だるまさんこちら向かんせ世の中は月雪花に酒と三味線…とまあ、こういきたいものです。

言葉の力 1

今日は昼くらいから雲行きが怪しかったが、夕方になってやはり降った。

事務所の室内にいたが、雨の気配がして、同時にあれは何と言うのか、夕方 5 時を知らせるチャイムのようなものが鳴りはじめ、中野区ではそれは「遠き山に日は落ちて」のメロディーなのだが、やたら長い。

自宅がある杉並は夕方のチャイムはたしか「夕焼け小焼け」で、そんなに長くなかった覚えがあるから、中野が余計に長く感じられるのかもしれない。

そのチャイムが終わると同時に、今度はチンドン屋の笛というかクラリネットの音色が聞こえてきて、ってあれはクラリネットだよな、オーボエじゃないと思うが、いずれにしろ木管楽器が奏でるメロディーが聞こえてきて、それは喜納昌吉の「花」だった。

4 階のマンションのベランダから見下ろすと、雨の中、傘を差してチンドン屋の 3 人がドンドンチンシャラ、「花」を流しながら路地を練り歩いている。

そそくさと脇を通りすぎようとする歩行者に何やらチラシを渡しているのだが、遠くて何のチラシかわからない。少なくともチンドン屋の衣裳ほど派手なチラシではなかった。

私はどこか飲み屋でも開店したのかと思わず駈け下りてチラシを受け取ろうと思ったが、やめた。

同時に、何だか「花」のメロディーにほだされたのか、浮かれた気分になってきて酒が飲みたくなったが、やめた。というか、もうちょっと後にしようと思った。

こういうのは、アル中っていうらしいね。

いつだったか、もう 20 年も 30 年も前のことだが、アル中の定義みたいなことをテレビだか雑誌でやっていて、何と夕方になって、ああビールでも飲みたいなあと思ったら、もうアル中なんだそうだ。

たまげたね。

じゃあ、あたしゃ完全にアル中だとはカミさんの弁だが、カミさんじゃなくても、ほとんどの酒飲みはそう思うだろう。

だからというわけでもないが、アル中とか、自己中とか、セクハラとか、KY とか、安易に言うのはどうかと思う。

まだ、呑んべいとか、わがままな野郎だとか、スケベだとか、鈍いヤツくらいに言っといたほうが、何かこうその人間にもまだ幅がある感じがするではないか。

アル中とか KY とか言うと、デジタル的というか、「それとそれ以外」みたいな、やたらそいつをその言葉だけでアイデンティファイするというか、乱暴者だけどいいところもあるよねっていうジャイアン的な幅を失くすというか、そういう方向の言葉のあり方だと思うわけだ。

もし、アル中だ!セクハラだ!となじられれば、そりゃまずは、いや、俺はアル中じゃないとか、セクハラなんかしてないと言いわけしなければならなくなり、そしてその理由を並べることにおそらくなるわけだが、言われた本人は出だしから不利な状況に追いやられることになるだろう。

そいつはもう、基本的にアル中であり、セクハラ男ということになってしまう。いったんそういうふうに烙印を押されたら、みんながそういう目で見はじめる。

言葉にはそういう「力」があるのだ。

もちろん、そのときの言い方にもよるし、たとえば「もう、◯◯さんったら、セクハラよ♡」と言うのと、医者が「アル中ですね…」と言うのは違うだろうから一概には言えないが、それでも「あいつは呑んべいだからな」とか、「スケベなヤツでね」という言い方のほうが、本人のハタ迷惑な部分を本人の一部として見る余裕があるというか、要するに本人を全否定しないメカニズムが働いているように思う。

だから、そういうニュアンスの幅を持っている言葉を使うほうが、万事は丸く収まりやすいし、創造的な気がするわけだ。

これは、たとえば英語に比べると日本語は物事を曖昧にしがちだとか、日本人は何を言いたいのかよくわからないといった話ではなく、言葉の話だ。

本当のところを言えば、どんな類いの言葉を使おうが、当事者同士がとことん話し合えばいいだけのことで、要は人間関係の構築に関連したことだと私は思うが、それでもやはり言葉自体には大事なことがあって、かつてはそういうことに日本人は繊細だった気がするのだ。

誤解がないように言うと、日本人が繊細だと言ってるのではなく、日本語自体に繊細なものが含まれており、その日本語を延々と使ってきた日本人には、日本の言葉によっていや応なしに培われてきた「感性」というものがあり、その感性は日本においてもいまだかろうじて機能しており、そのことはきっと日本人のほとんどが意識的であれ無意識であれ感じ取っていることでもあり、個人的に言えば、その「感性」が唯一と言ってもいいくらいの「救い」ではないかとすら思っているわけだ。

落語でも古典でも、あからさまな表現はあまりしない。その言葉を使ってもおかしくないような場面ですら、たとえば「泥棒」とか「盗っ人」とはあえて言わすに、「いや、正月から長屋から “縄付き” を出したくないから…」とか、「めかけ」とか「商売女」ではなく、「粋筋(いきすじ)」とか言ってみせる。

それでなくても日本には「忌み言葉」みたいなものもあり、結婚式で「きれる」とか「わかれる」といった言葉は誰も使わないだろうし、飲み食いが憚られる寺などでは酒のことを「般若湯(はんにゃとう)」、マグロを「赤豆腐」などとする隠語を使い、落語のネタになったりしている。

