だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

善-悪 終わり

この歳になって思うことは、小学生 4 年のころから、いわゆる超常現象を一生をかけて探究しようと思い、無手勝流ではあってもそれなりに探究し、ふと気がつけば、本当にそんなことがあるのかどうか疑わしいと思っていたことのほとんどが、まずは、本当にあるということがわかったということだ。そしてそのほとんどを一次情報として得ることができた。

それは私が得たいと欲していたからである。願望ではない。知りたいと欲してはいたが、願っていたわけではない。詭弁のように聞こえるかもしれないが、ここは重要な点だ。

そして、まだ得られていないことも、これから得られることがわかっている。その軌跡を『五目通信 Fifth Dimension Media 』で記すつもりだ。

私は何かの間違いも犯すかもしれない。だいたいがおっちょこちょいというか、それはあまりに可愛らしい言い方で、正確に言えば短慮な、というのも違うな、頭が悪いというか、バカ? これが一番しっくりくるが、別に自己卑下でも露悪趣味でもない。事実そうなので、私を知ってる人は小学生の同級生を含めてみんな知っている。

だから、私がそれなりに厳選と言うと傲慢だが、それでも私なりの責任をもって、たとえばあるサイキックなり霊能者なりを厳選して紹介し、検証することもある。

検証と言うのも傲慢に聞こえるかもしれないが、その能力がどういうことなのか、何の役に立つのか立たないのか、意味があるのかないのかなど、当人も含めていろいろ話すこともあるということだ。

ところで、前回の続きというか、善悪のテーマというほどでもないが、一旦でもいいから決着をつけておかなくてならない。

要は、善悪という概念は抽象的なので、物事や人の言動を善悪で測らずに、その物事や言動がその対象(事象や現象や動物や人、特に人)に与える効果というか、影響を鑑みて何ごとかを判定し、方向づけるように話し合えばいいのであって、黒だ白だとは言わないほうが有効的だと思うわけだ。

たとえば、殺人だとまた重くなるから、たとえば人を殴ると。人を殴ってはいけないだろ!と言ってもいいが、殴ったら痛いだろとか、相手が嫁入り前の女性なら、これは反感を買いそうだから、相手が女優ならにするが、相手が女優なら、顔に傷がついたら仕事に支障をきたすだろとか、子どもなら、まだ骨も柔らかいのに死んじゃうだろとか、あ、これは殺人か、まあ、とにかく具体的な影響を想像するというか、想定したところで咎めるほうがいいと私は思うのだ。

それで思い出したが、私が 20 代のとき、先輩がヤクザともめて(※女がらみ)、袋叩きに遭ったのだが、先輩が「俺は営業マンなんで顔はかんべんしてくれ」と言うと、ヤクザの拳固が一瞬ピタッと止んで(一瞬だけど)、腹とかに集中し、かえってキツかったと話していたが、ヤクザでさえ仏ごころ(ちょっと違う気もするが)があった時代があったのである。余計なことか。

これは言葉でも同じで、そんな言い方したら素直に謝る気もなくなるじゃん、というレベルから、相手が一番大事にしてるものだとわかっているのに、それをそんな冒涜するような言い方をしたら、そら怒るわな、というものまでいろいろある。

だから、こういうことをしたらどういうことになるか、くらいは事前に考えたほうがいいし、そんなこと考える余裕がなかったなら、どうして余裕がなかったかを考えたほうがいい。

じゃないと、われわれは本当に共存できない。共存なんかできやしないとか、共存する必要はないとか、共存する意味がわからないという人がいたら、やはり、どうしてそうなのか、一緒に考えるしかない。

誤解があるといけないが、年がら年中話し合って考えていれば平和になる、と言ってるわけではない(個人的にはそうあってほしいが)。

今の世界を見れば一目瞭然である。わかりやすく言えば、非武装中立というよりは、重武装中立のほうが現実的だと思っている。でも、その「武装」の部分には脚注が必要なのだが、長くなるので今ははぶく。少なくとも核ではない。

またおかしな方向にいく前に終わらせよう。善悪に関してはそんなところです。

取りあえず。

Commentコメント

お気軽にコメントをお寄せください

メールアドレスが公開されることはありません。