一週間のご無沙汰にならないように昨日、あわてて更新しようとしたが、成り行きで某会合に出席することになり、ディープな話というか、ああやっぱりそうなのねといった話を聞くことになったが、それもそのうち語ることになるだろう。

いわゆるセミナーや勉強会にはもう出ることはないと書き、実際そう思ったわけだが、ものごとには流れというものがあるらしく、知るべきものは知らなければならないようだ。

今、作成しているレポートが終わればまた書くが、というか YouTube でも発信しようと思うが、あちこちで同じテーマが降りはじめているというとスピめくけれども、仮にどこかが潰されてもいいように、同じことが次から次へと降りているということはよくわかった。

それはともかく、ブログの更新にしてもケツカッチンなところがかつてのギョーカイノリを拭いきれていない感があって、私としては面目ないしだいである。

しかし、ホルムズ海峡だっけ? 日本のタンカーが襲撃されたとかいうニュースには驚いたというか、もう古い話になっているのかもしれない。

もうすぐ仕上がるレポートも含め、毎日、活字に埋もれながら生活しているから、ときどき世捨て人にならないようにヤフーのニュースを眺めるわけだが、タンカー襲撃のニュースを見てびっくらこいたのだ。

安倍首相のイラン訪問中の出来事だったわけだが、あまりにもベタというか、ほとんどお笑いの世界である。

襲撃の真相に関しても、私は調べてないからわからないが、おそらくいろいろな人がいろんなところで論評しているのだろうが、はっきりしていることは、中東に絡めてコトを荒立てたい連中がいるということだけだ。

だから、イランとアメリカ、イスラエル、サウジその他のアラブ諸国の動きをウォッチすることも大事だし、そういう情報も必要なのは当たり前だが、あふれかえる情報に取り込まれて妙なバイアスを掛けられないように、まずはキナくさくなってきたなという感覚で十分かと思う。

だいたいが、ああいうベタなことをする連中は人の恐怖や不安を煽っておいてから、対症療法としての情報やら何やらを売りつける類いのヤカラだ。

あなたもいつかはガンにかかるかもしれませんよ、だからガン保険に入ると安心です、子宮頸ガンも何人にひとりの割合でかかるので、ワクチン接種が必要ですなど、ほとんど手口としてはヤクザと同じであり、ヘタすりゃ自分たちで店でイザコザを起こしときながら、あとで知らない顔して、物騒ですね、だからイザというときには私たちが守ってあげましょうとか何とか言って何とか料をせしめる。

そうしたマッチポンプ的な店のケンカならケンカの原因をあれこれ探ってもあまり意味がない。

あいつが先にイチャモンをつけてきたとか、でも手を出したのはあいつが先だとか、もともとはあいつはあいつに借金があってとか、ずいぶん前だがあいつはあいつの女に手を出してとかそりゃいろいろ出てくるだろうが、本質はそういうことではなく、ただ金が欲しいだけだったり、あるいはもっと大きなケンカをしかけたいだけなのだ。

店のケンカにしても、本当に突発的に誤解から生じたものであれば、謝ったり、理解し合うことで普通はその場で丸く収まる。

だから、まずはケンカの雰囲気というか、原因というか、そういうことをケンカの勢いに気圧されたり、野次馬連中の訳知り顔の噂話に惑わされないで、冷静に “見る” ことが大事だ。

裏に下卑た思惑がある場合は、どこかに必ず違和感があるからわかるものであり、ケンカにしても何にしても、不自然なことにはだいたいが強引なエゴの発現に関係しているのである。

もちろんエゴ自体にいいもわるいもないが、その扱い方に意図が絡むから、場合によっては自他ともに警戒しなければならないということだ。

昔というか今もあるだろうが、楳図かずおのマンガの単行本に『恐怖』というのがあって、全部で 3 巻ある。それぞれ読み切りの短編作品が 6 ~ 8 作ずつ収録されていて、何とも名作だ。

私は小学校 5、6 年生だったと思うが、ときどき近所の友人の家族とともに団地の広場の商店街へ散歩がてら中華料理を食べに行っていたのだが、サンマーメンとチャーハンとギョーザとかいう頭のわるそうな大食いメニューをたいらげたあと、商店街にある本屋に行くのが慣わしとなっていた。

あたりは夕方のたそがれどきで、母親たちはまだ中華料理屋でダベッている。そんなとき、見つけたのである。『恐怖』の第 1 巻を。

たまげたね。こんな作品集があったのか!という驚きだ。まさに私の好みのまんまで、すぐに買って読み、その後 2 巻 3 巻と発売されるのを首を長くして待っていた。

いや、楳図かずおは当然知っていたし、『猫目小僧』なども連載から読んでいたが、その『恐怖』シリーズは知らなかったというか、そのとき本屋に並んだばかりの新刊だったのだと思う。