または業界用語みたいなものもあり、ヤクザの世界では酒を「きす」と言って、「きすひけ」と言えば「酒を飲め」ということで、高倉健が歌う「網走番外地」でもおなじみだが、警察なんかでも独特の隠語があるようだし、あからさまに言わないということが逆に裏に籠れば差別用語みたいなものを生み出したりして、いろいろな言葉がいろいろなニュアンスを帯びていく。

だから、そういう言葉自体が孕んでいるエネルギーというものはあるわけで、たとえば古典の文献にある知らない言葉でも、その言葉が持っている雰囲気みたいなものは何となく感じられ、それはとりもなおさず言葉が力を持っているということでもあるのだ。

芸能界なんかではかつて(今でも?)、何でも逆さ言葉で表現するノリがあって、寿司を「シースー」、タクシーを「シータク」とか言っていた。石ちゃんのおなじみの「まいう~」なんてのも元はギョーカイ言葉だ。

こちらはいかにも軽いギョーカイ系のノリだから、ことの本質がどこか骨抜きにされてスカスカになる感じがあり、それはそれで深刻さに陥らずに物事を進めるには優れた効力を発揮したわけである。

私もかつては芸能界に近いところで仕事をしていたことがあるので、「今日はメーアリーフだから、仕事をさっさと切り上げてザーギョでルービだな」なんてバカなことを言っていた。

何だかよくわからない展開になってきたが、何が言いたいかと言うと、言葉にはそれ自体に力があるということなのだ。

だから、何も考えないでボーッとしていたりすると、たとえば暴力的な言葉に沿う形で自分の思考の方向を知らず知らずのうちに捻じ曲げられたり、暴力的ではなくても、空疎な駄弁を浴びせられまくっていると、考えることを面倒くさがるタイプの人などは、内容はまったくないが、どこか心地よさげに繰り広げられる駄弁を自分の思考だと勘違いし、いつの間にかその駄弁が自分の思想になったりする。

暴力的な言葉とは、先の「アル中」や「セクハラ」のような紋切り型のレッテル張りの言葉や、「資本主義」とか「絶対法則」などといったイデオロギー的なものに依拠したスローガンの言葉のことだ。

空疎な駄弁とは、ネットで大量に垂れ流されるいわゆる「情報」に関して、他の同じような「情報」を根拠に繰り出される言説のことである。

まあ、ひと言で言えば、「本人の思考」ではない思弁のことだ。

このあたりのことは、たとえばゼランドの「振り子」の概念というものを参照すれば、ものすごくわかりやすく注釈してくれたりするが、いずれにしろ人は「思考する」ということ自体を「意識」しない限り、必ず「振り子」の餌食になり、先の「暴力的な言葉」や「空疎な駄弁」に自ら身をまかせることになるのである。

どうせ「身をまかせる」なら、もっと魅力的でセクシーなほうがいいと思うのは私だけではないのではないか。

ここに実は「奉仕」という概念が関係してくるのだが、言い方を間違えると誤解も六階もされるから難しいが、それでも私たちはありがたいことに優秀なる先人たちを持っているので、彼らの言葉=思考から先に進むことができるのである。

続く

Commentコメント

  1. 好本健一 より:

     西塚裕一様

    『いずれにしろ人は「思考する」ということ自体を「意識」しない限り、必ず「振り子」の餌食』になるということについては、鋭く自覚的でなければならないと思います。

     問題は、「思考する」営みは、顕在意識で行っていて、その営みを「意識」することもまた顕在意識で行う、という点にあります。

     要するに、顕在意識の営みを、顕在意識でチェックできるのか、ということです。
     ここで、チェックされる「顕在意識」を「a」とし、チェックする「顕在意識」を「b」とします。
     aとbが同じ地平に立っていれば、チェックは、不可能。
     どこからどこまでがaで、どこからどこまでがbか、同一平面上では、判別不可能。
     しかし、aとbが異なる地平に立っていれば、チェックは、可能になると思います。

     それは、意識が、階層構造を持つことを意味します。
     ここで、階層構造が持つ力学について、より下位の階層は、より上位の階層によってコントロールされる、と定義します。
     それは、階層が上がるごとに、波動が、より精妙になり、「目が利く」ようになることを意味します。
     これを定義1とします。
     そうしますと、たとえば、1階で「思考する」営みをやっていたら、2階から、その営みを見つめて、コントロールできます。

     師のビジョンを核にして、シンプルに、そして元気が出るように類推を進めます。(私の場合、とにかくドジな人生を、明るく、力強く歩みたいですから。)
     顕在意識は、2階までとします。そして、3階を、顕在意識に圧倒的な影響力を持つ潜在意識とします。そして、意識の階層構造は、全体で4階までとします。4階は、超越意識です。

     定義1により、最上階の超越意識は、潜在意識と顕在意識を完全にコントロールする意識になります。

     潜在意識に対して危機意識を持つ必要から、そこは、魑魅魍魎が跋扈する世界であると見定めておきます。深く用心したほうがいいと思います。しかし、その世界も、超越意識によって完全にコントロールされています。

     潜在意識を、玉石混交としますと、「石」に当たるものが「魑魅魍魎が跋扈する世界」になり、「玉」に当たるものは、超越意識の働きをよりストレートに顕在意識に伝えるベクトル、になります。

