だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

地縛霊は荒野を目指すか?

トークイベントもあったので、ここのところ角田氏の説く、
「ソウルカラー(魂の色)」や「テーマカラー(運命の色)」関連の話が多い。
生まれ年でわかるテーマカラーについては、上記の大見出しの記事に掲載しているので、
興味のある方はご覧いただきたいが、近々、新しくコーナーを新設して、
もっとわかりやすくアレンジして載せておきます。

ソウルカラーは角田氏によれば、緑とか赤とかあるが、
それは同時に「宿命の色」でもある。
その宿命の色に見合った“生き方”を現世で行なうことがベストなのだが、
これまでの輪廻の中で、各前世で行なってきた行ないによって、
いわゆる「カルマ」(と言っていいかどうか微妙だが)が生じ、
そのカルマを解消・解決するために、
私たちは生まれ継いできたというわけらしいが、
そのカルマを解消・解決するための、
その現世におけるテーマカラーが私たちにはあり、
そのテーマカラーがわかれば、テーマカラーに沿ったというか、
見合った生き方をすることができ、カルマの解消・解決から、
今度は現世の人生を完結することができるということだ。

私が角田氏を取材している中で理解していることは、
おおざっぱに言えばそういうことである。

だから、上記の大見出しの記事に載せた「生まれ年によるテーマカラー」を参考にして、
現在の生き方(仕事の選択、人間関係、自分の本当の思いなど)と照らし合わせて、
何かしら新たな方向性がピンとくれば、新たな生き方ができるだろうし、
あるいは今の生き方の再確認ができるかもしれない。

しかし、テーマカラーの色はソウルカラーの色とは違っているかもしれず、
本当はさらに自分のソウルカラーがわかれば、それと合わせて、
より焦点が定まってくるということなのだろう。

確かに、生年月日や血液型は生まれたあとにわかるもので(当たり前だ)、
生年月日や血液型にそれぞれ色があり、その意味・内容がわかれば、
生き方に迷う必要は何もない。
ところが私たちは、生まれてすぐに親や友人、学校教育、人間関係など、
後天的に与えられることが膨大にあり、その最大公約数というか、
コンセンサス(=常識)の中で生きることをある意味、強制される。

いわく、それはルール違反だ、人に迷惑がかかる、みんなやってるんだから、
みんな同じように我慢してるんだから、人に笑われるよ、非常識でしょ、
あなただけ特別は許されない、あの人は特別な才能があったけど、
あなたは凡人なんだから人一倍努力しなければならない、組織とはそういうものだ、
夢と現実は違う、and so on…

だから、やりたくもないことを我慢してやらなければならなかったり、
本当にやりたいことは夢として大切にしまっておいたまま、
人生は幕を閉じる。

しかし、それは誰からも命令されたことではなく、
いや実際に命令されることも現実にはあるが、拒否もできるし、
拒否できない状況というのは、それは最悪な状況なわけで、
そうした状況はいろんな国で今もあるのだが、
そうした状況をもたらしたのは、生まれてきた私たちが、
何か違うなと思っていたにもかかわらず、思考停止に陥らせるある力があって、
そのままほったらかして生きてきた結果、先の言葉で言えば最大公約数的なものが、
そのある力によって、
ここにきて最悪なものにまでなってしまっているからにほかならない。

だから、論理的に言えば、私たちの生き方が変わっていけば、
最大公約数的なものもまた変わっていくのである。
その最大公約数的なものを、
たとえば私がバカのひとつ覚えのようにブログで紹介してきた、
ヴァジム・ゼランドに言わせれば「振り子」ということになるだろうし、
普通に「常識」と言ってもいい。

その常識は、基本的にはそれまでの私たちの行ないから培われてきた、
慣習から醸成されたものであることが多いし、
論理的であることに主軸を移せば、「科学」によるところが大きい。
しかし常識も、所と時代が変われば変わるし、
科学はご存じのように、その時代の「仮説」にしかすぎない。

