だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting vol.11 「“個”を体験するということ」

人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第11回
「「個」を体験するということ」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2015年9月6日 東京・中野にて収録

西塚 『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』の今日は、第11回になりますね。今回もまたヤスさんにおいでいただきました。では、よろしくお願いいたします。カンパーイ。

ヤス あ、どうもどうも、カンパーイ。

西塚 前回は、時事問題も含めて、天津の爆発事故の話も出ました。ちょっと気になってるのは、例の北戴河会議、あれは一応中止にはなったみたいですが、実はあのあと会議は行なわれたんだという情報があります。何か険悪な感じだったということまで流れてきてますが、そのへんは情報ありますか?

ヤス いや、僕も情報を追ってるところで、確定したものはないんですけど、ふたつありますね。ひとつは、前回もお話ししたように、北戴河会議は中止になったんだと。江沢民一派が習近平暗殺を本当にやろうとしてた。それで江沢民ほかが軟禁されたと。でも、抗日戦争70周年記念の軍事パレードがありましたね。そのときに江沢民が出てるんですね。あれをどう解釈するか。江沢民は逮捕まではされないが、完璧に習近平の軍門に下ったんだという説。おそらくそれも十分、根拠はあると思います。

もうひとつは、北戴河会議が中止になった、習近平を暗殺するために天津大爆発を企画した、それをやったのは江沢民一派である、その情報全体が偽情報である、という説。

西塚 ええーっ!(笑)。

ヤス 実はウソなんだというね(笑)、今のところふたつあるので。

西塚 なるほど。あの式典には江沢民と胡錦濤も出てましたが、いっさいにこやかな会話がなかったと言います。従来であれば、毛沢東とか歴代の肖像を掲げてパレードするんでしょうが、それもいっさいなく、習近平が手を振ってるだけ。あれもある種のアピールと言うか、オレが仕切っていくんだと。それに対して、江沢民も胡錦濤も何も言えない。そういう印象を僕は感じましたけどね。内実はどうなってるか、よくわかりませんが。

ヤス 前回も話しましたが、日本ではなかなか中国に関するいい本が手に入らない。なぜかと言うと、ジャーナリストでも何でも、中国が大嫌いだというバイアスがかかってしまっている。そうすると、自分の大嫌いだという印象に合ったような情報しか掴んでこないんですよ。それでビジョンができ上がる。

だから、結果的に何が起こってるかってわからないんです。ビジョンとは何かと言うと、その人の感情の表出であって、それが現実にあった事態と関係しているかと言うと、まったく関係してない。これはすごく怖いことだと思います。

ヨーロッパに広がる難民問題とエノク予言

西塚 あと時事的なことで言えば、難民ですね。今、ヨーロッパで難民問題があります。シリアを中心に、100万人を超えてるんじゃないかと思いますが、あれもひとつの映像、3歳児の、まあ遺体ですよね、あの写真と動画が出て世論がガラッと変わりました。ハンガリーは頑なに拒絶してましたが、オーストリアとかイギリスまで4000人受け入れるとか、ドイツも国境のゲートを開放するとか、といった流れい一挙になった。

僕は湾岸戦争を思い出しちゃうわけです。あの油まみれの鳥ですか、ある種の印象操作のような気もして。ヤスさんのメルマガでもちょっと前に書かれてましたが、いわゆるユーロ圏にイスラムのテロを中心とした混乱を招こうとする、陰謀とまでは言いませんが、戦略に絡んでいるのではないか。まずはユーロ圏に多くの人間が入っていくという下地が必要じゃないですか。その前兆のような気がするんです。うがちすぎかもしれませんが。

ヤス そうですね。あれはエノク予言の内容に近いですね。ヨーロッパの国内に入っている異教徒、まあイスラム教徒の人たちが、ロシア軍が最終的にヨーロッパを攻めるための手引きをするとすると言うか、そのような形での予言にはなってますけどね。

西塚 そうですよね。難民たちが今後ヨーロッパにばらまかれていくわけじゃないですか、言葉が悪いですけど。そうすると、エノク予言で言うヨーロッパの混乱の下地が今、実は作られてるというふうにも見えるわけです。だから僕は、むしろハンガリーがバシッと受けつけないということは、ひどく冷酷なように見えるけれども、国としては正しい判断じゃないかと。あるいは、許容量として、これくらいは受け入れるけれども、無尽蔵というか、無制限にはできないよと。本来であれば、この国は何人、この国は何人とやればいいいんでしょうが…

ヤス それはドイツがやろうとしていることですね。

西塚 そういう形であればいいでしょうが、軽々しく門戸を開放して、どっと押し寄せてきたら、おそらく止められないんじゃないでしょうか。

ヤス あのね、プーチン大統領が面白いことを言ってるんですね。何かと言うと、自業自得だろ、お前らは、ということなんです。我々が何年も前に警告したことだろうと。シリアのアサド政権を倒したならば、あの地域全体がイスラム原理主義運動の拠点になると。そうするとシリアのみならず、中東全域が不安定化する。それから出てくる難民であるとか、様々な影響というのは、最終的にヨーロッパに回ってくることになるぞと。さんざん警告したではないかと言うんですね。

だから、アメリカの政策の尻馬に乗って同じことをやったならば、天に吐いた唾が自分のところに降りかかってくるぞと。今、お前らがやってるのはそれだろう!とプーチンが言ってるんですが、まさにそうなんですよ。

これはテレビでもほとんど報道されてないと思います。ヨーロッパ系のメディアでもこれには触りたくないみたいで、難民がなぜこのような状態になったのか、誰も言わない。誰も言わないけど知ってるんですね。自分たちの政策なんです。アサド政権をぶっ潰そうとしたわけですよ。たしかに独裁政権がいいかと言うと、そういうわけではない。独裁政権は悪と言ってもいいです。

しかしながら、その強権的で強圧的な独裁政権によって、初めて安定性が保たれている地域でもある。だから、独裁政権というフタを取ってしまったならば、それこそビンの中に抑圧されているあらゆる最悪なものが出てくると。そういう観点から言うと、悪なのか最悪なのかの選択なんです。