     顕在意識が、2階から1階の「思考」をチェックしていると、3階の潜在意識の「石」による介入と、「玉」による導きが同時に行われます。

     定義1から判断すると、2階の顕在意識のチェックは、3階の「石」の介入に対して、まったく無力です。

     しかし、その無力な顕在意識のチェックは、「玉」の導きによって、「石」の介入を超えた力でバック・アップされます。
    「石」の働きも「玉」の働きも、共に潜在意識の働きではありますが、超越意識と親密につながる「玉」の導きは、「石」の介入を抑止して導きを展開します。

     2階からのチェックに「玉」の導きを導入するものが「内観」だと思います。

     ここで、内観について考えるために、意識の階層構造を、「エネルギーの流れ」の視点で新しく定義します。(これを定義2とします。)
     1階の波動域を、A。
     2階の波動域を、B。
     3階の波動域を、C。
     4階の波動域を、D。
     とします。

     ここで、「石」の介入を「C1」、「玉」の導きを「C2」とします。

     超越意識のエネルギーは、「D→C→B→A」と流れます。
     C、B、Aが存在できるのは、Dから、波動の階層構造を通してエネルギーが送られているからです。
     この「D→C→B→A」の流れは、顕在意識から見れば、「生かされている力学」になります。

     超越意識のエネルギーは、同時に反対方向にも流れます。
     A→B→C→D。
     この流れは、フィードバック、学びの更新、の意味を持ちます。
     双方向に流れる双対力学は、Dの完全な管理下にあります。
     D=【D→C→B→A】&【A→B→C→D】
     双対力学は、多層的下降ラセン力学と多層的上昇ラセン力学による双対無限循環システム。
     表現を変えれば、宇宙のすべての営みは、超越意識の懐の中での営み。

     2階から1階を内観する時、顕在意識が、超越意識に全託していないと、超越意識の働きが限定されて(内観は)「玉」の導きとシンクロナイズしないので、「石」の介入のみが内観に働きかけます。
     ここで、顕在意識が、超越意識に全託していないありようを、Dの働きかけを拒否している意味で(D)と表現します。
    (D)→C1→B→A。(これを「α」とします。)
     これでは、内観が効果を上げることができません。
     ここで「α」を、より細かく描き直します。
    (D)→C1→B→「C1(A)」。
     「石」の介入により、Bは、「目が利く」にも関わらず、Aの実態を正しく内観できずに、C1がフェイクのために投影した「C1(A)」を、Aの実態と錯覚します。
     これによって、Bは、間違った結論を下し、B&Aの思いが、D&C2に統一された現実を創造できなくなります。
     しかし、全託していると、2階から1階に注がれる内観エネルギーは、ダイレクトにDからAに向かうエネルギーとシンクロナイズし、それによって「石」の介入をブロックし、「玉」の導きを強化します。
     D→C2(&C1)→B→A。(これを「β」とします。)

     内観は、常に「β」となるように方向づける必要があると思います。
     しかし、「α」の営みは、超越意識の中においてのみ可能です。
    「α」の真実。
     D→(C1→B→A)。
     ということは、「C1」の働きには、制限が設けられて、顕在意識が内観を通して「思い」を持ち変えることによって「C1」は「C2」に切り替わり、そのシフトは、「苦しみの解消と創造性の向上」に向けて地上の時間軸を超越したレベルから「C2&C1→B→A」の全体に働きかけ、これを、新しい相のもとに「β」にシフトさせます。

     定義1と定義2を連動させるものは、絶対普遍の超越意識にシステムのコアを持つ(双対性の)多層波動力学です。

     ここで、意識の階層構造について(多層反転の力学を持つ)定義3が登場します。
     中心点を持つ円をイメージしてください。その円は、内側に、大きさの異なる二つの円を持っています。要するに、同じ中心点を持つ三重丸をイメージしてください。
     1階の顕在意識は、一番大きな円で、これをAとします。
     2階の顕在意識は、次のサイズの円で、これをBとします。
     3階の潜在意識は、一番小さな円で、これをCとします。
     4階の超越意識は、中心点で、これをDとします。

     顕在意識が注意していない段階では、Aの働きがメインになりますので、これが一番大きな円になります。そこでは、AとBは未分化になっていますが、たとえば、ゼランド情報にふれると知識レベルで顕在意識がAとBに分かれ、BがAをチェックする可能性が開かれます。
    (それは、まず、顕在意識がゼランド情報に接すると、ゼランド情報が(A&Bの中の)顕在意識Bと同調して、未分化の顕在意識の中にBを覚醒させ、Bが、「A&B」を内観し、そこに「Bである自分」ではない「Aである自分」を発見し、その「思考」内容を検証する、という流れになると思います。
     顕在意識の働きには、自分の中において未分化のまま、つまり無自覚のまま働かせている「思考」が(潜在意識の、実に巧妙なフェイクにより)複数存在すると思います。それらを、明確に分けて ―つまり、それらを異なる波動域に振り分けて、それらの立ち位置を、個別的に― 明らかにし、自分が、今、何を「思考」しているのか、それは本当に自分が望んでいることなのか、を確認させてくれる知識を「知る」ことは、とても重要だと思います。)

