昨日、『盤』の2回目を終えた。
参加していただいた方、感謝します。

3時間という時間なのでまたまた急ぎ足になってしまったが、今現在の世界というか太陽系、宇宙の状況を概観できたように思う。

そして、私たち「人間」の意識進化の方向性、実際の日常ではどうのように進んでいくのかなど、なかなかこうしたネットの記事では安易に書けないこともあるが、『盤』の内容はプラスαしてレポートも販売するので、興味のある方はご覧ください。

話は変わるが、TOKIO の山口達也が強制わいせつで書類送検だっけ?、その後示談になったようだが、何でも NHK の番組に出演した女子高生を自宅に呼んでどうしたこうしたとか……

政局、政変まがいの中では必ずといっていいほど出てくる芸能人スキャンダルだが、まあ芸能人に限らず、とんでも凶悪事件とか、超ビッグネームのお目出たい話とか、いずれにしろ国民の目というか関心をそらす報道は過去にいくらでもあった。

それはともかく、山口達也の行為は当然、内容から言ってもこれは責め立てられてもしょうがないね。とてもいいわけできる類いのものではない。

まあ、それなりの立場もあるし、それなりのいわゆる社会的制裁?みたいなことを受けなければならないだろう。

でも、あの仲間たちはなんなんだろうか。

報道でみる限りだが、リーダー役の城島とか、メンバーでは売れっ子ナンバー 1 と言ってもいい国分とか、ちょっと冷たすぎないか。

ジュニア時代から 30 年間、TOKIO から 23 年間ってんだから、同じカマの飯を食ったどころではない。ある種の戦友だ。

どうも記事を読む限りだと、山口ってのはアルコール依存症っぽく、本人はそうではないと思っているとのことだが、周囲の見立てを聞いても、やはり依存症のケが強く、早い話がアル中、酒乱みたいな言動が多かったようだ。

アルコール依存は精神的な要因が大きいから、山口は以前からそういう感じだったんだと思う。

だから、ほかのメンバー、仲間はどうしたのかと思うわけだ。

力になってやらなかったのだろうか。

何か精神的な悩みがあるなら相談にのるとか、本当に病気っぽいなら医者に連れてくとか、あぶない言動をとっているならそばにいてケアするとか、メンバーは何人もいるんだから、何かできただろう。

仮にそういうことをしていたとしても、効果がなかったということかもしれないが、ああいう発言はどうかと思うというか、完全に個人的な感想だが、薄情すぎる。

「情」があればいいってもんでもないし、同情の余地なし!という人もいるだろうし、いいかげんいい大人なんだから、そこまで甘やかすのはどうかという意見もあるだろう。

でも、どんだけ情けないヤツだとしても、仲間ならほっとけないだろう。

何も連帯責任をとる必要はないが、当分は謹慎して反省してもらい、必ず立ち直らせて見せるとか、仮にもリーダーならそれくらいのことは言ってほしい気がする。

じゃなければ、これまでの 30 年だか 23 年だかはいったい何だったのだろうと、逆に聞きたい。裏切ったのはどっちだかわからんよ、私に言わせれば。

人間そんなに強くはないよと言うとあまりに正論すぎて呆れられそうだが、誰だって弱点やダメダメなところはあるだろう。

そこもコミでつき合ったりする関係が人間にはあるわけで、そういうものがなきゃ、この人間世界はなんなんだって感じがする。

別に山口達也の行為をいいなんて言うつもりはないし、弁護してるわけでもない。ああいいうダメダメなことをやらかしてしまったヤツに対する物言いが気にくわないわけだ。

だって、簡単だからね。

信じられない!とか、サイテー!とか、社会人として、大人として、男として…云々、そりゃ、あそこまで言い訳できないヤツに対してなら安心して口撃できるもんな。

しかも、20 年以上も一緒にやってきた仲間からも見放されるようなことを言われる。

何とかしてやれよ、仲間だったら。

って、私が酒飲みだから言ってるわけではない。

しかも、渥美清の『あにいもうと』のような映画もある。つまり、パンパンだか何だかになって田舎に帰ってきて、世間に白い目で見られてボロクソに言われる妹を、兄がそれ以上にボロクソに扱って、逆に妹が世間の同情を買うということだ。それが兄の情ある筋書きだったってわけだ。

まあ、本当ところはわからないが…

あと、和田アキコだっけ、お酒に謝れ!だって。

まあ、言いたいことはわかるが、こういう談志のまくらもあったぞ。談志って亡くなった落語家の立川談志ね。

あるヤツが具合わるくなって医者に行って、

男  先生、何がわるかったんですかねえ…

医者 そりゃお前、酒だよ。

男  へ? 酒ですか?

