長い間係わってきた書籍がひとつ、明日で完全に手離れする。
近々に紹介したいと思います。

昨夜は友人の古賀弘幸氏の出版記念パーティーに出席した。
四谷にあるイタリアンレストランで行なわれたが、
食事がなかなかどうして、うまかった。

古賀氏(普段は「ひろゆき」と呼んでいるのだが)は、
書・文字関係の専門家で、
今回は初の単著ながら同時に 2 冊も上梓するということだ。

『文字と書の消息』(工作舎)
『書のひみつ』(朝日出版社)

彼は『書の総合事典』(柏書房)という、
書の百科事典のようなものまで編集して出しているから、
もうその道の第一人者と言ってもいいのだろう。

彼とは学生時代からの付き合いなので、
もう表も裏も外も内もお互いに知っているような間柄だが、
まあ、酒飲み友だちというくらいにしておきましょう。

二次会でも会に駆けつけた気鋭の作家や評論家、
ベテラン・若手編集者たちとみんなでバーで飲んだが、
同じ出版界にいる者同士だから、
話も興味深く、また刺激で、個人的にも大いに楽しかった。

ここ最近は、出版界にいる人たちでも、
現在の状況や今後の方向性、流れなどをつかんでいる人と、
なかなか理解できない人、
これまでのやり方の変奏としてしか発想できない人など、
見事に振り分けられているのがよくわかる。

特に、年齢ということでもないのだろうが、
それでも責任のある立場の人、たとえば局長や社長など、
そういう人たちに厳しいものを感じる。

これまでの上司のやり方をずっと見てきた世代が、
順繰りに上がって指揮を執るようになると、
出版不況といわれるこのご時世、
本来は従来の方法ではなく新機軸なり、
少なくとも独自の見識に基づいたドラスティックな舵取りを行なえる立場にあるのだが、
なぜかこれまでと同じような路線になったり、
独善的にやってきてそれなりに実績を出してきた人などが、
なかなかそのやり方を変えられないでいたりするようだ。

以前であればそれもいいだろうが、これからはまずいだろう。
私も同じような責任のある立場にいたから、よくわかるのだ。
また、そういう人々を現場でよく見てきたからわかるのである。
そうしたやり方は、いずれアイデアとしてはジリ貧になり、
果てはこれまでのいっさいの方法論が通用しなくなり、
人員が交替させられたりもするが、
今度はさまざまなプレッシャーや恐怖から、経営陣や営業の言いなり、
もしくはいわゆるイエスマンになっていってしまう。

経営陣や営業とケンカできなくなったクリエイターも厳しいと思うが、
そうしたクリエイターを育てる度量を持った経営者、上司、
営業もいなくなってきたのだろう。

そうした中でも、昨日のパーティーのように、
気骨・遊び・諧謔・シャレ・知性がある人たちもたくさんいるので、
まだまだ出版界も面白いわけである。
そう言えば、『遊』は工作舎だったな…

上記の 2 冊、ご興味のあるかたはぜひ、ご一読を。

しかし何だね、本というものはいいものだ。
自分がずっと読んできているからだろうが、
何せ読みたい本を手に入れて、寝転がったり、
背筋を伸ばして襟を正したりして読みはじめる瞬間というのは、
至福のときである。
そういう人は多いだろうと思う。

でも、本は誤解も生む。
著者の意図したとおりに読者が受け取るとは限らない。
理解されないこともあるし、それは著者の力量に帰せられることもあれば、
読者の読解力の問題とされることもある。

だから、本というものは、
本当は必要のないものだという極端な意見もある。
たしかにソクラテスもイエスも仏陀も、何も書かなかった。
でも、弟子が書いた。師の言葉を残したのだ。
でも、だからこそ、われわれはソクラテスやイエス、仏陀の言葉を、
歪曲されてる部分があるにせよ、知ることができるのである。

そして、テキストを読み込めば、
どの部分が歪曲されているのか、わかったりすることもできるのだ。
これはたとえば、白川静が甲骨文字を何回も書きまくっているうちに、
その意味がおのずから湧いてきて悟ることができたり、
岡潔が学生の数学的な証明を口に出させて、
今度は逆に終わりから読ませてみて、
途中で、あれ?と違和感を覚えて、その間違いを悟ることと同じ能力である。

文字があるからこそ、そういうことができるのだ。
というか、図らずも文字の話になっているが、
これも冒頭の友人の書籍を紹介した影響なのだろうな。
無意識です、ホントに。

とにかく、書いたものが残っていればそういうこともできる。
逆にねつ造もできるわけだ。
『古事記』にしても『日本書紀』にしても、
一応、教科書的には日本最古のものとされているが、
それだって、そう政府が決めただけだ。
神武天皇を初代天皇としたのも、明治政府がそう“決めた”だけである。

政府が決めたから正しいとは言えない。当たり前だ。
むしろ政府が決めたのなら怪しいんじゃね?
というのが、今ではまともな感覚だろう。
少なくとも頭から信じたり、盲信したりするのは、普通にヤバい。
メキシコだったか、ペルーだったか、どこか中南米の国でも、
考古学や歴史学は政治的絡みで成立していると、
たしか林房雄の本にも書いてあった。

神武天皇は紀元前 660 年に即位されたことになっている。
それ以前の天皇、ではないらしいが、とにかく王様のような存在は、
アマテラスオオミカミとかクニタチノミコトとか、
神話の世界になってくるわけだ。

