ちょっと前に書いた記事が「続く」で終わっていたので、
その続きを書く。

何を書いたか忘れているので読み返すと、
年末のNHKのニュースの文句をちょっと言い、
映画『マトリックス』の中の会話を引用し、
人がどういう“思い”を抱いているか、
どういうものに “信” をおいているかということは、
その人と会話をすることでわりと簡単にわかるもので、
だから “ダイアローグ” は重要だよね、
なぜなら人の “思い” が世界を創っているから…
といった内容だった。

これは本当にそう思うわけで、
人の “思い” はすごく大事だ。
ほとんどすべてと言ってもいいくらいかもしれない。

いわゆる “スピ系” の仲間やセクトでも、
人それぞれにバランバランの思いを抱いているかもしれず、
それはさまざまな会話でいろいろな現われ方をしているはずで、
あるテーマではお互いに話が合ったり通じたりしていても、
違うテーマでは何となく違うんだよなあという感じを、
お互いが持つことからはじまり、
それはやがて、

「~は~だから~だよね」
「うん、そうだね、でも、それは~だから~ということもあるよね」
「ああ、まあ、そういうこともあるかもしれないけど、やっぱり~じゃない?」
「そう決めつけることもできないと思うな、だって~が~ってこともあるからさ」
「それはあなたが~だと思ってるから~なんであって、普通は~ってことなんだよ」
「普通って言っても、それはあなたの普通でしょ? いろいろな人の普通があるからさ」
「いや、私の言ってる普通はほとんどの人が普通だと思っていると思うよ」
「どういう普通なの?」
「だから~は~だってことだよ」
「でも、それは~が~だってあなたが決めつけてるだけのことで、そう思う人も何人かはいるってことでしょ」
「違うって、何でわからないかな、じゃあ、まず~があるじゃない、でさ…」

と、延々と続くような会話に発展してしまう場面にときどき出くわすが、
これは “対話” ではない。

いや、正確に言うと、
対話になってくれればいいが、
たいがいそこまでには行かず、
どちらかが自説に執着し、
その対話から、
新しいジャンプ=悦ばしい知、
にいたることはまれだ。

なぜなら、自説に執着するということは、
その自説の範囲内への着地しか、
認めないということだからである。

だから、
あるテーマをめぐって開始された対話を、
どちらかがそのテーマの内容をより深く吟味し、
さらには新しい別の次元に転移させようという、
“思い” を持っていたとしても、
自説に執着する相手の “思い” によって、
新しい次元へといざなってくれるはずの、
“言葉のミューズ” の介入を阻んでしまうのだ。

そうなると対話ではなくなる。

対話や問答というのは、
基本的にお互いがあるテーマを共有し、
しかもここが重要だが、
その共有するテーマに対する“愛”をも共有していないと、
成り立たないものなのだ。

そのあたりのことは、
プラトンの『第七書簡』にも書かれており、
個人的には大いに共感する。

プラトンは書簡で、
哲学的知識を持っているとか、
それを本に書くというヤツは間違ってると、
言及する箇所がある。

その内容が “対話” についても当てはまると思うので、
関係してるところだけをWikiから適宜、
抜粋・編集・アレンジする。

なぜ、間違っているか、
プラトンは以下のように示す。

なぜなら、
それはほかの学問のように言葉で語り得るものではないし、
教える者と教えられる者が生活をともにしながら、
問題の事柄を取り上げ、
数多くの話し合いを重ねていくことで、
「飛び火によって点ぜられた燈火」のように、
学ぶ者の魂のうちに生じ、
それ自身がそれ自体を養い育てていくような性質のものだからだ、
という。

そして、その論拠をも示す。

“あるもの” の “知識” を手に入れる場合は、
まず依拠しなければならないものが3つあるとする。

そして肝心の “知識” はそれら3つのあと、
つまり4番目にもたらされる。
そしてその “あるもの” の “真の実在” は、
その次の5番目にくるのだ。

最初に依拠する3つのものとは、

1 名前(そのものを指す名詞だ)
2 定義(その名詞に対する述語だ)
3 模造(そのものの図象だ)

である。
そしてそのあとに、

4 知識

がくるが、
その知識というものは “魂” の中にあるとし、
それは “知識” “知性” “真なる思い” と言うのである。

たとえば「円」で言えば、

1 名前は「エン」であり、
2 定義は「末端から中心までの距離がどの方向においても等しいもの」であり、
3 模造は「図に描かれたり、消されたりする円」や「丸められてできたり、壊されたりする球像」であり、
そして4は、そうした音声や外的物体ではなく、魂の中にある「知識」「知性」「真なる思い」なのだ。

