ここのところ何だか春めいてきて、うれしい。
3月のどんづまりの生まれということもあるのか、これからの季節は気分がいいのだ。

でも、一方では春が一番イヤだという人もいる。花粉症だからだ。春が近づいてくると憂鬱になったりするらしい。

私が毎年この時期になって、ああ、気分がいいと言うと、ああ、気分がわるいと言う。カミさんのことだが。

でも、最近は花粉症の人が少なくなったような気がするんだが、やはり気のせいかな?

今、きのせい、と打って、「木の精」となったのでビビった。木の精のせいで花粉症が減ったのか?

実際、昔、花粉症を発症した石原都知事が、やっぱ杉はけしからんからとか言って、伐るべきだみたいなことにならなかった?

ヘタすりゃ、それでマジに花粉症は減ってんじゃないかな。どこかにデータもあるかもしれないが、カミさんにしてもここ1、2年は、以前より大したことがなかったように思うし。

私はと言えば、結局このまま発症しないかもしれない。

しかし私は、おそらく花粉症のかなり初期の患者なのだ。

小学5、6年のときに目がかゆくなり、たしか健康診断だかでトラホームとか何とかハウスメーカーみたいなこと言われて、眼医者に行けってから行ったら、これはトラホームではないね。と言われた。

ちなみに今はトラコーマと言うらしい。トラホームはドイツ語だ。昭和47、8年はまだ明治に近いのだ。

で、結局、「花粉アレルギー」と言われたのである。ちょっと珍しいとも言われた。

何だそれは?とちょっとひるんだが、同時に何だかカッコイイ気もした。俺は花粉アレルギーなんだぞと、友だちにも自慢した気もする。

春先のことだったかどうかは忘れたが、そのうちに花粉アレルギーとやらはなくなり、ただの酒飲みへと成長していくわけだが、世の中が花粉症で賑わい出したころは、あれはたぶん1980年代初めくらいだろう、まったく思い出さなかったのだが、その後数年経ってから、

あれ、待てよ、俺は花粉症とやらを、小学校のときに経験していたのではなかったか?

と思いつき、以後、酒場では、俺は日本人の花粉症の第一号患者なんだと、ネタにしていたのである。(今でも言う)

しかし、でも、石原都知事は自分が花粉症になって、スギ花粉を撲滅とか何とかって、ずいぶんな話だと思った記憶もある。

結局、政治家は我が身に降りかからないと、わからないわけだ。というか、わかれば即実行・解決する権力を持ってるのだから、早くやれ!ってなもんだろ。花粉症対策だけではなく。

想像力がないのかな。痛い目を見ないとわからないというのは、人のことは言えないのだが、まあ、税金から給料が出て、それも民間のサラリーマン以上の収入で、特権もあり、コネクションもあり、セキュリイティまであれば…わからないか。

これは誰でもそうなのだ。誰だってそういう立場になれば、ほぼ同じようなマインドになるだろう。

私にしてもそうだったから、よくわかる。

でも、権力は腐敗するよ。絶対的な権力は絶対的に腐敗するのだ。なんて有名な格言を持ってこなくても、そうなのだ。

でも、これは原文で言えば,Power tends to corruptだから、断言しなくても、“腐敗しがち” だくらいでいいんじゃないか。

でも、これは本当にそういう傾向があり、権力というか要するに、有無を言わさぬ決定権を持っているということは、いざとなれば、どんなに有意義な助言がはたからあっても、あるいは自分の内側から正しい判断が湧き上がったとしても、退けることができるということだ。

国会でも政党でも官僚機構でも、民間企業でも学校でも何でも、組織があって “長” がいれば、基本的にそうなる。

ひとりの人間のこととなると、それは “理性” のことになる。

理性は常に論理的・分析的・統計的で、自分が一番正しいと思っている。

だから、どんなに親身な助言でも、自分の内側から湧き上がってくる判断でも、最後は蹴散らして、理性が理性の理屈だけで決定しがちになる。

絶対的な権力、つまり論理的・分析的・統計的な判断に強く依存する理性は、絶対的に腐敗する傾向にあるというわけだ。ということは、人が腐っていくのである。

まさにリビング・デッドだが、リビング・デッドといった存在が、欧米のホラー映画に多いというのは、実は興味深いことなのである。

魂は腐らない。

今回の『宗任問答』でもちょっとだけ触れられているが、キリスト教は今後いろいろな意味で見直されるだろう。特に原始キリスト教、初期キリスト教と言われるものには、驚くような教義というか思想がある。