     Bが、全面的に超越意識を信頼し、そこに全託すると、それを受けた超越意識は、定義3を、中心点、つまり自分を核にして多層反転させます。
     その意味は、「C2&C1、そしてBとA」の営みの全体に対して(Bからの希求を受けた)超越意識が最大の采配を振るう状況にシフトしたということです。
    (Bが、超越意識に帰依しない限り、この多層反転は起きません。ここから奇妙な表現になりますが、『それでも、「C2&C1、そしてBとA」の営みの全体は、超越意識に完全にコントロールされている』。つまり、Bが、超越意識に帰依しない限り、その自由を超越意識が尊重する限りにおいて、「C2&C1、そしてBとA」の営みの全体をコントロールする超越意識の采配には制限が加えられる。それを望んだのは、Bです。ここでも、思いは、実現します。
     しかし、その「制限」は、超越意識にとっては、想定内のことで、つまり、その「制限」は、超越意識が許可した枠の内側で認められた意志の行使であり、その枠の外側では、「Bの意志」は、超越意識の完全な多層コントロール下にあり、「制限」の枠外から全面的な多層サポートが展開されます。)

     すると、「中心点であるD」が、多層反転により一番大きな円になります。超越意識が、「C2&C1、そしてBとA」をすべてコントロールしているのですから、これが、多層宇宙における力学を正しく反映した構図になります。そして2番目のサイズの円はC、一番小さな円はB、今まで一番大きくて現実に近かったAは、中心点の小さなサイズになります。
     しかし、中心点と三つの同心円というシンボルでは、Dと「C&B&A」の力学的な「隔たり」は、まったく見えません。
     実際は、超越意識と「潜在意識&顕在意識」の「隔たり」は、たとえて言えば無限大の広がりがあると思います。
    (見方を変えれば、超越意識は、「潜在意識&顕在意識」を根本から超えた智恵と力を持つということです。)
     そこには、般若心経解釈の言葉では、《実在》と「非実在」を隔てる、決定的な「隔たり」が広がっています。

     ここで、三つの意識の力学の相違を、「地上的な視点」でシンプルに表示します。
     超越意識=他力。
     潜在意識=自力A。
     顕在意識=自力B。
    《実在》と「非実在」を隔てる決定的な「隔たり」は、自力Aと自力Bを共に最大限駆使しても、決して超えられません。
     それでも、超越意識である観音様は、《実在》も「非実在」も全肯定しておられます。
     なので、自力Bが、「石」の執拗で、巧妙なフェイクを退けて、「玉」の導きをいただいて、潜在意識全体を超えて、つまり無限大の「隔たり」を超えて超越意識とつながるには、超越意識に永住しておられる守護の神霊に帰依しなければ、それは不可能だと思います。

     多層反転を別の言葉で表現すれば、「神が、表に現れる」となります。
     これまでの「神」は、地球各地の、個別的な人間側の要請により、(「普遍」は、求められず)「絶対」のみを(人間側から求められて、不完全な形で)体現した存在だと思います。
     宇宙の経綸は、地球上から争いをなくすために、多層的な調和を地球に投影するように、今、働きかけていると思います。
     過去から現在にかけて、すでに様ざまな神々が存在しておられるのに、なぜ改めて「神が、表に現れる」という表現になるのでしょうか。
     結論から言えば、「普遍を行き渡らせる神が、表に現れる」事態を、今、地球全土は、迎えていて、それによって多層的な調和が(対立する複数の不完全な「絶対」を超克する)システムとして地球各地に出現する運びになっているように思われます。

     2階から1階を内観している時、エネルギーは「B→A」と流れますが、厳密には、Bの帰依によって「B→C2→D」とB&Aのエネルギーがフィードバックされ、B&Aの「思い」をDが検証し、その内観に最高の効果をもたらすようにプログラムされたエネルギーが「D→C2→B→A」と流れて効果的な内観が可能になります。

     この「D→C2→B→A」と流れるエネルギーには、「思考する」営みをチェックする働きに加えて、新しい現実を創造する働きもプログラムされています。
    (守護の神霊の導きを得て)「石」の介入が無力化されて、「思考する」営みがより深く超越意識と響き合う時、「玉」の導きも自由性を増して新しい現実を創造するプログラムが最高度に機能します。

     ところで、私たちは、潜在意識の執拗なフェイクを受けた「思考」のすべてを知悉できていない意識で、日常を生きていると思います。その意味で、日常においては、定義3のAで生きていることが多いと思います。 
     注意深くあるためのスタートとしての現状をレポートすれば、私たちは、定義3のAの意識で、定義1と定義2に取り組むことになります。
     しかし、守護の神霊に帰依することによって、定義3の多層反転を通して新たな相として出現した「Bの意識」によって定義1と定義2の実践に取り組むと、その取り組みは、最も効率よく深まります。

     多層反転後の【D→C2&C1→B→A】においては、最も効率よくC2の働きが強化され、C1が昇華されます。
     多層反転後の【A→B→C1&C2→D】においては、「C1&C2」のベクトル昇華による潜在意識の再構造化が行われてもっとも効率よくフィードバックと学びの更新が行われます。

     人間である以上、そして私の場合は特に、日常におけるジタバタやアタフタが避けられませんが、私は、シンドさのあまり時に深いため息をつきながらも(時に? それだけ? しょっちゅうじゃないの?)多層反転された定義3の実践を志向しています。

     好本健一 

  2. nishi より:

    好本様

    ポストありがとうございます。
    今回も私ごときではとてもとても、
    この欄では十分にはコメントできません。
    ものすごく緻密に考察されたモデルですね。