こうしたことは、
「直線」「色」「よいもの」「美しいもの」「正しいもの」、
「火」「水」といった自然的なものや人工的なものを含む物体全般、
すべての生物、
それぞれの魂に備わる性格、
成すこと成されること全般についても当てはまると言う。

だから、まず最初の3つ、
そして4つ目を何とかして把握しない限り、
5番目の “真の実在” を直接的に把握する “知” にはたどりつけない。

しかも、最初の4つは5つ目の “真の実在” とは異なるもので、
「何であるか」ではなく「どのようなものであるか」を、
言葉や具体例で指し示すものでしかない。

だから、それは反駁もされやすく、
論駁が得意な者であれば、
最初の4つの脆弱さにつけ込まれ、
簡単に操作されてしまうものだと言う。

だからこそ、
信頼できる関係性の中で最初の4つを突き合わせ、
偏見も腹蔵もない吟味・反駁・問答をひとつひとつ、
行きつ戻りつしながら行なうことによって、
初めていろいろな個々の問題についての思慮と知性的認識が、
人間に許される限りの力をみなぎらせて輝き出すし、
優れた素質のある人の持つ「知」を、
同じく優れた素質のある人の魂の中に生みつけることが、
かろうじて可能になる。

そして、
それが哲学(愛知)の営みである、
とプラトンは言うのだ。

要するに簡単に言えば、
お互いに好意と尊敬をもって、
共有しているテーマに関する探究を進めるという、
大前提のもとに行なわれる会話が、
“対話” なのだ。

だからそれは、
途中で唐突にブチ切られたり、
放棄されるはずのないもので、
必ず何かしらの発見や気づきによる成果の確認によって、
次回へ持ち越されたりするような営みなのである。

私は人の “思い” というものに関心があり、
この世はことごとく人の “思い” で形成されており、
その “思い” はどういうもので、
どうあるべきかということが、
重要だと考えている。

どうあるべきかなどと言うと誤解されそうだが、
早い話が、どんな “思い” を持っていてもいい、
というわけではないんじゃないかと思うわけだ。

そしてそれは、
これまでいろいろなサイキックたちや、
その周辺にいる人たちを見てきたからこそ、
まあ、わかるというか、
それなりに考えるところがある。
という話なのである。

そして “対話” ということが、
かなり大事だと考えている。

なぜなら、
対話をすることで、
その人の “思い” というものが浮上してくるからである。

どんなに隠そうとしていても、
あるいは隠すつもりがなく、
自分で気がつかなかっただけだとしても、
自分の中にある “思い” というものは、
必ず現れてくる。

危機的な状況で現われたり、
何てことのないタイミングでふと現われたりもするが、
対話、つまりその人の “言葉” の中から、
現われることが多い。

だから空疎な会話とか、
討論ならぬ口論というのは不毛であり、
百害あって一利もないのだ。

対話を通じてお互いに現われてくる “思い” が、
どういうものなのか。

そこに人類や宇宙の “秘密” があると言ってもいい。

おのおのの “思い” は、
いわゆる “魂” の思いだ。

魂の “思い” は自分だけの“思い”である。
だからと言って、
自分以外の他人と共有できない、
というものでもない。

むしろ共有することのほうが多いはずだ。
共有してこないと、
ここまで人類が続いているはずはないからだ。

でも、
ある意味でとんでもない “思い” を抱いているものもいるわけで、
そしてそれは多かれ少なかれ誰にでもある部分でもあり、
言ってみれば “闇” の部分だ。

その “闇” とは何か?

それが “魂の色” を知ることによってわかってきたり、
ヴァジム・ゼランドが言う “振り子” とも絡んできたり、
その他、いくつもの私が考えるところの優れた書籍、映画など、
いわゆる哲学から芸術にいたる作品に共通しているテーマなのである。

だから “思い” が一番大切で、
“理性” とか理性の相棒でもある “論理” は、
“魂の思い” を確認するだけの手段として用いるようになっており、
理性が論理を武器に権力を振り回し出すと、
“闇” の思うつぼとなる。

