一週間のご無沙汰です。

と言って、わかってもらえる人はやはり 50 代以上だろうが、これも立ち飲み仲間の同好の士の 5 日にいっぺんでいいから更新しろとのお達しがなければ、一週間の無沙汰ではすまなかったであろう。

先週もいろいろあった。

原稿書きは相変わらずだが、土曜日には知人というか大先輩の韓国人とそのまた知人の台湾人の女性との三国会談があったりして、女性は世界的に超有名アニメの版権のアジア地区の責任者だが、妙な酒飲みゲームを提案されてやるハメになり、久しぶりに酔った。

大先輩の韓国人は、今や韓国では飛ぶ鳥を落とす勢いの出版社の社長だが、日本の書籍を中心に翻訳本も刊行しており、そういう意味ではお二方とも海を越えて世界を股にかけて活躍しているのである。

しかし、韓国ではやはり景気はよくなく、特に例の文大統領の悪名高い?最低賃金の大幅なアップはコンビニ経営者らの反発というか、死活問題から雇用を制限し、家族・親族を動員するようになったため学生なんかのバイトが減り、小遣いが減り、買う本が減ったのである。

それでも、今期は従業員の給料を全体平均で 10 %アップしたというのだから、大先輩の会社はすごいものだ。年はさほど離れているわけではないが、経営手腕というか収益を向上させる能力というか、私ふうに言えば甲斐性にはだいぶ差があるのである。

私ももっと踏ん張らねばならないと四股を踏んではみたものの、ハンプティダンプティの下半身ではどうも覚束ないのが情けない。

川崎市の登戸駅近くで起きた殺傷事件はまったくもって痛ましい事件だったが、犯人に対する非難の仕方でもネットでは物議をかもしているようだ。

要するに、誰かが犯人に向けて「死ぬならひとりで死ね!」みたいなことを言うと、おう、そうだそうだと共感したり、逆にそういう言い方はしないでほしいとする意見もあり、ケンケンゴーゴーとまではいかないが、それなりに主張がぶつかっているようなのだ。

両者の言いぶんはそれぞれによくわかるが、前者は傷ついた本人や家族の立場に立った感情的なものであり、後者は社会を形成する一員としての立場からの意見である。

両者とも同じ人間のようであって同じではない。

これは、いわゆる高次元からもたらされる “自己” や “自我” の段階的発展や進化に基づいてよく言われるテーマでもあるのだが、七面倒くさいことは言わないにしても、どの立場でものを言うかということに対して意識的でないと、どちらもそれぞれの立場を考慮すれば正論と思えるようなことになり、要は意義のある議論にはならない。

みんながみんな自分に都合よく意見を取り入れるが、それは事件への不快感や恐怖、犯人への憎しみや怒りなどを感情的に昇華するために、ただ単に溜飲を下げたいだけであったり、引きこもりや失業問題、ベーシックインカムや福祉政策の問題へと話を飛躍させ、場合によってはまんまとポリティカルな党派絡みの思惑へと取り込もうとしたりする。

これは別に登戸の事件に限らず、大阪の小学校や相模原の障害者施設で起きた大量殺傷事件、あるいは日本だけではなく、ここ十数年で頻発しているアメリカの銃乱射事件でも同じことだが、犯人がどうして犯行に及んだのか、私たちは真剣に考えなければならないということだ。

当たり前だが、そういうことを勝手にやられてはとんだ大迷惑だからである。だから、お前がひとりで死ねばいいという話ではない。

そういう意味では、私はあえて比較すれば、そういう意見よりも、そういう意見は控えるべきだとする意見のほうがまだマシだと思う者だ。

犯人に対する憤りはよくわかるし、どんな事情やいきさつがあったにせよ、最終的に人を殺めたことはどんな言い逃れもできず、問答無用に罰則が与えられるべきだとする意見があるだろうこともわかる。

それでも私は、そのいきさつや事情をちゃんと知ろうとする努力をするべきだろうと思う。

人の言動には必ず “想い” が先にある。だから一応、近代社会には裁判制度があるのだろうし、弁護士がいるわけだ。なぜ、犯行に至ったのかについて、ロクな審理もなく刑罰を与えられたり、裁判制度そのものがないような状況がどんな状況なのか、ちょっと考えればわかるだろう。

日本でも、反戦を唱えた社会主義者たちがあっという間に死んでいった時代、大逆事件や関東大震災のドサクサで起きた甘粕事件など、当時、官僚や政府上層部が、社会の下っ端の謀反や社会制度を改革しようとする思想に対して、どんだけ恐怖感や不安を持っていたかがわかる。

朝鮮人が井戸に毒を入れたとか、社会主義者たちが革命を起こそうとしているとか、それでなくてもそのテの恐怖を煽る言説がどんなに簡単にパニックを引き起こし、人を “人でなし” にしていくのか、私たちはたっぷりと歴史の例を見ているはずだ。

前にも書いた気がするが、戦争で超非人道的な行為をした連中でも、普通に家族を愛する父親だったりするのである。特別な悪魔ではないのだ。

ただ、人間は状況によっては悪魔になる。というか悪魔が憑く。私たちはすべて自分の考えは自分で考えていると思いがちだが、そうではない。

私たちは、極悪な犯罪を犯した犯人を非難する。そして、自分だけは同じ立場に立たされても絶対にそんなことはしないだろうと思う。

しかし、こういう説もある。これはまだ日本では発売されていない書籍だが、それによると、人は先の極悪人と同じような立場に立たされたとしたら、100 %同じことをするだろうと言うのだ。それ以外はあり得ないと。

