はじめに言葉ありき。

言わずと知れたヨハネの福音書の冒頭だが、和訳の場合「言葉」ではなく「言」と書かれることが多いようだ。「言」でも「ことば」と読む。なぜ、「言葉」ではなく「言」なのか。

「言葉」、つまり「言の葉」にある「ことば」の切れ端のようなイメージを避けたかったのかもしれない。聖書の福音書だけに、「ことば」にもっと根源的な重みというか始原的なニュアンスを与えたかったのだと思う。

つまり「響き」だ。

今ふうに言えば、「波動」だろうか。

英語だと、In the beginning was the Word だから、やはり「言葉」だが、日本語は便利というか細やかというか、漢字の違いとかひらがなとかカタカナとか、日本語が持ってる文字体系は、伝える側の工夫と受け取る側の感性によっては微妙なニュアンスを表現することができる。

もちろん日本語以外の文字体系にもそういった部分はあるのだろうが、おそらく日本語ほどではないだろう。

聖書にはマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4つの福音書があるが、ヨハネだけ異質だ。

福音書はイエスの言行録のようなもので、それまでイエスを信奉する連中を弾圧する側にいたパウロが、イエスの死後、イエスを幻視したのか声を聞いたのか忘れたが、いきなりイエスを信奉するようになり、イエスの教えを広め歩くうちに「キリスト教」ができ上がっていく。

イエスの時代には当たり前だがキリスト教はない。イエスは既存のユダヤ教の誤りというか、ゆがめられた教えを正そうと諭して回ったのである。

キリスト教なるものは、パウロがパウロなりにイエスやイエスの教えを解釈してできあがり、あっちこっちの教会に残されているイエスの言行録みたいなものとパウロの書簡などをまとめ上げて『聖書』にした。

イエスの教えをどう解釈するか、あるいは散らばっていたイエスの言行録をどうまとめるかなど、これは正式に聖書に入れよう、これはちょっとなあ、これはここをこう修正して他と整合性をとってから入れよう等々、公会議を開いていろいろやったようだ。

福音書はマルコが一番古いもので、マタイとルカには他の資料からの情報が加味されていることなどがわかっている。

でも、ヨハネだけはよくわからない。最後に聖書に入ったらしいが、内容も他の3つとはどうも違う。他は、イエスの誕生や洗礼者ヨハネの話や、アブラハムとかダビデとかイサクとか延々と血筋のようなものから語られたりするが、ヨハネはいきなり「はじめに言ありき」とはじまる。

つまり旧約聖書の最初の書、『創世記』に直結した感じがある。

創世記の冒頭も「はじめに( In the beginning )……」とはじまり、神は天と地を創り、地は混とんとした闇だったが、なぜか表面は「」に覆われていて、神が「光あれ」と言うと光があり、神はその「光」と「闇」を分け、光を「昼」と呼び、闇を「夜」と呼んだ。

そして神は、地を覆っていた「」の間に「空(そら)よあれ、水と水を分けよ」みたいなことを言うとそうなり、その空の下の水と空の上の水とを分ける。そしてその空をまた「」と名づける。

さらに神が、「天の下のほうの水よ、ひとつに集まれ、乾いた地よ現れよ」みたいなことを言うとそうなり、乾いた地を「陸」と名づけ、水が集まったところを「海」と名づける……

という具合に、以後、順番に太陽や月や星や植物や動物を創り、6日目に神は自分に似せて「人」を創り、7日目に休んだというわけだ。

要するに創世記によれば、世界はヨハネの福音書の冒頭にあるように、たしかに神の「言葉」によってできたことがわかる。

つまり、神が○○と言ったり、呼んだり、名づけたりしたものが、存在することになったということだ。

創世記を編纂したのはモーセだ。正式にそういうことになっている。

実際、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もそう認めている。

モーセは預言者だ。預言者とは神の「言葉」を預かる者である。

以前にも書いたが、もろもろ残されている文献や資料をさかのぼるとどうしても「神の言葉」に行きあたる。

西洋の現代哲学とか近代科学とか言っても、ルーツは中世から紀元前後の神学だギリシャ哲学だとなり、結局はアリストテレスやプラトン、ソクラテスとなる。

ソクラテスになるとイエスや釈迦と同じで何も書き残しておらず、それこそ聖書のような言行録のみになる。

で、ソクラテスも幼少のころからイエスのようにかどうかはわからないが、ダイモニオンといわれる「神の声」を聞いており、成人してからもしょっちゅうダイモニオンの声を聞いては、道のどこでもハタと立ち止まってじっとしていたのだ。

