今のご時世、個人情報をさらすことはリスクが大きい。
と言われている。

たしかにそうかもしれない。
しかし、個人情報を伝えるということは、「信頼」を与えることでもある。
「信頼」はハートを開く。と宗任さんは言う。ハートを開いたぶんだけ、宇宙エナジーを受けとれる。

宇宙エナジーって何だそりゃ?という向きもあるかもしれないが、「愛」でもいいし、「創造との一体化」と言ってもいい。

個人情報を伝えないことは、宇宙エナジーを受け取るブロックともなる。闇も入ってこないかもしれないが、光も入らない。

そして、そうしたブロックは自分に閉じこもることでもある。

しかし、やがて自己の内側からだんだん闇に侵されてしまう。

「マクベス」ではないが、外なるものは内、内なるものは外であり、「エメラルド・タブレット」ではないが、下にあるものは上なるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとしなのだ。

きっかけは外部であれ、内面であれ、光を見、感じ、一体になること。

おそらくそこからしかはじまらないし、「創造」が創造たるゆえんもそこにあり、創造とはそういうことなのだと思う。

闇はあくまで光の影であり、光の影にとどめておくようにすることだ。

闇を見つめ、闇に逃げ、闇と一体化しないこと。

しかし、闇と一体化した魂が徒党を組みはじめると、けっこうしんどいことにもなる。

そもそも光と闇は共存できない。闇はあくまでも光の影だからだ。

光が主役であり、本来、光しかない。光がなければ、そもそも存在がない。光自体はあるが、闇自体はない。

闇は光があることで必然的に現われる影なのである。

ガキのころでも、祭りの夜などは、薄っ暗い屋台の店の明かりに魅せられた。夜のしじまに灯るボーッとした明かりに惹きつけられたりしたが、それでも淡い、あるいは妖しい明かりであり、光なのだ。

まったき漆黒の闇に向かって進んでいく人はいない。そもそもそんなものは存在しない。

私たちが一応、存在を認めてあげてるから、一応存在するかのように存在しているのであって、んなものはいつでも追っ払えるのである。

でも、影たちもバカじゃないから、本来は自分たちの全幅のアイデンティティーを光に依存してるはずなのに、一丁前に光をだましにかかる。

もともとはそんな子どもじみた小細工やこけおどしに取り合っていなかった光の中にも、影のしつこい攻勢に興味を示すおっちょこちょいの光も登場し、影も自尊心をくすぐられ、そうした光の中でエラソーに君臨しだす。

早く人間になりたーいという妖怪人間たちみたいなものだが、やってることは正反対だ。

そして影たちは、一緒に徒党を組んでいる本来は光であるものたちの勘違いした崇拝と、世界の光たちを困惑させ、迷わせ、不安にさせ、恐怖に陥れて得るエネルギーを唯一の糧として「生きて」いるのである。

パウロではないが、悪霊よ去れ!といえば、一瞬で悪霊は尻尾を撒いて逃げるし、というか掻き消えるし、ゼランドではないが、重要性を取っ払えば、一瞬で泥人形は地に崩れ落ちるのである。

でも、掻き消えてはまた新しいのがやってきたり、崩れ落ちてはまた新しく作られたりと、まるでタイガーマスクの虎の穴かエヴァの使徒のように次から次へと「悪役」がやってくるようになってしまった。

そして、そろそろいい加減、茶番劇に幕を降ろそうかという段階になってきたようで、じゃどう降ろすのかってことなわけだ。

私としては、「同じ役者」で「違う劇」をやればいいだけだと思うのだが……

要は、その「脚本」をどうするかだ。

18 thoughts on “茶番劇の終演?”

  1.  闇とは光の変形、または光が少ない状態で、光と対立するものではないと
    思います。闇を敵視して争う心境の方が多いようですが、そうすると永遠に
    いわゆる闇との戦いが続いて(未開発の星は無数に存在するので)輪廻から
    解脱できない気がします。

  2. マキ様

    コメントありがとうざごいます。

    「対立」という意味にもよりますが、
    少なくとも光と闇は、同等・同質の存在としては対立しないと思います。
    闇はあくまでも光の影だからです。

    この世は、つまり3次元でもいいし、時空間世界でもいいですが、
    この世においては光と闇がないと認識できません。

    もし一元的な世界があるとすれば、それは光でも闇でもどちらでも同じというか、
    どちらが光で闇かわからないと思います。

    私たちはこの世にいるので、光と闇を認識できるわけです。
    そして光には光源があるはずです。
    その光源が「存在する」という「意志」「思い」のようなものだと思っています。

    この世のものはみんな、
    存在するとう思いで成り立っているのではないでしょうか。
    そういう思いが世界を創造しているのだと思います。

    そうした思いの影、つまり闇は、
    創造するということとは反対のことになります。

    だから、闇を見つめることは、少なくとも創造には反します。
    つまり、存在しようとあり続ける思いとは反対の思いになります。

    そういう意味ではあるレベルの次元においては、
    どうしても二項対立的な「対立」の概念は必然としてあります。
    対立の概念がなければ、それを超える概念も創造できません.

    >闇とは光の変形、または光が少ない状態で、

    闇が「光の変形」というのはよく理解できませんが、
    「光が少ない状態」というのはわかります。

    これは、そもそも「闇」とは何か?
    という話になってきますが、
    私が簡単に流したように「闇は光の影である」、
    ということではすまなくなってきます。

    「無」の概念とも絡み、難解な領域に入っていくので、
    これはもはや高次元の知的存在と一緒に学んでいくしかないわけです(笑)。

    今度、「闇は光の変形である」ということを、
    もっと詳しくお話しいただけないでしょうか。
    興味があります。

    西塚

    1. 光の反対は、光を吸収する物です。黒い光線のことを意味します。
      黒い光線を闇と言うのでしょうか?明るい所を暗くする光線があるのでしょうか?

      闇とは光0%か極僅かの光で、明るい所にいる者が認識しているにすぎない。
      最も低く暗い所にいる者には光しか見えない。“高慢”な者には闇が見える。
      闇とか影とか在ると言う者は“未熟者”と言う事です。

      光の変形というより光量の違い。性質の違い。波長の違いと言う事です。
      正確には可視光線の微弱なところが闇です。
      可視光線だけでは無い『光』は宇宙に満ちています。
      とてもシンプルな意味です。

      見えている物しか信じないのでしょうか?
      ここまで書かないとだめですか?

      1. れもん様

        コメントありがとうございます。

        >光の反対は、光を吸収する物です。黒い光線のことを意味します。

        興味深いご意見です。
        光の反対は光を吸収する物、黒い光線とはどういうものなのか。
        黒という「色」のことでしょうか。

        たしかに、この世に7色あるとすれば、
        赤い色のものは赤以外の色を吸収するものということです。
        つまり、黒は7色をすべて吸収するものということですね。
        その黒色のことを「黒い光線」と呼んでいるのでしょうか。
        それとも黒い光線というものがあるのでしょうか。

        >正確には可視光線の微弱なところが闇です。

        その通りです。
        私もその意味において比喩として使いました。

        >可視光線だけでは無い『光』は宇宙に満ちています。

        これもその通りです。

        >見えている物しか信じないのでしょうか?

