GW もあっという間だ。

ハナから私には関係がないということはないが、勤め人のような気分はもはやないわけで、締め切り関係の調整やほかの用事も含めけっこう大わらわだったが(今も)、ふと例のブログ更新のことに思い至り、調べたら、あ、もう 5 日だってんであわててこうして書いてるわけだ。

例のブログ更新っても何のこっちゃだろうが、いや、地元の立ち飲み屋でよく会う同好の士から 5 日に一ぺんでいいから更新しろといわれたのがけっこう効いていて、何気ない言葉というか想いでもなかなか力を持つものだなあと今さらながらに感心してるのである。

で、ちょっと前に「続く」と締めた記事があったからその続きを書こうと思うが、正直言って続けられない。いや、書くことはできるが、そのときの状態というか流れというか、そういうものは一度切れるとまた別のものになるから、そのまま続きにはならないだろうというくらいの意味だ。

その「続き」でまた思い出したが、数学者の岡潔は授業か何かで学生に論文だか試験だか忘れたが、数式だったか何かの証明だったのかそれも忘れたが、とにかく何かを学生に口頭で語らせて、それから今度は後ろから逆に語らせるというか読ませるってな話をどこかで読んだ記憶がある。ものすごくあいまいでほんと申し訳ないが。

それで、たしかその証明だか数式だかを逆から読ませていると、間違いがある場合は途中でパッとわかるというのだ。

私はそれがものすごく印象に残っており、ああ、この人はわかっているなあと思った。って何だかエラソーだが、何というか、頭の中の構造が正しいような気がしたのである。直感/直観とはそういうものだろうし、さすが数学者というか、世界に対峙する姿勢がきれいだ。

何だか大げさだが、要するにそうした数学的な証明っていうの? 数式でもいいがそういう本当にピュアというか、きほんのきというといかにも西友でしか買い物をしてないようだが、まっすぐな眼差しというものは、有象無象にどかどか踏み荒らされた道を歩くのではなく、誰もいない森の小道や空気のいい朝の散歩道を歩くようなもので、そういうときにふと新しい景色に出逢うということだ。

私には、いかにも岡潔が自分の思考や直観が既存の慣習や理性のオートマティズムに堕しないように、常に意識的であったと思えるのである。だから学生の証明だか数式も逆さまに読ませたのだと思う。

だって、岡潔くらいといっても業績はあまり知らないのだが、ともかく岡潔であれば学生のミスもヘタすりゃその優秀な頭脳で無意識に調整してしまうかもしれないし、あるいはまともに聞いていてもつまらないので、反対から読ませて何か意外な発見があったほうが面白いくらいに思っていたのかもしれない。

それで、岡潔といえばこれも書かなきゃいけないが、先日、同好の士と酒を飲んで岡潔の話になって、岡潔が金星人に会ったという話を聞いてぶっ飛んだ。

そんな話は聞いたことがないから、それはないだろと言ったら、いや、けっこう有名な話だという。その場でスマホで検索したらたしかに出てきた。

驚いたね。たしかに変わった人だし、こんな話も知っている。

岡潔が瞑想をしているとふと周囲の景色が変わり、いつのまにかだだっ広い座敷にいて、正面のほうに道元がどしっと座ってこちらを睨んでいる。両側には若いお坊さんたちが向かい合ってずらっと座っている。

岡潔はふたりのお坊さんに両脇を抱えられたのだったか、座布団のまま持ち上げられたのだったか忘れたが、道元の前に運ばれていく。道元は何も言わずに岡潔をじっと見るのだが、そのときにハッとわかったというのだ。

岡潔は道元の『正法眼蔵』を擦り切れるまで愛読していたが、どうしてもわからない部分があった。ずっと、わからないわからないと思っていたのだが、ある日、先のような体験をして、道元と相対したらパッとそれがわかったというわけだ。

私は岡潔のことは彼の書いた本でしか知らなかったが、まさか金星人と会っていたとはねえ。どこかで書いていたのかな。まあ、どういう形で会ったのか。ネットで見ると女の子だっていうが、物質化した肉体を持っていたのか半霊体なのか、想念形態なのかはよくわからない。

しかし、金星人といえば、もちろん今、地球から見える金星にヒューマノイドはいないが、『 RA 文書』の第 6 密度の存在はかつて金星にいたわけだし、RA 自身も自分たちは地球人の「一人類ぶんの周期だけ」先輩になるといっている。