西塚 なるほど、劣等比較ですね。

ヤス それに、欧米流の民主主義といった安定した社会を突きつけるのは、理想論にしかすぎないんです。たとえば、2013年の夏なんですが、オバマ政権がシリアの空爆を真剣に考えた。なぜかと言うと、アサド政権が毒ガス兵器を使った証拠があると。毒ガスを使ったならば我々は空爆すると警告してた。でもアメリカ国内、特に米軍の中から、反対論が相次いだ。アサド政権を倒して、じゃあどうなるんだと。当時はイスラム国なんか誰も知らなかったのですが、イスラム原理主義運動の大拠点になるんだぞと、あそこは。大混乱になる。

ちょうどそのときに、プーチンがニューヨークタイムズに意見広告を載せた。アメリカよ、目を覚ませと。アサド政権を倒したらどういうことになるのか、お前は知るべきだ、といったようなことですね。アメリカはそれからあからさまに空爆したわけではないんですが、何をしたかと言うと、アサド政権に敵対している穏健派の勢力ですね、自由シリア軍と言って、シリア軍から抜け出た人たちの集まりなんですが、これを応援してた。自由シリア軍は勢力としては小さい。でも、だんだんイスラム原理主義勢力の拠点になるわけですよ。アル・ヌスラ戦線なんかもあれば、アルカイダ系のあらゆる勢力が入り込んでる。自由シリア軍とイスラム原理主義のテロ勢力と内線状態になっている。

オバマ政権は、反アサドであれば何でもいいと、武器援助をしていた。空爆はしないんだけども、アサド政権を弱めるために敵対勢力に軍事援助をしていた。その敵対勢力は何かと言うと、イスラム原理主義勢力だった。彼らの蛮行によって出てきた難民なんですね。ヨーロッパもNATO軍ですから、全面的にアメリカと一緒になって同じ政策をとっていた。そうすると、ヨーロッパは、難民に対してNOと言う資格はないということです。

西塚 まさに自業自得だと。エノク予言に無理やり結びつけるつもりはないんですが、仮にこのまま難民が増えてヨーロッパが混乱に陥ったときに、それを防ぐためにロシアが出てくるということですか?

ヤス ロシアがヨーロッパに攻め込むというエノク予言のシナリオは、今のところ想像できない。ロシアにその意図も動機もないはずです。おそらく、そのようなシナリオになるとしたならば、あと二転三転、四転くらいして状況がどんどん変わっていかなくてはならないと思います。その状況の変化の中のひとつの大きなモメンタムになってくるのは、ロシアがプーチン以外の指導者になることですね。

プーチンおよびプーチンの息のかかった指導者のうちはね、基本的にリアルポリティクスと言うか、リアル地政学において、ロシアがロシアの国益を追求するのであれば、そうムチャなことはしないと思うんです。当然、中ロ同盟がどんどん強まってね、アメリカの覇権に代わるような勢力になって台頭はしてくるけれども、何か第三次世界大戦のようなドンパチを起こすようなことはない。

ただ、プーチン以降になると、それがわからない部分がある。

西塚 じゃあ、あえて言えば、中東を含めてヨーロッパに混乱を起こしたいグループがあるとすれば、一番邪魔なのはプーチンでしょうね。

ヤス 第一次世界大戦もそうだし、第二次世界大戦はもっとそうだし、ベトナム戦争なんかももっとそうだし、大きな戦争がありますね。大きな戦争には何が関わってくるかと言うと、イデオロギーなんです。世界観ですね。第一次世界大戦は偶然に近い形で起こったんですが、最終的に戦争の引き金を引いたのはドイツ軍の動きすね。

当時のドイツの指導部の内部には、最終的に我々が国益を確保するためには、他のヨーロッパ諸国と戦争をせざるを得ないといったような、はっきりしたある意味での思い込みがあった。第二次世界大戦は、ヒットラーのナチスのイデオロギーによって引き起こされたようなタイプの戦争です。いわゆる、ドイツ人はアーリア人として選ばれた特殊な人種であるといったね。

西塚 やはり制御できないような感情、さきほどのヨーロッパ人の、自業自得なんだけども自らは認めたくないようなもの、そして3歳の子どもの写真でコロッと変わってしまうという、感情ですね。これは相当怖いと言いますか、同情心も含めて、キリスト教とも関係してくるかもしれませんが、助け合いとか、利他的なものとは別に、リアルポリティクスではないですが、現実的な対処の仕方とは完全に分けないと秩序は保てませんよね。

ヤス そうそう。今回、3歳児の写真はすごく衝撃的だったと思うんですが、もともとヨーロッパ全体の中で当然、自業自得であるという認識はみんな共有してるわけですよ。ましてや、リビアのカダフィ政権を倒したことが悪化させてるわけですね。2011年にカダフィ政権はNATO軍を中心にした空爆によって、イギリス軍などは地上部隊を送りましたが、それによってカダフィ政権が倒れるでしょ? それでリビアが流動化してくる。イスラム原理主義運動の拠点になるわけですね。

そして周辺諸国、エリトリアとか、ソマリア、スーダンと、他のところにどんどん広まってくる。リビアのカダフィ政権によって強圧的に弾圧されていたイスラム原理主義運動が、リビアが拠点になることによってスピルアウトしてくるわけですね。それがやはり大きな難民を出すことのひとつの背景になっている。シリアもそうだし、リビアもそうだし、自分たちが何をやってきたかということをみんなよく知ってる。知ってるので、ヨーロッパの国民も含めて、受け入れるのは当たり前だという基本認識が前提になっているだろうと。

西塚 それで今回、ガラッと受け入れる側に、ある種の波と言いますか、みんなそちらに流れてる。非常に怖いと言うか、そんな安易なものではないという気がするんですが…

ヤス 安易なものじゃない。もともと感情の流れが集合的にあると思うんですね。もともとある感情の流れを、ちょっとしたことでは逆転させることはできないと思うんです。今回は、ヨーロッパが助けざるを得ない、これは当たり前で、しょうがないね、という前提が感情の流れとしてある。

僕のよき友人でね、ヨーロッパにいるんですが、彼女がドイツにいったときにいろいろ聞いて回った。フランクフルトとかミュンヘンとかいろいろいった。移民はどうする?と聞くと、みんな、受け入れると言うと。要するに数の問題だと。

西塚 そう思います。

ヤス 受け入れないという人は、極右以外、逢ったことがないと。それが一般的な世論としてある。ただ、どれくらい受け入れるかという度合いの問題に関して、あの3歳児の遺体の写真はすごく大きな影響力があった。

