人気ブログ『ヤスの備忘録』でもおなじみ、
社会分析アナリストの高島康司氏をお招きして、

1 世界で今、起きていること
2 人間の新たなる「精神性」「意識」「思考」

について、飲みながら自由闊達に話すシリーズ。
基本的に毎週更新。

〇『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』第48回
「新たなる認識領域へ」

ゲスト:高島康司氏
聞き手:西塚裕一(五目舎)
2016年5月26日 東京・八王子「鳥良商店」にて収録

西塚 『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』の今日は48回です。またヤスさんにおいでいただきました。どうぞよろしくお願いします。カンパーイ。

ヤス どうもどうも、カンパーイ。

西塚 また同じ八王子の居酒屋です。さっきから話は続いてはいますが、この間、ヤスさんに映画を紹介してもらったじゃないですか。あのあとすぐ観たんです。

ウォシャウスキー姉妹はインサイダーか!?

ヤス 『ジュピター』ですね。

西塚 おもしろかったのですが、あれはウォシャウスキーなんですね。

ヤス ああ、そうなんだ。

西塚 僕も知らなかったですが、映像を見た瞬間にわかりました。僕は、1999年に公開された人類にとって重要な映画がふたつあると思っていて、ひとつは『マトリックス』であり、もうひとつはキューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』です。『マトリックス』はご存じのようにウォシャウスキー、今は姉妹ですね。

以前、ヤスさんは『クラウド・アトラス』もおもしろいから見てみろとおっしゃってました。あれもウォシャウスキーです。それでお聞きしたかったのは、『クラウド・アトラス』はどうしていいと思ったのですか? きっかけというか。

ヤス いや、人に勧められたというだけです。何か、すごいと言われてるんだけど、意味がわからない。ヤスさんはわかりますかと。まず本を紹介されたのですが、本で読むのが面倒くさくて映画で観た。トム・ハンクスが主演でね、えらくおもしろかった。

西塚 なるほど。僕もハッとしました、『ジュピター』を観たときに。何が言いたいかというと、ウォシャウスキーがまるでコンタクトを受けてるかのように思えたということです。『ジュピター』の映像といい、『クラウド・アトラス』の内容といい、99年の『マトリックス』からの流れで言えば、あたかもコンタクトを受けてるがごとくに見える。まあ、そんなうがったことを言わなくても、彼らが何かにインスパイアされて、どうしようもない衝動で作ったもののように思える。

ヤス まさにインサイダーそのものかもしれませんよ。

西塚 あれはディスクロージャーの一環なのかもしれません。

ヤス かもしれない。

西塚 『ジュピター』でそう思いました。

ヤス 映画でも言いますね、人類のテクノロジーはキミが思っているよりはるかに進化してるんだと。人間の起源というのは、実はこの地球上にはないとか。あそこでディスクローズされている時間概念とかね。

西塚 そうですね。あとコミュニケーション・ツールとしての言葉。テレパシーも含めて。

ヤス あそこで話されている内容は、ディスクロージャーを行なっている内部告発者たちが実体験した内容とそっくりです

西塚 そういうことを含めて、コーリー・グッドの地底人の話じゃないですが、何かしらの段階なり、進化してる方向があってですね、それは絵空物語ではなくて、僕も半信半疑ではあったし、いまだに保留にはしてますが、どうやらあるらしいと。

『五目通信』の前書きじゃないですが、あるという前提でとりあえず進めて行ったほうが、今のところ整合性もとれるし、おもしろい。むしろ、そっちに行かないほうが、頑なにどこかに留まっているような気がして気に食わない。個人的には気持ち悪いという、それだけなんです。

ヤス いわゆる検証というような態度ではなくて、少なくとも検証できたという前提で、もう少し先に進もうよということはありますね。

西塚 科学もそうですね。仮説を立てて実験するなりして、ある程度検証できて、仮説に確からしさがあるとなれば、また次の仮説・仮定に進んでいくわけで、それと同じような作業です。

でも、もうちょっと感じるものもあって、あまりこれを言うとまたヤスさんに批判されるかもしれませんが、意外と感じるものがあって、そこに基づいても間違いないと思われる。

いずれにしろ、これはいよいよおもしろいなと思うし、われわれと言うと口幅ったいですが、ヤスさんにインタビューさせていただいているポジションとして、7月のイベントは楽しみです。

