何と、今日は56歳の誕生日だ。
56歳だって。
すごいね。

たぶん、今40代の人にしても、まったく人ごとだと思う。
自分が40代のときにそうだったし、
ましてや30代20代の人間にとっては、
私は未知の生物であり、エイリアンか神みたいなものだろう。

でも、私が年くったなあということで一番落ち込んだのは、
20歳のときだ。
もう10代ではないという、何とも言えない感じ。
いっぺんに100歳くらい老けた気がしたものだ。

その後は、30になっても40になっても、
50になったときでさえほとんど同じで、
あ、〇歳か、といった感じ。

それと同じように今日も、
あ、56歳かと思ったしだいです、ハイ。

60まであと4年。
この感覚は私にとってはけっこう大事で、
人生の節目っぽい年齢のときは、
私はその年齢になる前から、
あらかじめその年齢のときにはこういうことをやっていたい、
という計画というか目標というか、
実は見えを張ってそんな言い方をしたが、
そんな立派なものではなく、
単純にイメージを持っていた。

それは、ある仲のいい作家に言われてから、
余計意識するようになった。
40前後だったかにその作家と知り合い、
酒を飲むようになり、
ある日、小料理屋で酒を酌み交わしていたら、
その作家がふと黙って私の顔を見て、
「あなた今、何歳だっけ?」
と聞いたのだ。

私が飲み干そうとしていた酒の手をとめて、
「〇歳(38、9歳か、40歳か忘れたがそのへん)です」と言うと、
「じゃあ、50歳になったときに、どういう自分になっているか、
何をしていたいかを今から考えておいたほうがいいよ。
あっと言う間だから」と言った。

その作家は、数年前に自ら死を選んでしまった。

私は以前からそういうイメージを持っていたから、
そのときはあまりその言葉を重要視しなかったが、
なぜか妙に心に残った。

幼いころから超自然現象(©中岡俊哉)に興味を持ち、
将来はそういう研究で身を立てることを自任していたが、
高校卒業間近に、ある大学教授(♀)から言われたことに腹を立て、
一気に俗世間に身を投じて、
無頼派文学者&エピキュリアンを気取ろうと決め、
仕事としては活字関係に進むことも決め、
大学在学中(中退)から“純”文学や詩に興じながら、
編集プロダクションに潜り込んで編集者になることを画策し、
出版社に入って40歳までに編集長になろうと決め、
実際にその通りに来ていたところに、
先の作家の発言にいたるわけだ。

そのときの作家の話を聞いて、
私はあらためて、
50歳までには編集局長になっている自分を見、
そのあとは常務とか専務とかになるのはやめて、
独立して社長になって、
幼いころからの自分の役目を果たそうと決めたのである。

そして……
カミさんと娘にはののしられ、
あ、会社辞めたときね、
息子は沈黙し、
当の本人は世間の荒波の上であぐらをかいたり、
突然駆け出したりするわけだが、
ときどき(実はしょっちゅう)海中に没し、
しばらくしてマヌケな顔をして浮き上がってくる。
ということを繰り返している。

で、56歳だ。
〇〇さん(作家の名)、見てますか?
今、自分はこんなんなってます。
でも、60歳になったときの自分の姿はすでにあります(死ななければ)。

ところで、
人生を渡っていく上では、誰でも迷ったり、
どうしようかと取捨選択を迫られたり、
第3の道を模索しなければならなくなるときがあるだろう。
そのときに、重要な役割を果たす機能のひとつに、
“人の発言”がある。

それもあらかじめ何事かについて相談を持ちかけて、
その相手が、そりゃあキミ、こうこうこうすべきだよ、とか、
そうなんだ…でも、オレはこう思うよ(あるいは、私はこう思うわよ)、
といった発言ではなく、
何でもないときや突拍子もないときに、
ふと自分に投げかけられた言葉や、
街なかを歩いていたり、電車に乗ってガタゴト揺られているときに、
ふと耳に入ってきた他人の会話の中の言葉のことなのでる。

これはゼランドも言っている。
てか、「世界の創造~ゼランド編」を最近書いてないな。
とにかく、ゼランドも同じようなことを言っているのだが、
今、手もとに本がないから正確なことは言えないが、
そういう言葉には意味がある、というようなことだったと思う。

子どもが外出するときに母親が、
「風邪を引くから、マフラーをして行きなさい」
と言ったときは、マフラーをしたほうがいい、
というようなことも言っていたと思う。
だから、子どもとか誰か親しい人がどこかに行くときなどは、
「気をつけて」と言葉をかけたほうがいいのである。

それに引き換え、
誰かに相談ごとをしているとして、
相手とあれこれ考えて、
ああしたほうがいい、
こうしたほうがいいと言って考えたことは、
だいたい小賢しい。
というか役に立たない。