        いいえ。
        これまでの私の記事を読んでいただければわかるかと思います。
        むしろ、見えないもののほうを大事にしています。

        >ここまで書かないとだめですか?

        いいえ。
        もっと書いてほしいと思います。
        少なくとも私にはよくわかりません。

        光と闇に関して先のコメントで私が言ったのは、
        「存在する」という「思い」のようなものを「光」とし、
        その反対のものを「闇」としたわけです。

        そして私たち、宇宙が存在しているということは、
        存在しようという意志があったから存在してると思っています。
        だから「光」ありきで、そのあとに光の影として「闇」が存在できる。
        「作用」「反作用」とも似ています。

        最初に「作用」する「思い」があり、
        「作用」した結果として同時に「反作用」も起こります。
        作用がなければ反作用はありません。

        光がなければ闇もないのです。

        だから光がある以上、闇もありますが、光があり続けるには、
        つまり宇宙が存在し続けるためには、
        存在し続けるという思いがあり続けることが必要で、
        それは闇を見つめることではなく、
        光であり続けるという思いがあり続けることだと思います。

        私は光と闇が対立しているとは思っていません。
        闇は光の影だと思っているわけです。

        そして意識的であり続けないと、
        光に向いている顔を無意識がぐいと闇に向けることがあるわけです。
        無意識に入り込むものがあり、機をうかがっているのでしょう。

        そういう情報があるということです。

        西塚

        1. 私の話は2点あった。わかり憎くて申し訳ありませんでした。

          1.貴方の記事本文の後半は、『影たち』が存在している
          だから『茶番劇の終演?』なのかと書いている。

          こうも書いている
          >使徒のように次から次へと「悪役」がやってくるようになってしまった。

          >これは、そもそも「闇」とは何か?という話になってきますが、
          私が簡単に流したように「闇は光の影である」、
          ということではすまなくなってきます。

          あなたは影たちが存在していると断言し、茶番劇と表現した。
          茶番劇と認識した段階で、黒いものがあると言っているのと同じ。
          そう思わないか?

          あなたはこう書いている。
          >光がなければ闇もないのです。

          つまり闇が在る!と言っている。
          光と闇の間に、境界線、何らかの判定、ジャッジ、葛藤がある。

          私は境界線もジャッジも無い。
          葛藤も無い。善悪は無い。
          αでありωであり、それは成ったと認めている。
          創造は始まった時に終わっているからだ。

          貴方は映画を見て終焉まじかに茶番劇が終わると言うのか?
          貴方は映画を見て「悪役」は悪い奴だと思っているのか?
          貴方の人生も茶番劇なのか?

          大筋はブループリントとか
          カラーチャートで決まっていただけだろう。

          2.闇は光の変形である

          貴方は、こう書いている。
          >闇が「光の変形」というのはよく理解できません。
          これは、そもそも「闇」とは何か?
          私が簡単に流したように「闇は光の影である」、
          ということではすまなくなってきます。

          闇は光の少ないもの「見えるもの」ではすまない…
          しかし貴方は愛とエナジーを知っているとも言う。
          でも「光の変形」は知らないと言った?。なに?

          「闇」は光の少ないものと自ら結論付けているのに…
          何か存在するものだ、影ではすまないと貴方は言う。
          読んでいて矛盾しないか?
          いいのかな?

          追加。

          貴方はこう言った。
          >「存在する」という「思い」のようなものを「光」とし、
          その反対のものを「闇」としたわけです。

          しかし私はこう思うのです。
          悪い奴ら、反作用の人たち闇では無い。彼らは影ではありません。
          彼らも在りたいとする光があるから生きており、在るのです。
          貴方にとって彼らが不都合だから影だと例えているにすぎない。
          貴方の知識や常識で光の反作用と決めつけているだけです。

          あなたは濃き酒を混ぜることの天才である。

          1. れもん様

            コメントありがとうございます。

            私の理解力が乏しいせいか、
            何度読んでもご主旨がよくわかりません。

            私の記事が私の力不足でいろいろと誤解を与えているか、
            あるいは間違ったことを書いてしまっているのかもしれません。

            「闇」に関する私の意見が苛立たしいのではないか、
            と推測しています。

            私が記事やほかの人のコメントで触れたことは、
            闇は光の影だと思っているということです。

            そして、
            まず光があるということ、
            光があれば影があるということ、
            その影を私は闇と呼んでいるということ、
            光は存在しようとしている思いのようなものではないかということ、
            闇はそういう思いとは反対のものではないかということ、
            だから、存在するためには(つまり世界、宇宙が在るためには)、
            光であり続けることが大切なのではないかということ
            そのためには闇に目を向けてばかりいてはいけないのではいかということ、

            そのくらいのことです。

            その先の話もしたいのですが、
            今、いろいろ話が足踏みしているという状態かと思います。

            闇とは何か、
            に関しては、その先の話になるわけです。

            お読みかどうかわかりませんが、
            闇とは何かについては、
            ヴァジム・ゼランド氏の提案を参考にずいぶんと記事にしてきました。

            私なりに簡単に言えば、
            私が先ほどから言っている「闇に目を向ける」、
            「闇を見つめる」という表現は、
            そういうものに関心を向けさせるある意味で「外部的な操作」があり、
            闇に目を向けないようにするには、
            もっと言えば、闇に関心を固定させないようにするためには、
            まずその仕組みを知る必要があるのではないかということです。

            それはゼランドに限らず、よく記事でも取り上げているマイヤーや、
            グッド、あるいは「日月神示」でもはっきりと言及されています。

            そういう先人たちの知恵にも学びながら、
            同じようなことに関心がある人たちとともに、
            私は探究していきたいと思っているわけです。

            でも、この話はこのコメント欄にはふさわしくないですね。
            単純にスペースや発信の場として狭いからです。
            だから、これは日々のブログ記事や3月31日に立ち上げる「場」、
            それから定期発信する予定の媒体で発表していきます。

            私は性格上(たぶん)、人の意見を無視したり、
            いなすことができないので、私なりに真剣に取り組みますが、
            このコメント欄ではやはり限界がありそうです。

            今後は、もしコメントがあれば、
            できるだけ話し合っていきたいと思いますが、
            私の判断で、コメント欄を読んでいるかもしれない方々にとって、
            有意義であろうと思われることに対してのみ返信します。

            もちろん私の取捨選択ぶりが問われるでしょうが、
            その点に関しては私を信頼していただくしかありません。

            西塚

  3.  私は抽象的な議論を他人と交わす事には全く興味がありません。
     私が知りたい事はですね、つまりイルミナティとかを闇の勢力として
    それと戦い続けるという行為(相手が誰であろうと戦い)から何時脱却
    できるのかという事ですよ。個人の魂が。
     だいたい大自然においても食うか食われるかの戦いが毎日繰り広げら
    れており、そういう仕組みに作ったのは貴方がたが「愛」と定義して
    いるところの神です。

    1. マキ様

      コメントありがとうございます。

      たしかに概念操作自体が目的になってしまう議論はありますね。
      だいたいが不毛です。
      でも一見、不毛に思われる議論から新しい地平が現われるときもあります。

      古今東西の哲学者や文学者をはじめ、○○学者と言われるような人たちは、
      膨大な抽象的な議論を経て、興味深い論説、論考、作品を創り上げてきたのだと思っています。

      だから、一概に議論自体は否定できません。

      >私が知りたい事はですね、つまりイルミナティとかを闇の勢力として
      それと戦い続けるという行為(相手が誰であろうと戦い)から何時脱却
      できるのかという事ですよ。個人の魂が。

      同感です。
      私も知りたいと思います。

      >そういう仕組みに作ったのは貴方がたが「愛」と定義して
      いるところの神です。

      「貴方がた」というのは誰のことでしょうか。
      私と宗任さん? 私と高島氏?
      私とこのコメント欄に投稿いただいてる方々?