理性の権力を鎮めることができるは、
“意識” だけだ。

理性が論理にすがり、
理性が納得できるという理由だけで、
つまり理性が快感を得るためだけのために、
魂の思いに反する言動をとりはじめると、
闇が近寄ってくる。

そのときに、
その不快感を訴えることができるのは、
唯一 “魂の思い” だけだ。

だから、その思いに気づくことができるように、
私たちは “意識的” であったほうがいい。
そうすれば理性をたしなめることができる。

でも、“闇” はしつこい。
闇は基本的には幻のようなものだから、
直接私たちに手をくだすことはできないが、
私たちに幻影を見せることはできる。

さまざまな手練手管を使って、
私たちをいら立たせ、
不安にさせ、
恐怖を抱かせる。

そして私たちは「不満や恨みを口にし、
いとも簡単に憂鬱に捕らわれ、
障害によって全身を緊張させる」。

“闇” は、
私たちの “重要性” と “無意識” を利用して、
私たちをそういう状況に追いやることができる。

だからこそゼランドは、
常に “意識的” であるようにし、
“無意識” の中で眠りこけないようにしなくてはならない、
と言うわけだ。

私たちは普段、
ほとんど “眠っている” のである。

日常的に行なう私たちの “反応” は、
ほぼ自動的/機械的になされることが多い。

そしてその “反応” とは、
“闇” によって巧妙にあつらえられたシナリオに沿って、
行なわれるようになってしまった。

そのシステムは、
全世界を覆いつくそうとしており、
今やほぼ完成に近づいている。

だからこそ、
私たちは眠りこけている場合ではなく、
文字通り “覚醒” しなくてはならない。

起きりゃ、いいわけだ。

そして私たちは、
自分の “魂” と “理性” を一致させ、
自分の本来の目的へと向かわなくてはならない。

 

たくさんの制約や約束ごとは、文字通り魂を箱に閉じ込めてしまう。
制約や約束ごとで頭がいっぱいの理性は、魂を見張る看守となり、魂が能力を発揮することを許さない。

人は振り子(闇でもいい。西塚:註)の世界が要求してくるとおりにふるまうしかない。
それはつまり、不満を表わす、いらだつ、心配する、競争する、闘うということだ。

人のふるまいや思考は、振り子への依存度によって決まってくる。

ヴァジム・ゼランド
『「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン 2』より

 

そして人が何に “依存” しているかは、
対話を通してわりと簡単にわかると、
私は言っているわけだ。

それはだいたいが、
ゼランドふうに言えば、
振り子によって作られたものであり、
本人の本来の魂の思いとは根本的に無関係なものだ。

でも、振り子=闇によって作られたものを通して、
私たちは延々と過去世から何事かの失敗というか、
不本意なことを強いられた結果、
侵してしまった過ちというものを持っており、
それを “業” とか “宿命” と呼んでいるのである。

それを “解消” できるのは、
おそらくこの世、現世しかない。
だから人は何度もこの世に生まれ変わってくる。

と考えざるを得ない。
今のところ。

だから、
スピ系のセミナーの先生でも、
その信奉者たちでも、
何でもいいのだが、
無防備には信じ込まないほうがいい。

いや、信じてもいいが、
それはいろいろな段階を経た結果、
自分の選択として行なうくらいの、
意識性は保とう。

 

もし誰かから、あなたはほかの誰かか、何かの幸せのために苦労する義務があると吹き込まれても、信じてはいけない。

もしこの世界にあるすべては粘り強い努力によって獲得されることを理路整然と説明されても、信じてはいけない。

もし日の当たる場所を求めての過酷な闘いを押しつけられそうになっても、信じてはいけない。

もし身の程をわきまえるようにと言われても、信じてはいけない。

もし「全体へのあなたの貢献」が必要とされているセクトや組織に引き込まれそうになっても、信じてはいけない。

もし、貧しい環境で生まれたのだから、一生そのように生きていかなければならないと言われても、信じてはいけない。

もしあなたの可能性には限界があると言い聞かされても、信じてはいけない。

 

振り子はそんなに簡単にあなたを放っておいてはくれないことを覚悟しておこう。

“所有する決意”(意図のこと。西塚:註)があなたに芽生えてきた途端、振り子は、あなたの可能性が限られていることを思い知らせる状況を設定する。

自分がゲームのシナリオを選択・決定することはできるのだとあなたが感じ始めた途端、振り子はあなたの計画をたたき壊しにかかる。

あなたが安らぎや自信を感じ始めた途端、振り子はあなたの感情を刺激しにかかる。

挑発にくじけたり、自分のバランスを崩したりしてはいけない。

自分の抱えている重要性を最低レベルに引き下げた状態を維持し、意識して行動しよう。

あなたに求められていることは、努力でも忍耐でもなく、重要性をゼロに維持しようと意識的に意図することだけなのだ。

このゲームであなたの可能性を限定するのは、自分自身の意図だけだ。

振り子の可能性を限定するのは、あなたの重要性や意識性のレベルだけだ。

 

次のことを思い出しておこう。

もし私が空っぽの状態なら、振り子は私につかみかかることができない。

もし私がゲームの意味を認識しているならば、振り子は私にシナリオを押しつけることはできない。

もし振り子によってあなたが悲しんだり、怒ったり、バランスを崩したりしたら、どこであなたは重要性のレベルを高めてしまったか、周りを見回して、探してみよう。

バランスを崩した原因となるものへのあなたの対応を変えてみよう。

 