ヤス いや、僕もおもしろいと思います。政治・経済系のことにしか限定して話してないので、それ以外のことも話したいですからね。

直感主義は問題だ

西塚 僕はですね、最初からみみっちいことを考えてしまって、ヤスさんのパブリック・イメージが損なわれないように…

ヤス いや、パブリック・イメージはないですよ、僕は。

西塚 とおっしゃいますが、それでもあるでしょうから、そのへんの心配と言いますか、よく言えば編集者的な危惧で、悪く言えば、気弱な、大丈夫でしょうか?という心配ですね。そのあたりを思い悩んで、どうしようかなというのはあったんです。でも、もうやめましたけども、基本的に。

ヤス いや、僕はわけのわからない怪しいセミナーにたくさん参加してきたので(笑)。西塚さんのところでやることは、すごくまともですよ。超ウサンクサイ、ウソだろ?というようなゲストが、たくさんいるところで話したりしてきましたから。

西塚 僕は逆に心強いのは、さんざんそういう人たちを見てらっしゃることなんですね。

ヤス 見てる。

西塚 しかも、同席して話しもされてますね。そういう体験はかなり貴重で、すごく悪い言い方をすれば、ものすごいインチキをたくさん見てらっしゃると思うんです。

ヤス たくさん見た(笑)。大丈夫かよ、という人が多かった。

西塚 だから何かあっても、どうしてこれがインチキだとわかるんですか!と言われても、お前は知らないだろ、オレはさんざん見て来たんだぞと、言えるじゃないですか(笑)。

ヤス (笑)。

西塚 こいつはあいつと同じだぞとか。だから貴重かなと思います。

ヤス そうですね。これは結論と言うと大げさなんですが、自分が得たひとつの強力な実感は何かというと、直感力だけを武器にする人というのは、ほとんど信用できないということなんです。

別に直感力を信用するかどうかというのは、個人個人であるんだけど、私は、自分の直感でこのようなお告げを得たとか、直感で声を聞いたとか。“私の直感”主義者みたいのがたくさんいるわけです。それは、まずウサンクサイ。とことん疑ってかかったほうがいい。

西塚 おっしゃるとおりですね。僕もそれで失敗してます。直感主義者は初めからダメですね。

ヤス ダメです。たとえば、予言者みたいな人もたくさんいるわけです。私はこういう直感を得たと。私はこういう神のお告げを直感から得た。そういう予言者の言ってることを信じれば、今この2016年には地球そのものがないことになってますね。

西塚 本当ですね。

ヤス そのくらい無茶苦茶ですよ。

西塚 アセンションでみんな二分化して、どこかに行っちゃってるんだろうし。

ヤス そうそう。2012年には八ヶ岳に10,000機のUFOが来てるはずです。でも、性懲りもなく同じことをずっと言い続けてるわけでしょ、みんな。

西塚 さすがに中丸薫さんは謝ってましたけどね。

ヤス あ、そう?

西塚 ご存じないですか? 2012年12月のアセンションは、あの方はどうやら本気で信じていたらしい。それで暗黒の三日間が起きるとか何とか。12月21日前後には仲間と瞑想とかしてたのかな? よく覚えてませんが、結局何も起こらず、みんなどうするのかなと思ってたら、ホームページの動画でお詫びをした。言いわけとしては、徐々に移行するのであって、いきなりというわけではないとか、そういうようなことでした。

でも、僕はブログにも書きましたが、当時、アセンションについて質問を受けて、確かなことは言えないけれども、まず何も起こらないでしょうと書きました。ちまたで言われてるようなことは、本当に来ないと思ってましたから。ただ、集合意識でみんなが何かをやらかせば、何かが起こるかもしれないくらいのことは思ってた。

そのとき、中丸さんは本当に起こると思っていたということがわかって、みんな驚いたんです。それで謝罪までした。

同時に僕が個人的に思ったのは、みんなはやっぱりほとんど信じてなかったということです。本当に信じ込んでいる中丸さん系と、それをおもしろがっているというか、どっちかなあと言いながら、実はあまり信じてなかったという人たちがいた。何が言いたいかというと、われわれ庶民というのは、いろいろな知識などはなくても、意外と半々で、うまい具合にバランスがとれてるなということなんです。

ヤス そっちのほうがいいですね。

西塚 そんなことを感じました。

ヤス 2012年の12月21日ですか。本当にアセンションが起こるんだと信じているスピリチュアル・リーダーとかがたくさんいましたよ。僕の知り合いでもそういうリーダーがいたけれども、僕はこれはやっぱり商売のためにやってるのかなと思っていた。

ビジネスでやってるんだと。ビジネスでやるというのはとんでもないことだけども、ただ精神状態としてはある意味で健康だなと思ったんです。本人は信じてない。ただ、まともに信じてた人もいる…

