歌は世につれ
世は歌につれ

と言うが、かつていわゆる庶民の娯楽がラジオや映画、テレビと変遷していく中で、やはりつい最近までドッカと腰を下ろして居座っていたのがテレビだ。

テレビ番組、たとえばドラマやバラエティー、ニュース、ドキュメンタリー、みんなそうだが、もれなくついてくるのが音楽である。

クラシックやジャズ、環境音楽などもあるが、たいがいは番組内容に即した日本人アーティスト、早い話が日本の歌謡曲だ。ロックだとかバンド音楽とかいろいろあるかもしれないが、私に言わせればキャロルもサザンも、サディスティック・ミカ・バンドもオフコースも、カルメン・マキも山口百恵も、みんな日本の歌謡曲である。

歌謡曲でも細かく分ければおのずとジャンルみたいなものはあるだろうが、要するに西洋が発明した楽器やメディアに則して日本的に発達した日本の楽曲ということであって、日本の歌謡曲には変わりはない。

あ、でも思い出したが、たしかエレクトリック・ギター、いわゆるエレキは日本人が発明したんだよね。あの政木和三氏である。ブログでも何回か取り上げたが、とんでもない人だ。大阪大学の工学博士で超能力研究者でもあった。

政木氏は発明家でもあり、われわれは今、氏の発明の恩恵をどれだけ受けているか知れない。自動ドアや電気炊飯器、細かくは忘れたが、日常当たり前に使っているものが政木氏の発明だったりする。

そして政木氏のすごいところは、発明したものはすぐ特許申請するわけだが、その後必ずほったらかしてしまうところである。つまり発明の権利を放棄する。それを見計らって、日本の家電メーカーなどが製品化するのだ。その繰り返し。

だから、日本の大手5大家電メーカーなどは、政木氏が特許申請したそばから製品化を進め、政木氏がほったらかした後、つまり一定の特許の権利の保護期間を過ぎて、権利をまた更新しなければいけないところを政木氏が更新せず、権利を失った頃合いを見て販売するわけである。

5大メーカーの社長とか幹部たちは、新年のあいさつにそろって政木氏の自宅を訪れるのが恒例だったという。

そりゃそうだろ。政木氏が特許を独占していたら、その金額たるや天文学的なものだ。正月の年始のあいさつのひとつぐらいしてもバチはあたらない。

でも、政木氏は生活に最低限必要なもの以外は、権利をすべて放棄した。

なぜか?

発明のヒントが高次元からもたらされたものだからだ。そういうものは、人々に還元しなければならないからだ。

てか、まあいいや、この話はまた長くなる。

そうじゃなくて何の話だったか、そうだ歌謡曲だ。

だから日本の歌謡曲は西洋の影響を受けながらも、日本独自の楽曲として発展し、細かく分ければその音色というか音楽性によってジャンルはあるということだ。

でも、個人的には演歌はちょっと違うかなという気がする。

まさに歌謡曲と言いたいところだが、どうも歌の奥底には日本人の心性のようなものの一部が色濃く残っていて、何と言うか、浪花節とかデロレン祭文とか、小唄や都都逸、場合によっては琵琶法師の「平家物語」みたいなものにもつながっているような気がするのだ。

となれば、古代のシャーマニズム、ギリシャ神話時代のホメロスやヘシオドスのような吟遊詩人の話にまでつながっていき、日本の歌謡曲どころの話ではなくなってくる。演歌にはそういう血筋というか地脈があり、どうも歌謡曲とは一線を画したほうがいいと思うのだが、まあいい。専門家でもないし。

だから、軽く日本の歌謡曲と言うわけだが、それはいろいろと当然、世界の音楽シーンの影響も受けるし、メディアの発達や環境、何よりも日本人の関心事や生活習慣に影響を強く受ける。

昭和でも1960年代は、「夜霧よ今夜も有難う」とか「下町の太陽」とか、「愛と死を見つめて」とか「おはなはん」とか、当時人気の映画やテレビドラマ、NHKの朝の連続テレビ小説みたいなものと連動して、ヒット曲が生まれたりしていた。

そんな傾向というかパターンが日本ではかなり長く続いてきたのである。

70年~80年代に入ると角川映画全盛になり、「人間の証明」や「セーラー服と機関銃」「時をかける少女」などの主題歌がヒットし、テレビドラマでも『ふぞろいの林檎たち』ではサザンをふんだんに使ったり、『金曜日の妻たちへ』のパート3では「恋におちて」が大ヒットし、「キンツマ」とか何とか「不倫」ブームにもなったかどうかは知らないが、まあそんなふうにヒット曲は日本の文化とも連動していくのである。

90年代に入るとまさにタイアップブームが到来し、一色紗英が出たポカリスエットのCMソング「いつまでも変わらぬ愛を」のヒットにはじまるいわゆるビーングブームが社会を席巻、織田哲郎作曲の楽曲が巷にあふれることになる。