また、人はよく過去を悔やんで、今、あのときに戻れるとしたら、これまでの経験を活かして絶対に同じ過ちは繰り返さないだろうにと思う。しかし、仮にもう一度同じ時に戻ったとしても、やはり 100 %同じ過ちを犯すのである。

なぜなら、その過ちを犯す行為に導いたエネルギーは変わらないからだ。そのとき、過ちを犯す選択肢以外にも、これをしたらきっと後悔するだろうという不安やまったく別の選択肢など、ありとあらゆる可能性があったにもかかわらず、その過ちを犯すように導くエネルギーが、そのほかのすべての選択肢を足したエネルギーよりも強かったからそうしたのだということだ。

だから、今でこそ後悔しているかもしれないが、同じ場面に戻れば、何度でも同じことをするだろうと言うのである。

この話には、スピリチュアル的にかなり重要なテーマを含んでいるが、それはまた書く。

まあ、個人的にも私は、起きてしまったことは起こるべくして起こったと思うので、それはわからなくもない。実際、あのときなぜ、あんなことをしてしまったのかと思うことは誰にでもあるだろうが、結論から言えば、しょうがないのである。今後、気をつけるしかない。

過ちに導かれるときは、そういうふうに導かれる理由があるのだ。

これは多少、話がずれるかもしれないが、ベンジャミン・リベットの実験でも証明されていることがある。

簡単に言えば、私たちは何かをしようと思うその 0.何秒か前に、脳ではすでに電位的にその準備がされているということだ。

つまり、私たちは自分の意志でこうしようと思ったと思っているが、実は私たちが意志する前に、すでにそうすることが決定されているというのである。

では、私たちの自由意思や選択はどうなっているのかという問題になるが、それにはいわゆる霊界でもアストラル界でもいいが、やはり別の次元を想定しないとならなくなり、そのへんはいろいろなスピリチュアル情報でもさんざん言われているが、もっとも危ないと言うか、ちゃんと理解・認識しないととんでもない勘違いをしてしまうことになるのである。

つまり、言動に先行するその “想い” はどこから来たのかということだ。

そのメカニズムというか機能に関して多少は知ろうとし、その仕組みに意識的であろうとするとわかることが実際、あるのである。

そうすれば、少なくとも条件反射的に、お前がひとりで死ねばいいという反応はしないだろうし、人を殺せば即死刑とも考えないだろうと思う。

ちなみに、私は死刑制度には反対である。国家が “合法的に” 人を殺す制度がいいわけがない。当たり前だろう、そんなことは。

ただ、人間は状況によってはとんでもないことをするということだ。だから、どうすればいいのか、みんなで考えなければならない。それには、まずは人の気持ちをわかろうとすることが必要である。

その人の気持ちにしても、私たちにはいろいろな階層の “自己” や “自我” があるので、誰それの恋人である自分や誰それの友人である自分、夫としての自分、子どもとしての自分、会社の部長としての自分、社長としての自分、◯◯区◯◯町の住民としての自分、日本国民としての自分、地球に生きる人間としての自分などなど、それぞれにいろいろな自分があるはずだ。

それぞれの立場で、“自分” が言うことも変わってくるかもしれない。それは “自分” を見る視点が変わることでもあり、逆に相手に対しても、相手のさまざまな階層的な位置をも理解することにつながり、あえて言えば、半田広宣氏にオコツトが伝えてきたものや『ラー文書』のラーが伝えていることとも思いきり関連してくるのである。

幼稚園児を引率する先生は、幼稚園児たちが公園で遊ぶところを一応観察し、それとは知らずに園児たちが危険なことをしていたり、友だちとスコップの取り合いになったり、女の子にちょっかいを出したりしたときなどに介入し、最低限の注意を与え、園児たちに学ばせる。

園児たちもその後は、危険なマネをしなくなったり、友だちとも協調するようになったりする。

それでも協調性がない友だちや、危険なことばかりするヤツに対しては、園児もみんなで集まって、アイツを仲間に入れるにはどうしたらいいかと考えはじめる。場合によっては、先生にも相談するかもしれない。

それがうまくいくときもあるだろうし、やはり一緒には遊ぶことができず、それぞれお互いが不愉快な干渉をし合わないといった何となくできたルールに則って、共存することになるかもしれない。

園児の先生たちは、できるだけ園児たちの自主性・主体性に任せて、園児たちが自分たちで成長できるように見守る。先生は園児たちよりもはるかに “大人” であり、経験も豊富だから、そういうことができるのだ。

しかし、先生たちが園児たちよりも優れているというわけではない。むしろ、園児たちのほうが先生たちよりもはるかに高いポテンシャルを持っているかもしれず、先生もそれを楽しみにしているのかもしれない。

だからこそ、くだらないことで大ケガをしたり、争ったりする方向にエネルギーを使わないように願っているのだが、園児はやはり園児なのでヤンチャなわけだ。

まだまだ私たち大人の中には、鼻を垂らしたアホな園児のままのヤツも多ければ、逆にガンガンと規則と罰則で行動を規制するほうがいいとする小心者の大人たちも多いのである。

でも、もう時間がないのかもしれないのだ。

って、何か話が錯綜してきたが、何だっけ? 

そうだ。自分の “想い” はどこから来るのかということである。

トンデモ話になりそうだからというか、そう言われるのはしょうがないが、どうやらやはり私たちの思考は操作される可能性が多分にあり、それもけっこう無自覚にそうなる場合が多いということだ。

だから、早いとこ、それってどういうこと? どうなってるの? といったことをみんなで話し合わなければならない。

みんなっても、みんなじゃない。

話し合いたい人だけでいいのであり、それで十分なのである。

 

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