世智に疎いながら一応、会社代表のオヤジの身過ぎ・世過ぎの奮闘記を記事にしようかとも思ったが、シャレにならないドタバタ劇をさらしても読むほうも気が滅入るだろうし、ましてやそこには何の気の利いたノウハウも裏技も裏情報もないってんで、やはりやめることにした。

私の最大の関心ごとは、簡単に言えばいつでも仕事関係のことであり、つまり書籍や動画コンテンツの制作、『盤』の活動ということだが、そこからは片時も離れることがないというか、それはイコール生きることである。

昔、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキング・ブギ」という大ヒット曲があったが、ただ不良がタバコを吸いまくってるってだけの歌だ。

♪ ……目覚めの一服、食後の一服、授業をサボッて喫茶店で一服、
風呂入って一服、ク◯して一服、そいでまたベッドで一服
朝から晩まで、スモーキング・ブギ………

ってな歌詞だったが、「一服」を「思考」に、「スモーキング」を「 Thinking 」にすれば、ほぼ自分のことだが、それを◯十年も続けているのだから、よく飽きないものだ。

しかし、コレ、みんなやってるのだと思う。もちろん、吸ってるタバコが朝日なのかエコーなのか、ショートピースなのかマイルドセブンなのか、マルボロなのかゴロワーズなのか葉巻なのかは、いろいろあるんだろうが……

そんな年がら年中、考えてばかりいたら頭おかしくなっちゃうんじゃないか? たまには息抜きも必要だし、頭をカラッポにすることも大事だっても言われそうだが、頭は生まれたときからおかしいっちゃおかしいし、本読んだり、酒飲んだり、稽古ごとしたりするときでも、ある種のゾーンに入れば超リラックスできるし、同時に思考も磨ぎ澄まされる。

あ、ちなみにこの記事はちょっと前の「気づき」の続編ではない。それはそれでまた書くが、いや、最近更新が滞っている YouTube のコンテンツだが、たまにコメントをいただいてるようで、YouTube と連動している Gmail の連絡でそれとわかるのだが、いろいろと紛れた中でヒョッコリ通知されるので見逃すことが多い。

この五目舎のサイトへのコメントだとわりと早く気づくし、遅れても必ず返事をするようにしているが、YouTube へのコメントもこのサイトでまとめようと思うのだ。

今後も YouTube のコンテンツを増やしていくが、それに対するコメントや場合によっては議論などもこのサイトでできるようにしたいし、要するに「場」としてはひとつにしたいのである。

単純にマンパワーの都合だが、YouTube へのコメントも中には質問もあるようなので、そのまま返事しないでいるのも心苦しいし、ここで返事できるように工夫しようと思う。

といっても、私はそういうことはよくわかってないので、とは言え、ネットで勉強すればわかるはずだが、何せ身過ぎ世過ぎの仕事もあり、なかなか手がまわらないので、いろいろと知人それも当サイトの主旨にご理解いただいている人たちの力を借りながら、善処していこうかと。

YouTube のコンテンツ、今は『おやすぴ』と『宗任問答』しか発信できてないが、それでも音がどちらかのスピーカーからしか聞こえないとか、よく聞き取れないとか、完全に録音技術に関することと思われる不都合も指摘されているので、さすがに改良したいと思う。

でも、私が聞くとちゃんと両方から音は出ているのだが、何か録音の仕方かアップの仕方が間違っていて、デバイスによっては音が片方からしか出なくなるということがあるのかもしれない。

よく聞き取れないというのも、特に居酒屋で収録したバージョンがそうだと思われるが、これも前にも書いたが、ピンマイクを取りつけるなどして対処したい。

いずれにしろ、詳しい専門家の知人に相談するところです。

ということを今回はメインにお知らせしたかったわけで、前振りの話がまたもや脱線しそうだったので、やや強引に趣旨に戻した。

ともあれ、仕事だけはしていると言っても、やることなすこと生きることすべてが仕事だと思ってるので、どこまでここを読んでる人たちと「仕事」に関して概念を共有できているか自信がないが、日々、クオリティーを追究していることは間違いありません、ハイ。

仕事と言えば、私がメインとしている仕事でも「スピ系」と括られるが、そもそも先の『おやすぴ』にしても、たしかに正式なコンテンツ名称は『酔っぱらいオヤジの Spiritual Meeting 』である。

でも、初回でたしか、すべてこの世のことはスピリチュアルであり、それは人間が精神活動を行なっている限りは当たり前のことであり、ここではそういう意味でスピリチュアルという言葉を使っている、というようなことを宣言したように記憶しているが、本当にそうだと思っている。

だから、スピリチュアルなことに関しても「いわゆるスピ系」などとして、私自身あえてある種のスピリチュアルマターを差別化して指すときがあるが、やはりそれもスピリチュアルであることには変わりなく、正確に言えば、そのスピリチュアルなことに関わっている人たちの「志向性」を検証しているわけで、つまりある種の「志向性」を持った人・人たち・組織を「いわゆるスピ系」としてまとめて指しているのである。

どんな「志向性」だ?と言われると長くなるが、簡単に言えば、「不安」や「恐れ」をごまかすために何かをでっち上げることである。

その志向性は、まだ浅いというか薄いうちは、➀ いろいろと迷いも出るし、本を読み漁ったり、セミナーや宗教関係も渡り歩いたり、人とも議論したりする。いわゆるスピリチュアルジプシーといわれる人がそうだろう。