でも、他人のふとした言葉は、
無視してはいけない。
しかし、言った当の本人は覚えてない場合が多い。
または、大した意味はないよと言ったりする。

それはそうだ。
なぜなら、それは神の言葉だからだ。
つまり自分の言葉だからである。

よく、質問にはあらかじめ答えが含まれている、
などと言われるが、そういうことだ。
何かとてつもなく迷っていて、どうしていいのかわからず、
人に相談したり、ものの本を読んだり、ネットで検索したりするが、
自分の中には、そうした迷い、優柔不断、質問などのモヤモヤと同時に、
自分のとるべき道、答えが必ずあるということである。

だから、それを相談した相手や、書籍や、
ネットの中に求めようとしても、相手と一緒に、
あるいは書籍やネットの中の言葉と一緒に、
みんなでモヤモヤするだけで、
ヘタすればもっとグチャグチャになるだけで、
本人の気が短かったり、
捨て鉢ややけっぱちになりやすい性格だったりする場合は、
ドツボにはまってしまう。

だから、そうしたときは、
ふと耳に入って来た何気ない言葉に注意したほうがいい。
自分の中にある答えが、
巡り巡って自分に届いてくることがあるからだ。

ふと気づくということは、そういうことなのである。
“わかる”ということは、そういうことなのだ。

わかれば、あとは行動するだけである。
その行動も、あれこれ迷う必要はなくなる。
“わかった”時点で、
それは同時にその人の“意図”に変わり、
行動へと続く“意志”となる。

そのへんの達人ともなると、
誰かに相談されたとして、
ああだこうだとその人の迷い話を聞いていても、
適当に相手をしながら、スッと相手にふさわしい言葉を発したりする。

あるいは逆に、
あれこれ自分で迷うことがあったとしても、
誰かにああだこうだと相談しながらも、
ふと自分の中から来る適切な答えをつかむことができたりする。

この達人というのは、
武術の達人のような意味の達人だ。
だから、私のような普通の人にとっては、
そうしたことに対する知識を持っているだけでも十分であり、
また効果もあるのである。

ちなみに、
私のメモ書き「世界の創造~ゼランド編」に登場するヴァジム・ゼランドの本には、
そういうことが書いてあるのだ。

今、知識と書いたが、
この“知識”という言葉がまたクセモノで、
たっぷりと手アカがついているうえに、
それぞれ人によって“知識”の意味が違うので、
同じ言葉を使っていても、
私が伝えたいと思うことが伝わるとは限らない。

もちろん、ある人の伝えたいことが、
ある人に確実に伝わるなんてことはないだろうが、
ある程度のところまで共有することはできる。
その方法もあるのだ。

ただ、それには手続きが必要である。
まず、お互いが共有しようとする意思を持つことが前提だ。
しかし、その共有しようとしていることが、
お互いに理解することがなかなか難しいことだったりすると、
共有しようという意思をあらためてより強く持つことが必要となるし、
さらにそのまま、
その意思を維持していくという忍耐力も必要になってくる。

これはなかなかどうして、簡単ではない関係性だろう。
いったいどこの誰が、いやどこのふたりが、
あるいはそれ以上の人間が、
そんな面倒くさいかもしれない努力をしようとするだろうか?

だから、もし途中で、
もうやーめた、めんど!となるとしたら、
その人(もしくは複数の人)にとっては、
かつては共有しようと思っていたことが、
実は自分(たち)にとって大したことでもなく、
そんなことをする必要も魅力もなく、
何かのはずみでその気になっただけか、
あるいは、本当の意味でくじけたかのどちらかである。

しかしいまだ、
その共有しようとしているもの(こと)に対する飽くなき探究心を持ち、
そして誰かとそれを共有しようとする情熱を維持しているとしたら、
その情熱はどこから来るのだろうか?

“愛”なのである。

もちろんプラトンの言う“愛”だ。
philosophyのphiloは“愛”という意味だ。
sophyは“知”だ。
philosophyは“哲学”と訳されるが、
哲学することは、
つまり愛することなのである。

紀元前5世紀から4世紀のギリシャの哲人は、
つまりソクラテスやプラトンは、
この“愛”を重要視し、
それに対置する“知”を批判した。
でも、ここで言う“知”は弁論術における“知”で、
いわゆるソフィストらの言う“知”である。

知ってのとおり、philosophyのsophyの部分は、
このギリシャのソフィストの名から来ているが、
そしてまた“ソフィスティケート”などというカッコイイ言葉もあり、
“洗練する”といった意味だが、
本来は“詭弁を弄する”という意味である。