西塚 そういうことです。そこでけっこうみんなびっくりしたわけです。

ヤス 僕もびっくりした。

西塚 逆にピュアだなと思っちゃいます。

ヤス ピュア。ただね、それを信じる編集者もどうか。

西塚 ああ、どうでしょうか、もし来たらどうしようくらいに、不安になってた人がほとんどだと思いますよ。

ヤス いや、まともに信じてる編集者っていましたよ。そういう編集者によって本が作られるわけですから。

西塚 まあ、そうですね。

直感力は判断である

ヤス でも、商売ではなくて、本当に信じてるような人たちがいると。何を根拠に信じられるのか。自分の直観力に対してそれだけの確信がある。それだけの確信を自分の直感力におくということは、2012年の12月21日にアセンションが起こるという実証的なデータというものはないわけですから、ということは、すべての現実を無視して、直感力のみを信じるということですね。直感力のみを信じる感性というのは、どういうものなのかという興味を持ちます。かなり不健康だろうと思う。

自分の信念体系に対する確信からそうした直感力というのが生まれてくるし、その信念体系を強烈にビリーブすることによって、自分は直感力を持たねばならないという強い使命感を持つようになると、あらゆる思い込みが直感力になってしまう場合もある。

ヤス そこにつながる話で言えば、ディスクロージャーの話で、自分が体験したことをですね、リンダ・モールトン・ハウとか、デイビッド・ウィルコックみたいな人たちではなくて、要するに下から純粋に事実だけを積み重ねて何事かのストーリーを作るのではなくて、最初からストーリーができ上がってて、事実を蒐集してくる人たちがいるというお話がありましたね。

それと同じことが信念体系にも言えて、信仰でもいいですが、それに合わせたものを集めてくる、あるいはいろんな現象をそれに合わせたパラダイムに歪める、かたどっていくという思考の運動になる。

ヤス まさにバイアスです。

西塚 そうしてもいいんですが、少なくともそのバージョンは何パターンか持っていたほうがいいんじゃないかということです。ひとつだとやっぱりまずい。よくそこで信じられるなあと思いますね。

ヤス いや、僕もそう思います。僕は信じられない。

西塚 もしこうだったらどうするの?と。ヤスさんもこの間おっしゃっていた“一般非常識”、あれもおもしろいですね。常識というものをいかにはずして考えるか。あれは至言であって、まず現実を見ろと。現実を見るためには、まず常識をはずさなければ見えないぞと。あれに尽きます。色眼鏡、サングラスをかけてるんだから、本当に見たかったら、はずさなくてはならない。

ヤス ものすごい常識のビリーバーがけっこういるじゃないですか。これが社会的な現実であり、私が信じる常識のほうが正しいのだという。こういう人たちが直感をたくさん持ってるわけです。常識からはずれたものに対して、えらく敏感に直感で反対する。これはおかしい。彼らはウソを言ってる。彼はウサンクサイと。これだって直感じゃないですか。

だから直感は、自分が持ってる信念体系をベースにして、それを補強するような事実を当てはめてくる。

西塚 たいがいはそうしたツールでしかないということですね。本来はものすごく重要であるはずの直感が、そのツールに成り下がっている。

ヤス そうです。非常に残念ですが。本来の直感って逆なんです。たとえば信念体系も何もないということは、ただただ事実を収集して積み上げていくわけです。そして何か全体像が浮き上がってくる。この全体像はこうじゃないかというところに直感が働くわけです。

西塚 そうです。

ヤス それは非常に高度な判断力としての直感だと思いますよ。

西塚 まったくそうですね。それも言語に裏打ちされたある種の思考能力とかですね、そのへんを高めていくものが同時にないと、それは作動しません。僕はそれがよくわかりましたから(笑)。

ヤス よくわかったって?(笑)。

西塚 もうちょっとカッコつけて言うと、わかってたんだけど、感情に負けてるんですね。同情とか、そういうことですが。

ヤス それはよくわかる。僕もそうだから…

西塚 本当ですか?

ヤス よくわかるんだけど、感情に負けてる自分自身を発見するんです。お前は負けてるなと(笑)、僕も思いますよ。

西塚 そこまで僕は客観的に見られなかったんですね。

ヤス すごく弱いなと思ったりする、自分でも。だから、直感はすごく大事。ただ、今言ったように事実を収集した、ある意味理性的な判断力の極点で生まれてくるのが直感なんですよ。

直感力は知性に磨かれなければ意味がない!