      よくわかりませんが、
      少なくとも私は「愛」という言葉はよく使いますが、
      まだ定義をしたことがありません。

      「愛」の定義に関しては、
      もうずいぶん前から私の個人的なテーマのひとつでもあり、
      さんざん試みてきました。
      ついこないだも考えていたくらいです。

      記事にしようか迷ってもいましたが、
      私なりの定義はできつつあります。

      「愛」に限らず、言葉を厳密に考えていくと、
      私たちはそれぞれがそれぞれなりにあいまいに定義した言葉によって、
      日々、話し合っています。

      互いに相手の存在を認め、尊重し、「愛情」を持っている場合は、
      そうした話し合いにも問題はありません。
      問題は、お互いの関係性がこじれたときですね。
      その理由やきっかけはいろいろあるでしょう。

      そういうときに、普段は何気なく使っていた言葉が、
      やおらざらついてきて、
      「それはどういう意味なの?」
      とケンカになったりするのです。

      となれば、争わないための工夫としては、
      ひとつここでヒントが出てきますね。

      私もどこまでできるかわかりませんが、
      マキさんと同じような思いがあるので、
      私なりに模索しているのです。

      ましてや「神」の定義ともなれば、
      各宗教も絡んできますし、また大変です。

      最終的には、そういうことを探究していく者が個人であれ複数であれ、
      同じ目的、目標を掲げた者同士が互いを尊重しながら、
      探究していくしかないと思っています。

      だから、枝葉末節と思われるようなことへのこだわりなども、
      そうした目的、目標にかなうためという限りにおいて、
      許容されると私は思います。

      西塚

  4. >はっきりと言及されている。
    言及されているのに、まだ探求するのか?
    生きることより“仕組み”が大切だろうか?

    貴方は生きることより、探求が人生の目的だ…
    賭してまで仕組みを探求するべきだと言うのか?

    残り少ない余生を探求三昧にするなんて天才のすることだ。
    私なら、恥じること、感謝すること、改心すること、
    高慢を取り除くことに全力を捧ぎ永久(とわ)を選ぶだろう。
    理屈は人を救わないからだ。

    探求とは、無と空や悟りに対局する。
    悟りたければ、書棚の知識を捨てなければならない。
    ちがうか?

  5. れもん様

    ご質問にお答えしましょう。

    >言及されているのに、まだ探求するのか?

    はい。
    ちなみに私は漢字の表記にも多少こだわりがあり、
    探求ではなく、探究と言っています。

    >生きることより“仕組み”が大切だろうか?
    貴方は生きることより、探求が人生の目的だ…
    賭してまで仕組みを探求するべきだと言うのか?

    私の場合、
    はからずも「探究」することが「生きる」ということになっているようです。
    子どものころから不思議に思っていることを探究してきました。
    自分の根幹にある欲望なのかもしれません。

    ちなみに探究の中には、なぜ、この酒はうまいのかとか、
    なぜ、このつまみには冷酒より熱燗が合うのかとか、
    この書籍は出すべきかどうかとか、
    その他もろもろのことが入ります。
    私にとっては生きることは探究なのかもしれません。

    でも、探究自体が目的であるとか、探究するべきだとは、
    一度も思ったことはありません。
    ましてや人に強要したり、勧めたこともありません。
    同じようなことをしている人とは、
    自然と仲間にはなっていきますが、
    これは普通に友人ができるということです。

    「生きる目的」に関しては、
    私なりの考えがありますが、いずれ記事にも書くでしょう。

    その他のれもんさんのご意見に関しては、
    それはれもんさんのお考えとして大切にされたらよいかと思います。

    理屈自体は人を救わないかもしれませんが、
    ある人物の物語、論考、考えなどは人を救うことがあると私は思います。

    私は悟りたいと思っているわけではありません。
    いろいろ知りたいことがあるだけです。

    れもんさんの口調から察するに、
    何か相当、いら立ちとか怒りがあるように思うのですが、
    気のせいでしょうか。

    少なくとも互いを尊重して対話を進めていくようには、
    私には感じられません。

    これまでメールにコメント承認の知らせがくると、
    無条件に承認していたのですが、
    先にお伝えしたように、
    コメントを見る方々にとって有意義ではないと私が判断した場合は、
    残念ですが承認しないことにします。

    この欄は、
    誰か個人の生き方や考え方を論評したり、
    批判するスペースではないと考えるからです。

    私の記事やイベント、携わった書籍や雑誌、ムックなどの媒体に関連して、
    何かご意見をいただいたり、情報を提供していただき、
    それに対してさらに関心のある方々のご意見を掲載し、
    何かしらご覧になる人の参考になればいいという場所です。

    知識や情報の交換の場です。

    少なくとも攻撃的な感情は抑制して、
    真摯な言葉遣いができるくらいの自制は必要かと思います。

    西塚

  6.  西塚裕一様

     私は、ヤドカリです。(また、いきなり、何で「ヤドカリ」なのと思われるでしょうが、一応、筋の通った話にしようと努めています。)

     ヤドカリとは、「宿借り」です。「宿」とは、五目舎です。正確には、「五目舎様」でありますが、リラックス・モードを採用させていただいて「五目舎」と表記させていただきます。

     ヤドカリは、宿を、お借りしていますので、宿を貸し出してくださっておられる西塚さんに、一宿一飯の恩義を感じ、ご恩返しを(拙いレベルではありますが)心がけています。

     と、言いますのは、マキさんとれもんさんの投稿を読ませていただいて、
     うん、一理ある、と思った箇所があったからです。

     マキさんは、闇を敵視しないで、輪廻からの解脱を願っておられるようで、そこは、共感できました。

     れもんさんは、ワイルドな語り方ではありますが、「貴方は映画を見て「悪役」は悪い奴だと思っているのか?」と書いておられたところでは、

    「いえいえ、私は、一口では言えませんが、そうは思っておりません」と心の中でつぶやきましたので、そこは、共感できました。

     マキさんが、「闇の勢力」と「戦い続けるという行為(相手が誰であろうと戦い)から何時脱却できるのか」と問いかけておられたのは、切実な問いかけだと思いました。
    「個人の魂」とは、私の魂ですし、あなたの魂ですから。