それでなくても、そのころのギリシャ時代は王までがデルポイの神殿に行き、戦に勝つかどうかなど巫女を通じて「神の声」を聞いていたわけだし、そもそもギリシャには大昔から吟遊詩人らによって伝承されてきた神々の物語「神話」が当たり前にあった。

釈迦にいたっては言うまでもないだろう。悟りを開いたときに話した相手は、梵天とか帝釈天つまり神だ。

ギリシャ時代以前となれば、これはもうゾロアスターだミトラだとエジプトや古代オリエントの宗教となり、それこそ神様の話だ。

だから、人類の歴史をできるだけ文献や資料をもとに遡っていくにしても、最終的というか一応エビデンスありきで言えば、ギリシャ哲学や聖書や仏教その他、古代の宗教的文献や遺跡に残された文字に頼るしかなく、その文献や文字に残された人類・世界の発祥や創造に関しては、どうしても「神から教わった話」に帰着するのである。

そして、残されていた文献や資料に書かれた内容をそのまま受け取るか、いやこれは○○の比喩だろうとか、この時代のこの言葉はこういう意味もあって今とは違うからこうなのではないかとか、いろいろやるわけだ。

ヘタすりゃ、シュメール語やアッカド語のように古代メソポタミアの文字でも、一応解析はされてるとしても、言葉・文字の解釈ひとつ違えば内容も正反対になるかもしれない。

実際、現代哲学や近代科学のような学問は、こうした古代の文献を「検証」「解釈」することからはじまったと言ってもいいだろう。ちなみにニーチェはそもそも文献学者だ。

つまり、先人・賢人たちは何を考え、その時点で何にたどり着いていたかを、まずは「知る」ということである。

近代以降、哲学や科学はものすごい発展というか、専門化というか細分化されていくわけだが、ソクラテス以前にあった原子論は今や量子論までたどり着き、個人的にはこれ以上どこに行っちゃうんだろう、もう限界じゃねーか?的な段階にあると思う。というか、キリがない。

西洋の文献学は何も哲学や科学の分野だけではなく、最強のジャンルとして聖書があり、名だたる教父神学者たちが聖書と首っ引きで解釈してきた歴史があるわけだ。

私はキリスト教信者でもないし、詳しくもないから、旧約にしても新約にしてもある程度、解釈としてはコンセンサスがとれているのだろうと勝手に思っていたが、そうでもないらしいことがわかった。

細かいことを言えば、キリスト教にもたくさんの宗派があるだろうから、それぞれ教義の解釈も違ってくるのだろうが、それは哲学や科学でも同じだ。

それでも一応、たとえば三位一体の概念にしても、公会議で正式にこうだと決められた解釈はあるようだ。

まあ、三位一体のような難しい概念的なものに関しては、たしかにいろいろと考え方や解釈のバリエーションも出てくるとは思う。

でも、旧約聖書の創世記のような、何というか、大もとの大もとというか、最初の最初のようなテキストのこれまた冒頭の部分でも、いまだに解釈が分かれているらしいというのには驚いた。

それも三位一体のような難しい概念操作が必要なものではなく、「語句」の解釈だ。

先ほど、私が創世記に触れたところでピンク色にした部分である。創世記第1章第6節~8節だ。Wikisourceからそのまま抜粋する。

 

1:6
神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。

1:7
そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。

1:8
神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。

 

上記のピンク色にした「おおぞら」というヤツである。

つまり、神は最初に天と地を創って、その次に光を創って闇と分け、そして地を覆っていた水の間に「おおぞら」を創って水と水を分け、その「おおぞら」を天と名づけるのである。

この「おおぞら」の解釈というか概念について、ふたつに分かれている。

たしかに、この「おおぞら」って何?って感じだ。

神は最初に天と地を創っているのに、「水」の間に「おおぞら」を創って、それをまた「天」と呼ぶ。

って、何だか面倒くさい話で申しわけないが、「おおぞら(大空)」も訳によっては「あおぞら(青空)」だったりするが、基本的には「空(そら)」である。

しかし、この「おおぞら」は英語圏の聖書では、「firmament(大空)」だったり、「vault(天蓋)」だったり、「dome(丸天井)」だったりしていたが、今では「expanse(空間の広がり)」が主流っぽくなっている。

