知らなかったのだが、世間では松居一代の話で盛り上がってたらしい。
夫の船越英一郎の不倫とか離婚調停がどうしたとかという話だが、
世間を賑わせたのは、松居がブログやYouTubeで思いのタケをぶちまけたからだ。

別に自分の思いをSNSで吐露するなんてことは普通のことだろうが、
自分たちの夫婦生活のことなど、
普通ならそこまで言わないだろうということをガンガンとぶちまけているので、
メディアも面白がって取り上げたということらしい。

でも、その内容があまりにも下品というかゲスいというか(同じか)、
下半身事情に絡んだものでもあり、
ヘタすりゃ名誉棄損で訴えられる可能性もあるようなので、
さすがのメディアも距離を取りはじめたんだとか。

検索すればすぐ出てくるので、
私も一部YouTubeで見たが、さすがに驚いた。
誰かも呟いていたが、
本当にこれは2時間サスペンスの前振りか何かかと、
一瞬思った。

はっきり言ってコワヒ。

そして、こないだまた思い出したように春風亭小朝を公然とののしり出した、
泰葉の会見を思い出した。これはみんなそうだろう。

彼女たちに何が起こったのか?

と言っても、こういうことはおそらくしょっちゅうあることで、
たまたま当事者たちが有名人だったから話題になっただけだ。

それでもこういうこと、
つまり妻が夫をののしる、恥をかかせる、否定する、貶めるなどなど、
ものすごい決意でもってとにかく夫にダメージを与えるということ、
そういうことがわりと短い期間内で、
何で2度も起きたのか。

彼女たちやその夫たちがどうとかということには、
個人的にはあまり関心がないが、
こういうことが起きるということには大いに関心がある。

なぜなら、芸能界のようなところではないところでも、
おそらくこういうことが急激に増えていると思うからだ。
あの2件は、その一端として表に出ている。

たとえば、去年一昨年あたりではベッキーを筆頭に、
やたらと不倫の話題が芸能界では多かった。
まさか去年一昨年に限って、芸能人たちが示し合わせて、
いっせいに不倫をしたわけではないだろう。

当たり前だが、いつの世でも当たり前にあったことなわけだ。
しかしそれがある時期、集中して報道されたりする。
そして今度は、妻の反乱? 復讐? だ。
当事者の細かい事実関係はよくわからないが、
少なくともあのふたりにとっては、
ああなるいきさつがあったわけだ。

ああいう話というか、ああいうことは、
これまであまり見たことがない。
ちょっと驚きませんか?
オシドリ夫婦と言われた妻が、あるいは元妻が、
あそこまで激しく夫を攻撃するということが、
今まであっただろうか。

いや、一般人の間では、
昔も今も近いことはあるかもしれないが、
有名人たちが巨大メディアの前で、
ああいうことを赤裸々に暴露するなんてことは、
そおそらく一度もなかったんじゃないかと思う。

オシドリ夫婦の離婚会見とか、
夫婦のどちらか一方の浮気がスクープされて、
取材で何事かを告白する、
あるいは謝罪会見をするということはあったろう。
でも、それでもいろいろな個人名を上げつらうことはなかったし、
夫婦同士にしても、
それとなく相手の立場を慮っていたように思う。

でも、ここ数年の不倫スキャンダル報道あたりから、
何かがほころびはじめているというか、
何かがもたなくなってきているというか、
とにかく何かがもう耐えられなくなっていることが、
ああいう芸能人のスキャンダルを通じて表に出はじめた。
つまり、わかりやすい形で、
目に見える形で現われはじめたということだ。

当人たちにとっては大変な問題だろうから恐縮だが、
私はどうしてもその構図のほうに関心が向かう。

だから、彼女たち彼らがどうのこうのではなく、
たまたま彼女ら彼ら、
特に彼女たちを通して噴出した“何か”であって、
その“何か”とは何か?ということだ。

私は20代から芸能界関係の編集にも関わっていたから、
もともと関心があるというか、
いや、もともとという言い方をすれば、
それは子どものころからそうで、
小学生のときから学校で教わることとは別に、
家に帰ればテレビを見て、
映画やアニメとともに歌謡ショーやお笑いにも触れていたわけだ。
そして翌日、学校や遊びの最中にも、
みんながそれらをネタにしたりする。