西塚 僕は、ネガティブな言い方になってしまうかと思いますが、じゃあドイツが何万人とか、これくらいだったら受け入れるよと言っても、おそらくその十倍くらいの単位で突破されてしまうと思うんです。そういうときに、どうしようもないじゃないですか。それこそ軍隊が出て、追い返すということはたぶんできない。だったら、そういうことを想定して、今からいろいろやっていくしかない。難民キャンプはこれだけだとか、それ以外はまた別に何とかするシステムがあればいいですが、あのような人の波では、おそらく無理ではないかと…。

シリアレベルでああいうことなんですから、もし中国で内乱が起きた場合、習近平が失脚したりして、そして江沢民一派が勃興してですね、内乱状態になって難民が押し寄せてきたときに、ちょっとマンガ的ですけども(笑)、まず日本は何もできないと思いますね。ということまで考えてしまいますね、今のヨーロッパを見てると。

ヤス 今後、ヨーロッパはどうなっていくかと言うと、西塚さんがおっしゃったように、どんどん難民の数は増大すると思いますよ。そうすると、ヨーロッパだけでは、もはやもう処置なしの状態になる。昨日かな、オーストリアが1万人受け入れると宣言した。どんどん枠が広がるということが起きる。枠を広げてもダメなら、世界に分散させるという方向をとると思います。オーストラリアは何人、ニュージーランドは何人、カナダは何人、アメリカは何人とかね、分散させる。それは、シリアのアサド政権を倒した、リビアのカダフィ政権を倒した、それに間接的にでもちょっと責任がある全員で責任を負うということにならざるを得ないと思いますね。

西塚 個人的な考えとしては賛成で、そういうことを前提に今から法整備を含めて、各国がやるべきだと思いますね。そうすれば、そんなに大事には至らないんじゃないかなという気がします。

ヤス 今からうまく動けばね。ただ、なかなかそこらへんがうまく動かないだろうと思いますね。

ちょっと感情の話に戻りますが、何かのね、滔々たる感情の流れを、ちっちゃな事件で逆転することはできない。でも、ふたつの相反する、せめぎ合った感情があって、どっちつかずの状態になったときに、何かのちょっとした事件によってバン!とこっちにいくということは十分にあると思います。だから、感情の流れをどちらの方向に操作してくのかということが、極めて決定的な役割を持つと思います。

西塚 それはある種、ふたつの方向がありますよね。陰謀系の話を含めてでいいんですが、民意をどっちの方向に持っていくのか、というレベルと、民衆側がいろいろな情報をつかみながらですね、自分たちで意見交換もしながら、下からボトムアップの形で善き方向、善き流れを創り出していくというレベル。

そういうインフラと言うか、意識づけとか、それに対して考えることができるような素材と言うんですかね、それは僕はやはりメディアとかが本来やるべきことであって、日本などは、前回の話にも通じますが、まったくお粗末でどうしようもない。アメリカなどのほうがよっぽど、ああいう国ですけれども、メディアなんかは…

ヤス 多様性がありますね。

西塚 ロシアなんかもそうですか? アメリカほどじゃないかもしれませんが、オルタナティヴ・メディアみたいなものというのは…

ヤス オルタナティヴではないけれども、ロシアの国営メディアそのものが、アメリカから見るとオルタナティヴなんですね。いわゆる反米的なメディアではあるんですが、単なるアメリカ批判ではなくて、アメリカが何をやっているかという裏の側面を報道するきちんとしたメディアなので、情報が極めて豊かですね。

西塚 そうか、『RT』がアメリカで第2位の視聴者を持つことにつながってきますね。さきほどの感情の話にしても、やはりメディアの役割は大きい。

ヤス 大きい。感情というものがありますね、人間が持っている極めて破壊的な感情。破壊的なもの以外の感情も様々ありますが、集合的な感情になったときにね、イデオロギーがどういう役割を果たすかと言うと、感情の放出を合理化するんです。キミの感情、キミのやろうとしていることは正しいと正当化するわけですよ。だから、どんなに残虐なことをやったとしても、それを正当化するのがイデオロギーなんです。

西塚 そうですね。イデオロギーは危ないですね。以前、オウムの話も出ました。あれもそうですが、エモーショナルなもの、わけわからない無形物のような感情の塊りに、スーッと道筋をつけるのがイデオロギーですね。かつてのマルクス主義とか、カルトの教義でもいいですが、さきほどの写真ひとつですらきっかけとなって、ある方向性を決めてしまうことがあります。

無形物のようなエネルギーをどこへ持っていくかというときに、僕は重要なもののひとつはメディアだと思いますが、メディア側にいる人間の意識も含めて、大マスコミでも、ヤスさんのような作家さんでもいいですが、可能性とか、ありうべき姿とか、そのあたりはどう思われますか?

ヤス そうですね、ありうべき姿とかははっきり言えないですが、中央でコントロールされたメディアは全部いらない。メディアって市民のものだということですよね、基本的には。

たとえば、NHKは公共放送ではないんですよ。公共放送の主体って何かと言えば、市民なんです。戦後すぐに始まったNHKの経営委員会ってありますね。労働者側からも、経営者側からも、いわゆる左翼運動家もいれば右翼運動家もいるわ、あらゆる多彩な人種によって維持されてる。すなわち、市民によって管理されてるメディアがNHKだったんですよ。

西塚 ああ、そうだったんですか。知らなかった。

ヤス だからNHKの所有者は誰かと言えば、国民だし、市民なんです。だから、市民から取った受信料によってまかなわれて、市民の意見に絶対的に服従して、市民によって運営されるというのが、本来のNHKなんです。

西塚 他の民放はスポンサーで成り立っているのでわかりやすい。でも免許事業なので、政府の意向はある程度聞かないと怖いという部分もあるんでしょうが。

ヤス だから、国民から受信料を取ってて、それで政府の言うことを聞くということは、実は論理矛盾だということです。本来はあってはならないこと。とんでもないと思いますよ。だったら、完璧に国営にしてしまえと。受信料もいらない。完璧にフリーにしろと。