そして、だんだんその志向性が高じてくると、➁ 迷いは減ってくるが、どこか自分の判断に疑いを持っているというか、本来の自分の望みとは違うことをしているのではないかという、不安や恐れがときどき頭をもたげるので、そこに気づかされてしまう人に対しては、抑制のできない感情的な怒りが沸き起こってきたりする。

さらに、志向性が盲信から確信になると、➂ 迷いはなくなり、自分と違う志向性の相手が自分の不利益になると判断した場合は、最終的には徹底的に排除しようとする。

まあ、私が「いわゆるスピ系」と言う場合は、だいたい上記 3 パターンの人・人たち・組織を指すが、➀➁➂に共通していることは、最後まで「不安」と「恐れ」に囚われており、それをごまかすために何か(何でもいい)をでっち上げて、信奉・崇拝・信仰していることである。

これは極端な話であって、大方の人たちは私と同じように、私の言う意味で「スピリチュアル」であり、私の言うところの「いわゆるスピ系」でもないから、あまり関係のない話かもしれないが、世の中のたいていの不快なことは、➀➁➂のような人たちが意識的にせよ無意識的にせよ、関与していると思うのだがどうだろう。

だからこそ、ゼランドなども「不安」や「恐れ」に関する考察を「知識」として提示するわけだし、それらを人間への最大の武器として生きながらえようとする「振り子」なる存在のことを明かすのである。

もちろん、それはゼランドに限ったことではなく、古代の叡智はみなそのことを知っていたし、神智学はその「知」を体系化したものだ。

「世界」あるいは「宇宙」でもいいが、それは創造された初めから「光」であり「生」であり「有」であり、あえて言えば「善」である。

だから、よく取りざたされる「闇」も「死」も「無」も「悪」も、「光」の中の「光 vs 闇」という図式の中の「闇」であり、以下同じように「生」や「有」や「善」の中の死だ、無だ、悪であって、われわれの理性が理解できる表現のバリエーションのひとつにすぎない。

理性のバリエーションのひとつにすぎないから、世界や宇宙の仕組みに関連して、こうした光と闇とか善と悪などといったものと似たような図式を駆使した表現は、高度に洗練された形でこの先いくらでも出てくるだろうし、ちょっと気の利いた人なら気の利いた表現ができるのである。

いわゆる地球外知的生命や高次元・別次元の存在とされるものからもたらされる情報には、ある大きなというかダイナミックなサイクル・周期に関するものもあるが、今はそれには触れないにしても、実はことは非常にシンプルなようだ。

まさに「今を生きる」ということであり、私たちは「オギャー」と生まれたし、世界も「光」として生まれ、私たちは今、ここにいるのである。

今、ここにいるということは、最初から「光」の中に「光」としているということであり、どこに向っているのか、何をしようとしているのかはともかく、私たちは「光」の中の「光」として動いている。

わざわざ、あえて「闇」に向かう必要もないし、いや別に向かいたい人は向かってもいいのだろうが、それは誰がこしらえた「闇」かくらいは考えたほうがいいんじゃないだろうか。

人が作った「闇」なら、何かバカバカしい感じもするし、ましてや自分ででっち上げた「闇」なら、なおさらバカバカしい。

トルストイの短編に「光あるうち光の中を歩め」というのがあるが、これはそもそも「ヨハネの福音書」にあるイエスの言葉とされる。Wikisource から引用する。

 

そこでイエスは彼らに言われた、
「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。
光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。
やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。
 

光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。
イエスはこれらのことを話してから、
そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。
 
 

このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、
彼らはイエスを信じなかった。
 
ヨハネの福音書 第 12 章第 35~37 節

 

イエスはこの言葉を最後に、イスラエルの民の前から去ったのである。

 

One thought on “光あるうちに”

  1. 西塚裕一様

    「光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。」

     この言葉を、私なりに受けとめ直します。

    『光がある間に、それが光であるのかどうか検証し、その結果に基づいて、その光が、「偽」ではなくて「真」であると判断できたら、その「真」を、まず「仮定」とし、その「真」である「仮定」に自分の人生のすべてを賭ける覚悟を固めて、その上で光について学び、その学びを踏まえた上で、光に責任転嫁をしないで、まず「自力で歩く」探求をとことん継続し、最後まで(光を当てにしないで)自力で歩む姿勢を貫徹し、その限界において、心の底から、もう自力では、ここから先へは一歩も歩めないと全身で実感したら、そこで初めて光に全託する姿勢を整え、その全託の姿勢のもとに、これまで自力を駆使して歩んで身につけた経験知を踏まえて、それをすべて全託の中で活かしつつ、光に対してへりくだって、光と共に歩めば、「仮定」であったものが、人生経験を通して、「真実」であると納得する度合いが深まるので、その探求を継続すれば、「光」に依存することなく、自分の歩みの中に、「光」の実在を確信する度合いが深まり、そうすると、やみには追いつかれないので、ぜひ、そのようにしなさい。』

     私は、普遍性を追求しています。「光」とは、普遍性です。「光」の内容、「光」の固有名詞は、人によって、異なります。「光」とは、自分の人生のすべてを賭けて追求する普遍性です。人によって異なる「光」に、どこまでも普遍性を確保する探求を個が深めていけば、その深化に応じて、豊かな調和が、その個と個の間に達成され、その達成が、多様に響き合う、多くの個と個の間のシンクロニシティを強化すると信じています。

     好本健一

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