要するに子どもというか視聴者は、
テレビを通して芸能界や芸能人の動きにも触れ、
芸能界・芸能人の言動の中から、
何事かの情報を無意識的にせよ取り込んでいるのだ。

小学生の私にしても例外ではなく、
ああ、こんな女の歌手が出てきたな、これはあれと似てるなとか、
この曲の雰囲気はあの曲と同じだなとか、
この曲はあまり長くはヒットしないな、
なぜなら今はBという曲が出てきて、
これからはこっちのほうが主流になるからなとか、
その程度のことはわかった。

普段から触れている芸能情報?を取り込んで、
幼い私の中でも何事かと何事かを照らし合わせたりなんかして、
何事かを判断していた結果だろう。

歌は世につれ、世は歌につれじゃないが、
文化なんて大げさなことを言わなくても、
風俗とはそういうものだろう。
江戸時代の芝居にしても、
庶民の求めている傾向を知らなければ、
小屋は繁盛しない。

庶民たちと興行側の中で、
見えないところで何事かが共鳴・反発した結果、
出し物が決められていくわけだ。

もちろん、有名な役者や定番の出し物、
あるいはそれこそ鳴り物入りとして、
庶民の興味をあらかじめ釣り上げておく手法もあるが、
それはまた全然、別の話だ。

何だかまた脱線してる気もするが、
要するに何かが耐えられなくなり、
それに耐えられなくなった人たちが、
キレはじめたらしいということだ。

キレると言うと言葉がキツイが、
我慢ならなくなったということだ。
そして本人にとっては、
それなりの正当な理由があるのだと思う。

たとえば、電車に乗っても、
先に乗って吊り革にぶら下がっていた乗客が、
ガンとして自分のいるポジションを譲らないということがある。
客がどんどん乗ってきて、だんだんと奥に追いやられるので、
そいつにぶつかって押しやることになるのだが、ガンとして動かない。
「すみませーん、ちょっと詰めてくれませんか?」と言うと、
わりと素直にどいてくれたりする。

つまり、ここの場所は自分が獲得した場所であって、
自分のものだから動かない。
後からきたお前がよけろ、ということなのだろう。

私は最近、そういう場面を何度か見たことがある。
私自身も体験したことがあるが、先のように言うと普通にどく。
でも、そういうことを言うのは面倒臭いので、
苦労してよけていく女子学生やおっさんも見たことがある。

そこで私が、「ちょっとアンタ、もっと奥に詰めたら」と言うと、
おそらくケンカになるだろう。
お前が言うな!ということになると思う。たぶん。
当事者が言うぶんには収まるのだ。おそらく。

道を歩いていても、これは何だかわからない論理で、
自分が道を譲る必要はないと考える人もいるようだ。

要は殺伐としてきている感じがあるわけだ。

でも、こんなくだらないことは、
お互いに声をかけあうことで一瞬にして解決するはずだと思う。
もちろん人にもよるだろうが、今は少なくとも、
知らない者同士が声をかけあうことが、
極端に少なくなっているんじゃないだろうか。

簡単なことではないか。

天気のあいさつからはじまって、
電車に乗っていても、
隣りの人が何かパンフレットを持っていれば、
あれ、その映画見たんですか? 
私も見ようと思っているんです。
どうでしたか? 
面白かった?
とか言えばいい。

というか、私がやるとほとんど不気味がられるし、
カミさんや娘からは、
あ、コイツ何か語りかけそうだなという私の気配を感じたら、
すぐにそでを引っ張られる。

でも、とにかく、みんながやれば違うと思う。
そういうことが普通になれば、
ガンとして電車で動かない人や、
ズンズンと道を歩く人も減るのではないだろうか。

ちなみに、
居酒屋なんかではわりとそういうラフな会話が増えているようで、
特に若い世代の連中の屈託のなさは希望だ。

話を戻せば、
先のふたりの女性にしても、あそこまで激しく訴えるということは、
周りに話を聞いてもらえる人がいないからか、
あるいはたとえいたとしても、そんなことはどうでもよくて、
本当に話を聞いてもらいたい人に聞いてもらえないからだと思う。