西塚 だから僕は、ヤスさんがおっしゃったことにも反発があったんですね。直感にしか頼ってこなかった部分もあるし、何となくこういう感じということで、はずれたこともあまりなかった。まあ、はずれたことがないと思ってただけかもしれませんが、今でもそうです。

ただ、その怖さを知りました。危ないです、確かに。それはよくわかりました。だから、ヤスさんは何で直感を否定するのかなあと。ヤスさんこそ直感で動いているんじゃないのかなと。でも、話の回を重ねることによって、ヤスさんがおっしゃりたかったことは、その危険性のことだった。直感とか直感力を否定してるわけではない。

ヤス 否定はしてない。ただ、最初に直感ありきはヤバイよと。たとえば、偉大なジャーナリストっているじゃないですか。立花隆みたいな。偉大な文学者でもそうですし、偉大な学者でもそうですが、何がその人を偉大にするかというと、やっぱり類いまれなる直感力ですよ(笑)。直感力はたいてい常識からはずれてるんですね。僕は立花隆は偉大な人だと思うんです。

西塚 へえ…

ヤス まあ、いろんなことを言われてるけどね、普通の人じゃないんですよ。

西塚 本当ですか?

ヤス 直感力が際立っている。彼は、運がよかったとかね、情報収集能力がある、取材能力があるだけの人じゃないかとか、いろんな言われ方をされますけども、根本的に違う。非常にピュアな人で、ただただ自分の知的好奇心で事実を収集してくる。

立花隆がとんでもない人だなと思ったのは、ベルリンの壁の崩壊のとき。1989年のベルリンの壁崩壊後、いろんなジャーナリストを集めた討論会があったんですね、NHKで。当時のNHKは今のNHKよりもはるかにまともで、知的水準が高った。いろんなジャーナリストとか専門家を招いた、いわゆる論壇ふうの番組が多かった。これからどうなりますか?というような。それが1時間か2時間、延々と続くわけですよ。

その番組の中で、テーマが東西ドイツの統一があり得るのかどうかということだった。ベルリンの壁の崩壊後。当時、西ドイツはコール政権だったんですけど、コール政権もこんなに早く東西ドイツの統一が行なわれるとは思ってなかった。コール政権は、8年から10年かけて、ゆっくりと統一すると言っていたんです。

東ドイツと西ドイツの経済水準はあまりにも違う。ここまで長い間、別々に生きていると、国民の感情も価値観も違うと。少なくとも、東ドイツの経済水準が西ドイツ並みに底上げされてから統一だと。だから統一のプロセスは相当ゆっくりとしたものになると、公けに発言していた。

その発言を土台にして、ほとんどの専門家が語る。○○先生どうでしょうか? 東西ドイツの統一はいつごろになりますか? それは1990年くらいの番組なんですね、ベルリンの壁が崩壊した直後くらい。そうしたら、うーん、8年後くらい、だいたい1990年代の終わりごろじゃないでしょうかと、一般的なことを言う。誰に聞いても。

立花隆だけ、いや私はそうは思わない。ヘタしたら1年後くらいだと。他の人たちは、西ドイツ政府が言ってるように、8年から10年かかるでしょうと言う。経済格差や体制の違いによる国民感情、価値観の違いがこれくらいあると、延々とデータを出して言う。立花隆は、私も全部知ってる、全部データを収集しましたと。ただ私はこの間、西ドイツと東ドイツの両ドイツに取材に行った。全然、違いますよと。勢いが違う。

西塚 それは西尾幹二さんも言ってました。ベルリンの壁が崩壊する前の討論会で、今、東西ドイツの統一が取りざたされてる。来年くらいに統一されるかもしれないと。だから要するに感性、勘でもいいんですけど、現地に行ったりですね、まあ西尾さんはドイツ文学者なので、ニーチェとかも訳してますし、その場に行っていろいろと感じたんでしょう。だから立花さんもドイツに行って、何か感じたものがあったんでしょうね。

ヤス だからその感じがですね、何も知識がなくて、事実を収集してないで感じろって言っても無理なんですよ。それが言いたいんですね。

西塚 ああ…

ヤス そこで直感を得たとしても、お城キレイねくらいの感じの漠然とした印象で終わってしまって、何も意味がないんです。西尾幹二もドイツ文学者だから、ドイツの文化的な背景とか、ドイツの国民感情であるとか、何がリアルタイムで起こってるかという情報に関してとことん収集している。おそらく立花隆もそうですよ。ジャーナリストとして事実をとことん収集している。とことん収集しつくしたうえで現地に行って、その後の直感なんだということです。