医者 そう。酒だ。酒のせいだよ。

男  何だ、俺のせいじゃないんだ。

 

おあとがよろしいようで。

 

2 thoughts on “酒のせい?”

  1.  西塚裕一様

     西塚さんがご紹介くださった、故・立川談志師匠の落語に登場する「医者」は、粋だと思いました。
     体の「具合」を「わるく」したのは、患者本人ではなくて、「酒」だと、患者を責めない粋な思いやりとしての診断を下して、あとは、その診断を、患者が、(自分は責められていないのですから)どこまで有り難く受けとめて、「酒」に向き合うか、ということになると思います。

     すべては「酒のせいだ」ということで、(ここからは自己正当化になりますが)、「俺」は、いっさい悪くないんだから、その「俺」の決断で「酒」を飲み続けることは、いっさい問題ない、と考えて呑み続けたら、(いったん、体の「具合」を「わるく」しているわけですから)どのような結果になるかは、火を見るより明らかではありますが、その患者には「火」は、いっさい見えていないようですから、「酒」を呑み続けると思います。

    「医者」が、患者を傷つけないで、体の「具合」を「わるく」した原因を「酒」と指摘した時に、患者は、常日頃から、自分に示される思いやりを、敏感に受けとめる姿勢があれば、「医者」の意を汲んで、問題を抱えた「酒」の呑み方に変更を加えたかもしれません。そうすれば「火の粉も未然に祓えた」、ということになります。

     思いやりの意を汲む、ということを、

    《私たち「人間」の意識進化の方向性、実際の日常ではどうのように進んでいくのか》

     という文脈で考えてみた場合、「医者」が示した思いやりが、多様な関係性において、様ざまなバージョンで、「日常」の中で示されているように思います。

    《「人間」の意識進化》とは、天の計らいだと思いますから、「思いやりの意を汲む」心の営みは、自分の《意識進化》を進めるために「天の計らいの意を汲む」という内容に拡張されます。そこでは、「医者」の役割は、「天の代理人」にシフトします。

     問題は、私たちが、「日常」でふれあう人の多くは、「天の代理人」と言うよりも、まあ、徳の高い方であったり、普通の人びとであったり、時としては、相手への思いやりが欠如している(ようにも思われる)対応を示す人びとであったりと、様ざまだと思います。

     そこにおいて、「天の計らいの意を汲む」ためには、「思いは、実現する」という法則が有効に使えると思います。

     ふれあう方が、どのようなお方であれ、その方を、「天の代理人」だと「思う」心があれば、そしてその「天の代理人」から、「天の計らいの意を汲む」意志を持っていれば、天は、その「思い」が実現するように、地上の人びとが「天の代理人」の役を果たすように働きかけると思います。

     単純に分類しておけば、積極的に「天の代理人」を演じてくださる方と、反面教師として「天の代理人」を演じてくださる方と、二通りあると思います。

     その天の働きかけを信頼すれば、表層では、たとえば感情に左右されてどうしても「天の代理人」と思えない方であろうとも、その方を通して、天の働きかけが展開されているのですから、その方の言動を受けとめる際に、心の持ち方を工夫して「天の計らいの意を汲む」ことができると思います。

     もちろん、私は、エゴによって読み取りがズレることがよくありますが、しかし、そのズレも、愚かな自分に対する(ズレを大きくしないで、ある幅で抑えてくださった)天の働きかけによるものという「思い」があれば、感謝を込めて失敗からも積極的にいろいろ学べます。