西塚 そうですよね、みんな観ないし(笑)。

ヤス 公共放送の国家による乗っ取りですよね。とんでもないことだと思います。BBCってありますね、あれもNHKと同じ公共放送なんですよ。やはり国民から受信料を取るんですね。取るんですが、BBCの経営に関わっている人たちというのは、市民一般から公正性の高い選挙で選ばれるんです。NHKなんてあれでしょ? 政府からの指名かなんかで選ばれるんでしょ? わけわからんですよ。とんでもないです。

西塚 かつて海老沢(勝二)とか、とんでもない人もいましたね。

ヤス いた。今なんか籾井(勝人)でしょ? 安倍のお友だちでしょ? あってはならないことですよ。だから本来のメディアのあり方というのは、やはり国民によって管理されねばならないと。そうすると、文句は言うけど、面倒見てよ、といったような国民のあり方じゃムリだということです。絶対、ムリ。自分で何でもやると。

西塚 ヤスさんはいつも、とにかくネイションなんか信用するな、というようなことをおっしゃってたと思うんですが…

ヤス そうそう。

西塚 僕なんかも2013年くらいからはっきり自覚して、そういう方向じゃないと、この先面白く生きていけそうもないなと思いました。だから、まったくその通りだと思いますね。

依存性からの脱却

西塚 あと、また取っ散らかっちゃうかもしれませんが、今日、新聞を見ていても思ったのですが、全体的な日本人の意識の流れとしては、おそらくいい方向へ向かっているのではないかと思うのです。それをある種、象徴的に裏付けるというふうに僕には思えるんですが、電気事業ですね。東京電力とか関西電力とか中部部電力とか、今、解約がどんどん進んでいて、もう止まらないんですね、3.11以降。

ヤス ええ、大企業、法人を中心にですね。

西塚 それが半端じゃないんですよ。コンビニでも、ローソンとかが、新電力にどんどん切り替えていくわけです。新電力は、ヤスさんに解説してもらいたいくらいですが、工場の余剰電力ですよね。それを安く分けて売るってやつです。ローソンですら、年間3億くらいだったかな、節約になる。来年2016年にはそれが一般家庭にも入ってくる。僕なんかまっさきにやりたいと思いますが、安い電力でいいんですから、そうした流れがですね、電気自動車でも、フリーエネルギーでもいいんですが、どんどん意識の流れがそっちに向っていくと思うんです。そうなると、この間お話しした『エクサスケールの衝撃』(齋藤元章著)という本がありましたね、あの世界につながっていくんじゃないかと思うのです。

ヤス 僕はね、それは正しい方向だと思うんですね。電力に関しては、発電事業もする企業があるでしょ? 川崎重工とか三菱重工とか、そうした企業はたいてい自家発電能力を持ってるわけですよ。自分たちのところでどんどん電力を生産できる。だから電力会社に頼らなくてもいいという構造を持っている。3.11以降、法改正があって、企業が作る電力を売ることができるようになった。そしてそれを買う法人がどんどん増えていった。

西塚 そうですね。その充蓄電池の開発、技術がどんどん進んでいる。

ヤス 僕は、『エクサスケール』の本は面白いと思うしね、全然異論はない。テクノロジー的にはそうだと。ただ、支配勢力がどこまで許すかってことなんですよ。

西塚 それは許さないでしょうね。相当な抵抗勢力になるだろうし。

ヤス だから、どこまで闘っていけるかという闘争の問題に落ち着く。電力にしろ、エネルギーにしろ、最終的に我々一般的な庶民の手に取り戻すためにはどうしたらいいかと言うと、庶民レベルで闘うしかない。

だから、これをやってあれをやってと、全部おまかせにして、でも私たちに迷惑かけられるの嫌だから、お金はかけないでねと、これはムリなんです。だからどこかの部分で我々の意識が覚醒してね、全部自分でやるんだと。おまかせ意識を全部なくす、というところまでいくのか。そうではなくて、今まで通りね、あんたにおまかせで、ずっと国家依存、政府依存の状態で続けていくのかと。そこがカギになる。一般家庭、市民をベースにして、エネルギーを自ら使えるようにするとか、NHKを拒否するとか、市民メディアを勝手に自分たちで作って、勝手に情報を発信するとか、やろうとすればいくらでもできるような素地ができ上がってくるような、そうした意識へと今、進化してきてると思うんですね。

ただ問題は、そうした進化する側に立つのか、いつまで経っても親方日の丸に依存し続けるのか、その選択の問題なんだと思いますね。

西塚 ヤスさんがおっしゃってたように、アメリカはとんでもない国だけれども、オルタナティヴ・メディアもあるし、何をするかわからない連中もいると。だから怖いから、政権の中枢にいる人間は強権を発動させる。日本人はそうした反骨精神もなくて、羊のようにおとなしいから、支配もしやすい。その結果として、アメリカのような混乱もない、という言い方もできますね。

ヤス そうですね。そのかわり、政府が亡びる、国が亡びると同時に、国民も亡びる。だから、我々はどういう歴史的な過程にいるかと言うと、今ね、QEといったような巨大な金融緩和、公共投資、政府の支出によって、何とか維持されてる。中央銀行の巨大な金融緩和によって、かろうじて成長したような体裁を維持されている。そうした現代資本主義国のシステムが崩れてるわけですよ。

崩れていくと同時に、僕がメルマガによく書いている超階級社会へいくのか、違った国家形態を我々は目指すのか、といったようなね、現代の先進資本主義国の国家の形態のあり方が問われる時期が、これからくると思います。

西塚 そうですね。ヤスさんはどう思われます? 予言者じゃないですから、結論は出せないかもしれませんが、ヤスさんの立場としては、こうなるとこういうラインにいくし、もしこういうことがあれば、こっちのラインにいく、ということを見定めたいと言うか、その可能性を見たいというお立場ですか? それとも、このままいくと、こうなるぞと…

ヤス まあ、警告はしたい、というほうですね。予言やなんかは好きで、まあ見てるわけですが、やはりすべて決まっているという予言はない。いくつか、可能なシナリオの上を歩いていると思うんですよ。どれを選択するかというのは、まずオープンである。たとえば、超階級社会の方向へ絶対的にいくかと言えば、そういうわけじゃない。ただ、このままほっとくと、いく可能性があるぞと。そういう危機感は、我々ひとりひとりが自覚せねばならない時期にきたなと思います。

集合的な熱情から距離をおく

西塚 ヤスさんはかなり昔から、感情の動きとか、ちょっと尻尾をつかまれると、渦に巻き込まれちゃうぞと言ってましたね。個人であろうが、集合意識でもそうですね。その渦に巻き込まれたら、これはなかなか逃れられないと。