長い間、主流だった firmament は、一応は「大空(おおぞら)」と訳されるが、聖書におけるイメージとしては、何か硬さを持った物質が濃密に詰まった感じの空(そら)という感じらしい。

ましてや、vault や dome は同じような半円というか半球の丸天井だったり丸屋根のことなので、そりゃ硬いだろう。

つまり、この「おおぞら」の部分の語句の解釈として、普通に空ということと、何か硬めの物資というか素材でできたものという、ふたつがあるようなのだ。

なぜか。

もとのヘブライ語ではこの部分は「raqia」という語句で、それが古いラテン語の聖書では「stereoma」と翻訳された。「stereoma」はラテン語の「stereoo」からきており、意味としては「しっかりとさせる、硬くする」みたいなことらしい。

それがさらに新しいラテン語の聖書では「firmamentum」と訳され、それが英語化して「firmament」となり、長らく英語圏では「firmament」が主流になったというわけだ。

でも、近代になって一部の神学者たちから、「でも、空というか天空のことだろうから、それが濃密な何かの硬い物質でできてるとか、丸天井とかっておかしくね? もっと常識的というか、科学的にも違和感のないようなイメージで、単に空間的な広がりということでよろしいんじゃないでしょうか?」みたいなことになり、最近では「expanse」が使われているようなのである。

何となく、違和感がありませんか?

てか、いまだにそんなにいろいろと語句ひとつで物議をかもしてるのかと。

旧約聖書の創世記の第1章の話だぜ。

いや、別に批判してるわけではない。聖書の大もとの大もとのような部分ですら、現代になってもいろいろと新解釈というか、見解があるのだなあと感心しているのである。

そりゃ、日本だって古事記だ日本書紀だ、はたまた源氏物語だっても、いくつかの表現で解釈の違いはこれからも出てくるだろう。

でも、ことは聖書なのだ。

ヘブライ語のトーラーなんてったら、一字一句間違えずに延々と写本されてきたはずだろう。解釈も厳密にされてきたのかと思っていたのだ。

まだまだ疑問というか、これは私ではなく、ネットで検索してもけっこう創世記の第1章の表現がわからないという意見は多く、それも日本人だけではなく英語圏の人たちも同じようなのである。

たとえば、最初に神が天と地を創ったのはいいが、なぜ、また水の間に firmament だか vault だか expanse だかを創ってまた天を創ったのか。そもそも何で水があるんだとか、そりゃもういろいろだ。

そしてその解釈も、いや最初に創った天と地とあとの天と地は同じものなのだとか、ふたつに分けた水のうち下のほうの水は海だが、上のほうの水は水は水でも水蒸気だとか、いろんなことを言う。

それこそ先の三位一体の件や、何で神はヘビをお創りになったのかとか、あとそうそう、神が自分のお姿に「似せて」人間を創ったというが、偶像崇拝を禁止してる聖書としては矛盾してないかとか、数え上げたらキリがないのである。

そして、それぞれに対する解釈がまた何通りもあるのだ。

いすれにしろ、日本の聖書では英訳を中心にしてるのか、「raqia」の部分は「おおぞら」としている。

そして、その「おおぞら」を神は「天」と名づけたとするが、この部分も英語版では「sky」だったり「heaven」だったりする。最初に創られた「天」も「heaven」だ……トホホホ。ちなみに「地」は「earth」だ。

先の西洋の近代科学や学問のジャンルがどんどん細分化していくのと同じで、聖書の内容も聖書に書かれた文字だけで解釈していくと、論理的に矛盾しているような部分は翻訳のほうで語句を変えてみたり、アクロバティックな論理を補足したり接ぎ足していくようなことにもなり、言葉の論理性や整合性ばかりにこだわっていると、聖書が伝えようとしていることを見落とすことにならないだろうか。

もちろん私は専門家でも何でもないわけだが、最初のほうでも書いたように、いわゆる神から伝えられた言葉というのはメジャーどころでも世界にはいくつもあり、それらのうちのいくつかのうちのいくつかの部分はジグソーパズルのピースのように結びついてくる。

そしてそれは、とんでもなく大きなひとつの絵を描きはじめたりする。

私たちはそろそろ地球規模でスピリチュアルな連携をはじめなければならないのかもしれない。

そのためには、知っておかなければならない知識というものがあるのだ。

新しい知識が新しい感性を生み、新しい精神を創っていく。

新しい知識とは何か。

これから知ることである。

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