西塚 こういうことになりますか? 何かしら直感の鋭い人はいると思うんですけど、そのバックボーンといいますか、培ってきたものがないと、解釈を誤ると。

ヤス 誤るというか、意味がない。直感とか感情とか印象がごっちゃになってしまう。直感は判断まで精製されないと、直感にならない。

西塚 何か感じるものがあるんだけど、それを具体的に行動に移したり、ものを書く場合は、当然解釈をして、これはこうこうこうだからという指針といいますか、直感に形をつける。それを現象化させる大もとになるものがありますね。イメージでもいいんですが、思考能力なり何にもないと、むしろ宝の持ち腐れであって、逆に間違ったところに行っちゃう、ということをおっしゃりたいんでしょうか?

ヤス そうです。間違っちゃうし、それは精製されないダイヤモンドみたいなものですね。

西塚 光らない。

ヤス 鉱物の中にダイヤモンドが入ってたとしても、それを捨ててしまうようなものです。

西塚 直感の塊りであるダイヤモンドを光らせるのは、それこそ知性であると。

ヤス そう、知的な作業以外にあり得ない。だから私は言語能力がないけど、直感力があるというのは僕は信じない。それは無理なんですよ。

西塚 なるほど。そういうことですか。でも、こういうことは言えませんか? あえて挑発的なことを言って申しわけないですが、その言語能力がないがゆえにですね、直感で絵を描く、音楽を作る、あるいはダンスをするというふうに、ツールとして表現するということはあり得ますよね。

ヤス あり得る。ただ、僕が言語と言ったのは、絵って言語ですよ。自分の印象を漠然と描いて絵になるかといったら、ならない。絵の構図を定めてね、何を自分が表現したいかということに関して、相当厳密に自分が俯瞰されてないと、絵という形にはならないですよ。

たとえばフランスの絵画教育があります。小学生を美術館に連れていくわけです。それでいろんな絵を見せる。あなたはこの絵を見てどう思うかと言うと、きれいとか、これが怖いとか言う。それで、あなたたちが絵を見た感想というのは無意味なんだよと教える。絵は本と同じで言語だと。これは意味を読み込むためのものなんです。したがって、絵がどのように構築されてるかということを、まさに言語を学ぶのと同じような水準で学ぶというのが、フランスの絵画教育なんです。

絵もそうだし、映像もそうだし、写真も基本的にそうなんですよ。言語とあまり変わらない。だから絵でも、意味の構築の作業をすべて無視して、単なる印象をバーンと表わして絵になるかというと、ならないですね。

西塚 そのへんはちょっと微妙なんです。僕はちょっとわからないところで。たとえば、音楽を作るということは、音符が読めなければいけないし、それなりにありますね。まあ、テクニックは必要でしょう、当然。

ダ・ヴィンチにしろ何にしろ、何かしらインスピレーションを受けて絵を描く。何とかこれを表現したいんだけど、既存の材料ではできないから、自分に見合ったいろいろな材料を考案するとか、それが日本だったら墨なのか、あるいは油絵の絵の具なのかというふうにきたと思うんです。

何だかわかんないけども表現をしたい。そして材料を含めて考案して、ツールにして、何かを表現していくというときにですね、そのでき上がったものというのは、僕は何かしらのものだと思うんです。

ヤス 何かしらのものだと思うんですけど、それを自分で解釈できる知性を持たねばならない。

西塚 解釈ができない場合もありますね? 何でそんなことを描いたのかわからないという人もいるわけです。

ヤス 本人がわからなかったら、他の人間もわからなかったりするんですよ。だから、それは何なのか?ということです。何なのかということを伝えられないといけない。

西塚 何なのか伝えられないんだけど、好きだということはありますよね。惹かれるとか。

ヤス いや、いいんですよ、好きは好きで。好きだとか、惹かれるというのは、その次元でいいんですね。好きだからということで、直感がどうのとか、判断がどうだとかではない。

西塚 ああ、分けるということですか。

ヤス そこは分けるべきです。

西塚 そういう話ですか。

ヤス 僕はこういうのが大好きだからとか、全然それはかまわないし、大好きだから絵を描いていると。それも全然かまわない。ただ大好きだからといって、描いたものの中にね、何か過剰な直感を読みとろうとするべきではない。