ヤス 逃れられない。怖いですよ。

西塚 よっぽどのことで、ハッと気づいて、退けるならまだいいですが、具体的な例で言えば、普通に海に手漕ぎのボートで出ていって、渦があって面白そうだなと。怖そうだけど、楽しそうだなと入っていくんだけれども、自分の必死の努力でそこから出られる余地があるときはまだいいですが、ちょっと深みにはまるともう、何もできなくなる。

ヤス 何もできない。だから、自分の感情に対して距離を置くというのは、すごく重要です。

西塚 個人でもそうなんですから、人間の集団というのは個人の集まりだから、集団になるとパイもでかくなるし、現象としての混乱もでかくなる。

ヤス そうです。集合的な感情的な昂ぶりってあるでしょ? たとえば、スポーツかなんかで、ワーッ!と叫ぶ、あの昂ぶりです。あれはいいんですけどね。あれよりももっと大規模なものが、社会の随所で見られるようになるってことですね。

西塚 そうですね。オリンピックでもサッカーでもいいですが、あのワーッ!いうのは解消しますからね、その場で。そうじゃないもの、たとえば民族的なものも含めて、脈々と延々と、古代からも含めて、つながってるものなどに関係してたりすると、これはちょっと心して、ちゃんと認識して対処していかないと怖いですね。

ヤス 怖いです。たとえばヒットラーのね、ニュルンベルクの党大会は毎年やってましたけど、膨大な数の人が集まる。ヒットラーの演説に酔いしれるわけですね。酔いしれて、「ジーク!ハイル!(勝利、バンザイ)」というね、掛け声で忠誠を誓うわけですよ。そのときに、あの雰囲気の中に飲まれないでいるというのは、すごく大変なことです。

ナショナリズムであるとか、国粋主義であるとか、そういう人間の集合的な感情を捕えて滔々とした長い流れを作ってね、破滅へと人間を導いていく感情の流れというのは、ひと言で言うと、気持ちがいいんですよ。

西塚 うーん、わかる気がしますね。

ヤス 要するに、理性を自分で中断させる、思考停止する、考えることをやめる、というところで生まれる気持ちよさ。

西塚 ジェットコースターみたいなもので、ウワーッ!とスリルがあって怖いんだけど、楽しいじゃないですか。あれは必ず戻ってくるからいいけど、あれがいきつく先が奈落の底だったら、それに乗った場合にはもう逃れられない。

ヤス ある意味、いかに気持ちいいか知っておくことも重要なんですね。

西塚 なるほど。経験、体験。

ヤス 思考停止とか、集合的な感情に身をまかせるということは、「個」である自分自身の放棄ですよ。個人で生きるということは、やはり自分で物事を考える。物事を見て自分で判断しなくてはいけないんですが、そうした意味で「個」の放棄ですね。「個」を放棄して、「個」の向こう側にあるような全体的な「何か」に一致するということです。

西塚 それは本当に難しい問題だと思いますが、いわゆるスピ系で言うところの、「個」はない、とか、もともと「全体」の一部である、とかありますね。でも「個」の大事さはある。かと言ってエゴで、オレがオレが、他はいっさい関係ない、オレが楽しければいいんだ、というのともまた違うエゴですね。その違いをどうするのか。その違いを含めて、見る目がなければいけない。ヤスさんがおっしゃったような俯瞰の目、客観的な目が必要で、それは感覚的なものではなく知的なものですね。

ヤス 知的なものですよ。だから簡単に言うと、我々はね、人間として体験可能なものを全部体験し尽して死ぬ、という人はいないと思うんですね。悲しさという感情を体験するし、幸福という感情も体験する。自分の子どもに対する愛情という体験もするだろうし、当然、恋愛という感情も体験する。様々な人間として体験可能な感情、体験可能なものがあるんだけど、それらすべてを体験し尽して死ぬという人はいない。

たとえば、ナショナリズムを体験しなくていい世代っているわけでね。我々は長い間、ナショナリズムという感情の昂ぶりを体験しないできた。また、宗教的な恍惚感というものも体験しないでくる人間がほとんどだと思うんですね。体験しない領域の感情というのは、なかなか想像できない。想像できないものが、いきなりひとつの体験として自分にやってくると、無防備になるんですよ。絶対に流される。一気にバーンと持ってかれるということですね。

西塚 今のお話を聞いてチラッと思いましたけども、たとえばバブル期の石原慎太郎の『「NO」と言える日本』ですね、今で言えば「嫌韓」「嫌中」みたいな、ちょっとした反日感情にイラッときてる連中が、強権的な発言をする人に従って、ある種の日本人のアイデンティティを確認して気持ちよくなるということがある。そういうものがインプットされてる。『「NO」と言える日本』の売れ方を見ても、あのころはバブルで、アメリカのコロンビアをソニーが買ってみたり、アメリカからも相当非難されてましたが、日本はもっと主体性を持つべきだという石原慎太郎の主張に、僕に言わせれば幼稚な論理ですが、気持ちよくなった人が大勢いるわけですね。そうした要素は日本人に入ってるんでしょうね。

ヤス たしかに。『「NO」と言える日本』は、日本に対して誇りを感じたい、ということの裏返しであるということですね。日本人としての自己をきちんと、強く主張したい。

西塚 そこに気持ちよさを感じた人が、相当いたということでしょうね。

ヤス いたと思う。ただ、今の「嫌韓」とか「嫌中」と言われてるものは、あからさまにナショナリズムですよ。

西塚 ナショナリズムですか?

