今日の朝、いや昨日の朝か、
『宗任問答』の最新版をアップしたが、
収録したのは2日の夜だった。

今回も相変わらずあっちゃこっちゃと私の質問なり、
興味なりが飛んだのではあるが、
最後のほうで宗任さんが、
「今年は情報を積極的に取りにいかないこと」
というような意味のことを話していたのが印象的だった。

佐々木中氏の言葉を思い出したからだ。
佐々木氏は10年ほど前のインタビューで次のように語っていた。

 

(略)この「社会」が、「現在」が、そしてその「現在の社会」を生きている「自分」が「分からない」という漠然とした不安が存在する。

その不安を利用して「知と情報」を所有していると思い込んでいる側が、所有していないと思い込んでいる人々を搾取している状況が確かにあります――「搾取している」とはっきり言いましょう。それに社会学をはじめとした社会科学が大きく関与しているのは否定しえない事実でしょう。

(略)いま、多くの人は恐怖し、怯え、苦しんでいます。「自分」と「現在」が分からないという、「無知」に怯えている。自分が何者なのか、現在はどうなっているのかを知らなければならない、情報を得なくてはならない、それを知らなければ取り残される――そんな脅迫が偏在している。

実は「自分探し」と「現在探し」は同じことです。そこに「それを教え、説明してやろう」という人々がやって来る。搾取する側にいると思い込んでいる「彼ら」は世界をパッケージングされた全体とみなし、それを認識する。つまり「見下し」ます。

しかし、そのような「全体化された社会」を超越論的な自我として認識する「自分」を保とうとする努力は、それ自体が恐怖に動機づけられている。

実は彼らも、自分自身何も分かっていないのかもしれないという不安と恐怖に取り憑かれており、「自分」を、そして「現在」を説明しなければならないという強迫観念にまみれているわけです。だから彼らの多くは常に狂ったように「自分語り」をする羽目になる。

「自分」と「現在」を説明しなければならない、そのためには知を、情報を得なくてはならない。この強迫観念には実は何の根拠もありません。ジル・ドゥルーズは「堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落だ」と言いました。

ドゥルーズだけではなくハイデガーも、「情報」とは「命令」という意味だと言っている。つまり、命令を聞き逃していないかという恐怖に突き動かされて人は動いているのです。命令に従ってさえいれば、自分が正しいと思い込めるわけですからね。

しかし、ここで卒然として「命令など知らない」と言えるはずです。何かを知らなければならない? そんなことは「知ったことではない!」とね。私の現在は私のものだし、私は私のものです。自分も現在もここにあるのです。

どこに探しに行く必要があるのですか? 何を知る必要があるのですか? 情報を、つまり命令を聞かなくてはならないだなんて、誰が決めたのですか?

『足ふみ留めて』――佐々木中著

 

佐々木氏はやはり10年くらい前に『夜戦と永遠』という本でデビューしたが、
当時、私はこの本を読んで衝撃を受け、
その後、すべてではないが、佐々木氏の著作には触れている。

「生を肯定する」思想家だと思ったからだ。

私のことだから幼稚な言い方で申し訳ないが、
ここまで力強く、そしてそう高らかに宣言することを喜びとし、
本を書いている人に久しぶりに会った気がしたのである。

生きることそれ自体をまず肯定すること。

なぜ、生を肯定しなければならないかとか、
なぜ否定してはいけないかということではなく、
ともすれば思考や意識を否定的に傾かせがちなものへの、
まあ、柔らかく言えば “警戒” だが、
私の推測ではおそらく、
もっと激烈な “嫌悪” が佐々木氏にはあり、
私はかなり共感したわけである。
読み間違えていなければだが。

私のようにスピリチュアリティがどうしたとか、
地球外知的生命がどうとか言ってる人間が、
天下の佐々木氏に共感するなどと言えば、
その “業界” の向きからはクソミソに言われそうだが、

先に引用した部分などは、
現在のそれこそスピ系にたむろする人々、
いわゆる “スピリチュアルジプシー” とか、
ネットビジネス関係にすがる人々と、
それを取り巻く(文字通り太鼓持ちが旦那を取り巻くように)、
「知と情報を所有していると思い込んでいる側」が描く構図に、
ほぼあてはまることではないだろうか。

佐々木氏はまた、
フーコーやラカンが誤解されている理由として、

 

知を金銭のように考えているからです。

 

と言う。

 