    >それは、意識が、階層構造を持つことを意味します。

    確かに、意識が階層を持っていることは間違いなさそうです。

    >双方向に流れる双対力学は、Dの完全な管理下にあります。D=【D→C→B→A】&【A→B→C→D】 双対力学は、多層的下降ラセン力学と多層的上昇ラセン力学による双対無限循環システム。表現を変えれば、宇宙のすべての営みは、超越意識の懐の中での営み。

    この大きな上昇と下降の相反する方向のイメージは、
    まさに半田広宣氏たちが提唱するヌーソロジーからカタカムナ、
    その他多くの真摯なスピリシュアルな研究文献では共通しています。

    >これによって、Bは、間違った結論を下し、B&Aの思いが、D&C2に統一された現実を創造できなくなります。

    そのため、ゼランド的に言えば平衡力の介入によって、痛い目にあうわけです。
    また、ご考察の中でさらに興味深いことは、たとえば「内観」する存在とは何か、
    「超越意識に全託」する存在とは何か、ですね。

    >ということは、「C1」の働きには、制限が設けられて、顕在意識が内観を通して「思い」を持ち変えることによって「C1」は「C2」に切り替わり、そのシフトは、「苦しみの解消と創造性の向上」に向けて地上の時間軸を超越したレベルから「C2&C1→B→A」の全体に働きかけ、これを、新しい相のもとに「β」にシフトさせます。

    この「新しい相」というのもまた興味深いですね。
    どこがどう新しいのか、また「思いを持ち変える」とはどういうことかなど、
    いろいろ議論したいところです。

    >絶対普遍の超越意識にシステムのコアを持つ(双対性の)多層波動力学です。

    ヌーソロジーでは壮大な宇宙のシステム・力学が紹介されていますが、
    結果としてのシステムは描くことができても、
    そのコアとは何かとなると、
    ヌーソロジーのOCOTさえもわからないと言います。

    これはマイヤーから発信されているプレアデス/プレヤール人でもやはりわからず、
    「創造と自然の法則と掟」と名づけるしかないわけです。
    そして、それでいいのだと私も思いますが、
    いろいろと文献を横断的に見ていくと、
    それでもある「わかり方」にたどり着きます。
    それを『盤』で報告しているわけです。

    >(それは、まず、顕在意識がゼランド情報に接すると、ゼランド情報が(A&Bの中の)顕在意識Bと同調して、未分化の顕在意識の中にBを覚醒させ、Bが、「A&B」を内観し、そこに「Bである自分」ではない「Aである自分」を発見し、その「思考」内容を検証する、という流れになると思います。
     顕在意識の働きには、自分の中において未分化のまま、つまり無自覚のまま働かせている「思考」が(潜在意識の、実に巧妙なフェイクにより)複数存在すると思います。それらを、明確に分けて ―つまり、それらを異なる波動域に振り分けて、それらの立ち位置を、個別的に― 明らかにし、自分が、今、何を「思考」しているのか、それは本当に自分が望んでいることなのか、を確認させてくれる知識を「知る」ことは、とても重要だと思います。)

    そうですね。
    私もそういう意味で「知識」は最大に重要だと思います。
    それでもまだようやくスタート地点というか、
    思考を前に進めていく大前提ですね。

    >(Bが、超越意識に帰依しない限り、この多層反転は起きません。ここから奇妙な表現になりますが、『それでも、「C2&C1、そしてBとA」の営みの全体は、超越意識に完全にコントロールされている』。つまり、Bが、超越意識に帰依しない限り、その自由を超越意識が尊重する限りにおいて、「C2&C1、そしてBとA」の営みの全体をコントロールする超越意識の采配には制限が加えられる。それを望んだのは、Bです。ここでも、思いは、実現します。
     しかし、その「制限」は、超越意識にとっては、想定内のことで、つまり、その「制限」は、超越意識が許可した枠の内側で認められた意志の行使であり、その枠の外側では、「Bの意志」は、超越意識の完全な多層コントロール下にあり、「制限」の枠外から全面的な多層サポートが展開されます。)

    >なので、自力Bが、「石」の執拗で、巧妙なフェイクを退けて、「玉」の導きをいただいて、潜在意識全体を超えて、つまり無限大の「隔たり」を超えて超越意識とつながるには、超越意識に永住しておられる守護の神霊に帰依しなければ、それは不可能だと思います。

    >過去から現在にかけて、すでに様ざまな神々が存在しておられるのに、なぜ改めて「神が、表に現れる」という表現になるのでしょうか。
     結論から言えば、「普遍を行き渡らせる神が、表に現れる」事態を、今、地球全土は、迎えていて、それによって多層的な調和が(対立する複数の不完全な「絶対」を超克する)システムとして地球各地に出現する運びになっているように思われます。

    ここでおっしゃる「超越意識」、「神」、「守護の神霊」、「帰依」に関しては、
    かなり慎重な考察が求められますね。

    なぜならこうした言葉自体に「アカ」がついているからです。
    アカとは、こうした言葉のこれまでの歴史の中で沁みついてきた、
    人々のもろもろの想念のことです。

    言葉自体が示す概念や、
    言葉自体に対するイメージ、
    また言葉が指す対象など、
    ぶっちゃけみんなバラバラだと思うからです。

    たとえば大本系の神示で表わされる「神」にしても、
    「中つ神」と「元つ神」などがあり、
    今回のまあ、一大イベント(と言ってもいいでしょう)においても、
    その内容や仕組みは「中つ神」でさえわからないと言うわけです。

    さらに上位の「元つ神」の為すことなので、
    またぶっちゃけ言えば、
    王様が直接行動を起こすので、
    各地域を統轄している各トップには、
    王様が何をするのかわからないということですね。

