足的にできるような神話ですね。新たな神話というのものを必要としているということだと思います。

西塚 自分の人生は、言ってみれば自分が書き手であって、自分の行動がすべてを描くことになるわけですね。物語を作っていくということです。身をもってどういう物語を書いていくかという時代に、ずいぶん前から入っているような気がします。

ヤス 物語を書いていく上で、自分自身を俯瞰しなくちゃダメでしょ、やはり。

西塚 そうですね、まさしく。

ヤス 俯瞰しないと、ストーリーテラーにはなれない。聖書というのは神話ですね、まさにひとつのストーリーですよ。壮大なストーリー。その壮大なストーリーを通して、自分自身の人生を俯瞰することによって、自分自身の内面に相対化して、それで今の自分の人生にも深い意味を見出していくということができる装置でもあった。先にマスの宗教の話をしましたが、だんだんそれにアトラクトされない人たちが増えているわけです。

西塚 僕のイメージだと、白紙のところで生きていて、自分の行動で描いていく。もちろん俯瞰する視点もあるわけですが、僕のことを言ってもしょうがないですが、常に軌道修正しながら描いていくのに近いんですね。あまり設計図なり、お手本を必要としないと言いますか。いろいろな本は読んだりしますが、手本はいらないと言うか、あまり好きじゃない。自分が何をやるかわからないくらいが、僕にはちょうどよくて、面白いんです。ダメですかね?

ヤス いや、ダメもいいもないですよ。

西塚 タイプですからね。

ヤス どちらかと言うと僕も同じですよ。面白いことをやりたいというだけなんです。ただ、16世紀の人間たちが、自分自身の人生を俯瞰して意味を見出すような方法、つまり彼らに有効だった方法と、我々に有効な方法とは根本的に違うと思います。

西塚 プレアデスにしろなんにしろ、違う視点がくるとするじゃないですか。いろいろな情報があって、人から聞いたものでもいいですし、本でもいいですが、そういう物語があまりにも精緻にできすぎていて、これはもうフィクションとは思えないくらいのものが、いくらでもあるわけです。それが僕は面白くてしょうがない。それを確かめてみたいし、興味がつきないんです。

ヤス おっしゃったように、俯瞰するための様々な装置が今、できあがりつつある。さっきの話の論点に戻ると、それはたとえば光の体験であったりね、前世、幽体離脱といったいわゆるスピリチュアル系のもの以外にですね、超越的な視点というものを確保するための新たな神話が、今どんどんできつつある。それは、神話としての極めて精緻なストーリー、豊かなストーリーに満ちているわけです。それらの中には、え!と、読んだだけで引き込まれて、説得させられてしまうものもあるわけです。その中には、宇宙人系のものがやはりあるわけですね。

たとえば、僕が大好きなビリー・マイヤー。彼の書いた本をよく読むんですが、恐ろしく精緻で、納得させられるぐらいの説得力を持ってたりします。それはいい意味で、現在でき上がりつつあるような、自分自身を俯瞰するためのね、超越的なストーリーの最も洗練されたもののひとつのタイプなんではないかなと思いますね。

西塚 本当にそうですね。今おっしゃったビリー・マイヤーの本などは、へたなエセ哲学者が吹っ飛びますからね(笑)。

ヤス 吹っ飛びますね。内容の精緻さ、豊かさから言うとね。初めはね、プレアデス? 何だこれ?と思って読んでみたんだけど、何冊か読むうちにすごく納得させられる部分が出てくる。仮にね、これが事実だという視点から眺めてみると、全然違った現実が見えてくる。それは、僕が『資本論』を必死に読みこなして、目からウロコになった状態とほぼ同じような感じですね。

西塚 超越的なものについてもっと語っていきたいんですが、その前にもうちょっとクリアしなければいけないことがいっぱいありそうですね。

ヤス あります、あります。

西塚 みんながバカにしてるようなことも含めて、もうちょっと検証すべきこと、なかったことにされたり、否定されたことも含めて、過去のもの、文献でも言説でもいいですが、もう一回検証されるべきものがたくさんあるように思います。

ヤス いっぱいあります。現代人の特徴としてはっきりしてるのは、超越性を求める時代に入ってるということです。新たな超越性の構築の時代に入ったということです。今、我々が目にしてるようなスピリチュリズムも、そのひとつの側面なんだと思いますよ。

西塚 先ほどのビリー・マイヤーもそうですが、宇宙人の話も出てきました。そのへんも今後はもっと突っ込んでお聞きしていいですか?

ヤス いいですよ。面白いじゃないですか。僕は僕でわかる話をします。

西塚 では、今日はこのへんで。どうもありがとうございました。

ヤス こちらこそ、どうもどうも。

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