テレビドラマでも「歌謡曲」とのタイアップが主流になり、91年1月放送の『東京ラブストーリー』の「ラブ・ストーリーは突然に」、同年7月の『101回目のプロポーズ』の「SAY YES」はそれぞれダブルミリオンを記録し、フジテレビの月曜夜9時は鉄板のヒット枠「月9」として認知されていく。

以後、日本の世の中は、このままいつまでも変わらないでいてほしいと願うかのように、バブル最後の夢を見続けるのである……

『盤』でも話したことだが、ヴァジム・ゼランドは人間が複数集まって同じ方向で思考し、同じ行動をとると「構造」が発生し、それがあたかも生命体のように独立して成長しはじめると言う。

それをゼランドは「振り子」と呼んだ。

同じ方向で思考したり行動する人間が増えれば増えるほど「振り子」は成長し、今度は自分をもっと拡大させるために、その人間たちが従わなければいけないような「決まり」を強制しだす。

「振り子」は生命体ではなくただの「構造」だから、自分が「決まり」を作るわけではないが、「振り子」が成長・拡大するにともなってでき上がっていく物質的構造、たとえばその「振り子」を信奉するメンバーが増えてくれば、彼らが一堂に会せるような施設や建物、設備もおのずとでき上がるわけで、そうなればそうした施設をさらに拡大していくような運営をするために、もろもろの「決まり」ができ上がっていくということである。

「振り子」のエネルギーの源泉は、それを信奉するメンバーたちの「思考エネルギー」だ。メンバーたちの思考エネルギーの放射の方向は同じであり、「振り子」は彼らが同じ方向で思考してくれるからこそ存在できるのであって、彼らの思考エネルギーの方向がほかに逸れてしまえば、「振り子」は消える。

だから「振り子」は、何としてもメンバーたちの思考エネルギーの方向だけはほかに逸らせないようにしなければならない。

逸らせないようにするばかりか、自分が拡大できるように、メンバーにはもっとメンバーを集めるようにしむけ、思考エネルギーの放射の方向がほかに逸れそうになった者に対する罰則の「決まり」を作らせ、そうした者を最終的には追い払ったり、場合によっては抹殺するようにする。ほかのメンバーが同調するとまずいからだ。

「振り子」には大小、いろいろある。

家族、学校、会社、政党、国、理念…

何度も言うが、そうした「振り子」にメンバーたちが自分たちの思考エネルギーを与えさえしなければ、「振り子」は存在できないというか、消えてなくなるのだ。

ここにきて、芸能人たちが所属事務所から独立しはじめた。

ビートたけしの話が一番大きいだろうが、実はここ数年、いろいろな芸能人が事務所を出はじめているのである。そして自分の個人事務所を作ったり、あるいは今までやってきたこととまったく違うことをやりはじめたりしている。

お笑い芸人が小説を書いたり、絵を描いたり、人気グループアイドルのメンバーが絶頂期で「卒業」するなど、YAHOO!のトップニュースを眺めていても、毎日のようにそんなニュースがアップされていることがわかる。

歌は世につれ
世は歌につれ

日本の歌謡曲を見れば、ちょっと前までは日本人の関心事というか、日本人の思考がどういう方向に向いているかがわかるようになっていた。だからこそエンターテインメントの制作側もそれまでのヒット作品や商品をマーケティングさえしておけば、大きくはずすこともなく、逆に大衆の関心・思考をコントロールすることもできたのである。

つまり、儲けることができたわけだ。

しかし今は、彼ら制作側というか企業側は、歌謡曲や芸能シーンを眺めてもどうしてよいのかわからなくなっている。

ビッグヒットがなくなったから二番煎じもマーケティングもしようがなく、特にドラマに至ってはやるに事欠いて、大昔のヒットドラマを安易にリメイクしたりして大ゴケしている。

以前とは違うのだ。

「月9」のフジテレビはもはや凋落しつつあり、「SAY YES」の飛鳥は捕まってしまったっても、別に飛鳥はこうしたこととは関係ないのかもしれないが。

そして芸能人たちは、自分のフィールドだったはずのところから(おそらく)本能的に離脱しはじめた。

つまり、ひとつの大きな「振り子」からメンバーが抜け出しているのだ。「振り子」に思考エネルギーを与え続けていたメンバーたちが、ここにきて自分たちの思考エネルギーの放射の方向を変えはじめたということである。そして、それまでの「振り子」とは別のことを考え出し、別の「振り子」に魅力を感じ、そうした新しい「振り子」に思考エネルギーを放射しはじめたということだ。