    お釈迦様の手のひらの上といった表現がありますが、
    お釈迦様の上位存在があるということです。

    さらに上、さらに上、
    何かにも似てますね。
    もっと細分化、もっと細分化…

    究極とは何でしょうか。

    私たちは、
    「帰依」するとすれば、
    それは同じものだと思います。

    西塚

  3. 好本健一 より:

     西塚裕一様

     ご返事、ありがとうございます。

    『究極とは何でしょうか。』

     今回は、「究極」を、「絶対普遍の真理の体現者」という言葉に置き換えて、岩根先生の受けとめ方について考察します。

     結論としましては、岩根先生が、「絶対普遍の真理の体現者」であるのか、ないのか、根本のところでは、私には、まったく分かりません。もちろん、私が岩根先生の御著書にめぐり逢うまでに学んだすべての知識と自分のささやかな実践を総動員して類推して岩根先生は、真理を体現しておられると信じることにしましたが、根本のところでは、まったく分かりません。そこで、私は、私の人生を賭けて、「絶対普遍の真理の体現者」でいらっしゃる岩根先生に帰依して生きる旅を、毎日、内観し、苦しみは乗り越え、喜びは謳歌しながら、帰依の姿勢に間違はないのか、日々、フィードバックしながら今を充実させています。

     そうする理由の第一は、絶対普遍の真理の追究において、岩根先生は、「独善と排他」を徹底的に排除する姿勢を持っておられるからです。
     それだけでなく、絶対普遍の真理につながる価値観は、積極的に評価しなさいと指導しておられるからです。

     第二は、「絶対性」の取り扱いは対立を生みやすいので、徹頭徹尾、「普遍性」の追求を通して、調和を生み出そうとしておられるからです。
     ご自身の存在については、「宇宙の潤滑油」と述べておられます。

     「普遍性」の追求は、「帰依」にも明確に現されています。
     岩根先生は、帰依については、複数の選択肢を設定し、岩根先生ご自身への帰依は、複数の選択肢の中のひとつと位置づけてご自身への帰依に対して普遍性を確保しておられます。
     私は、岩根先生の会を離れましたが、今も、心の中で、個人的に、岩根先生に帰依しています。
     岩根先生への帰依で、もっとも重要なことは、岩根先生が《実在》界の指導者であることを信じて、徹頭徹尾、岩根先生を求め続けていくのですが、その道の究極に、私が見出すのは、岩根先生ではなくて、真の自分です。

     岩根先生が御指導くださる、真の自分への道を歩むには、自分の心の奥の嘘や錯覚を内観し、見極めて、捨て去るプロセスが不可欠です。私は、初歩的なレベルですが、明るく元気に取り組んでいます。

     岩根先生は、真の自分の代理人でいらっしゃいます。
     岩根先生は、私が岩根先生への帰依を通して、岩根先生のロボットになることは、いっさい求めておられません。
     まったく逆です。
     岩根先生は、私が岩根先生への帰依を通して、その旅の究極において、自然に岩根先生から離れて、真の自分と一体になることを第一に願って指導しておられます。

    『あなたが《統一人格》をほぼ完成しつつあるときに、《岩根先生》はやっと《主体命代理》から解放されます。
     その時は《岩根先生》は喜んであなたを自分の懐から追放するのです。』
    「導かれる側の立場の確立」P15

     ここに不思議なパラドックスが存在します。
     私が、岩根先生から離れて、真の自分と一体になることによって、私は、真に、岩根先生と一体にならせていただくことができます。
     しかし、そうであっても、岩根先生は、私の永遠の師です。
     もっとも、その実現は、ドジな私にとっては、どれくらい先のことになるのか、まるで見当もつきません。

     岩根先生の会は、初心者向けの「リドゥクラブ」と、上級者向けの「やりなおし会」の二つがあり、「やりなおし会」においては、毎月、5000本ほど用意された指導の言葉の中から、岩根先生が、瞑想の中で、その月の会員の心の内容をチェックされてお選びくださった「指針」をいただくことができます。その指針は、内観を深めるためには、とても重要なものです。

    「非実在」界の私の観察力、分析力、考察力では、岩根先生の真実のお姿は、根本のところでは、まったく把握できません。
     それでも岩根先生が「絶対普遍の真理の体現者」でいらっしゃることを私が信じているのは、『自分の発見』を拝読して変化した私の意識を見守っている私の本質(=真の自分)が、私の覚悟に太鼓判を押してくださっているからだと思います。

     この認識も、根本のところでは、まったく根拠のないものです。ただ、私が、その認識に、私の人生を賭けているだけです。

     しかし、現状では、私のエゴによって、私は、真の自分をエゴの奥に閉じ込めて、とても窮屈な思いをさせているので、極めて申し訳なく思うのですが、私は、ドジな存在なので、すぐにはエゴを取り払えなくて毎日ジタバタ・アタフタしながらエゴを捨てて、真の自分に、少しでも自由自在にお働きいただけるように努めています。

    『「超越意識」、「神」、「守護の神霊」、「帰依」に関しては、(中略)こうした言葉自体に「アカ」がついている』というご指摘は、まったくその通りだと思います。西塚さんの検証力は、筋金入りだと思います。それらの言葉は、「アカ」に厚く覆われているゆえに、極めて『慎重な考察』が、求められると思います。