ヤス ナショナリズムって、あれくらい排外的なものですよ。

西塚 僕の言葉で言うと、レイシズムに近い感じがするんですが…

ヤス レイシズムですよ。ナショナリズムってレイシズムですよ。

西塚 あ、そうですか。

ヤス 基本的には。ナショナルなものを何を根拠にするかでしょう。民族を根拠にしないナショナリズムだってひとつある。たとえば、アメリカみたいなところは多民族国家だからそうですね。ただ、日本のナショナリズムって必ずレイシズムですよ。民族の偉大さということを根拠にしたナショナリズムが、日本独特のもので、日本的なものです。従って、それは他民族の排除ということとセットになる。

今回、「嫌韓」「嫌中」で発見したのは何かと言うと、いわゆる民族を根拠にしたナショナリズムであってもなくてもいいんですが、ナショナリズムは気持ちいいということです。なぜかと言うと、初めて自己を放棄できる対象ができたんですね。大手を振って自己を放棄できる。大手を振って判断停止をしていいと。だから、その気持ちよさを体験した世代が出たてきた、ということじゃないかと思いますね。

西塚 そうなると、以前の話にも出たように、そういうところに依存せざるを得ないような、悩みとか、苦しみとか、内面に抱えてる個人的に細分化された悩みを持ち始めたという心性と連関してる話ですね。

ヤス 連関してる。だから最終的には、マスの宗教教団というのは、個別的な悩みはなかなか救いきれない。すると個別的な悩みを持ってる人たちって、それで純化するわけですね。純化して、一応スピリチュアル系にもいく。スピリチュアル系にいくんだけど、「3分解脱」みたいな方法はめったにない。だいたい詐欺的なものに引っかかったりするわけです。そうすると、悩みを抱えて生き続けざるを得ない自分自身そのものを持て余すわけですよ。

西塚 そうですね。これはヤスさんの造語ですけれども、「スピリチュアルジプシー」にいくか、あるいは何と言うか、ガチガチのナショナリズムに入っていく。

ヤス そうです。悩みを持って生き続けざるを得ない自分自身を持て余してしまって、これを自己放棄するんですね。自己放棄する一番いい方法が、「個」の放棄によって集合的な熱情の滔々たる流れの中に没入するという方法ですね。

西塚 その方法として大きく分ければ、スピリチュアリズムにいくか、ナシナリズム…まあ日本の場合は神道とか絡んできて、ちょっとスピってますけども、でも大きく言うと、国にいくか、個人的な神様か天使にいくか、という話ですか?

ヤス だと思いますよ。ある意味で、神様、天使、3分解脱みたいな方法でうまくいって、自己放棄するという人もいると思います。超越的な何ものかに抱かれて自分が溶け込んでしまう、というような形で、悩みを抱えた自分自身と距離をとれる、相対化できる、というひとつの方向があると思います。もうひとつの方向は、集合的な感情、熱情の中に自分が溶け込むことによって、やはり自己放棄する。

西塚 ある種の没我に入って、苦しみから逃れられる。

ヤス 同じ感情の体験をずっと継続するためには、やはりナショナリズムによる排外的なレイシズムの行為をずっとやり続けると。

西塚 映画とかでときどき観ますけど、アメリカにもけっこうありませんか?

ヤス いや、アメリカはすごいですよ! だから「個」というものを人間が超え出したときに、あらゆる害悪が始まるんです。

西塚 じゃあ、わがままでKYでどうのこうのというほうがまだいいですか?

ヤス わがままでKYというのは、とてつもない暴力とかはあまり起こさないでしょ?

西塚 たしかに実害としては大したことないですね。ちょっと迷惑で、うっとおしいヤツとか、場が白けるとか、そのくらいかもしれません…

ヤス 個のレベルで起こったとしても、犯罪どまりですよ。いろんな犯罪を起こすかもしれないけども、非常に多くの人間を巻き込むような、社会運動といったものは起こらないと思うんですね。

イデオロギーと「個」

西塚 そうなると、やはりイデオロギーですね。

ヤス イデオロギーの怖さって何かと言うと、「個」を超えて人間が集合的な感情に没入しますでしょ? そうすると、「個」というものを振り返る必要性がなくなる。思考停止状態になってもいいと。その思考停止状態になった限りでね、今までの個人の悩みから解放される。集合的な感情に身をまかせると気持ちがいいわけですね。集合的な感情に身をまかせることこそがね、実は正義なんだということで正当化するのが、イデオロギーなんです。

西塚 今のヤスさんの話で言うと、イデオロギーは個人的なことから発することになりますね。

ヤス そうですね。個人的なことというか、「個」を飲みこんでいく。

西塚 ちょっと言葉が足りなかったかもしれませんが、自分にいろんな悩みがあるとするじゃないですか。それを超えるためにあるイデオロギーを見つけて、「個」をなくすくらいにのめり込む。仮に間違っていて、害悪をもたらすようなイデオロギーでも入っちゃうことがある。その大もとは何かと言うと、苦しい自分から逃れたいということ。個人的で個別的な、小さいときのトラウマかもしれないし、直近のものかもしれません。

とりあえずその嫌なことから逃れたいというときに、ハタとしがみつくもの、嫌なことをなかったことにできるくらいに強い魅力、惹きつけられるものがあって、それが強ければ強いほどしがみつくから、検証ゼロでのめり込んでいく、といった構造がある。となると、個人的な悩みのほうを解決しない限りは、いくらでも起こり得るということになります。

ヤス そうです。だから幸福な人間というのは、あまりナショナリストにならないと思うんです。「嫌韓」「嫌中」みたいなものにダーッと走る連中、ネトウヨとかいるでしょ? たとえば「リア充」って若い人が言ってますけどね、本当にリアルの生活が充実してて、ちゃんとガールフレンドもいてね、安定した仕事も持ってて、自分が将来追い求めるためのきちんとした目標も夢もあってね、それなりの給料もあって生活に満足している、といったような人たちというのは、そんなところへはあまり走らない。意味ないんですよ。「個」を放棄する動機がないんですね。

エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』を書きました。自由といったものがいかに人間に苦しみをもたらすか。その自由から逃れるために、実は人間というのはファシズムを求めていくんだ、全体主義を求めるんだ、といった論議だったんですけど、ある意味では、それと同じような原理がまだ生きてるわけですね。「個」で生きるということの「重み」と「苦しみ」。それを逃れるために、集合的な感情に身をゆだねてしまう、自己放棄してしまう、ということになってくると思います。

西塚 「個」で生きる辛さというのは、当然そのときに生きてる社会環境とか、回りの家族でも友だちでもいいですが、そうしたものに基本的に絡んでいる。だから解決を導き出すためには、それらと向き合うしかない。正しい人間同士の関係性とは何か。日々の営みや立ち居振る舞いも含めてですね、そういうところにまでいきつくんじゃないでしょうか。まず、そこから解決していかないとならない。

ヤス そうです。だから言ってみれば、「個」のベースで幸福であれば、ヘンなものには走りませんよ。最大のブレーキになりますよね。

西塚 あるイデオロギーに走って、私は幸福なんだ、オレはこれでいいんだ、生きがいを見つけたと言っても、死なない限りはやはりどこか途中で、これは違うんじゃないか、ということにはならないんでしょうか。

ヤス イデオロギーに身を預けた場合?