     そのマキさんの問いかけが、「抽象的な議論」ではないとしたら、
    (私は「抽象的な議論」ではないと思います)
     それと、まったく同じ意味で、西塚さんのメッセージもまた、「抽象的な議論」ではないと思います。

     それならば、お二人は、共に有益な議論を展開しておられるということになります。

     また、れもんさんの
    「私なら、恥じること、感謝すること、改心すること、 高慢を取り除くことに全力を捧ぎ永久(とわ)を選ぶだろう」
     というお言葉には、
     掘り出し方次第によっては、お互いの心を豊かにする「宝」が、そこに埋もれていると感じました。

     コメントを投稿するという振る舞いは、「宿」にとめていただいて、なんと、「食事」まで提供していただける有り難さと同等のものだと、ヤドカリは、思っております。

    「食事」とは、五目舎が提供してくださっておられる情報群の全体が、宿主でいらっしゃる西塚さんのトータルな思いによって調律し直された「波動空間」のことです。

     その波動空間の中で、私たちは、出会っています。

     ヤドカリにとっては、その出会いは、薄幸な人生に対する貴重なサプライズです。

     マキさん、れもんさん、そして皆様、浮き世の荒波に揉まれてくたびれたヤドカリにとって、五目舎という旅籠屋(はたごや)は、貴重な旅の励ましをいただける空間です。

    (「旅籠屋」を、私は、「食事つきプラットホーム」という意味で用いました。)

     これからも、和気藹々モードで、ヤドカリに、貴重なお話を、お聞かせくださると嬉しいです。

     好本健一

    1. 好本様

      コメントありがとうございます。

      いただいたコメントにはきちんと返そうと心がけてるのですが、
      いろいろとご不快な思いをさせてしまうこともあるかもしれません。

      好本さんの言葉をお借りすれば、
      おんぼろ宿といったところでしょうか。

      それでもできるだけ清潔に、毎日の掃除を怠らず、
      安くてもヘルシーでうまそうな食材を仕入れていこうと思っております。

      西塚

  7.  西塚裕一様

    「光が主役であり、本来、光しかない」。
     地上の旅は、そのビジョンを実感し、そのビジョンを生きる旅。
     コケるとしたら、光の中でコケるので、光が、しっかりサポートしてくれる。
    (もちろん、コケているのは私です。以下、西塚さんのお言葉を手がかりに、光をめぐる、私の夢想を展開します。)

    「きっかけは外部であれ、内面であれ、光を見、感じ、一体になること。」
     では、光は、どこに存在する?
     答。
    「光がなければ、そもそも存在がない。」
     ということは、
     自分という存在が、今ここに生きているということが、そのままで光が存在しているということ。
     なんとラッキーな人生。
     ただし、
     それは本質レベルで。

     では、現実レベルでは?
     自分という存在が、今ここに生きているということが、そのままで光が存在しているということを、
     自分の旅を通して実感し、実体験していくということ。
     そのチャレンジが、地上の旅の醍醐味。

     自分という存在が、本質レベルで光そのものなら、
     自分が意識する、あらゆるものも、本質レベルでは光そのもの。
    「そもそも光と闇は共存できない。闇はあくまでも光の影だからだ。」

     では、試練や不条理とは、何?
     より深く、より豊かな光の中に飛び込むキッカケ。
     では、闇とは、何?
     より深く、より豊かな光を体験する手がかり、プロセス、反面教師、あるいは自分自身から切り離すべきもの、もしくは捨てることによって創造を進展させる視野を拡大してくれるもの。

     光とは、普遍。
     普遍とは、あまねく存在すること。
     光は、多次元のあらゆる領域に、あまねく存在し、
     調和を、あらゆる次元に、あまねく顕現させるために働いている。

     かつて、本質の光は創造した。
     潜在意識をまとい、潜在意識界を創造した。
     顕在意識をまとい、肉体をまとって、顕在意識界(物質界)を創造した。

     普遍とは、変化、変滅しない本質。
     その一方で、地上は、変化、変滅する相対世界。
     なぜ、本質の光は、相対の世界を創ったのか?
     結論。
     そこで、自分が学ぶために。
     自分が創った相対の世界を、どのようにしたら普遍の世界に接続できるかを、学ぶために。
     そのようにして、自分の、創造責任を果たすために。

     本質の光は、みずから光を発して創造する。
     肉体をまとった光は、本質の光が発した光をいただいて創造する。
     そこには、タイム・ラグが存在する。
     意識の緩みも出現する。
     顕在意識が、創造の光を、自分で発したと錯覚した時に闇が生まれる。
     だから闇は、錯覚。
     本質的に存在するものではない。
     本質的に存在するものは、普遍性を宿した本質の光のみ。

     顕在意識は、どのように働こうとも不完全な働きしかできない。
     その自分を包み込んで導いている本質の光は、完全。
    (そこに、今ここの旅のすべてを賭けている類推です。)
     不完全な顕在意識は、本質の光に包み込まれて初めて存在できる。
     顕在意識が、自分を完全だと思ったら、それは錯覚。

     地上は、変化、変滅する世界。
     その相対界にリアリティーを与えるのは、本質の光。
     そのもたらし方は、地上の物理法則に則って、
     変化、変滅する世界に普遍性を接続する。
     それが本質の光の「地上バージョン」になる。
     ただし、それは、地上のものなので、変化し、変滅する。
     しかし、本質の光に接続された要素は、地上で学び取られた普遍性の成果として、相対界の別の相である潜在意識に保管され、様ざまな本質の光たちに閲覧され、本質の光の宇宙創造をより豊かなものにしていく。
     そのようにして、普遍性は、文化の中に、多層的に浸透し、定着し、揺るぎのない、多次元の調和を顕現していく。

     ところで、肉体をまとった光が、相対界を、普遍の世界に接続することを依頼しなければ、接続は、実行されない。
     主役は誰?
     本質の光は、永遠の主役。
     しかし、地上の世界においては、肉体をまとった光が主役。
     それは、創造の妙味。
     永遠の主役が、仮の主役を、表舞台に立たせる。

     本質の光は、肉体をまとった光に、その依頼の決断を委ねた。
     しかし、肉体をまとった光が、その接続を、自分でできると思い込むと、それが錯覚になる。
     その錯覚に、(不覚にも―私のことであります。以下、錯覚以外にも、ドジなありように言及しているものは、すべて私のことであります。)リアリティーを与えてしまうのも自分。
     しかし、
     肉体をまとった光が、相対界の自分の力を、
     変化、変滅する無常の力と判断して捨てると、
     その一瞬から、
     そこに(捨てる、と決断した思いの中に)本質の光が流れ込む。
     すると、
     肉体をまとった光の創造力は、相対界において、普遍の世界に接続された真の創造力になる。

     肉体をまとった光の自由とは、ある枠の中で行使が認められた自由。
     その枠を逸脱して自由を働かせると闇が生まれる。
     しかし、その枠の外側では、本質の光が、絶対的な権限を持って、肉体をまとった光を、守り、導く。