前にも書いたかと思うが、とにかく楳図かずおの作品はギャグ系はおいといて、その内容はなまじの小説家では到底たちうちできないような一級品が多い。

だまされたと思って、いまだ読んでない人は一度読んでみればいい。古き良き文学の薫香がたなびいてきまっせ。

今さら、楳図かずお論をぶとうってわけではなく、その『恐怖』第 2 巻に「魔性の目」という作品があり、ネタバレ注意だが、ある日、試験勉強の疲れで寝込んでしまった女子高生が肺炎か何かの高熱で失明してしまう。

その年の大晦日、ゴ~ンと除夜の鐘が鳴り響く雪降る深夜、布団で寝ている女子高生の枕辺にものすごく気味のわるいおじいさんが突然現われ、「お前に目をあげよう」と言って、これまた爬虫類だか昆虫だかの複眼のようなものすごく気持ちのわるい大きな目玉を自分でバリバリッ!と抉り取って、その女子高生の目に押しつけるのである。

ウギャー!と目を血みどろにしながら女子高生は騒ぎ、親もどうしたことかと部屋に入ってくるが、それから目が見えるようになった。

でも、女子高生は、どうやら人の本当の心の姿が見えるようになったらしく、一見どんなに美しい女性でも、妖怪のように醜く、ずる賢そうな顔に見えたり、政治家でも何でもみんな魑魅魍魎に見えてしまうという、エコーズの「 ZOO 」を 100 倍不気味にしたような状態になるという話だ。

最近、テレビのニュースやバラエティなんかを見たり、街の中を歩いたり、電車に乗っていたりすると、その女子高生のような目玉を持っている人が意外と増えているんじゃないだろうかと、ふと思ったわけである。そんなことはないですか?

そういえば、『天才バカボン』にも似たような話があったぞ。

今、思い出したが、たしかアル中のギャングの親分か何かに幻視の発作がはじまって、つまみのギザギザウィンナーが巨大なイモムシに見えたり、周りの連中がバケモノに見えたりして、パニクッたギャングの親分はピストルをぶっ放し回る。

みんなで取り押さえようとしても手がつけられずに思案に暮れていると、普段から顔がモロに犬の顔なので、仲間からも「犬でもいいんじゃね? 警官だけにね」などとバカにされて悔しい思いをしていたおまわりさんがいて、彼が駆けつけるとギャングの親分は「あ、あなただけ人間だ」と言って降参するというくだらない話だった。ちょっと細部は違ってるかもしれないが。

ちなみに、バカボンのオヤジはギャングの親分にはカバに見えていて、どこかのコマではバカボンのオヤジが何気に逆立ちしているシーンがあり、私は子ども心に赤塚不二夫の繊細なギャグセンスにうなったものだ。

また、何の話だ系の話になったな。

いずれにしろ、世はもはやウソのつけない時代に入ったようなのである。

想っていることと話す言葉と行動がちぐはぐになれば、そりゃおかしなことにもなるし、ハタからもわかると思うが、今まではそれほどひどくなければわからない部分もあった。だから詐欺のようなビジネスや、実際の詐欺もあり得たわけだ。

口・心・行(くしんぎょう)を調和させるというのは、いわゆる艮の金神(うしとらのこんじん)系の神諭ではおなじみの説教だが、私のようにパーパー言う人間はよほどの注意が必要だ。

なぜって、口・心・行で言えば、順に立て別けていることでもわかるが、口つまり言葉が最重要であり、言葉によって心が動き、行動に結ぶからだ。

しかし、その奥のまた秘密ってことのほどでもないが、その口つまり言葉は実は心のままの響きから立ちのぼってくるものだから、心が汚れていれば偽りの言葉が生まれ、そのまま偽りの言葉を心に受けて現象のもとを創り出し、実際に現実化するからである。

といわれる法則がある。

だから、私のような人間が心が汚れないままでいるということはほぼ考えられないから、実際、考えていることはほぼ酒を飲むことだから、あまりありがたくない現実が現象化することは避けられないと思うからだ。

だから、すでにウソがつけない世になったというか、ウソはやがて自分が気づいていようがいまいが必ず現実化するという形で現われるから、身もフタもない言い方をすれば、どうしたって責任はすべて自分で取ることになるのである。

ちなみにウソってば、自分で自分をだますことがいちばん厳しいことになる。

私たちは自分だけにはウソをつかないようにしなくてはならない。どうすりゃいいのさと故・藤圭子のようなことを聞かれてもわからないが、ひとつは自分に言い訳をしながらしていることはやらないほうがいいだろう。