西塚 場合。

ヤス いやそれは、目が覚めない場合だってありますよね。

西塚 そのままいっちゃう可能性もありますか?

ヤス いっちゃう可能性のほうが大きいと思います。いわゆるナショナリズムのイデオロギー、排外主義、レイシズムのイデオロギーだとして、そのイデオロギーが決定的に破壊されると言うか、破壊されざるを得ないような状態に陥る。たとえば実際に戦争になって、自分が人を殺してみてね、それで死体を目にしたときに我に返る、ということはあると思うけれども。

西塚 前のヤスさんの言葉にもつながるんですけど、イスラムの話でしたが、そうしたことが自分の使命であると信じ込んだ場合、これは後戻りできないですよね。

ヤス できない。

西塚 これはどう考えればいいのかな。そういう人たちが増えてきた場合、どうしようもないですよね。

ヤス すごく難しいですね。どこかの段階でリアルな「個」の実感に戻っていかなくちゃダメだし、「個」の実感をいかに回復させるのか、という問題だと思いますね。

西塚 「現実」にはもうちょっとバリエーションがあるんだぞ、ということですね。

ヤス 個人として生きるということに、ひとつの充実感とか楽しみがあるという…「個人」であるという事実をかなりリアルなものに感じるということ。

西塚 健全なバリエーションをいかに広げていくか、ということに関わってきますね。

ヤス たしかにね。だから「個」を中心にした世界の描写ってすごく重要ですよ。ただ、私小説って普通暗いじゃないですか? 暗くて悲惨なものが多い。だから「逆私小説」みたいなものがたくさんあってもいいと思いますね。

西塚 ああ、なるほど。

ヤス 「個」で生きるということがいかに充実するか、「個」で生きるということが、どういうような人生を自分に約束するのか、もっと言うと「個」で生きるということ自体がどういう体験なのかってことですね。「個」として自分を体験して、「個」として生きるということが、どういうような深い体験になるのか。それをポジティブに描き尽くす小説とか文学があってもいんじゃないかと思いますね。

西塚 そうですね。新しい小説ですね。

リアルな「個」の生き方とは?

ヤス だから当然、「個」でいるというときには、必ず自分の否定的な内面と向き合わざるを得ないということです。「個」を放棄してね、集合的な感情に身をゆだねた場合というのは、自分の否定的な感情とも向き合う必要性がなくなるわけです。そのぶん無化される、救われる、ということになると思います。

ただ、「個」というものに留まった場合、必ず自分の否定性と向き合う。向き合う局面が出てくる。否定性とどうやって堅実に向き合うか、ということですね。その否定性が当たり前の体験なんだということ。体験してもいいんだということ。体験することによって、その中から何かポジティブなものをつかまえていく、ということ。そういったものをある体験領域として開拓するようなね、言葉とか文学が僕は必要だと思いますよ。

西塚 それは素晴らしいですね。お手本とか模倣とか、人間は何かがあって、ああ面白そうだなとそっちにいくじゃないですか。これからは、それらを打ち立てていくとか、書いていくとか、提示していくということが新しいことなのかもしれないし、面白い。

ヤス たとえば、80年代の初めに『なんとなくクリスタル』(田中康夫著)がありました。当時読んだことがあるけど、別にすごい文学作品というわけじゃないんですけどね、ただ、いいと言えばいいんですよ。何かと言うと、あれは「生きる」ということがどういう体験であるのかということを、もう一回、ある意味で再解釈した小説なんですね。

西塚 僕は読んだことがないんです。当時も僕は偏見の塊りだったんで、言葉遣いもバブル的な意匠が散りばめられたカタカナばっかりで…

ヤス そうです。何が言いたかと言うと、そのようなブランド物に身を固めてね、ブランド物をひとつの記号として使いながら自己表現していく。そのようにして生きるという体験がどういうものであるか。それはちっちゃな四畳半でひとりでね、自分の否定性とずっと向き合うみたいな体験とは違うわけですよ。

西塚 違いますね。『神田川』とは違う(笑)。

ヤス 「個」のね、違った意味でのポジティブなひとつの体験領域だと思いますね。

西塚 ひょっとしたら田中康夫というのは、そういった意味では、当時を象徴する「個」のあり方のバリエーションを提示したのかもしれない。

ヤス だと思う。今ね、インターネット社会に生きてて、これだけ「個」といったものがあって、様々なバリエーションが出てきてるようなんだけども、僕は文学を全然読まないから何とも言えないんですが、文学にしろ、表現にしろ、「個」といったものを対象にした体験領域って、ほとんど開拓してないんじゃないかと思うんですね。

簡単に言えば、こんな生き方もあってあんな生き方もあると、それを単なる生き方として出すのではなく、それがどういう体験なのかということですよ。

西塚 どういう体験なのかということを、作家なりが検証するいうことですか?

ヤス 検証してもいいし、または想像して書いてもいいんですね。極めてリアルな体験として想像して書いてもいい。たとえば、サラリーマン的な体験ってあるじゃないですか。毎朝6時半とか7時に起きて、満員電車に乗って、仕事をやって、成果を求められて…

西塚 帰りに同僚と飲んで、ちょっとホッとする時間もあって。

ヤス 家庭は基本的に安定している。収入もあって、ちっちゃな家があってといった感じの、そのひとつの「個」としての体験ですよね。1960年代に山口瞳の『江分利満氏の優雅な生活』という本があったんですが、あれはまさに勃興時の戦後の日本のサラリーマンの…

西塚 いやあ、あれは感動的でしたね。あれで直木賞を獲った。

ヤス 普通にどこでもいるような人の平均的な生活。それがどういう人生の体験なのかということを、非常に深く突っ込んだ作品だと思うんですよ。

西塚 映画にもなりましたね。小林…なんだったかな。

ヤス 桂樹。

西塚 桂樹だ。ちょっと意外でしたが、『江分利満氏』とか、ヤスさんは山口瞳とか読まれてたんですね。

ヤス 読んだ。僕は映画のほうを観て感動して、それで本をチラッと読んだ。あれは人間の生き方というのを体験する、ひとつの体験方法なんですね。あのようなやり方で体験したという。