     しかし、ある枠の中で認められた、肉体をまとった光の自由は、地上の営みにおいては、決定的に重要。
     肉体をまとった光が、その自由を最大限に働かせてプログラムした思いを、
    また、その自由を最大限に働かせて準備した物質界のあらゆるものを、
     本質の光は、
     ほかの様ざまな肉体の中で働く本質の光たちと連絡を取り合って、
     人知を越えた力で、
     それらを最大効率で活用し、
     先達たちが達成した過去の遺産(文化、情報)に連結して、
     その奥行きを豊かにし、また様ざまな人脈につなげて、地上の旅を充実させる。

     肉体をまとった光の主体性は、仮の主体性。
     肉体をまとった光か、その主体性を存分に発揮できるのは、
     本質の光の働きかけによって。
     それによって初めて可能になる。
     それを忘れた時にも闇が生まれる。
     その逸脱に気づくように、絶えざる内観が必要。
     自分を越えた、本質の光の働きかけに対して、絶えず敏感であること。
     その意識の働きを通して、
     本質の光は、仮の主体性に生きいきと流れ込む。
     すると、それは、真の主体性になる。
     その働きは、美しい光として、心に感じられ、積極性を育む力となって心を躍動させる。

     肉体をまとった光は、潜在意識をまとった光の惑わしに絶えずさらされる。
     その惑わしを越えるためにも内観は必要。

     では、内を観る、とは、どういうこと?
    「自分が思うこと」を、「自分」が見つめる営み。
     そこで一番大切なことは、本質の光とつながりたいという思い。
     ここで、「自分が思うこと」をA、それを見つめる「自分」をBとする。
     本質の光とつながりたいという思いがあれば、
     本質の光は、Bに入り込み、Bの観察力を拡張し、Aの全体を俯瞰させる。
     肉体をまとった光は、その導きを、直観で把握する。
     そして、自分の思いの中に潜伏する錯覚に、違和感を感じ取り、検証を開始する。

     本質の光とつながりたいという思いがなければ、
     AとBは、同じ地平で、自分という意識の中で混ざり合ったままになる。
     つまり、錯覚から目覚めたいという思いと、錯覚そのものの思いが、混ざり合ったままになって、錯覚を発見できなくなる。

     しかし、思いは、実現する。
     本質の光とつながりたいという思いは、実現する。
     思いの実現には、優先順位がある。
     本質の光の思いが、最優先される。
     肉体をまとった光の真の幸せを、一番熟知しているのは、本質の光だから。
     潜在意識をまとった光と、肉体をまとった光を、共にコントロールしているのは、本質の光だから。
     本質の光が、肉体をまとった光に対して、第一に思うことは、
     すべてを捨てて、私とつながりなさい、という思い。
     そうすれば、あなたの地上の旅のすべてを、私は、新しく生まれ変わらせる。
     変化、変滅する創造から、永続性に向かう創造へシフトさせる。
     本質の光は、絶えず、肉体をまとった光に、そのように語りかけ続けている。

     ここに問題が発生する。
     肉体をまとった光が、求める幸せと、
     本質の光が熟知している、肉体をまとった光の、真の幸せとの間には、ズレがある。
     本質の光は、最短コースで、肉体をまとった光を、真の幸せに導く。
     しかし、
     肉体をまとった光には、その最短コースの導きが、
    (視野が限定されているので)魅力的には見えないので拒否する傾向が強い。
     その結果、紆余曲折が発生する。

     本質の光は、肉体をまとった光の、顕在意識も潜在意識も、隈なく見つめながら導いている。
     本質の光とつながりたいという思い。
     肉体をまとった光が、いつ、その思いを抱くか、
     そのタイミングも本質の光は熟知している。
     そして、あらかじめ、
     肉体をまとった光が、そう思った瞬間からサプライズを贈れるように、
     あらゆる角度から準備を整えた上で、本質の光は、気づきを促し、
     肉体をまとった光が、その気づきに目を開く一瞬を、今か今かと熱い期待をかけて待ち望んでいる。

     肉眼を通して外の世界に注がれる眼差しの中では、意識が働いている。
     本質の光とつながりたいという思いがあれば、
     本質の光が、肉体をまとった光の中に、
     生きいきと入り込み、
     外の世界に対する、肉体をまとった光の、あらゆる思いを吟味し、
     それらの思いの中から、
     創造にとって重要な思いに光を当て、その働きを豊かにしてくれる。

     同時に、
     肉体をまとった光が陥っている錯覚の思いに対しては、
     それを心の痛みとして自覚させ、自分の意志で捨てるように導く。
     心に痛みを自覚することは、一種の苦しみだが、それは小さな苦しみ。
     自覚のないまま錯覚が積もり積もって、大幅に軌道修正しなければならなくなったときに発生する苦しみと比べると、
     やはり、それは、小さな苦しみ。
     そこに輝く、本質の光の愛。

     肉体をまとった光の眼差しは、地上の旅を充実させる機能がメインに働くように限定されている。
     しかし、トータルな光の旅は、多次元のレベルで同時進行している。
     個々人の本質の光は、他の本質の光たちとつながって意識活動を展開している。
     また、本質の光は、肉体をまとった光と縁の深い守護の神霊たちともつながって、意識活動を展開している。
     それらの多次元の意識の旅。
     それが、肉体をまとった光の、今ここの旅と重なっている。
     超強力な多層的チームワーク。
     その働きを直観で把握する内観。

     肉体をまとった光の眼差しには、
     そこに重ね合わされた多次元の意識からの働きかけのすべては、知覚できない。
     しかし、まったく問題はない。
     本質の光とつながりたいという思いがあれば、
     本質の光が、多次元の意識の働きかけの中から、地上の旅を最大効率で充実させる情報を選び出して、
     絶妙なタイミングで気づかせるように仕向けてくれる。

     その眼差しは、ラセン状に上昇と下降を繰り返す多次元のエネルギーを連結するメビウス力学によって宇宙を循環する。
     本質の光とつながりたいという思いがあれば、
     地上の内観は、多次元メビウス力学によって、宇宙を循環する。

     その思いは、
     多次元の様ざまな領域で創造を展開する、多様な意識体に、
     創造を分担する仲間の歩みを知る喜びをプレゼントする。
     その喜びは、循環を通して絶えず増幅していく。
     素晴らしい多次元ハーモニー。
     宇宙の循環が生み出す、創造の知恵と力に満ちた喜びの歌。
     その響きは、本質の光が、今ここの旅に届けてくれる。
     絶大なるバック・アップに支えられた今ここの旅。
     どう転んでも大安心の今ここの旅。

     見つめることが、旅の基本。
     自分の源から贈られてくる「光=思い」を見つめること。
     しかし、肉体をまとった光の眼差しは、
     潜在意識の、執拗なフェイクに絶えず晒されている。
     しかし、本質の光とつながりたいという思いがあれば、
     本質の光が、潜在意識のフェイクを越えて、
     あらゆる角度から支援してくれる。

     だからと言って、間違いを犯さないという意味では、まったくない。
     間違いから学ぶほうが、より高い効率で学べる場合もある。
    (まるで自分のドジな旅を弁護しているようで恐縮至極ではありますが。)

     物質宇宙を解明する現代物理学では、光とは、電磁波。
     意識を観察対象から排除した現代物理学では、光とは、電磁波。

     シンギュラリティ(特異点)が、地球人類に直面させる課題。
     数学的特異点でも物理的特異点でもない、技術的特異点の出現。
     その予測不可能性。
     その出現を準備した量子力学から現代物理学は意識の領域に踏み込み始めた。
     その現代物理学の歩みの延長線上に出現する技術的特異点。
     その予測不可能の事態に直面する現代物質文明を、
     安全な「場所」に避難させる「ノアの箱舟」は、
    「光が主役であり、本来、光しかない」というビジョンになるのでは?