知を蓄積し、知の元手を作り、利回りを考えて投資し、損失が最小限になるように「情報ポートフォリオ」をつくってバランスよく知を増やしていく――そして老後は安心というわけです。

インフレと恐慌に怯えながらの安心、自分が「所有」している知の価格の暴落に怯えながらの安心ですが。

 

しかし、ラカンやフーコーは、
そうしたこととはまったくかけ離れたところで書いているのだ。
そういう人々には「窺い知ることのできない “何か” に憑かれてこそ、
“書く” ということははじめて可能になる」のである。

本当にその通りだと思うし、
“書く” ということはそういうこと以外にはないと思っていた。
しかし、「知を金銭のように考えている」人間など、
想像したこともなかったが、
実際にはいることもわかってきた。

そういう人間が書くものとは、
いったい何だろうか。

書くものではなくても、
そういう類いの言説とは何の役に立つのだろうか。

情報という名の命令を与える者と、
命令に従うことでのみ安心感を得る者たちとの、
終わりも出口もない関係性を、
無駄に維持するだけではないだろうか。

それはいったいどういう事態なのだろう。

ちなみに、
フーコーはと言えば自分の役割として、

 

自分で考えているよりもはるかにずっと、あなたたちは自由なんだよ、と言ったり、歴史上のある時期に作り上げられたテーマを真実だとか、あきらかだとか思い込んでいる人々に、あきらかであるとされていることなんて、いくらでも批判できるし、くつがえせるものなんだよ、と示してやることにあるのです。

 

と言うわけである。

これはおそらくスピ系で括られるであろう、
ヴァジム・ゼランドやリチャード・バートレットなどが主張していることと、
ほとんど同じことだ。

何が言いたいかというと、
いまだアカデミズムのメニューにある料理以外、
食べたこともなければ探すこともせず、
ましてや自分で作ろうとも思わない人たちが、
アカデミズムの中に多すぎるということだ。

アカデミズムをマスコミという言葉に換えても同じである。

佐々木氏の言葉を借りれば、
フーコーは晩年、

 

真理に到達する条件として知そのものしか求めない「哲学(フィロゾフィー)」と、身体的な訓練、道徳的な修養をその要件とする「霊性(スピリチュアリテ)」のあいだの、それ自体は常識的な区別を強調しつつ、彼はあの高名な「自己への配慮」「生存の美学」を導出していった。

 

のである。

私に言わせれば、
これはビリー・マイヤーがコンタクトするとされる、
プレアデス/プレヤール人が説く「創造と自然の法則と掟」の話と、
ほとんど変わりのないことになってくる。

これはフーコーが影響を受けたニーチェにしてもそうだ。

ニーチェが言う “超人” とは、
キリスト教の言うというか宗教一般でも同じことだが、
自分の内にある “自分” という自明性と、
自分の外にある “神” の理解への不可能性とを対峙させ、

それにともなってもろもろと生じるルサンチマンや、
超越への無防備な憧憬などを育む心性に対する、
アンチとして屹立する存在であり、
今、このときを “生きる” 人間のことを言っているのである。

フーコーがいくらギリシャやローマでなされたことを、
「胸糞が悪くなる」と思ったとしても、
やはり最後は「自己への配慮」と「生存の美学」に魅入られたわけで、
ニーチェと同じく “生” を “生きる” とでも言うしかないような、
ある種のダイナミズムへの同化・一体化を夢見たのではないか。

それは安易なロマンとしてではなく、
一瞬一瞬に世界を構築しては検証していくという、
無限の生の創造に喜びを感じようとすることだ。

だから私は、
フーコーが不毛な議論にまみれたパリでのマルクス主義に幻滅し、
チュニジアの学生やイラン革命にシンパシーを寄せたことがよくわかる気がする。

“思想” と “主体的に生きること” とは、
イコールでなければならないのだ。

冒頭に引用した佐々木氏の発言ではないが、
ゼランドも “予言” に関しては、
「知ったことか!」と言い放っている。

占い師なり予言者によって、
たとえばあなたが将来に受け取る金銭の多寡が決められるなど、
本当に思っているのか!と言うわけだ。

ただ、人類を巻き込むような大惨事の予言となると、
ただではすまなくなるとも言うのである。

そういうふうに精神世界の話では、
言ったそばから矛盾してしまうような言い方になる事柄が多く、
話し方にも慎重さと厳密さが求められるし、
いろいろな文献や実際に取材してきたことを合わせながら、
行きつ戻りつ検証し、間違えながら正しながら、
何度でもあきらめずに、
まさしく “人間が生を生きていくように” 、
進められなければならないのだ。