西塚 本人ではなくて、作品ですよね、惹かれるのは。それはあると思うんです。みんなはバカにするけど、この絵はいいとかですね。

ヤス それはあると思う。それはいい。ただそれと、今ここで話したような判断力としての直感というものとは、やっぱり別に考えたほうがいいんじゃないかと思いますよ。

「集合無意識」はそもそも患者の治療ツール

西塚 別なんでしょうね。でも、その関連性が知りたいと思うわけです。

ヤス たとえば、棟方志功っているじゃないですか。棟方志功はやっぱりすごいと思いますよ。棟方志功の中からこんこんと湧き出るような、あのイメージのパターンって何なのか。それは日本人の集合無意識というか、集合的な何かのメンタリティーに内包されてるようなあるパターンですよ。それが再帰的に出てくる。

西塚 棟方志功は、わだば青森のゴッホになると言って(笑)、勉強して出てきてた人ですね。確かにそういうものはありますね。

それで言いますと、僕は最近ですね、集合無意識といったものが、ちょっと違うんじゃないかと思いはじめたんです。

ヤス それはよくわかる。

西塚 違うというのは、要するに今までわれわれが思ってきたようなものではないのかもしれないということです。ずっと使用されてきた用語ですが、もうちょっと敏感になったほうがいいのかなと思うんです。

ヤス 無意識という言葉が悪いですね。単純に、気づいてないということであればいいと思うんですけど。

西塚 はっきり言って、学説ですね。ユングの学説なんだけども、それがひとり歩きした結果、僕はすぐ単純化して考えるんですが、誰かが作ったものに乗っかって、それをもとに考えるというパターンになるわけです。

それが高度であれば、おもしろいからいいんだけども、そういうものにしかすぎないものが、権威を持ってくるとですね、本来なら自由な発想力、想像力があるはずなのに、そこにとらわれてしまうという危険性がある気がします。確かにフロイトよりは深みがあるし、何というか、密度の高い理論だと思うんだけど、それにとらわれるのはよくない。

フロイトは初期は科学だったわけですね。それがユングが出てきて、今じゃフロイトなんか誰も読まない。バカにしますよね、一部はおいといて。でも、ユングもそういうもののひとつにしかすぎないんだというところがないと、やっぱり信仰になっていくという気がします。

あるダイナミズムの中で、大きな創造の流れがあってですね、留まってはいけないと思うんです。ユングなり何なり、そのつどその時代のマシな理論があるんでしょうけども、それを一応見ながらも、再クリエイトしていくという方向を忘れてはいけない気がします。

われわれ人間というのは、どこかで留まって停滞していくという、何かそういう性向があるんじゃないかと思うんですが、そのことには自覚的でありたいと思います。

ヤス ユングの実際の書物を読むとね、理論を構築しようとした人ではない。彼の目的は明確なんですよ。彼は臨床医なので、患者の治療というのが大目的なんですね。患者の治療をするための作業仮説をたくさん作ったんです。このような仮説で患者に接したらどうなるのか。このような仮説のもとに、患者のある意味で無意識といったものに接してたらどうなるのか。

フロイトとユングの大きな違いは、フロイトは科学にしようとした。それに対してユングは、科学は成り立たないと言ったんですね。要するに、患者の治療をして、患者がよくなるというひとつのプロセスがある。よくなるというその事実を見たときに、精神分析医と患者の共同作業になって、何かが生まれるんだと。何かが作動して、その何かに導かれるようにして患者がよくなり、なおかつそれを治療している精神分析医そのものも内的な変化を迎える。

だから、精神分析医が何かの理論を適用して患者を診るといったような客観性は、保持できないと言った。治療というのは、精神分析医と患者という立場を超えた、人間対人間とのある意味で血みどろの対話の過程なんだと。血みどろの対話の過程を単に促進するためのツールをたくさん作ろうとした人なんです。

だから集合無意識とかの言葉は、そういうタイプのツールだったということですね、最初は。それが理論としてひとり歩きしていった。患者を対象にした対話のツールではなくて、人間はこうなってるよねという理論になったということです。

西塚 僕は詳しくはわかりませんが、ユングも元型、アーキタイプといったものを見つけ出して、種としての人間、人類といったものの原初的なものに思いを馳せて、入っていったというところはあると思います。

ヤス そうです。そういう知的な部分は当然あった。そういう知的関心の原点になっているのは患者との対話ですよ。たとえば、ユングがちょうど集合無意識の理論を作っていく過程の中で、先に体験があった。それは1906年だったかな、20世紀初頭なんですが、スイスで若い医師として働いてるときに、患者が太陽を眺めている。統合失調症の患者なんですが、太陽から男根が出ていると言う。そしてそれが揺れて風が起きるんだと言うわけです。