     技術的特異点の出現を演出する人工知能や生命科学。
     その出現が予測されるのは2045年。
     予測可能なのは、そこまで。
     技術的特異点の出現が現代文明に与える影響は、計り知れなくて、予測不可能と言われている。

     時の流れが加速していると言われる現代。
     その加速は、地球全体レベルでシンギュラリティに直面する2045年の到来を早めるのでは?
     技術的特異点の出現は、物質テクノロジーに囚われた意識(=思い)を、その呪縛から解き放って、
     創造の主役を、「光とシンクロナイズする思い」に据えるターニング・ポイントになるのでは?
     そのターニング・ポイントを迎える準備は、技術的特異点の情報を知らされる、はるか以前から、地球各地で、地道に、着実に積み重ねられてきたのでは?
     たとえば、そのひとつが五目舎だと考えられるように。

     しかし、改めて思います。
     本来、光そのものの自分が、どうして、自分を闇だと錯覚できるのでしょうか?
     それは、
     本質の光が、
     永遠の世界から、有限の世界に降りてきたから。

     永遠の世界は、自由自在。
     有限の世界は、自由自在の光が、その世界の制約を受ける。
     自分で選択した、その制約が、
     多様な状況において、
    (肉体をまとってしまった眼差しを通して見つめると)
     時に、理不尽に見えたり、不条理に見えたり、闇のように見えたりする。
     それが錯覚。

     錯覚を固定するのは、自己憐憫。
     それは、肉体を維持する自己保存本能が、
     感情に流されて、
     自分を閉ざしたまま、自己を守ろうとする反応。
     そこから、自分を解き放つのが内観。

     理不尽に直面した時に、現実的な対応は、必要。
     表面上の因果関係を踏まえた、実務的な対応も必要。
     問題は、それらのプロセスにおいて、責任の所在が自己の外部にある場合。

     ところで、責任の所在が自己の外部にあろうと内部にあろうと、
     あらゆる出来事は、本質の光が、肉体をまとった光の眼差しを、
     普遍性に向けるための導き。
     朽ちることのない光を体現させる導き。

     現実において、
     変化、変滅する状況を見つめる眼差しが、
     普遍性を志向する意志を持つ時、
     その「思い」と、そしてその思いに響き合う「人間関係」の中に、
     普遍性は、姿を現す。

     すると、
     その「思い」と、その「人間関係」の波動は、
     地上の状況を、
     変化、変滅する無常性を越えて、
     永続する意味を持つ、新しい文化環境にシフトさせていく。

     理不尽に直面した時に、怒りや嘆きの反応を示すのはナチュラルな反応。
     ただし、それがナチュラルなために、
     怒りや嘆きから、なし崩しに「自己憐憫に陥る自分を許容する自分」が現れる。

    「自己憐憫に陥る自分を許容する自分」は、人間のナチュラルな感情反応をカモフラージュにして、
     本質の光の導きに背を向ける。
     それによって、無自覚のまま、普遍性を現実に投影するプロセスにも背を向ける。
     そこに疑問は抱かない。
     なぜなら、
     背を向けるに足る理由は、明確に、自分の外に存在するから。
     表面上の客観性を持って、明確に存在するから。

     そのようにして、本質の光に背を向ける自己憐憫の壁は、あまりにも厚い。
     自分がそうする正当性を、自分を取り巻く状況が、明確に保証しているから。
     その正当性を踏まえて、自己を正当化するのは、当たり前のこと、当然のこと、正しいこと。

    (その判断に、間違いはない。表面上は。)

     それでも、理不尽の奥にある本質の光の導きを見つめる意志を持つこと。
     その意志は、
     本質の光に乗って、
     人間のナチュラルな感情反応をカモフラージュにした「自己憐憫に陥る自分を許容する自分」を見つけ出す。
     すると、
     光の中に引き出された「自己憐憫に陥る自分を許容する自分」は、
     その光の働きによって、
    「自己憐憫に陥る自分を拒否する自分」にシフトする。

     その新しい自分は、
     新しい調和を地上に築き上げる、新しい思いを、新しい創造を、新しい人間関係を創り出す。

     責任を周囲に転嫁すれば、変えるべき自分を見つめなくても心は痛まない。
     その結果、変えるべき自分を、置き去りにする。
     自分を変えるキッカケを見失う。
     新しい創造の可能性を、無自覚の内に保留してしまう自己憐憫。
     自分は何も悪くないのに一方的に被害を被っている憐れな存在だと思う前に、
     あるいは、そう思いながらでも、
     本質の光とつながりたいという思いがあれば、
     本質の光が、あの手この手を尽くして、
     置き去りにした、変えるべき自分を、
     巧妙な保身の嘘に憂き身をやつす自己憐憫を、
     光の中に引き出してくれる。

     錯覚の本質は、「本質の光に背を向ける思い」。
     自己憐憫も同じ。
     自己憐憫は、本質の光に背を向けた自分を正当化するために、
     実にいろんな嘘を組み立てて自分を納得させて今を旅していく。
     たとえば顕在意識が、本質の光に全託すると、
     自分の居場所がなくなる危機感から、顕在意識を騙して、自分も顕在意識に寄り添うように「一緒に本質の光に全託するよ」と語りかける。
     しかし、その一方で、自己憐憫は、本質の光の真の導きには背を向けたままで、
    「自分は、本質の光に全託しているのだから、この自己憐憫は許される。それが本質の光の愛だから」と顕在意識を丸め込む。

     本質の光は、ある枠の中でその納得を認めているが、
     限界点に達すると、その納得を破綻させて、肉体をまとった光に、自分がついた嘘を直視させ、
     自分の意志で、その嘘を捨てるように導く。

     実に巧妙に、
     あらゆるカモフラージュをまとって、
     顕在意識の奥に居残り続けようとする自己憐憫。
     そのすべてを拒否したいという思いを持てば、
     その思いは、実現する。
     本質の光が、その実現のために、全面的に働いてくれるから。

     宇宙の根源には、いっさい制約はない。
     宇宙の根源には、二極対立的なビジョンはない。
     光一元の世界。
     ワンネスの世界。
     その力学は、
     あらゆる姿に身を変えて、多次元の旅人たちを見守る、普遍の光の働きを展開させる。
     その光の本質は、
     地上からは、いっさい思いも及ばない、もっとも精妙な思いが、透明に静まりきった世界。
     例えでは語れても、類推はできても、肉体の脳では、その全体性の真実は、いっさい想像もできない超越世界。
     限りなく神聖な世界。
    (ジタバタ男の私などは、ただひたすら、ひれ伏す以外にない世界であります。)