だから、本当に話を聞いてもらいたい人にも、
おそらく聞いてもらえるだろうところの、
ああいう手段に出たのではないか。

つまり、夫だ。
彼女たちは自分の夫に、
自分の話をちゃんと聞いてもらいたいのだと思う。

“愛”の反対語は“憎しみ”ではなく“無関心”だ。
心理学的な心の作用としては愛も憎しみも同じだから、
愛はただちに憎しみに変換される。
だから無関心は、愛とも憎しみとも敵対するのだ。

先述の不倫スキャンダルブーム?の話にしても、
不倫とはすなわち夫婦関係絡みの話だ。
根本には妻だ夫だの関係性が横たわっている。

ちなみに不倫は恋愛なので、夫婦間のこととは問題が別だ。
不倫がきっかけで夫婦間のトラブルが発生するということはあるが、
両者は根本的に違うものである。
つまり、不倫がきっかけで、
夫婦間の新たな地平が見える、
ということもあり得る。

ともあれ根本的には、
コミュニケーションブレイクダウンの問題だ。

そうならないためには、
やはり粘り強い対話・会話が必要だ。

……前回の『世界の創造~ゼランド編』⑰の続きに近づけるべく書き出したのだが、
まくらだったはずのネタに引っ張られて、また脱線したようだ。

シンクロニシティーとトランサーフィンのことを書くつもりだった。
やはり、あらかじめ決めたことを書こうとしても、なかなかうまくいかないな。
伝えようとしている内容が難しいのと、言葉が生きているからだ。

これが“情報”だと話が違ってくる。情報はわりと単純な事実に基づく。
情報とは基本的には、

平成29年7月10日2時5分 気象庁発表
10日2時2分頃地震がありました。
震源地は大隅半島東方沖(北緯31.3度、東経131.1度)で、
震源の深さは約60km、地震の規模(マグニチュード)は3.5と推定されます。
各地の震度は次の通りです…

あるいは、

10日の大阪取引所で日経平均先物9月物は反発した。
清算値は前週末比150円(0.75%)高の2万0100円だった。
外国為替市場で円相場が1ドル=114円台と前週末に比べて円安に振れ…

みたいな話のことだ。
ものすごくタメになるし、それがないと成り立たない商売もあるが、
その言葉自体が人を感動させることはない。

人を感動させる言葉は、
まずその言葉を書いた本人が感動していないとならない。

現実の世界の中で、
感動していない人間が放った言葉が誰かを感動させたとしても、
その感動した人間がそれを伝えたくて言葉を書く場合、
まず本人が感動する必要があるのはもちろんで、
この場合すでに本人が感動しているわけだが、
それを言葉で表現するときに、
自分がどういうふうに感動したかを伝えることは非常に難しい。

これはどんな小説家でもそうだろう。
それを伝えることができた作品が名作であり、芸術なわけだ。

だから、同じ言葉でも、
その使い方、言葉の紡ぎ方にはいろいろあるわけだ。
ある意味、小説的?な言葉もあれば、情報的?な言葉もある。

以前、小説家の保坂和志の本に書いてあったが、
解剖学者・養老孟司の言葉として、
論理的な思考は難解だと思われているが、
論理も言葉もどちらも線的つまり直列的な構造だから、
人間の脳にとっては同じ質の作業に属するので、
さほど難しいことではない。

でも、五感のような知覚全般のことは一挙的つまり並列的なので、
それを線的・直列的な言語に置きかえることは、
脳にとっては負担が大きい。だから感動も大きくなる。
というのがあった。