だから、もし、もし何者かが私たちの生活や生き方を、
意図的に操作したいと欲しているとすれば、
マスコミやアカデミズムをたぶらかし、あるいは脅すだけで、
わりと簡単に目的を遂げられると思われる。
現在の最大公約数的なものの中では、
最大に強力な力としてお金と暴力が居座っているからだ。

これはかなり古い時代からのものであり、私たちの生活や生き方どころか、
私たちのマインドの中に寄生虫のように巣くっている。

しかし、これは夢、あ、眠って見る夢ね、
夢の中の「明晰夢」として意識できるようになれば、
寄生虫は寄生できなくなるのだ。
寄生虫のエサは「恐怖」と「怒り」である。

そのへんをゼランドは、私が知る限り、言葉、論理、理性を駆使して、
これ以上のことは語れないというくらい語っていると思われるのだが、
そしてそれはまた、角田氏のような人の説く話と見事にリンクするのである。

だから、ゼランドの本を読めば簡単にわかるとまでは言わないが、
私の場合は、ものの見事に私の感じてきたことを解説してくれていて、
私は私なりに少しずつ発信しいていきたいと思っている。

前にも同じようなことを書いたが、何も私がエラソーに解説・発信することはなく、
単にゼランドの本を読めばいいだけだと思っていたので、
これまでもあまり細かく記事にはしなかったのだが、
大学のゼミや同好の士たちが、たとえば夏目漱石研究をするのと同じ感覚で、
ゼランド研究を主宰してみようかとも思っている。

何だか、はからずもヘンな方向に行ったが、
単に地縛霊について書こうと思っただけなのだ。

地縛霊はその土地や部屋に憑いているということになっている。
だから、そんなヤバイところに行ってはいけないということなのだ。

以前、あれはたぶん作家の夢枕獏だったと思うが、地縛霊だったかどうかは忘れたが、
いわゆる幽霊は、私たちに見えたり、特定の場所に出たりするわけだから、
物理的な三次元的な存在だろうと言う。
つまり、地球は回っているわけだから、私たちと同じように、
幽霊もまた地球と一緒に回っているというのである。

だから、地縛霊だったら地縛霊が出る場所の四方1kmくらいを、
ごっそりと取り除いてしまえば地縛霊はいなくなるんじゃないかと言う。
何だか冗談みたいな話だが、理屈は通るような気がする。

しかし、これは以前に会った霊能者もそうだったが、
相談者がある場所に行って幽霊を見たという話をしたときに、
その霊能者は全身に怖気を走らせて、その場所の詳細、
その幽霊の詳細を語り出し、それはその相談者が見た幽霊とまったく同じであった。

そのとき私は、この霊能者は何を見たのか、あるいは感じたのか考えて、
その相談者が見たものを透視したのか、
あるいは相談者がその幽霊を連れてきてしまっていたのか、
または、私たちの「常識」を超えて、つまり時間や空間を超えて、
まったく別のパラダイムで幽霊を見た(感じた)のか、どれかだろうと思った。

私たちは、まだまだ自分の経験値の中でしか思考をしないクセが抜けていない。
だから、「常識」を超えた事象に出逢った場合、
まずそれまでの経験値の中から、その事象を説明しようとする。
そのこと自体は当たり前だし、絶対に必要なことなのだが、
それでもうまく説明できないときは、多少の無理があっても、
強引に経験値に当てはめようとして、納得しようとする。

それまでの常識を変更しようとは思わないのだ。

不思議な事象を何でもかんでも超常現象にしようする思考は、
むしろ一生懸命、常識に当てはめようとする態度以上に安易だと思うが、
常識を金科玉条のように固守し、常識に固執する態度もまた、
同じ地平にいるとは思う。

そしてそういう態度・思考は、先の最大公約数的なものを最悪なものにするというか、
本当はすべてをよく知っているヤカラの思うツボになるのではないか、
と思うしだいなのである。

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