私はそうした新しい「振り子」にいつも期待するし、また新しい「振り子」が自由に発生できるような世の中じゃないとおもしろくないとも思う。

今、地球規模で世界を揺らしている大きな「振り子」で言えば、「キリスト教」や「イスラム教」などの宗教的なイデロギーや「進化論」や「素粒子論」などの科学的イデオロギーなどいろいろとあるだろうが、私は火急に問われなければならない「振り子」は、やはり「資本主義」なのだろうと思う。

冷戦が終わった1990年ごろから、基本的に「社会主義」が敗北して「資本主義」が勝利し、「資本主義」が最終的に最良の理念になったかのような感があるが、敗北したのは「社会主義」の理念を具現化したそれまでの社会システムと体制であって、社会主義的な理念そのものが敗北したわけではない。

っても、別に私は「資本主義体制」がわるくて「社会主義体制」がいいと言ってるわけではなく、今の「資本主義体制」はどう見てもボロボロだから見直すべきだろうし、そのためには、今の資本主義体制の中からはもはや新しい発想は出てきそうにもないから、社会主義的な理念、たとえば社会主義的な思想家にしても過去に再検証すべき人間はいくらでもいるだろうし、ひょっとしたら人類の歴史をもっとさかのぼった領域にこそ、何か重要なヒントが隠されているかもしれないと言いたいのである。

私は、今の芸能人たちに見られるある種の「離脱」は、私たち日本人が新たな地平を拓きはじめる兆候だと思っている。

「芸能人」とひとまとめに言ったが、タレント、芸人、アーティスト、何と呼んでもいいのだが、基本的には社会の多くを構成する普通の人たち、一般大衆、庶民、マジョリティー、こちらも呼び方はいろいろあっていいが、そういう社会の土台になるような「振り子」を支えるメンバーから飛び出して、また別のある意味で狂気地味たというか、酔狂というか、簡単に言えば「芸能」の世界という「振り子」の中で揺れている人たちというのは、先のギリシャ神話の世界で言えば、デルポイの神殿の「シャーマン」の世界の側に属するような人たちであり、と言うことはつまり、今後の日本の社会・世の中を預言・予言する人たちの末裔だとも言えるのである。

本人たちに自覚があるかどうかはともかく、あるいは「芸能人」と言ってもいろいろなタイプもあるだろうが、彼らが今回、ある意味こぞって「振り子」から離脱しはじめたということは、芸能界に関わるもろもろのシステムはもちろんのこと、少なくとも日本の社会システムの大きな変革がはじまったと見ていいと思う。

そしてこの日本の変革の方向とは、世界の変革の方向とも連動していることは言うまでもない。

2 thoughts on “春はあけぼの”

  1.  西塚裕一様

    『それまでの「振り子」とは別のことを考え出し、別の「振り子」に魅力を感じ、そうした新しい「振り子」に思考エネルギーを放射しはじめた』。

     とてもおもしろい変化だと思います。

     それらの皆様は、「何」を契機にして『別のことを考え出し』たのか、と思います。

     また、『新しい「振り子」』の実体とは、何なのか、気になります。

     そして、それが、複数存在するものなら、それらのシンクロニシティのありようも気になります。

    『少なくとも日本の社会システムの大きな変革がはじまったと見ていいと思う。』

    『盤』において、西塚さんが、物事をわかりやすく理解するために、物事を、大きく二つに分けて考える、という方法を取っておられましたが、私も、ここで、その方法を採用させていただきます。

    「大きく二つに分けて考える」ために、最初に、「A」と「B」という二つの記号を出しておきます。

     そして、社会の変化について、基本的なところを、類推し、考えます。

     社会の変化を考えるための二つのカテゴリー。
     A 絶対界。
     B 相対界。

     この設定は、私の「心情」によるものです。

     私の心情を吐露させていただきます。
     絶対を欠いた相対は、諸行無常。
     絶対に裏打ちされた相対は、本領を発揮する。

     相対的視点は、無数の比較や関係を通して、その場限りで有効なビジョンを提供します。
     比較を、シンプルに「二項比較」と設定して、記号に置き換えますと「a」と「b」になります。
     相対的視点は、aとbの関係性から、その場においては有効なビジョンを提供します。
     ところが、aとbの「関係性」は、無数に存在しますので、
     その場においては有効なビジョンであっても、
    「場」の条件が変化すれば、普遍性はなくなる、と思います。

     ここで、AとBを、以下のように置き換えます。
     A 調和。
     B 対立。

     そうしますと、aとbの関係性が集積された社会の変化は、(相対ですから)当面は、Bのレベルにおける変化、となります。
     いくら変化しても、(Aを欠けば)その集積は、対立を越えられないと思います。

     しかし、「絶対に裏打ちされた相対は、本領を発揮する」。

     本質的には、Bは、Aの投影の結果として存在します。
     投影の結果を、受け取るのか、拒否するのかは、
     ある枠の中で、
     相対界に任されている。
     相対界は、「相対」を求めた結果、存在する。
     相対界は、絶対界が投影させた調和とは別の「調和」を求めた結果、存在する。