加えて、

古池や蛙飛び込む水の音

これだけの長さの言葉で、
視覚と聴覚の両方にまたがってイメージが駆けめぐるというところが素晴らしい、
ということだ。

それで思い出したが、これは数学者・岡潔の本で読んだのだが、
夏目漱石が弟子か誰かに、俳句とはどういうものですか?と聞かれ、
俳句とは、

しぐるるや黒木つむ家の窓あかり

のようなものだ、と言ったというのがある。
で、さすがは漱石だというわけだ。
つまり、俳句をああだこうだと“論理的”に“言語”で説明するのではなく、
俳句そのもの、凡兆の俳句をそのまま提示した。
で、こういうものだよと。

これは私も、やはり漱石は文学者としても教師としても、
一流の人だなと思った。

それにしても、言語の持つ微妙な機能に関しすることや、
俳句のようなけっこう“難しい”文学に対して、
解剖学者や数学者のいわゆる“理系”の大人の理解が深いのはどうしたわけか。
論理や数式、構造科学のプロほど、
その限界やその他の可能性への視野が広いということか。

って、何の話に移行してるのか…

要するに、言葉は大事だよっても締まらないが、
でも、言葉は大事なのだ。
特に会話は大事だ。
これは夫婦間であっても何でも、
人間関係においては会話はかなり重要な要素だと思う。

先の保坂和志の本の中の例でまた言えば、
“裏読み”というか“深読み”というか、
人の話す言葉を自分なりに先に解釈して、
そこに落とし込むような会話をする例をあげている。

たとえばイチローが、「私には三振する技術がない」と言った場合は、
その言葉をそのまま受け取り、その真意を推測するべきだと保坂氏は言う。

先の言葉は、
イチローは球がくると、
体が自動的に反応してバットに当ててしまうので、
内野ゴロになって併殺打になってしまうことがある。
それよりは三振したほうがまだましなのだが、
自分にはその技術がない、
ということを言ってるのではないか?
などと仮説を立てることが必要だというわけだ。

そうすれば、新たなバッティング観とか、
不自由な身体性という特徴も見えてくるのだが、
ただの“自惚れ”だろうと“裏読み”“深読み”をしてしまうと、
バッティング観にも身体性にも、
何も新しいものが付け加えられることのないまま終わってしまう。

また、保坂和志が誰かに、
「芥川賞についてどう思いますか?」と聞かれて、
「つまんないよ」と言うと、
その人は「取ってない人はみんなそう言いますよね」と言って笑ったという。

つまり、保坂氏がひがみとか強がりでそう言ったと、
“裏読み”“深読み”をしたのである。
そうすると、その会話はそこで終わりだ。
保坂氏が抱いていたかもしれない芥川賞に対する考え方も聞き出せず、
その人が芥川賞に対して新たな価値を見出したかもしれない可能性をもなくしたわけだ。
ちなみに保坂氏はその後、芥川賞を受賞する。

私だったら、どう“裏読み”なり“深読み”なりされようが、
あ、こいつ見当違いの解釈をしているなとか、
自分だけの狭い枠内でしか捉えられてないなと思ったら、
パラダイムを変える、あるいは広げようとして懸命に話し続けるが、
だいたいウザがられて終わりである。
というか、そこまで粘り強い人がなかなかいない。
以前は、そういう者同士で朝まで論じあったものなのだが…

とは言え、相手がわるいのではもちろんなく、
私の力不足だろうし、話し方が適切ではないのだろう(by my wife)。

いぞれにしろ、保坂氏の考えはよく覚えていて、
またその通りだと思ったからメモもしてあるわけだが、
先の養老氏の話も合わせて、
やはり新しい地平を拓く言語あるいは会話の“鍵”のひとつは、
五感を含めた“身体性”にあることは間違いない。

ともすれば、すぐに記号と堕してしまう言葉、
数字や数式のような機能しか果たさなくなってしまう言語に、
新たな地平までジャンプさせる“力”を注ぎ込むことができるのは、
言語の持つオートマティズムに陥らないように、
常に見張っている“意識性”であり、
それは言語を扱っている者としては、
五感あるいはさらにそれ以上の感覚、
つまり身体性を意識しながら言葉を紡いでいく作業の中にしかない。

そして、“新しい身体性”、“新しい感覚”を拓く大きな可能性として、
実は“合気柔術”があるのである。

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