     錯覚から目覚めることは、約束されている。
     自分自身が、光そのものだから。
     自分の存在が、約束そのものだから。
     だから、約束は、間違いなく履行される。

     約束から、遠く離れて、道に迷うことはない。
     しかし、「迷い」は、実感として存在する。
     矛盾?
    「理不尽」のように、本質の光の導きは、ある場合、矛盾に満ちている。
     表層を見れば、矛盾が見える。
     深層を見れば、本質の光が見える。

     しかし、矛盾は、葛藤を生む。
     心が混乱する。
     葛藤は、肉体をまとった光を、迷宮の中を旅させる。
     どこにも出口がないかのような迷宮を。
     しかし、その迷宮の全体を、本質の光は、包み込んでいる。
     だから、迷宮の全体とは、出口そのもの。
     その出口を発見するのは、忍耐力に支えられた内観。
     あらゆる「迷い」もまた錯覚。

     目覚めているのに、気づいていない。
     自分から発せられるウェイクアップ・コール。
     矛盾とは、裏返された光を、さらに反転させることを促すエール。
     
     迷ったと思っても、それは、約束の中でのエピソード。
     その迷いを見つめて、その奥に、
     深い迷いの中にいた時も、自分から一瞬も離れずに、絶えず存在し続けていた約束を見出すのも内観の働き。

     幾つもの「見つめる旅」をクリアしていくことによって、約束は、血肉化される。
     そのプロセスは、悲喜こもごもの物語。
     涙なくしては語れない物語。(私の場合。ひょっとして皆様も?)
     血肉化された約束とは、普遍性の勝利。

     終わっては始まる、永遠に新しい今ここの旅。

     ※ 参考文献は、岩根和郎著『人間やりなおし』です。ほかの著者のテキストも幾つか読んできました。それらをミックスして、未熟な私の理解と失敗の多い体験をもとに、あれこれと類推して、全体をまとめました。その際に、『人間やりなおし』から学んだことを、ソフトに表現したところもあります。たとえば、「本質の光」(『人間やりなおし』では、「主体」)を畏れつつ仰ぎ見る姿勢など。そこで、私の文章をお読みになられて、この表現はアイマイだと思われたり、欠けているものがあると思われましたら、(実際、多々あると思いますので)『人間やりなおし』は文庫で読めますから、お読みいただければ、根本からスッキリされると思います。

     好本健一

  8. 好本様

    ポストありがとうございます。 

    これはこれは重厚長大な内容ですね。
    思わず、うへえーっとびっくりしてしまいました。

    とても私にはすべてにコメントできませんが、
    ポイントポイントで意見を発することにします。

    ※引用箇所は改行せずに転記します

    >では、試練や不条理とは、何? より深く、より豊かな光の中に飛び込むキッカケ。 では、闇とは、何? より深く、より豊かな光を体験する手がかり、プロセス、反面教師、あるいは自分自身から切り離すべきもの、もしくは捨てることによって創造を進展させる視野を拡大してくれるもの。

    好本さんの言葉を借りれば、私たちは「本質の光」の「一部」ということですね。
    一部の光がこの世(現実)で創造しようとするとき、
    必ず光の影、つまり「試練」や「不条理」や「闇」が現われるのだと思います。

    それは現実を「創造」するときの必然であり、また必要なのだと思います。
    光と影がなければこの世では創造ができないのではないでしょうか。

    この世には二元性、二極性、いわば「差異」が必要なのだと思います。
    私は詳しくはありませんが、カタカムナ文献の世界では、
    「神」とは数霊からいくと「サ」になるようで、
    つまり「差」だそうです。

    神はこの世では「差」として現われるのかもしれません。
    すると「創造」とは「差異化」とも言え、
    永遠の創造とは永遠の差異化のことになります。

    >本質の光は、永遠の主役。 しかし、地上の世界においては、肉体をまとった光が主役。それは、創造の妙味。永遠の主役が、仮の主役を、表舞台に立たせる。

    そうですね。
    「全体」が「一部」として現われるということです。
    「一部」は必ず「全体の一部」としてあります。
    「全体」が先です。

    >自分を越えた、本質の光の働きかけに対して、絶えず敏感であること。その意識の働きを通して、本質の光は、仮の主体性に生きいきと流れ込む。すると、それは、真の主体性になる。その働きは、美しい光として、心に感じられ、積極性を育む力となって心を躍動させる。

    本質の光が仮の主体性に流れ込むということは、
    もともと私たちは全体の一部なので、
    一部である私たちが全体の一部であることを自覚するということです。
    ですが、その「自覚」が人はなかなかできないようです。

    自覚することさえできれば、
    まさにおっしゃるように人は「真の主体性」を取り戻し、
    「心を躍動させる」ことができます。

    だから、たとえばゼンランドは、
    自分の為す/為したことや、これから決断しようとすることに対する、
    魂の「快・不快」を重要視するわけです。

    これはバシャールでもおなじみの「ワクワクすること」にも通じますが、
    このあたりの「感覚」には、
    実は慎重さが求められると私は思っています。

    >錯覚から目覚めたいという思いと、錯覚そのものの思いが、混ざり合ったままになって、錯覚を発見できなくなる。しかし、思いは、実現する。本質の光とつながりたいという思いは、実現する。思いの実現には、優先順位がある。本質の光の思いが、最優先される。肉体をまとった光の真の幸せを、一番熟知しているのは、本質の光だから。

    「本質の光の思いが、最優先される」と私も思うのですが、
    どうもことはややこしいようで、
    おっしゃるようにこの世は「錯覚」からくる思いがいろいろと混ざり合っていますが、

    そういう私たちの「錯覚できる能力」を利用して、
    私たちのエネルギーを搾取しようとする力学、メカニズムが働いているようです。

    だから、本来は優先される本質の光の思いも、
    先送りされてばかりいるようですね、

    だから、この世にいるときには、
    私たちは錯覚と戯れながらも、
    錯覚にとらわれないでいる自らの「意志」が必要になり、
    全体の一部であるという意味において、
    私たち自身も本質の光であることを「知る」必要があります。

    >ここに問題が発生する。肉体をまとった光が、求める幸せと、本質の光が熟知している、肉体をまとった光の、真の幸せとの間には、ズレがある。本質の光は、最短コースで、肉体をまとった光を、真の幸せに導く。しかし、肉体をまとった光には、その最短コースの導きが、
    (視野が限定されているので)魅力的には見えないので拒否する傾向が強い。その結果、紆余曲折が発生する。