その後、古代ローマの神話の中に、太陽から男根が出ていて、それが揺れることによって風が起きるといったことがあった。それを見て、これはどういうことかと思うわけです。患者は神話なんか知らないのですが、患者が見たことが神話に出てるということは、やっぱり患者は何か自分が知らない集合的な体験の領域に接しているのではないかと思う。それが集合無意識の出発点なんです。

西塚 異論があると思いますが、僕の言い方にするとですね、ユングというのは文学的な人なんです。フロイトは科学的なんです。結局、人間の欲望というのは性的なもの、リビドーに還元されちゃう。フロイトの晩年はエロ話しかできなかったというくらいの人ですから。僕は実は好きじゃないんですよ、フロイトって。

ヤス 僕も好きじゃない。

西塚 だいたい顔つきが好きじゃない(笑)。

7月2日のイベントで“認識領域”を拡大する!

西塚 話は変わりますが、もうこの対談も50回近くになります。ヤスさんが忍耐強く、僕みたいな酔っぱらいにつき合ってくれたおかげなんですが…

ヤス いえいえ、僕も酔っぱらいだから(笑)。

西塚 勉強になるどころか、何と言いますか、ダイアローグの醍醐味というんでしょうか…

ヤス ダイアローグはおもしろいですよね。何かわれわれ自身のエピステーメーができつつありように思います。認識領域みたいなものが。われわれ自身がこの認識領域に入って行かないとわからないような現実がたくさんあるんですよ。それが、今ちょうどできつつある途中かなと思うんですね。

だから、7月2日のイベントでは、ちょっと語弊があるかもしれないですが、われわれ自身が持ってるようなエピステーメーをより確実にしていくような作業ですね。この認識領域なんだと。ここまで入らないと見えないことがあるんだということ。

西塚 そうですね。それはよくわかります。いわゆる排外主義とか、エリート主義ではなくてですね。

ヤス ではない。このアプローチではないと見えないものがあると。世の中の政治・経済的な変化と、それからディスクロージャーとね、そういうものを全部まとめて語り得るようなスタンスはあるのか?ということです。それが“一般非常識”が目指すことです。

西塚 本当ですね。まさしく、おっしゃるとおりです。

ヤス 僕は、勉強会とかセミナーとか、いろいろやってるんですが、だいたい政治・経済系の話が多いじゃないですか。そういうところでは発表できないことを全部ここで出そうと思うんです。

言ってみれば、ディスクロージャーと意識変化、何かの人間の精神性の変化、その起爆剤となるような事態が、実は今起こっているのではないか。それは、たとえばデカルト的なコギトの誕生だとかそんなレベルではなく、ちょっとわれわれの想像を超えたところで変化が起こりはじめている。その起点になってるもののひとつが、ディスクロージャーなのではないか。

いわゆるディスクロージャー史、いつぐらいからこのディスクロージャーといったものがはじまったのか。どのような人物がいて、何を語ってきたのか。ここにきてコーリー・グッドのような人物が出てきて、やっとディスクロージャーされてきた情報の全体像、俯瞰図ができ上がりつつあります。

あらゆるディスクロージャーを見てると、やっぱりコーリー・グッドと共通している部分がかなり多い。むしろコーリー・グッドが提供している俯瞰的な図式を見たときに、ディスクロージャーを行なっているひとりひとりの内部告発者たちが、巨大な組織の中のどの部分に位置していて、彼が話している体系がどのくらいの限定状況のもとで語られているのかがよくわかる。

ということは、どうも単純な陰謀論であるとか、いわゆるファンタジーというものではなくて、ちょっと高尚な言い方をすれば、さきほどのエピステーメーという言葉がありますね、ミッシェル・フーコーの。認識の枠組みです。誰がディスクローズしても同じようなことを話すわけですよ。

これだけ数多くの人間が出てきて、みんな同じようなことを言う。彼らが言ったことがハリウッド映画なんかに反映されて、実際に映画になっている。これは、われわれはどういう地点に立つかというと、今まで見たこともない巨大なエピステーメーの誕生です。

この認識領域、認識図式は、徹底的に操作をして作るという中央集権的な主体でもなければ、こういうのはできない。そういうものが存在しないとは、否定はできない。否定はできませんが、やるとしたらよほどの予算を使って精巧にやらないと、でき上がらないものだと思います。

いろんな実例を見た僕の実感なんですけど、やっぱりインターネットが普及する以前と以後で、かなり大きな違いがある。以前は、サイキック系の情報が多いんです。たとえば、異星人からのコンタクトを受けたとか、私はこういう声が聞こえるだとか。そうすると自分の主観的な思い込みではないということを証明するのが大変なわけです。それは、個人の主観的な思い込みだと処理されるような領域なんです。