ギリシャにしてもソクラテスやヘラクレイトスなど、
せいぜい紀元前 4~6 世紀の話で、仏陀も同じだ。
イエスも西暦 0 年前後だろうし、最古の宗教だっても、
ゾロアスター教だってやはり紀元前 6 世紀くらい。
預言者のゾロアスター本人にしても(例のツァラトゥストラね)、
紀元前 10 世紀くらいか。

最古の文明メソポタミアでようやく紀元前1万年。
シュメール文明だ。あのヘビのような頭の人間の遺跡や、
目が異様にでかい人間が残されてるシュメールだ。

いや、何も歴史の勉強をしようってんじゃないが、
神武天皇やソクラテスや仏陀から今の歴史がはじまったわけではなく、
またそれ以前が神話の世界であったわけでもなく、
神武天皇にだって両親がいるわけで、まあウガヤフキエアズだが、
ウガヤフキアエズ朝だって50何代かあると記録されているし、
その前のニニギノミコトだアメノミナカヌシノカミだ何だとなれば、
計算によれば、少なくとも神武の前に 5000~7000 年の縄文時代があるわけで、
“普通”に人が生きて生活していたのであり、神でも何でもない。

だが、記紀以外のたとえば『上記(うえつふみ)』とか、
『竹内文書(たけのうちもんじょ)』などの古史古伝を “偽書” と “決めた” から、
神武以前は神話になってしまっただけだ。
われわれは神話の世界から生まれてきたわけではないだろう。
リアルな人間から生まれてきているのである。

われわれが神である、われわれの中に神がいるという話はまた別の話だ。
また、宇宙人のDNA操作や、別の星から地球に降り立った云々という話も、
今ここではやらない。

先の人類最古の文明であるとされるシュメールだって、紀元前 1 万年でしょ?
日本の縄文文明もそれくらいだろう。
放射性炭素年代測定にしても、
ずいぶん前からいろいろとそれまでの通説を覆す発見がされてきている。
要するに、考古学でも科学でも、今現在の最新の “仮説” にすぎないということだ。
われわれはあくまでも最後の最後まで、
今ある “常識” を “仮” のもとしてとらえることを忘れてはならない。

どんなに “権威” に裏打ちされている “説” であっても、
それを忘れてはならない。
権威、たとえば国、つまり政府、
科学、どこぞの宗教の教祖、親、ベストセラー作家、
テレビのコメンテーター、カリスマ芸能人、上司、
教師、どこぞのセミナーの先生などなど、
相手が誰であっても、盲信はマズい。

でも、ここ 4 年くらい、そうした権威が張り巡らせてきた、
ある種の “常識” の包囲網が破れはじめている。

SNS の世界的な普及によって、
内側から網を食い破る人たちが出てきたからだが、
その影響で、政府のおためごかしを見破り、
“科学的事実” も日々更新されて、
どうやら普遍的な原理ではないらしいことに気づき、
会社の搾取構造にもうんざりし、
信頼できるかもしれないと思ったセミナーのセンセイも、
実は個人的なトラウマの解消をモチベーションにしているようであり、
つまり自分たち生徒と同じじゃん、
ということを見抜く人たちがどんどん増えているのである。

われわれはそういう世界に今、生きているわけで、
するとどうなるかと言えば、
既存の支配勢力がいるとして、そういう勢力は今度は、
もっともっと大きな視点から新しい“科学”を、
“歴史” を、“思想” をぶち上げ、再度取り込もうとするだろう、
ということだ。

そして、これまた多くのマスコミ人、官僚その他の大勢が、
半ば無意識にその尻馬に乗っかろうとするだろう。
この “無意識” というのがやっかいなのだが、
大丈夫である。
ちゃんと見抜く方法はあるのだ。
また、自分も無意識にそうした “新しい” 潮流に乗ってしまうことなく、
常に “意識” を保ち続ける方法もあるのだ。

今後、そういう方法も公開していきたいと思う。

いずれにしろ、私が “想念戦争” とか “見えない戦争” などというのは、
そうした “新しい” いわば思考の乗っ取りが用意周到に図られ、
その方法としてさまざまな“コンテンツ”が、
ヘタすれば莫大な資金を背景にエンターテインメントとしても駆使され、
われわれの “思考” “思想” “考え” “感覚” 何でもいいが、
そういうものに都合よくバイアスをかけられてしまい、
われわれの言動が今後、百花繚乱と言えば聞こえがいいが、
要するに入り乱れて、何が何だかよくわからなくなり、
結果として既存のパワーグループの思うツボになるハメになる、
ということを言っているのである。

そういうものとの戦いがはじまっているということだ。
それを先のように “想念戦争” “見えない戦争” と言ってきたわけだが、
ここでもわれわれは戦争を放棄しなくてはならない。

戦争はしてはいけないのである。

ではどうするのか?
これも国際社会のこれまでの “常識” と一応同じで、
外交つまり交渉力を発揮するしかない。
しかし、その交渉力は、
“自分” に対して使うのである。

2 thoughts on “見えない戦争 2”

  1. 特に今回はcoolですね。特に最後のフレーズが。
    続きを楽しみにしています。

    軽く言っているわけじゃないです。私もとても重要だと思っています。

    1. ロク様

      コメントありがとうございます。
      いえいえ、軽くでいいですよ。
      軽さは大事ですね。
      ときには重要性も客観視できます。

      西塚

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