    この箇所は、
    私たちがこの世で生きていくこと、
    つまり「人生」のひとつの「核心」部分でもあります。

    その「紆余曲折」がどうして発生するのか、
    31日の『盤』で検証しましょう。

    >肉体をまとった光が陥っている錯覚の思いに対しては、それを心の痛みとして自覚させ、自分の意志で捨てるように導く。心に痛みを自覚することは、一種の苦しみだが、それは小さな苦しみ。自覚のないまま錯覚が積もり積もって、大幅に軌道修正しなければならなくなったときに発生する苦しみと比べると、やはり、それは、小さな苦しみ。本質の光とつながりたいという思いがあれば、地上の内観は、多次元メビウス力学によって、宇宙を循環する。

    「大幅に軌道修正」したくないために、
    あるいは「大幅に軌道修正」せざるを得なくなることがわかっていたから、
    私は「錯覚」の中で心地よく戯れることをやめて、
    会社も辞めたのです(笑)。

    私は私の身をもって今、
    実はある種の「実験中」でもありまして、
    そのことも『盤』では話します。

    >しかし、改めて思います。本来、光そのものの自分が、どうして、自分を闇だと錯覚できるのでしょうか? それは、本質の光が、永遠の世界から、有限の世界に降りてきたから。

    そうですね。
    永遠が永遠に飽きたのでしょうか。
    あるいは永遠が永遠であることを確認するために、
    有限を創り出す「遊び」をはじめたのでしょうか。

    >錯覚を固定するのは、自己憐憫。それは、肉体を維持する自己保存本能が、感情に流されて、自分を閉ざしたまま、自己を守ろうとする反応。そこから、自分を解き放つのが内観。

    この部分から以下、
    「自己憐憫」に関するご考察は秀逸だと思います。
    少なくとも私は考えたことがありませんでした。
    「自己憐憫」というものには、
    かなり重要な問題が隠されているようです。

    >現実において、変化、変滅する状況を見つめる眼差しが、普遍性を志向する意志を持つ時、その「思い」と、そしてその思いに響き合う「人間関係」の中に、普遍性は、姿を現す。すると、その「思い」と、その「人間関係」の波動は、地上の状況を、変化、変滅する無常性を越えて、永続する意味を持つ、新しい文化環境にシフトさせていく。

    まさに今の私の「結論」でもあります。

    西塚

  9.  西塚裕一様

     長くなりすぎて、申し訳なく思っておりますコメントに、実に深みのあるご返事を、ありがとうございます。

    「私は私の身をもって今、実はある種の「実験中」でもありまして、」

    『盤』で、お話しいただける「実験」の内容が、とても楽しみです。

     また、『盤』で展開される「紆余曲折」の発生検証も、とても楽しみです。

     そして、ゼランドの「魂の快/不快」やバシャールの「ワクワク」への慎重な対応の実際についてのお話も、ぜひお伺いしたいと思います。

    「サ」の霊力で、無数の(次の言葉も「サ」から始まるのがおもしろいですが)差異化を生み出しておられる神のみ力は、「サスガ神技」という感じがします。

     今ここの旅を有意義に推進する力になる「全体」と「部分」の考察は、ゼランドのビジョンをヒントにされたのですか?

    「「全体」が先です」というお言葉は、シンプルですが、実に奥が深い内容を持っているように感じられます。

    (ところで、私は、自己憐憫によって、自己の苦境を正当化していた、実に愚かな旅人でした。)

    「私たちは錯覚と戯れながらも、錯覚にとらわれないでいる自らの「意志」が必要」

     私は、このお言葉を読んだときには、(僭越ながら)「古強者」という言葉が心に浮かびました。

     西塚さんが、会社をお辞めにならなかったら、インターネット上に「五目舎」は出現しなかったでしょうから、(そうしますと、コメントの投稿を通して私が学ばせていただく機会もなかったことになりますから)素晴らしい決断をされたことに、私は、心の底から、「よかったなあ」と思いました。

    『盤』でのお話は、旅の基盤を、実験を通して、より豊かな創造に向けて盤石なものにしていく内容に満ちているように感じられて早くも(文章の途中に句点を打つのももどかしくなるほど熱い勢いに満ちた期待が全身からとめどなくほとばしり出るほど)エキサイティングな気分になっております。

    (自分で書いた文章ではありますが、読み返して、そこに書き込まれたアホなジョークに対して、思わず、「アホな虫にも五分の魂」という言葉が心に浮かびました。)

     当日は、よろしくお願い致します。

    (西塚さんの今の「結論」が、どのようなプロセスを経て導き出されていったのか、ぜひ教えてください。)

     好本健一 

  10. 好本様

    コメントありがとうございます。

    どこまでご期待に添えるかどうかわかりませんが、
    私がつかんでいることはお話します。
    時間の関係もあり、とてもすべては語れませんし、
    またみなさんとも検証はできないでしょうが、
    月一回ペースで続けていくつもりです。

    エラソーに聞こえたらまずいのですが、
    私は自分で自分をごまかせないだけです。

    昔、高校を卒業するときのクラスの飲み会で言われたり、
    カミさんの私に対する第一印象でも言われましたが、
    私は「ただのバカ」なのでしょう。

    西塚

  11.  西塚裕一様

     ご返事、ありがとうございます。

     goo国語辞書で調べた「ごまかす」の意味で、一番おもしろいのは、「本心を見やぶられないように、話をそらしたり、でまかせを言ったりして、その場やうわべをとりつくろう」という内容でした。

     本心には、地上レベルのものと、宇宙レベルのものがあると思います。

     今の世の中は、宇宙レベルの本心を「とりつくろう」ことが、制度化されていると感じます。

     その制度は、潜在意識界から投影されていると思います。

     地上の旅は、潜在意識の浄化を視野に入れないと実り豊かなものにならない状況になりつつあるように感じます。
     また、これは、希望的観測ですが、今の状況は、急速にそうなっていくようにも思います。

     その一方で、私は、本心を「とりつくろう」処世術は、必要だと思います。そのプロセスを旅し終わって初めて、本心をごまかさない生き方に目を向け、その中に入っていくように感じます。

     今、処世術を駆使して生きる旅を終えた方々が増えてきていると感じます。

     しかし、地上のインフラの整備ということを考えますと、潜在意識の急速な浄化は、難しい問題を孕んでいると思います。

     私は、西塚さんの(ひとつの意志の表明としての)「ただのバカ」というお言葉にふれた時、『アホは神の望み』という本のタイトルを思い出しました。

     好本健一

    1. 好本様

      コメントありうがとうございます。

      >本心には、地上レベルのものと、宇宙レベルのものがあると思います。

      そうですね。
      地上には礼儀、マナー、エチケット、いろいろありますから、
      いきなり初対面の人に本心はぶつけないですね。

      > しかし、地上のインフラの整備ということを考えますと、潜在意識の急速な浄化は、難しい問題を孕んでいると思います。

      おっしゃる通りです。
      それでも、何だか時間がなくなってるようで、
      まあ、2030年までには何とかなってないと……

      「急速な浄化」に関しては、それこそ危険な問題も引き寄せますね。
      天変地異、テロなども、目的は「浄化」とされそうです。

      「難しい問題」もたしかに多くありそうです。
      そのあたりは、まず「知る」こと。
      「知識」からはじめていくことが重要だと個人的には思っています。

      追記:その本はいいですね。ぜひ、ウチから出させてください(笑)

      西塚

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