    『慎重な考察』の土台は、《実在》界のありようは、「非実在」界の、どのような分析力を駆使しても(つまり顕在意識&潜在意識レベルの力をMAXで発揮しても、本質のところは)「まったくわからない」という認識を断固踏まえて、自分の心の奥の奥の「声」に、自分の全存在を賭けて、慎重に耳を傾ける必要があると思います。

     そのためには、頼りになる文献を求め、学びを重ねながら、実践による検証によって、それらの内容を篩にかけて残ったものを自家薬籠中のものにしておく必要があると思います。

     より深く内面化された視点が、真の自分の声を聞き取る度合いを深めてくれると思います。
     そのためには、自力を駆使して、「視点」をより深く内面化するプロセスが求められますが、それを最大効率で進めるには、《自力を駆使して、「視点」をより深く内面化するプロセス》の全体が、守護の神霊の御指導によって初めて可能になるという視点を堅持し続けることだと思います。

    『そのコアとは何かとなると、/ ヌーソロジーのOCOTさえもわからないと言います』

     私の、コアについての言及は、今ここの旅を、明るく元気に進めるための「類推」ですが、その内容は、『自分の発見』と師の二冊の般若心経解釈本から得たビジョンを直観的に凝縮したものです。

     ところで、めぐり逢いの「ご縁」を大切にすることも必要だと思います。
     岩根先生にたどり着く私の探究の(直接的な)流れとしましては、植芝盛平先生、出口王仁三郎先生、エドガー・ケイシー先生、五井昌久先生を通して、私は、岩根和郎先生にたどり着きました。
     生まれて初めて、(何回も通っていた)ブッククラブ回という本屋で、岩根先生の『人類が宇宙人類に成る時』という本を見かけたときの第一印象は、「岩根和郎?まったく知らない。でも、この本のタイトルには、五井先生の響きを強く感じる」と思って手に取り、内容をざっと眺めて購入し、その月のうちに、他のすべての御著書も購入して会員にならせていただきました。
     岩根先生と五井先生の関係については、まったく知りませんでしたから、『人間やりなおし』を拝読していて、岩根先生のご修行中に五井先生が登場された時には、とても驚きました。

    『ぶっちゃけみんなバラバラ』

     複数のビジョンを地上に降ろされた皆様は、(その存在に対する検証、あるいは内容に対する検証もまた不可欠だと思いますが)《実在》界レベルでは、連携を取られていたと思います。しかし、ビジョンが複数存在するということは、それら固有のビジョンを学ぶ、固有の必要性を持つ方々が個別にいらっしゃることになります。当面は、それぞれの方々に、他のビジョンに影響されずにそのビジョンを学ばせたいというご配慮があるために、他のビジョンとの連携は示さないで、独立したビジョンのみが降ろされたので『ぶっちゃけみんなバラバラ』になり、西塚さんのように、連携プレーのつながり具合に目を向ける方々にとっては、真相を究明しにくい事態になっているのではないかと思います。

     改めて『究極とは何でしょうか』?

     般若心経解釈によれば、宇宙の本質と、人間の本質は、同じ、です。
     ということは、宇宙の究極と、神の究極と、人間の究極は、同じ、ということになります。

     しかし、それでも、多層宇宙の縦構造による立場の違いは厳然として存在すると思いますし、また、それは、役割分担の違いと言い換えることもできると思います。しかし、そうであっても、やはり、同じ、だと思います。

     その意味で、《実在》界の存在である限り、「王様」も「各トップ」も、同じ。「お釈迦様」も「お釈迦様の上位存在」も、同じ、だと私は考えています。それについては、「空」、「色」、「受想行識」の構造を解読した『暗号は解読された 般若心経 改訂版』で語られたビジョンを応用してそこに当てはめて理解しています。

     私にとって、その「同じ」という真実が、全身全霊で「分かる」のは、どれほど先か、まるで見当もつきませんが、私が、守護の神霊の御指導をいただいて、《実在》界への参入を許されて、そこで、真の自分と完全に一体化した時、私は、そのことが、根本から「分かる」と思います。

     お釈迦様が登場されましたので、「天上天下唯我独尊」にちなんで(その一般的な解釈からは離れて自由に)類推し、考察します。「非実在」界で、Aさんが「天上天下唯我独尊」と宣言し、Bさんが「天上天下唯我独尊」と宣言した場合、多くの場合は、ぶつかると思います。しかし、《実在》界の皆様は、「唯我」の「我」が「《実在》界の全存在」を意味することをご存じなので、お一人残らず堂々と「天上天下唯我独尊」と宣言しておられると思います。そして皆様は、その宣言を、多層宇宙システムを(縦構造に則って)役割分担のもとに運営する意志のもとに宣言しておられますから、いっさいぶつかることはありません。そして《実在》界では、「思い」は、即「行動」として現されることになりますので、まさにその宣言によって《実在》界の大調和が常に新しく更新されて営まれていくことになる。それが《実在》界の営みだと思います。

