だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

世界の創造~ゼランド編⑧

願望は 3 つの形に分類できるとゼランドはいう。

特殊な語句や、かなりわかりにくい概念、解釈がともなうので、私なりに咀嚼し、わかりやすい言葉を使って表現してみる。

① 願望が意図に変わる形。
② 怠惰な願望で、こうなったらいいなあ、という望みを抱いている形。
③ 願望が、願望の対象への依存関係に移行する形。

① の形のみ願望はかなう。

願望が “意図” に変わるとはどういうことか?

ゼランドは “意図” の概念を、“所有し、行動する決意” と定義している。

この概念は本当に重要で、ゼランドの提案する “リアリティ・トランサーフィン” の神髄と言ってもいい。なぜなら、現実化されるのは “願望” ではなく、“意図” だからだ。

でも、ちょっとおいといて、② を見てみよう。

② の怠惰な願望はうんざりするような願望で、エネルギーの場に偏りを創り出しては、自然の力学によって解消される、ということを延々と繰り返していくだけになる。

つまり、願望を持っている者のエネルギーを意味もなく浪費するだけなのだ。結果、時間がある意味、無駄に過ぎていく。

③ の形は、② の願望がさらに強くなった状態で、願望の対象との依存関係に陥っていく。たとえば、

「もし、私がこれを達成したら、私の状況はずっとよくなるだろう」
「もし、これを達成できなかったら、私の人生は何の意味もなくなる」
「もし、これを達成できたら、みんなに思い知らせてやることができる」
「もし、これができないなら、私には何の価値もない」
「もし、これを得られたら、何とすばらしいだろう」
「もし、これを達成できなかったら、まずいことになるだろう」

などなど、いろんなバリエーションがある。そして、この ③ のパターンは最悪な形なのだ。

これまで見てきたように、願望の対象との間に強い依存関係ができているので、エネルギーの場にすさまじい偏りを創り出し、その偏りを解消しようとする自然の “平衡力” が働いて、その願望を断念させるような現実化が起こるからである。

その現実化と、人はさらに闘おうとするから、ますます激しいエネルギーの渦に巻き込まれ、結局は力尽きて、その人は願望を断念することになる。結果、めでたくもエネルギーの平衡状態は戻るが、人がどんな目に遭おうが自然は関知しない。

そもそものきっかけは何だったのか? その人が願望を達成したいと強く望んだことからはじまっている。

願望は、まだ願望が成就されていないからこそ発生する。つまり願望は、同時に願望が達成されていないことを前提とする。強い願望は、願望が達成されないことをも強く前提としてしまう。

だから客観的に見れば、願望を持つこと自体、その願望の達成を信用していないことになる。だからこその願望だ。

そして現実化とは、顕在化されている意識=理性=頭で考えたこと=論理的な思考と、潜在意識=無意識=魂とが一致した場合のみ起こる。

だから、いくら理性=顕在意識で強く願望しても、同時に成就できない可能性をも前提としている以上、潜在意識=魂のほうで、その願望が成就できない状態を不快に感じている。

そうすると、ここでちょっと恐ろしいのは、理性と魂は、願望が達成できないということで一致していることになり、前に書いたように、現実化は理性と魂の一致によって起きるので、願望が達成できない現実化が起きることになるのである。

唯一、願望がかなうのは ① の形のみなのだが、ここがわかりにくいところだ。

“意図” という概念が、私たちの理性ではなかなか理解できないからである。ゼランドがよく用いる例を出して説明してみよう。

たとえば、腕を持ち上げる、ということについて検証してみる。

まず、腕を持ち上げる、という願望を持ってみる。

私たちの頭の中で、腕を持ち上げる、という願望が思考によって形づくられる。腕を持ち上げたい、という願望については、思考でもちゃんと理解している。では、その願望が腕を持ち上げてくれるのだろうか?

願望だけでは、何も行動は起こらない。

私たちの中で願望がその役目を終え、腕を持ちようと行動する決意をするから腕は持ち上がるのだ。では、腕を持ち上げてくれるのは、行動する決意だろうか?

これも違う。

私たちの中では、腕を持ち上げるという最終的な決意を固めてはいるが、それだけでは腕は持ち上がらないのだ。

でも、腕はちゃんと持ち上げることができる。

では、最終的な決意のあとに続くものを私たちはどう定義すればいいのだろう?

これを理性で定義することはなかなかできない。しかし、それをあえてゼランドは “意図” と定義している。

ここがわかりにくいところだが、どうやら私たちは、腕が持ち上がるのは、願望でも決意でもなく、“意図” によるものである、ということを確認するしかないようだ。

“意図” の説明は難しい。

幼いころ(幼くなくてもいいが)、自転車に乗ることができた後に、どんなふうにすれば自転車に乗れるのか、なかなか説明できないことと似ている。乗れるんだからしょうがない、とでも言うしかない。

ゼランドは、意図を得ることは難しく、失うことは簡単だとも言う。たとえば、体のどこかがマヒした場合、それは意図が失われた状態だという。体を動かしたいという願望があり、行動する決意があったとしても、
願望を行動に変換する意図が失われているのだ。

しかし、何らかのマヒ状態の人が、催眠術その他によって奇跡的に体が動く例はいくらでもあり、これはその人に意図が戻ったということになる。

だから、願望自体は基本的には何ももたらさない。強い願望であればあるほど、例のエネルギーによる反作用も強くなる。

先の ① のパターンは、正確に言えばそれは願望ではなく、願望の対象を実現する意図があるという状態だ。

願望ではなく、意図によって当たり前の行動をするので、願望が成就したというよりは、意図したからそうなった、というだけのことだ。

たとえば、コンビニに少年ジャンプを買いに行くときに、私は少年ジャンプが買いたいと願望するか? 願望して、よし、私はジャンプを買うと決意するか? 別にしてもいいが、普通はそんなことはしない。

ジャンプを買おうと意図して、ただコンビニに行って買うだけである。意図は、目的が達成可能かどうかは判断しない。

買いに行って仮に売ってなくても、ちょっとはがっかりするかもしれないが、他のコンビニに行けばいいだけである。発売日を間違えて売ってなかったとしたら、発売日まで待てばいいのだ。いずれにしろ、ジャンプは手に入る。

願望は目的そのものに向けられ、意図は目的が達成されるプロセスに向けられる。

だから、何かをしたかったら、そう意図して、ただそれをすればいいのだ。

しかし、これは武術の極意にも似たことで、そう簡単にはいかないから、問題なのだ。でも、本当はそういうふうになっているのだ。

どうして簡単ではないのか? 

何が邪魔しているのか? 

私たちは今、まさしくそれを検証しているところなのである。

Commentコメント

  1. Iさん より:

    実現したいことことを願望や希望としているその事自体が、「遠くのもの」として、遠のかせ、意図に到達するまでの地点でブレーキを書けたり、遠くてなかなかたどり着けない状態にしているのですね。
    非常にヒントになりました!

    • nishi より:

      コメントありがとうございます。
      まさしく、おっしゃるとおりです。
      問題は、そのブレーキが何であり、
      どうすればいいのか、ということですね。
      そして、それはすべて自分で解決できるということのようです。

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