これは僕の印象なんですけど、主観的な直感とか、主観的な思い、コンタクトを受けたという感じ、そういうことから得られるような情報は、共通性が比較的乏しい気がするんですね。あの人はこういうことを言ってるが、あの人はこういうことを言うという。

共通性があることはありますが、すごく漠然とした共通性です。いわゆる愛が大事であるとか、人類は覚醒しなくてはならない、あなたは覚醒しなくちゃならないとかね。ものすごく抽象的なレベルでの共通性はあるんですけど、ちょっと具体的になってくると、みんな言ってることがバラバラなんです。

西塚 その受けた情報をそのままみんな言えばですね、それなりにポツンポツンと共通性はあるんですね。でも、そこにエゴという名の自分の思想なり、考えでもいいんですけど、要するにメディアというか、情報を受けたチャネラーなりの教養とか、感性、欲望によって歪められるんです。

だからビリー・マイヤーのように、しっかりとした文章になっていればいいんですが、受けた情報の意味がわからなかったり、単語がわからなかったらわからないまま表現すればいいんですが、自分で解釈してしまう。愛だとか、すごくチープなところに落とし込まれちゃって、非常につまらないただの道徳観になってしまう。

ヤス そう。確かに。

西塚 基本的には、そういう人にはコンタクトは来ないでしょうけど。

ヤス 来ません。そういうものから、インターネット以後はどうなってるかというと、たとえば「秘密宇宙計画」の中で、私はこういう部署にいて、こういう体験をしたという形でくる。そうやって続々と出てきた人たち、ビル・クーパーとか、続々と出てきた人たちの話を総合してみると、本当に具体的な共通性がある。

西塚 今回のコーリー・グッドで浮かび上がりましたね。

ヤス それがインターネット以降の違い。国防総省のコンピューターへのハッキングが成功したゲイリー・マッキノンという人物がいたんですね。国防総省のホームページをハッキングしたことで膨大な情報が出てきた。UFO関連も含めて。それが2002年ですが、それくらいからが起点になって、「プロジェクト・キャメロット」とかが出てくる。

西塚 なるほど。

ヤス 『Coast to Coast AM』みたいなものも出てきて、他にもジャーナリストたちとか、いろいろあるわけですよ。『Gaiam.TV』なんかはずっと後ですけどね。そういうメディアがたくさん出てきて、スティーブン・グリア博士の「ディスクロージャー・プロジェクト」もはじまるわけです。だから、実際に自分たちが体験したことを具体的に話すという人たちのほうへ移行していく。声が聞こえるではなくて(笑)。

そうすると、これは知識がある・ないに関係なく、自分が何を体験してるのか、淡々と語る。そこに膨大な共通性があるということ。これは何なのか? ここまでの共通性を持っていろんな人間が体験を話している。

これはふたつしかない。実際にこういう体験が存在したか、何かの非常に強力なコントロール能力を持っている機械によって作り出されたファンタジーか、どっちかなんだと。どう思いますか?ということです。その他に仮説が考えられるのか?

西塚 そうですね。

ヤス ぜひ、話し合ってみたいですね。

続く

2 thoughts on “『酔っぱらいオヤジのSpiritual Meeting』vol.48 「新たなる認識領域へ」”

  1. ヤスさんが直感を懐疑的に見ておられる事を繰り返しおっしゃっているのを拝見して、ヤスさんと経済アナリストの藤原直哉氏の対談を見たくなりました。

    藤原氏は直感主義に移行してしまった人物ですが、折に触れ哲学と歴史の重要性を強調しています。

    ヤスさんと藤原氏の間である程度の信頼関係が出来れば、かなり面白い対談本やトークライブを作れるでしょう。

    問題は、藤原氏が「これからは横に繋がる時代」と主張しているにもかかわらず、なかなか慎重で、自分のフィールド以外の土俵に上がらないことでしょうか。

    ではなぜ副島氏や松藤氏ではなく、藤原氏を対談相手にリクエストするか?

    それこそ直感です…というのは冗談で、藤原氏が相手の話をしっかり聞くところですね。

    1. コメントありがとうございます。
      なるほど、おもしろいかもしれませんね。
      「直感」という言葉は人それぞれに捉え方が違ったりもするので、
      難しいですね。それでいて重要な感覚です。
      厳密に定義しておかないと誤解のもとですね。

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