「死海文書」や「ナグ・ハマディ文書」のほか、「トマス」や「マグダラのマリア」による福音書など、まだまだこらから研究されて新しい “事実” が出てくると思う。

これは日本でも「竹内文書」や「富士文書」、「上書」「先代旧事本紀大成経」などなど、先のキリスト教関連の文書もそうだが、すべて “偽書” とされてきたものの、ある意味で “逆襲” がはじまると思う。

「先代旧事本紀大成経」の天皇の描写なんか、ぶっ飛びもんだ。以前、記事に書いたから、知らない人は見てみればいいと思う。

いずれにしろ、何でこんな話になっているのかもう忘れたが、キリスト教と言えば、前回「続く」で終わった記事でも、悪魔の話かなんかに触れたのだった。

そう、だから聖書の中にも悪魔の存在の話とか、悪霊を追い払う描写、占い師や霊能者に関する記述がある。

簡単に言えば、関わるな! と言っているわけだ。

要するに “危険” なのだ。

でも、悪魔や悪霊のようなものがないわけではない。そして、そういう悪魔や悪霊を追い払う人がいないわけでもない。そういう技術というか方法がないわけでもないのである。聖書にもそう書いてある。

たとえば、旧約聖書の「申命記」第18章では、モーゼがイスラエルの民びとに、

 

あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。また占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。

 

と言う。

つまり占いをしたり、まじないをしたり、霊媒師になって霊に何かを聞いてはいけないということだ。なぜなら、

 

主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。そしてこれらの憎むべき事のゆえにあなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。

あなたが追い払うかの国々の民は卜者、占いをする者に聞き従うからである。しかし、あなたには、あなたの神、主はそうする事を許されない。

 

ということで、要するに、エジプトの奴隷だったあなたたち(イスラエルの民)を救ってくれた、あなたたちの神、主は占いとかまじないとか霊媒師というのが嫌いで、あなたたちがこの地に住めるように、主が先住民を追っ払ってくれたのも、先住民たちがそういうことをしていたからだと言うわけだ。

まあ、旧約聖書の主は、けっこうおっかないことばかり言うからアレだが、だってほかの神を崇めたりすれば、殺してしまえというわけだし、何だかんだと言っては、規律を乱すヤツは殺してしまえとけっこう平気で言う。そうすればみんなビビッて従うだろうと。

ちなみに18章には “預言者” に触れるくだりもあり、モーゼはイスラエルの民びとに、主はあとで自分みたいな預言者を遣わすって言ってたから、みんな従うように。従わないと罰が当たるよ、と言う。

 

ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない。

 

とも、主は言うのだ。

つまり、その預言者にしても、自分勝手にテキトーなことを言うようなら、殺してしまえと言うわけである。

怖いですね。

それを聞いた民びとたちも、えーっ!聞いてないスよ。それにどうやって預言者の言うことが、主の言葉かどうかを見分けるんスか?と思うわけだが、

 

もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。

 

何のことはない。言ったことが当たらなければ、ニセ物だと言うのである。

何だかブラジルのジュセリーノみたいな話になってきたが、あれは “予言者” か。

でも、ここは逆に言えば、本当の預言者の言うことは、ハズレないということでもある。

また、新約聖書の「使徒行伝」では、悪霊を追い出す有名な部分がある。

「使徒行伝」はペテロとパウロの布教活動ぶりが書かれているが、第16章にパウロが女奴隷と遭遇する場面がある。

 

私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。

幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。

 

これはパウロがピリピに行ったときのことで、ピリピは今のマケドニアにある都市だ。昔もマケドニアか。例のアレキサンダー大王のお父さん、ピリッポスにちなんで名がついた。

そこに行ったときに、というかパウロは聖霊や死んだイエスに、あっちに行けとか、そこは行っちゃダメだとか、ピリピに行ったときのように、マケドニア人の生霊みたいなのが現われて、私たちを助けてください的なこととか、いろんなことを言われてあっちこっち行くのだが、

その姿というか導かれ方は、いわゆる現代のスピ系の人たちのツアーなどで、直感的に「あ、こっちかも!」「あそこの洞窟が気になる!」と言ってはみんなで盛り上がってる感じに似てなくもない。