今、こういう生き方がある、ああいう生き方があるといろいろあるんですが、特定の生き方をした場合、それがどのような体験を人間にもたらすのかということ。そのバリエーションをどんどん表現すればいいと思います。言ってみれば、女性カメラマンとしてひとりで生きていくという生き方もあるわけですよ。それがどういう体験なのか。

西塚 最近、ケーブルで海外のドラマを観ることがあるのですが、アメリカのドラマというのは日本の比じゃないですね。とにかくうまくできてます。役者もうまいし、あれを観たら今の日本のドラマは観られない。本当に学芸会以下。脚本から役者から、全然違います。

それはおいとくとしても、人生自体をステージとして見た場合、実人生をどう生きていくか。自分の可能性ですね、どういう役割を演じていくか、ということにつながっていくと思うんです。いろいろなバリエーションがあるわけですから、自分がどのバリエーションで生きていくかということですね。ダーッとひとつの方向へいく人も、お前それだけじゃないよと。お前はこんなこともできるじゃないか。それうまいじゃん、そっちもやってみたら?という話ですね。

ヤス そうです。だから、いろんな体験が可能なんだということです。人間としてね。

西塚 陳腐な言い方をすれば、人間は無限の可能性を秘めているということになっちゃうんですが、そういうふうに評論家的にまとめるのではなく、実際にリアルな実生活でできるということ。

ヤス できる。たとえば明治の20年代くらいまでに私小説というのができるでしょ? 日本でね、私小説が生まれて何を発見したかと言うと、自我といったものを中心にした体験のあり方を発見するわけですね。柄谷行人じゃないけども。自我といったものを中心にして、いわゆる自分の体験を描いた場合、どのような体験となって現れたのかということです。

西塚 あの時代、翻訳のせいもあったかもしれませんが、「私」といったことが入ってきたときに、俯瞰の目ができたんですね、日本人に。それまでもあったんでしょうが、どちらかと言えば全体性に溶け込んだ「個」といったものに対して、明治以降、俯瞰の目が出てきた。近代、欧米によって。

ヤス それででき上がってきたのは、孤立した「個」。その「個」によって、自分の持っている否定的な宿命と全部向き合わざるを得ない。そこには、やはり悲劇もあれば、ある意味で喜劇もある。

現代の我々は、それに匹敵した大きな転換点に立っていると思うんですね。当時の明治の20年代、30年代の「個」ではないんですよ、おそらく。「個」ではあるんですが、インターネットないしはラインでも何でもいいですが、簡単に他者とつながれるようなタイプの「個」ですね。

西塚 そうですね。実体験と言いながらもちょっと違いますからね。生身ではない。

ヤス うまい具合に言葉にならないんですが、現代という時代に生きている我々の「個」としての体験。「個」として生きるとはどういうことで、どういうような体験が可能な領域があるのか。それを赤裸々に表現していくことは、やはり必要なことだと思います。

西塚 もっと生々しいもの。前にニューアカの話も出ましたけども、浅田彰が言うわけですね。都市を見てみろと。ちょっと次元を変えれば、地下鉄や下水道などのインフラがあって、ものすごい重層的な構造によって、東京なら東京という都市が成り立っている。人間自体もそうだろうし、人間関係もそうだろうということですね。

こういう話をするという行為自体にしても何にしても、実は重層的であって、いろいろな関係性がある。それがあるとき生々しく出てくる。それを体験することを通してでしか、リアルな「個」というものはなかなか自分でも検証できないんじゃないかなと思います。じゃないとマスメディアとか、インターネットの情報に簡単に乗っかって、オレはこれだ! オレはこれでいく!となる。そのひとつが、オレはもう嫌韓だ!と…(笑)。

ヤス 簡単に言えば、「個」の厚みを経験するということですね。自己発見の連続なんだってことですよ、人生そのものが。

西塚 あるスピリチュアリストが言ってましたけどね、昨日と同じ自分じゃなくていいという話がある。それは個人的にはわりと気に入ってます。ずっと今まで自分はこうだと思っているものにしがみつく。そういうものがあってもいいんですが、そうじゃなくてもいいということですね。自分が昨日と一緒じゃなければ絶対にいけない、ということでもないよと。

僕は、ヤスさんとお付き合いしていて思うのですが、実はヤスさんはそういうような人だという気がしていて、そのへんのフレキシビリティがポリシーなのかなくらいに感じてたんですが(笑)。

ヤス そうそう、いつも流れるように生きてる。ほんと。僕の場合は、流れるように生きてて、自分の中から何が出てくるのか、日々体験すること自体が面白いという。

西塚 面白い。ある意味「自分」を体験する。何をやるのかなこいつは、みたいな「目」ですね。何ができるのか。

ヤス たとえば、朝起きたらどういう衝動を持つのか。あの本を読みたいとか…

西塚 あれ食いたいとか(笑)。

ヤス あれ食いながら、あの本読みたいとかね、そういうようなもんです(笑)。

西塚 わかります、僕もわりと近いです(笑)。

ヤス ちょっと話を戻すと、集合的な感情の昂ぶりといったものが今後どんどん強まっていく時代に入っていく。それに対して抵抗しなくてはダメだと。なぜかと言うと、集合的な感情の昂ぶり、だいたいそれはレイシズム、ナショナリズムが多いんですが、そういうものに身をまかせて幸福になった試しなんかないんですよ、人間って。

西塚 嫌なものしか残らないですね。

ヤス せいぜい戦争の勝利だと。戦争の勝利って何かと言うと、多くの人間を殺したあとでの勝利ですよ。

西塚 それはやられますよ、またあとで。

ヤス やられます。それが人間を幸福にするかと言えば、全然そうじゃない。そういう集合的な感情に抵抗しなくてはならない。集合的な感情に抵抗するための一番重要なものが、「個」を充実させることだってことです。徹底的にね。

西塚 わかりました。次回そのへん、スピリチュアル的なことも絡めながらやりたいと思います。ヤバい話も入ってくるかもしれませんが、よろしいですか?

ヤス はいはい、ヤバい話はたくさんありますので。

西塚 今日はありがとうございました。

ヤス いえいえ、こちらこそ、どうもどうも。

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