    「俺のせいじゃないんだ」という台詞は、とぼけた噺として笑いを誘うものですし、反省しないで済むということであれば自己正当化になりますが、見方を変えれば、宇宙の波動域のどこに、その言葉を位置させるかによって深い味わいが出てくる台詞でもあると思います。

     エゴは、肉体を維持する本能から生まれると思いますから、完全に切り離すことは不可能なので、エゴの働きの必要性を踏まえた上で、そこに距離を置く意志を持ち、その距離を確保する姿勢で、(失敗は、乗り越えなければなりませんから)断固、自己正当化を拒否する姿勢を持ち続ける限り、「俺のせいじゃないんだ」という言葉は(人間の本質から出た言葉としては、つまり本質レベルでは、体の「具合」を「わるく」したことには、いっさい関与していないという意味で)「まったくその通り」という肯定的な意味を持つ言葉に変わると思います。

     般若心経的には、(私の受けとめ方では)自己正当化ではない、人間の本質から出た「俺のせいじゃないんだ」という言葉は、《実在》に属する言葉であり、「酒」も「酒呑み」も《非実在》に属するものになります。

    (般若心経では、《非実在》である、肉体人間のすべての営みを、《無》として全否定しています。もちろん、否定して、それで終わりではありません。)

     その《非実在》は、すべて《無》でありますが、《観音様》から見れば、(《無》ではなくて)全肯定されています。
    「人間」は、《観音様》の存在からは、大きく隔たっていますが、その本質は、般若心経的には、同じ、であります。

    《非実在》のすべては、それを《無》とすることによって全肯定される道が、《観音様》によって示されていると思います。

     もちろん、安易な自己正当化によって、「酒も、酒呑みも、無だと言っちゃえば、全肯定されるんだから、あとはいくら呑んでもいい、実に結構なことじゃないですか」というような論理では、いっさい全肯定されないと思います。

     その大きな隔たりを超えて、本質レベルの「同じ」を達成するためには、《般若波羅蜜多の瞑想と行》が示されていますし、このささやかな考察の文脈で言えば「天の計らいの意を汲む」チャレンジを、日常の中で積み重ね続ける必要があると思います。

    《私たち「人間」の意識進化の方向性》は、《実際の日常ではどうのように進んでいくのか》

     それは、あらゆる間違いが引き起こす悲劇が、地上レベルでは《般若波羅蜜多の瞑想と行》を通して、本質レベルでは、「俺のせいじゃないんだ」ということで、さらに踏み込めば、《実在》に存在する誰のせいでもないということで(現実レベルでは、貸し借りは、あくまで正しく清算されなければなりませんが、それを踏まえた上で)「あらゆる間違い」が、反転され、全肯定されて、「悲劇」の本質が解体される方向に向かうのではないかと推測します。

    ところで「酒」を弁護して、「酒」にひと声かけるとすれば、「もちろん、悪いのは、あんたじゃないね、そこに、限度もわきまえず手を伸ばす人が悪いに決まっているから、あんたは、安心していなさい」、と言うこともできると思います。

     まあ、しかし、何事も、そう簡単にはうまくいかないのもまた人生の妙味でありまして、体の「具合」を「わるく」する方向で一杯やるのか、それとも「安心」を気持ちよく飲みほす方向で一杯やるのか、

     落語もまた、実に、奥が深い、と思います。

     好本健一

    1. 好本様

      ポストありがとうございます。

      >《「人間」の意識進化》とは、天の計らいだと思いますから、「思いやりの意を汲む」心の営みは、自分の《意識進化》を進めるために「天の計らいの意を汲む」という内容に拡張されます。そこでは、「医者」の役割は、「天の代理人」にシフトします。

      なかなか難しい考察にはなってきますが、
      おっしゃるようにもし「人間の意識進化」が「天の計らい」だとすれば、
      原則的にすべてを「天の計らい」とすることによって、
      人間は意識進化を遂げることになる、
      ということになると思います。

      そして、そもそも「天の計らい」や「人間の意識進化」とは何か?
      ということですね。

      それこそ、まさしく『盤』で今、探究していることです。

      そして『般若心経』含め、
      いくつかのテキストが指し示している本来の方向が、
      ここにきてしかるべき人たちによって明らかにされつつあるわけです。

      西塚

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