     また、別の視点から考えてみます。「天上天下唯我独尊」の「天上」を《実在》界、「天下」を「非実在」界と受けとめます。そして次に「天上天下唯我独尊」を、「天上」における「唯我独尊」を「天下」に投影する宣言として受けとめます。つまり、「天上天下唯我独尊」宣言とは、《実在》界における多層的大調和を、「非実在」界へ投影する宣言です。すると、その投影は、地球人類すべての人びとの「我」を、《実在》界における「唯我独尊」の「我」へシフトさせるサポート・システムとして機能すると思います。システムと言っても、それは、《実在》界の皆様のお働きの一部そのもの、皆様の意識の一部そのものです。そして地上側から、肉体人間の「我」が、《実在》界における「我」へシフトされることを願う意志が発動されれば、それによってサポート・システムが感応し、その願いを成就させる働きかけが、その意志に向かって起こると思います。「天上天下唯我独尊」宣言とは、《実在》界から、諸行無常の「非実在」界へ贈られる慈悲に満ちた宣言だと思います。

     観音様が「非実在」世界を全肯定しておられるということは、諸行無常の世界に「永遠性、絶対性、普遍性」を投影しておられる、ということだと思います。それが、観音様の「思い」です。その「思い」によって、観音様は、ご自身に帰依した人ぴとの歩みを力強く支える響きを地上に贈っておられると思います。それは観音様の慈悲心の発露だと思います。その意味で、観音様による全肯定も、「天上天下唯我独尊」宣言も、同じ、だと思います。

    『私たちは、/ 「帰依」するとすれば、/ それは同じものだと思います。』

     私の今現在の歩みは、そのドジな旅を、元気に明るく、より確実な内容にするために(新しい気づきによってシフトする)類推を活かして足もとを確かめながら、失敗をも前に進むための糧として活かしながら、大らかに歩み続けています。

     好本健一 

  4. nishi より:

    好本様

    ポストありがとうございます。
    これまた重厚な論考で、どうしようかと思いましたが、
    私なりのコメントをしたいと思います。

    >そうする理由の第一は、絶対普遍の真理の追究において、岩根先生は、「独善と排他」を徹底的に排除する姿勢を持っておられるからです。それだけでなく、絶対普遍の真理につながる価値観は、積極的に評価しなさいと指導しておられるからです。

    岩根和郎氏のことは存じ上げておりませんでしたが、以前にもお伝えしたように、
    ご紹介いただいてすぐYouTubeでほとんどの講演を拝見しました。
    『般若心経』に関する氏のご考察は見事です。

    氏の「色即是空」への視点は、1986年に『8マン』の漫画で知られる桑田二郎氏が、
    やはりそれまでの解釈は間違ってるとして、
    『般若心経の霊妙力』という書籍でほぼ同様の視点を提起しています。

    優れたテキストは何通りにも読めるようになっているようですので、
    『般若心経』は今後もさらに人類に有益な書として研究されていくでしょう。

    実際、岩根氏もご指摘の通り、
    『般若心経』の編纂者はそれまでの、
    たとえばナーガールジュナや鳩摩羅什などとは、
    だいぶ系統の違う存在の方たちのようです。

    いわゆる仏教が初期の学者らによって曲解・歪曲されていくことへの懸念からか、
    仏陀の説いた本来の教えへと回帰させる意図があったようですね。

    これは聖書なども同じで、
    ヨハネの福音書など、
    どこでどうやって編纂されたものか、
    結果的に人類に必要なテキストというものは、
    必ず人類の手もとに届くように残されていくという、
    「法則」のようなものがあると思わざるを得ません。

    話がずれました。

    岩根氏は再三、「教祖化」を警戒しておられますが、
    これは現段階ではもはや大前提のことですね。

    基本的には私は宗教を否定する者ではありませんし、
    宗教は「もとの教え」という意味であり、
    それこそビリー・マイヤーに伝えられるプレアデス/プレヤール人とされる存在が提起する、
    「創造と自然の法則と掟」や『ラー文書』でも言うところの「一なるものの法則」、
    さらにはブログでは詳しくは書かないのですが、
    『盤』ではガンガン話す(笑)ヌーソロジーのOCOTが言う、
    「世界の多様性を「一なるもの」に統合していく」といった表現などでも表わされる、
    人間が思考を重ねていくときには必要不可欠な、
    根本的・原初的なものに関する「教え」でしょうから、
    そうした意味においては宗教は大事です。

    ただ、宗教教団となるとまた違ってきますし、
    ここでは論じるスペースがありません。

    好本さんの論考にはまだまだコメントしたい件がありますが、
    とんでもなく長くなる上に、
    ただでさえ私の文章はくどいところがありますので、
    ブログの記事に関連して書いていこうかと思います。

    ちなみにお釈迦様がお生まれになったときに言ったとされる、
    「天上天下唯我独尊」の話も、
    私には以前から気になっていたことがあり、
    それはそのときにとったというお釈迦様の「ポーズ」なんです。

    天と地を指したとされますが、
    これ、けっこう興味深い案件へと誘ってくれるのです。

    あと、

    >『そのコアとは何かとなると、/ ヌーソロジーのOCOTさえもわからないと言います』

    の件ですが、
    前回のコメントでは勢いにまかせて記憶で書いたので、
    ちょっと自信がありませんでしたから調べてみました。
    でも、ヌーソロジー関係を探したのですがいまだ見つからず、
    ひょっとしたら私の勘違いで、
    ビリー・マイヤーの書籍に出てくる、
    プレアデス/プレヤール人のセミヤーゼの言葉と取り違えていたかもしれません。

    こちらは見つかりました。
    以下です。

    「創造は理念そのものから成り立ち、自ら凝縮して原初の霊的エネルギーになります。それ以上のことは私たちにもわかりません」(『プレアデス/プレヤール人とのコンタクト記録(1)』P196/水瓶座時代出版)

    西塚

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