「一人類ぶんの周期」って何だ?って話だが、半田広宣氏の OCOT 情報に則していえば、金星人は地球人よりもひと足早く「最終構成」を迎えているってことになるわけで、岡潔が少女と話したというのももうちょっと調べてみようか。

また何の話だったか。

そうだ、だから「流れ」というものがあり、前の記事で「続く」と書いたとしても、そのまま続けることはできないってな話だったが、何ともしょぼい話に落ちた気がするのは私だけかしら。

ともかく、法則というようなものがあるなら、それをあらしめる意志なり意図があるということだったと思うが、それはそのとおりだ。

これも書き出すと長くなるから、できればもうすぐ出す『盤』の昨年分のレポートを参照していただければと思うのだが、やっかいなのは “ワンネス” とか “すべてはひとつである” という言葉で、これはそのとおりなのだが、その認識の仕方が問題だ。

というと、そういう認識自体も結局は幻想だという話になり、それがさも真実かのようにまかり通っているセミナーや先生もいるが、それは実は単に思考停止に陥っているだけということになかなか気がつけない。

それはそうだ。たとえばエライ先生にそういわれたり、セミナーの参加者みんながそうだそうだと思っていれば、そういうものかもなあとつい思ってしまうではないか。

そうではなく、すべてはひとつだしワンネスしかないのだが、今、私たちはこうして生きているわけである。世界もちゃんとある。この世があって私たちがいるということは当然、二元性の中にいるということで、二元性を生きるということが生きるということなのだ。

だから、すべてはひとつであるという、ある種悟ったような “気分” を背景にして、二元性に由来するすったもんだをカビの生えたような弁証法でさばいたとしても、それは問題を虫ピンで刺して眺めてるだけのことで、問題なり支障なりのコレクションにしかならない。

そうではなく、問題なら問題を生きるしかないだろう。問題を生きるとは問題を変容させていく、変革していくということだ。ゼランドふうにいえば、問題を「お祭り」にするということである。

私たちは子どものころ、実はこれをやっていた。

前にも書いたが、子どもはいってみればトランサーファーであり、よく “◯◯ごっこ” をする。みんなが思い思いに、それぞれ鉄腕アトムになったり、サスケになったり、紅三四郎になったり、ひみつのアッコちゃんになったりするわけだ。古いねどうも。例が。

あるいはお医者さんでも、お母さんでも、先生でもいい。怪獣ごっこもするし、泥棒と刑事にもなったりする。そして役割が数時間で入れ替わったりもする。

で、大人たちが何をやってるんだと聞くと、本気で僕は刑事だとか、今、私はお母さんやっててオムツを替えてるのとか何とか忙しそうにして、人形にミルクをやったりするのだ。大人は、ああ、子どもは単純で気が楽だなと笑う。

でも、夕方になれば、誰かがそろそろ帰ろうかといい出し、そうだなそうだねとなり、アトムもサスケもアッコちゃんも、刑事も泥棒もお医者さんも「また明日も遊ぼう」といって、みんな家に帰って夕飯を食べる。

大人も基本的には変わらないはずだが、いつのまにか遊ぶことがなくなり、“ごっこ” がなくなり、なぜか自分にできることはいくつもないと思うようになり、やりたくもないことをやるようになり、仕事が逃れられない “義務” のようになり、場合によっては “罰” や “兵役” のようなものにもなる。子どもは、バカだなあ、本気でやったらあと笑ってるかもしれない。

どうしてそうなったのか。

誰かがそう望んだからだ。それが誰なのかはこの際どうでもよく、まわりもそう望んだからそうなったのだ。

そして、やがて望んでない人でもそうせざるを得なくなり、本当はサスケや刑事やお母さんやアッコちゃんになりたいと思っていても、もう子どもじゃないんだからと自分にいい聞かせ、場合によっては人にもいって聞かせる。

でも、本当の自分は◯◯をやりたいとわかっている。

子どものころはなぜ、安心して思いっきり “◯◯ごっこ” ができたのか?

子どもは、自分がやってることは “ごっこ” だとわかっており、いつでも別の “ごっこ” ができることを知っており、“ごっこ” がいずれは終わることも、終われば家に帰ることも、帰れば家には家族がいることも、家族がみんな愛し合っていることも知っているからである。

大人も同じはずだ。

では、大人たちはどこへ帰るのか。

ゼランドの言葉を紹介する。

 

希望というのは、すべてが失われたわけではなく、出口はあるということについての知識でもある。問題を孕んだ状況のメカニズムに関する理解は、希望と同じくらいの値打ちを持っている。

 

私たちは “ワンネス” や “すべてはひとつである” を生きようとしているのだ。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です