いずれにしろ、そうひらめいたり、感じたり、場合によっては “声が聞こえてきた” からそうするのだろう。

だが、そのひらめきや声が、どこからくるものなのかが最重要なのだが…

ともかくパウロの前に女奴隷が現われた。その女奴隷は何かしらの霊から力をもらってるらしく、占いをしていろいろと当てることができる。

人々も女奴隷を頼ってくる。女奴隷の主人はその金で儲けている。

そして女奴隷はパウロたちのことを、「いと高き神のしもべたち」だと言って、つまり本当のことを言うのである。

パウロも初めのうちはほっといたが、だんだんウザくなったのか、何だかわからない霊を追い出したわけだ。

金儲けがふいになったので、女奴隷の主人はパウロの罪をでっちあげて訴えに出て、パウロたちは後に牢屋に入れられる。でも、そこで奇跡が起こったりもする…

聖書には霊を追い出す場面があちこちあり、イエスもガリラヤ中を歩いて、病人や悪霊に取り憑かれた人たちをガンガン癒していたので、シリアとかヨルダンからどっと人が押し寄せてくる。「マタイ伝」第8章でも、

 

夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。

 

とあるように、イエスはその力で大量の悪霊を追い出しているのだ。

でも、さすがにイエスレベルとなると、聖霊か悪霊か見極めるなどという問題ではなく、悪霊のほうから身元を明かしてしまうようだ。同じマタイ伝にも、

 

ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。

すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」

 

とあるように、悪霊すらもイエスを「神の子」と言い、何で俺たちの邪魔をするんだと言わんばかりに嘆く。ここにある “まだその時ではないのに” という部分も興味深いのだが、それはまあいい。

で、このあと悪霊たちは、追い出されるのはしょうがないが、せめてあの豚の群れの中につかわしてくれと懇願し、イエスに「行け」と言われて豚に入るが、そのまま豚の群れは海へとなだれ込んでいき、死んでしまうのである。

イエスは悪霊を人から追い出したあと、いったいどこへ葬っているのか? 少なくとも悪霊たちが、豚の中に入ってでも逃れたかったところだろう。

イエスの霊能力と安直には言えないパワーは、今の聖書を見る限り最強の部類で、その力を人にも授けることもできた。

「マルコ伝」第16章には、復活後にイエスが11人の弟子たちの食卓に現われ、自分の復活を信じなかった不信仰をなじり、全世界に福音を伝えろと言う場面がある。そして、福音を信じて洗礼を受けたものには、

 

このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。

 

という力が備わると言うのである。つまり、イエスの名のもとに悪霊を追っ払うワザを使えて、蛇をつかんでも毒を飲んでも害を受けず、病人を癒すことができるというわけだ。

このWIKISOURCEの口語訳はちょっとわかりにくい。「新しい言葉」って何だ?ってことだが、一説には “異言” といった解釈もあるようだが、これは普通にいろいろな国の言葉でいいだろう。

「へびをつかむであろう」と言われれてもねえ…
蛇をも平気でつかむことができるだろうということでしょう。

要するに何にも害され得ないし、逆に害を取り除くことができると言いたいのだろう。

まあ、ともかく聖書には、普通に聖霊や悪霊のこと、霊能力のようなこと、そして霊能力のようなものを人にも授けられること、さらには預言者のことや、その見定め方などが書いてあるのだ。

ちょっとキリスト教というか、聖書に深入りしすぎたきらいもあるが、私がこれまで取材してきたスピ系関連の出来事は、こうした聖書の中に出てくる話とほぼ相似象だったりもするわけだ。

ましてや、また長くなるのでもう書けないが、ビリー・マイヤーとかヴァジム・ゼランドが説く “法則”、コーリー・グッドやその他の、私が気になる “地球外知的生命” との関連、特にプレアデスまでを持ち出せば、聖書はとんでもなく興味深いことになってくるのである。

それでなくてもニケアとかコンスタンチノポリスとか、公会議前の原初キリスト教の教義ともなれば、グノーシスやオルフェウス、ミトラ、ゾロアスター等々、古代オリエントからさらには、先ほどの日本のいわゆる “偽書” にまでいくのである。おそらく。

だから、今あるいろいろなオカルト現象や、ちょっとした霊感商法でも詐欺でも何でもいいが、いわゆる“スピ系”に関しては、そこらへんのことを照合的に判断していかないと、ものすごく狭いところでドツボにはまることにもなるのである。

続く

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