     絶対とは、相対を超越したレベルから、絶対の本質である調和を、相対にもたらすと私は信じています。

    (しかし、相対の側から、それを求めなければ、与えられません。宇宙は、思いが実現する世界ですから。
     本質的には、投影を通して、調和は、すでに与えられています。
     そこを見定めて、「受け取る」と決心すれば、
     本質的には、一瞬のうちに与えられる。
     相対的には、時間経過を経て、与えられる。
     この「時間経過」が、クセ者であります。その間、心が揺さぶられますから。
     ポイントは、
     本質的には、一瞬のうちに与えられた調和を、
     その一瞬から、自分の体内深く取り込む「思い」の持ち方を工夫する。
     そうしますと、心が揺さぶられても、
     クセ者に、ご退場いただくことができます。)

     ところで、絶対から、相対にプレゼントされる調和は、その投影プロセスが目に見えません。
     そこで、調和は、サプライズとして受けとめられるものとなります。

     目には、見えない絶対界の調和の働きを、心で信じる。
    「信じる」ということは、「調和を受け取れる」と信じる。
     ということだと思います。

     個人は、小さな存在ですが、Aは、宇宙のすべてを包み込む世界です。
     個人がAの働きを信じれば、
     宇宙のすべてを包み込む働きが、個人が位置する、その世界全体に働きかける。
     と私は信じています。

    (個人は、「反転」関係を通して、地球人類と、ひとつ、だと思いますから。)

     個人には、自分が位置する世界の全体もまた把握できません。
     しかし、個人が信じるAの働きは、宇宙のすべてを包み込んでいますから、
     Aは、個人が位置する世界の全体を把握し、
     個人の願いにプラス・アルファを加えて、
    (個人の願いは、「反転」関係を通して、地球人類の願いと、ひとつ、だと思いますから。)
     新しい未来を創る調和を、個人が位置する、その世界全体に贈る。
     と思います。

     社会を構成する人びとの中に、Aのサプライズを希望する人が、
     多ければ多いほど、
    『日本の社会システムの大きな変革』は、

     地球各地の、
    『それまでの「振り子」とは別のことを考え出し、別の「振り子」に魅力を感じ、そうした新しい「振り子」に思考エネルギーを放射しはじめた』皆様にも、
     素晴らしいサプライズをもたらすと信じています。

    (もちろん、その逆の恩恵も、私たちは、日々、受け取っていると思います。
    「反転」関係を通して。
     サプライズを求めていれば。)

     好本健一  

    1. 好本様

      まさしく!
      核心をついた論考かと思います。

      >本質的には、Bは、Aの投影の結果として存在します。投影の結果を、受け取るのか、拒否するのかは、ある枠の中で、相対界に任されている。相対界は、「相対」を求めた結果、存在する。相対界は、絶対界が投影させた調和とは別の「調和」を求めた結果、存在する。

      こうした視点は、
      たとえば『盤』でご紹介した半田広宣氏が提唱するヌーソロジーでは、
      かなり詳細に考察されていて、
      それはそれは壮大な構造が見事に体系化されています。
      また、カタカムナや大本系の情報でも同じ構造が見られます。

      >ポイントは、本質的には、一瞬のうちに与えられた調和を、その一瞬から、自分の体内深く取り込む「思い」の持ち方を工夫する。そうしますと、心が揺さぶられても、クセ者に、ご退場いただくことができます。)

      まさにゼランドです。

      好本さんのおっしゃる絶対と相対の世界は、
      ある意味、外部と内部と言ってもいいと思いますが、
      実はそうした両者をつなぐ意識状態というか、
      そういう領域を意識上に浮上させる方法・技術があるようだ、
      ということなのです。

      それは脈々と人類に受け継がれていて、
      「秘法」とされる知識として片や言葉・文字として、
      片やある「作法」として残されていると私は思っているわけです。
      詳細は『盤』の現場もしくはレポートのほうで話します。

      この記事で私が書いたことは、
      そうした世界というか、
      今の世の中ではなかなか見えてこない領域があるのだということを、
      「芸能人」を筆頭にみな気づいてきたのではないかということです。

      芸能人というのは、
      いわゆる会社員や企業家に比べると、
      ちょっとだけタガがはずれた人たちです。

      そういう人たちが、
      「芸能界」という「振り子」が強制するタガから逃れはじめたわけです。

      これは芸能界ですら、
      大きな大きな「振り子」に飲まれつつあるということなのかもしれません。
      そのことを敏感に察知した芸能人たちが、
      何か別の「遊び場所」を求め出したということでしょう。

      ちなみに「芸術家」とは、
      自分以外のタガを持たない人たちのことです。

      西塚

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