重要性を必要とするのは、あなたではなく振り子であることを認識しよう。

魂を入れる箱はあなたの重要性でできている。

どんなものにも過度に重要な意義を与えないようにしよう。

執着することなく、穏やかな気持ちで自分のものを取ってこよう。

それがまだ手に入らないうちは、意義を与えてはならない。

振り子はあなたががっかりすることだけを期待しているのだ。

もしあなたが何かに怒ったら、重要性を振り払おう。

これは振り子のゲームに過ぎないのだとはっきり理解しよう。

まさにゲームであって、戦闘ではない。

なぜなら本質的に振り子とは、泥でできた木偶の坊のようなものだからだ。

 

そのゲームは残酷であり、人間の弱みにつけ込むように作られている。

重要性につけ込まれたら、すぐに負けてしまう。

しかし、重要性がゼロであれば、振り子は空をつかんで崩れ落ちる。

泥でできた木偶の坊は消え失せる。

ゲームの決まりを知っているという意識によって、あなたは力を得ることになる。

振り子があなたにつかみかかり、バランスを崩そうとしていることに気づいたら、すぐに苦笑いを浮かべ、強い意志を持って重要性を振り払おう。

こうしたことが少しずつ習慣となってくる。

ここまでくれば、あなたは自分の力を実感し、自分自身でゲームのシナリオを決められることを理解するだろう。

振り子とのゲームで勝利を手にしたあなたは、選択の自由を受け取ることになる。

ヴァジム・ゼランド
(同)

 

ほとんど同意できる。

続く

3 thoughts on “闇のゲーム”

  1. 西塚裕一様
    「自説に執着」するということは、身につまされる話だと思いました。
     そこで、私自身、対話においては「新しいジャンプ=悦ばしい知、にいたる」対話を進めることができるように努めて意識的でありたいと思います。
     私には、自分の世界を構築して、それを完結させたいという志向性があります。
     シンプルに表現すれば、自分なりに生きていくということで、誰もが思うことですが。
     それを踏まえて、自分の課題として、他を排除して自己完結しようとする動きが出てきたときには、おっ、ヤバイとつぶやいて、その自分を相手のビジョンに向かって開き直していこうと思います。
     また「新しい次元へといざなってくれるはずの、“言葉のミューズ”」には、ぜひ、お越しいただきたいと思います。
     しかし、そう思っていても、自覚のない自己完結志向性が、無意識のうちに「言葉のミューズ」の来訪を拒否することのないように、その繊細なミューズの声をしっかり聞き取れるように意識的でありたいと思います。
     そのために、自分が抱いているビジョンは、包括的な全体のビジョンの、ほんの一面にすぎないということを、常に自分に言い聞かせていこうと思います。
     さらに、真に自己完結を目指すのならば、相手との「違い」を自分から切り離すのではなくて、その「違い」の中に自分を豊かにする可能性を捜し、それを見出せたのなら、その「違い」の中において自己完結を志向したいと思います。
     そして、相手に対して、自分のビジョンへの安易な同調を求める思いは、真の自己完結を崩壊させる自己矛盾であることに意識的でありたいと思います。
     自己完結志向性、それ自体には、何の問題もないと思います。
     やはり、そこに執着する思いが問題であり、その執着を根っこにした複数の思いのうち、内観の網がかからない思いに引きずられて執着を野放しにする自分のありように対しても意識的でありたいと思います。
     偏った自己完結志向性を見つめ直すプロセスにおいては、やはり「違い」を積極的に評価していきたいと思います。
     その「違い」が、お互いを豊かにしてくれるとしたら、そこには、「複数のあなた」と「私」に調和をもたらす「普遍性を内蔵した、未来を創る可能性」が潜んでいると思います。
     自分の中に閉じこもって自己完結しようとする自分を絶えず乗り越えながら、私は、その可能性を見出し、育てていきたいと思います。
     人間はミクロ・コスモスと言われていますが、宇宙の営みは、多次元的だと思います。
     共通点も多次元的、「違い」も多次元的な宇宙の営み。
     その多層的な共通点が生み出すシンクロニシティと共に、
     宇宙の営みにおいては、「普遍性を内蔵した、未来を創る可能性」を孕む「違い」もまた、多次元運営の妙味として、「複数のあなた」と「私」の、それぞれの一人旅を、多層的に支え合わせながら、宇宙の、終わりのない全体性を、各自の個性を通して、地上の形ある営みに落とし込む創造を展開していると思います。
     好本健一

    1. 好本様

      コメントありがとうございます。

      いろいろお話をお聞きしたいですね。
      今度、そういう場を設ける予定ですので、
      ぜひ、ご参加いただければと思います。

      西塚

  2. 西塚裕一様
    ありがとうございます。
    ぜひ、参加させていただきます。
    皆様のお話を、とても楽しみにしております。
    好本健一

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