うへえーッ!

もう前回のアップから一週間が経過している。てか超えた。それに『盤』9 回目の終了報告もしてないじゃん。だめじゃん。

先日の土曜日に『盤 9 』にご参加いただいた方には、感謝しております。

今年の 3 月から、いきなり闇雲と言ってもいいくらいに急き立てられて開始した『盤』だが、ここにきてまだ 9 回ながら、今年も終わりというタイミング、また 9 回という数字も含め個人的には思うところもあるが、毎回探究してきたことへの一段目の結論めいたものは出せたと思う。

3 時間という短い間なので、結論ってもさわりというか概要というか、おそらくこういうことだろう、そうとしか考えられないということであり、来月ってか来年からはさらに突っ込んだ領域へと入っていくわけだが、これははっきり言って人間の “進化” だ。

もはや宇宙人とか神とか陰謀などということではない。いや、もちろんそれも踏まえながらだが、私たちはいつまでもその “手” に乗ってるばやいじゃない。

私たちって誰だって話だが、“気づいた” 人たちだ。

私たちはおぎゃあと生まれてさいならぁと死ぬわけではないのだ。いや、これもまたその通りとも言えるのがもどかしいが、そんなまた “手” に乗ってる場合では本当になく、事象・現象の後ろから前からだけではなく、きれいはきたないきたないはきれいと言ったマクベスの魔女の託宣的な視点というか、“感覚” がどうしようもなく重要なのである。

して、それは教えられるものではなく、自分で気づくしかないことだ。

知識として教えることはできても、腑に落とすって言い方があるかどうかわからないが、“わかる” のは自分しかいない。知識だけあってもしょうがない。

と言ってまたふと圓生を思い出したわけだが、六代目三遊亭圓生ね、圓生に『淀五郎』って噺があって、私は何回聞いたかわからない。

噺の筋を言ってもそれだけで終わってしまうからアレだが、ともかくその淀五郎って若い役者が『忠臣蔵』の判官を演るのだが…えーとネタバレってのになるかもしれないから、一応注意しておきますが、ともかくあまりに淀五郎の芝居が不味いので、いや本当は相当に見どころがあるから若いのに判官を演らせてもらってるのだが、本人が気負いすぎちゃって、その芝居が臭くて見てらんない。要するにカッコつけすぎなわけだ。

でまあ、親方にある意味でイジメられる噺だが、本心には実は真心がある。それでほかの年配の役者、いわゆる名人とも言うべきベテランの家へ行き、自分の芝居を見てもらって相談するのだが、そのときその年配の役者が言うわけだ。

 

うーん、どうも、なんといっていいか、……困ったねこりゃ。お前これはだれから教わったんだ? だれにも教(おせ)えてもらいません……。お前何かい、自分の師匠のを見たかい……よかったねえ、判官は。見ておりません? 見なくちゃいけないな。たとえね、こんな役はやらないと自分で思っても、やっぱり見て覚えておくべきもんだ。自分がやらなくても人に教えてやってもいいんだから……。たとえどんな事でも見落さないよう、気をつけてなんでも覚えるようでなくちゃいけないよ。

『圓生古典落語 2』(集英社文庫)より

 

とまあ、それはそれは親切でいい名人なわけだが、淀五郎が勝手に自分でいいと思った判官の芝居をしていることがわかると、その名人は、てか中村仲蔵だが、思わず、

 

……だれの型でもない……型無してえ奴だな、なおいけない。

 

と嘆くのである。

何が言いたいのかまたわからなくなってきたが、要するに “知識” は重要というか必要であり、それは先の仲蔵が淀五郎に教えたように、人に教えてあげることもできるものだ。

だから、どんなことでも見て覚えるってか、私なりに言い換えれば、どんなことでも自分の体験は意識的であれば何かしらの知識となり、それは人に教えることもできるということだ。

でも、人から教えてもらって、はあ、さいですかっても、教えてもらうほうに何かしら共鳴するものがなければ響かない。

何かしらというのは、もうこれは “体験” しかないのだが、何回もバカのひとつ覚えのように言っているが、本当に古今東西のいわゆるスピリチュアル系の文献でも高次元の情報でも、体験が重要だということしか伝えてきておらず、人間は体験するためにこの世に存在しており、体験なくしては何も学べないというようなことしか伝えていない。

だから、体験は非常に大切なことであり、自分のこれまでのそれこそ体験を自分なりに、つまりひとりよがりにこしらえてきた価値体系を基に振り分け、ランクをつけ、よくわからないことは不必要なものとか、無意味なものとか、非生産的であるなどとして排除することほど、お目出度いことはないのである。

せっかくの機会を逸するばかりか、またやり直しができればいいが、もうそういうことはできないので、何とも残念なことになってしまう。

だから、そういう残念も全部ひっくるめて “体験” なんじゃね?と言うムキもあるかもしれないが、もう “体験” にはならないのだ。

先の仲蔵が、型無しっヤツだな…と長息してみせたが、この “型” というのも重要で、型と言えば大本だが、大本の王仁三郎のみならずゼランドでも何でも私が思うところの重要文献が伝えることは、すべてこの “型” にも関係し、要は “思い” につながってくる。

体験を避けるというか実際、体験を避けることは不可能だが、淀五郎のように人の判官の芝居も見ないで、ひとりよがりの自分なりの判官の芝居だけをしていると、観客を沸かせることはできず、つまり感動、心を動かすことはできず、ものすごく狭いところでクルクルと回るネズミのようなことになってしまう。

型がなければ型を破ることはできない。ベタだが。

*

“ワンネス” というのはまさにその通りなのだが、私たちは “体験” を生きており、予定調和みたいなことは結果的に評される状態のことで目指すものではなく、ましてや想定外の体験を忌避する方向というかある種の精神の保全は、ワンネスにただ否定記号をつけるだけかのような、不毛な抽象的な概念操作に自らを添わせるといった、かなりグロテスクなことのように私には見える。

ゼランドは、すべての分野の知識をまとめて調和させることのできる疑う余地のない事実がひとつだけあると言ったが、それはものごとが現実化する際の多様性・多面性のことだった。世界の多変移性は、もっとも重要な基礎的特性なのだ。

違うアプローチではあるが、出口王仁三郎は、10 を 3 つに分けても最後に 1 が残る。どこまで行っても 1 が残るわけだが、その 1 のことは最後までわからないだろうというようなことをたしか言っている。

このことは国常立尊が何人もの体を通して、お筆先で学や智や金ではわからんと伝えていることとも呼応しているが、先の “型” とも関係してくるのだ。

先に型がある。

つまり “思い” があるということだが、その思いが思いのほか意味が重く、みなが思い思いに思うということへのあなたの思いが、決定的に重要なのである。

 

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