なぜなら、
人々の「不安を利用して “知と情報” を所有していると思い込んでいる側が、
所有していないと思い込んでいる人々を搾取している状況」が、
今後はますます増えるだろうからだ。

私たちは “意識的” でありさえすれば、
何事があっても、
自分の歩む道くらいはわかるはずなのである。

2 thoughts on “ニーチェの希望とフーコーの愛”

  1.  西塚裕一様
     情報に、過度に依存しないためには、真の自分とひとつになる、という探求が必要だと思います。そこから、今の自分にとって必要な情報と、不要な情報と、ま、楽しみとして、この情報もあっていいかな、という選別が可能になると思います。紆余曲折は、避けられませんが。私の場合、ドジですから、大変な紆余曲折でしたが。しかし、紆余曲折を経て根づいたものは、自分の存在の奥深くまで根を張ります。
     私は、17歳の時に、今の自分は、本当の自分ではないと感じて、真の自分として生きていく出発点に立たなければ、今回の人生は何も始まらないと心の底から感じて旅を始めて、もうすぐ64歳になるのですが、日暮れて道遠し、であります。
     ドジだなあ、と思います。
     そうではありますが、そんな自分を楽しんでいるところもあります。ドジな男には、ドジな旅がふさわしい、といったところです。47年かけて、そんなことしか分からなかったのかと思うと情けなくなりますが。
     まあ、しかし、これが自分なのだから、それでいいんじゃないの、だって、それしか分かってないんだから、という気分で、新しい情報に触れたら、この情報は、果たしてどうなんだろうなあ、と考えています。
     そんな私は、すべての学問に弱いのですが、西塚様の「ニーチェの希望とフーコーの愛」を拝読し、本棚に(フーコー晩年の著作ではありませんが)『言葉と物』があったことを思い出し、きちんと読んでいないその本を改めてパラパラやっていたら「第九章 人間とその分身」の中に、『そしてニーチェがわれわれのために開いたその哲学=文献学的空間に、いまや言語が姿をあらわし、その謎めいた多様性を制御することが必要とされるであろう。』(P324)と書かれているのを見つけました。だからと言って深い考察などいっさいできはしませんが。しかし、ドジに加えて粗忽な性格の私は、「ニーチェの希望とフーコーの愛」を拝読しなければ埃にまみれ続けたであろう『言葉と物』から身の程知らずの読書に一方的な思い込みでもいいから少しでも元気の出る言葉を見出したいと思ってパラパラやっていたのですが、ニーチェについて引用した前のページに『解釈しようと望むとすれば、そのとき語は、語の隠しているあのべつの意味が光をいっぱいにうけて浮かびあがるのを見ることができるように、打ち破られるべきテクストとなるであろう。』という文章を読んで、ドジな旅しか歩めない足取りに何かしら勢いをつけてもらったような気がしました。
     ニーチェの生を肯定する哲学については、これから学びたいと思います。
     五目舎は、生を肯定する、学びと、検証と、創造のプラットホームなのかなあ、と思います。
     ありがとうございます。
     好本健一

    1. 好本様

      コメントありがとうございます。

      >情報に、過度に依存しないためには、真の自分とひとつになる、という探求が必要だと思います。

      その「真の自分」というヤツがくせものですね。
      “真の” とか “本当の” “本物の” という言葉は、
      人ひとりの今生を通して、
      追究・探究していかなければならいくらいのものかもしれませんね。

      人は「真の自分」とは何か、
      ということを探しているのかもしれません。

      「ドジ」と何度も言われますが、
      私もそうですし、それこそみんなドジだと思います。
      むしろドジとも思わず、
      そこそこうまくやっているなどと思っているとすれば、
      ロクなものではないと思います。

      なぜなら、
      そういう考えは必ず何かとの「比較」に基づいていますから。

      それなら、
      自分の基準で自分の判断に基づいて、
      自分をドジと言いましょう。

      ましてや、
      自分の基準で自分の判断に基づいた上で、
      自分はそこそこうまくやっているなどと思っているとしたら、
      そういう人は新しいものや魅力的なものは、
      決して創造できないでしょう。

      『言葉と物』は例の新潮社の高いヤツですね。
      なつかしいですね。

      >五目舎は、生を肯定する、学びと、検証と、創造のプラットホームなのかなあ、と思います。

      私にとっては最大級の励ましの言葉です。

      西塚

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