なぜ、プラトンらがソフィストらの弁論術を批判したかと言えば、
それが弁論のための弁論の技術であり、
レトリックのためのレトリックだからだ。

そうした言葉を弄して、
いくら理路整然と論理を構築したとしても、
そもそもその論理が必要とされる大もとの論旨への、
先の意味で言うところの、
やむにやまれぬ“情熱”があるということではないので、
法廷での論争や、
論理的に完結した言葉の流れが好きな人にとってのみ、
役に立つような類いのもので、
実際にはあってもなくてもどちらでもいいようなシロモノなのである。

つまり、たぶんにひとりよがりであり、独断的であり、
自己完結的である。

ソクラテスやその弟子のプラトンが批判したのは、
おそらくその部分であり、
かわりに彼らはディアレクティケーを重要視した。
ディアレクティケーとは英語のダイアレクティクのことで、
“弁証法”と訳されるが、
これはたぶんにヘーゲルとかマルクス思想のアカに塗れた、
ちょっと困った言葉だが、
私は普通に“問答”とか“対話”でいいと思う。
だから、むしろダイアローグでいいのだ。

なぜ、ソクラテスやプラトンは対話を重要視したのか?

これは“魂”の話からはじめないといけないので、
またアホみたいに長くなってしまう。
でも、今のいわゆる“スピ系”シーンを徘徊する、
いいかげんな連中は言うまでもなく、
かなりまともだと思われている人たちも勘違いしている、
ある重要な問題を孕んでいるのだ。

古代ギリシャのプラトンやソクラテス、
その前のピュタゴラスやヘシオドスなどなどの言説が、
イエス・キリストやブッダより前からあることに、
私たちは注意しなくてはならない。
そして、さらにその源流を追っていくとどうなるのか?

これからのスピリチュアリズムは、
そのあたりの探究なくしては絶対に語れない。
というか、意味がない。
ここにきて私は、
それだけは断言できそうである。

何だか、話がまたずれたなあ…

でも、続く。

3 thoughts on “今日までそして明日から”

  1. 西塚様

    先ほど、別の記事にコメントを書いていましたが、キーを押し間違えて消えてしまいました。
    万が一尻切れトンボのコメントが残っていましたら、申し訳ございません。

    以前、峠の居酒屋 で何度かコメントさせていただきました。
    何年も前に西塚さん、山田さん、anさんと池袋でご一緒したものです。
    すぽ あるいは ぽて というハンドルネームを使っていました。(私の猫の愛称です)

    一昨年に再婚し、新潟の田舎で暮らしています。
    春になれば、また家の後ろの畑に好きな野菜の種をまきます。 自然栽培です。
    新潟は日本酒が美味しいですよ! 

    3月に上梓なさった本を、さっきAmazonで注文しました。
    届くのが楽しみです。

    コーリーグッドについて、私はとても興味がありよく読むのですが、デービットの進行があまり上手でないので、もどかしさも感じます。
    ヤスさんは距離を置きたいとおっしゃってましたが、どうなんでしょうね。

    電子記録はいつか消えてしまうので、紙媒体で出版するのはとても意義があります。
    石にでも刻むのが一番確かでしょうが、少なくとも電子記録より紙の方が確かな気がします^^。
    残したい玉のような文章は、紙の中でも和紙に書いたらもっとよいのでしょうね。

    人の何気ない言葉が大切ということ、私もそう感じます。
    ふと開いたページの目に入る文章なども。

    とりとめのないコメントでスミマセン。
    記事を楽しみにしています。

    1. すぽ様

      お久しぶりです。
      お元気そうで何よりです。
      再婚なさったのですね! おめでとうございます。

      あれは確か池袋あたりでの会合だったかと思います。
      みんなでひとしきり話してる最中、
      私が、なぜ離婚なさったのですか?
      と聞いたときのあなたの答えにしびれました。
      何と正直な方かと思いました。

      本をご購入いただいたということで、感謝しております。
      個人的にいろいろと考えさせられた本です。
      著者の菅原氏ともおつき合いいただいてまして、
      また、この書籍にまつわるもろもろのことを知るにつけ、
      この世はいったいどうなってしまうのか、
      と思うこのごろです。

      でも、ご指摘のコーリー・グッドのような情報は、
      非常に重要だと思っております。
      その内容の真偽というか、ディテールもさることながら、
      こういう情報が出てくるということ自体、どういうことなのか、
      そのあたりを見極める必要があります。

      そういう意味で、右から左に流していい情報と、
      そうではない情報があります。
      それは当サイトというか、弊社といっていいのか、
      ともかく私にとっても大切なポイントで、
      そのためにもいろいろと取材(読書、体験、熟考)を続けます。

      また次の記事でも書こうと思っていましたが、
      あなたのコメントにもふと出てきた「石板」、
      まさしく今日も、そのことを話していたところです。

      ほらね。
      水面に出ていて、
      飛び石のように見える個々の事象も、
      水面下ではみなつながってます。
      水面下の世界のことを多くの人は知りません。
      というか、都合よく信じ込まされています。

      神話は実際にあったことです。

      西塚

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