それが最終的には世の中のためになりそうだ。

初めに言(ことば)ありき、とは聖書のヨハネの福音書の冒頭だが、この「ことば」はネットの Wikisource にある日本聖書協会の聖書では「言」としてあるが、ほかもだいたいそのようである。

その「言」の意味をめぐってはいろいろあるが、最終的にはやはり「言葉」のことだとするしかないと思うし、要はその「言葉」の概念をどうとらえるかという問題だろう。

聖書の場合は、だいたいがラテン語訳が主になって各語に訳されているから、翻訳にしてもラテン語訳が原本になっている。

言うまでもなく、聖書はギリシャ語訳のほうが古いから、ギリシャ語からラテン語に訳され、それからまた英語なら英語、日本語なら日本語に訳されるわけだが、本来はヘブライ語かアラム語から直訳したほうが意味は近くなるのだろう。

しかし、これも解釈の仕方しだいだから、必ずしもそうとは言えないわけで、そのあたりは以前、『創世記』にある「空」とか「天」とか「地」の訳にからめてちょっとほざいたことがあるが、けっこうやっかいな問題もはらんでいる。

ちなみに、「言」の部分はギリシャ語の聖書では「ロゴス」であり、ラテン語では「ウェルブム」( verbum )で英語の「 verb 」(動詞)の語源だが、verbum の v が w になって変化したものが「 word 」だから、英語にすると「 word 」(言葉)であって、「 language 」(言語)ではない。ややこしいが。

だから、やはり単純に「言葉」っても、ちょっと慎重にならざるを得ないというか、とは言え、ストア派の「ロゴス」の概念に引っ張られて、やれ「理性」だ「論理」だ「法則」だと広げていくとまたわけがわからなくなるが、それでも「はじめに言ありき」の「言」とは、何かものごとを動かす根本的なものに触れているらしいことはわかる。

つまり、何か “動き” の感覚がともなっているように思うわけだ。

となると、知りもしないのにソシュールを持ち出すことはないのだが、「ラング」と「パロール」で言えば、やはりパロールの “発話” 的な意味合いを含意しているように思われ、ヘタすりゃ、「ロゴス」とは “神” の個人的な “発話行為”、もしくはまんま “発語” としても神話的にはオーケーかもしれない。

実際、このギリシャ語訳の「ロゴス」はヘブライ語では「ミラー」(発話)、アラム語ではヘブライ語から派生した「メムラー」ということらしい。

そこで思い出すのは、近代西洋文学史上燦然と輝く巨星であるゲーテのこれまたドイツ文学史上最高峰に位置せられる作品『ファウスト』だが、かのファウスト博士は、悪魔メフィストフェレスと邂逅する直前、その「はじめに言ありき」のドイツ語訳に頭を悩ませていたわけである。

ファウスト博士は、ほぼすべての学問を修めた果てにいまだ満足できぬ欲望、つまり「一体この世界を奥の奥で統(す)べているのは何か」(森鴎外訳/以下同)を求めて、「形而上のものを尊重するようになり、啓示がほしいとあこがれる」。

そして、やはり聖書に救いというか啓示を求め、聖書の原本を開いて「好きな独逸語に訳して見たい」と思い、そして以下のように語るのだ。(適宜ルビを入れる)

 

こう書いてある。「初(はじめ)にロゴスありき。語(ことば)ありき。」
もう此処(ここ)で己(おれ)はつかえる。
誰の助(たすけ)を借りて先へ進もう。
己(おれ)には語(ことば)をそれ程(ほど)高く値踏(ねぶみ)することが出来ぬ。
なんとか別に訳せんではなるまい。
霊の正しい示(しめし)を受けているなら、それが出来よう。

こう書いてある。「初に意(こころ)ありき。」
軽卒に筆を下さぬように、
初句に心を用いんではなるまい。
あらゆる物を造り成すものが意(こころ)であろうか。

一体こう書いてあるはずではないか。「初に力(ちから)ありき。」
しかしこう紙に書いているうちに、
どうもこれでは安心出来ないと云う感じが起る。

はあ。霊の助(たすけ)だ。
不意に思い附いて、
安んじてこう書く。「初に業(わざ)ありき。」

 

ファウスト博士は聖書をドイツ語に訳したいと思ったが、最初からつまずいた。

内容からしてヨハネの福音書だろうが、原本にしたのは、「ロゴス」とあるからおそらくギリシャ語訳と思われるが、ファウスト博士は、「語」(ことば)と訳すほどには「言葉」というものに信頼をおいていないと言うわけだ。

で、「意」(こころ)、「力」と訳していく中で、最終的に「霊の助」を借りて、「業」(わざ)と訳すことにする。

はじめに業(わざ)ありき、というわけだ。

ここも、日本の文豪・森鴎外の格調高い古色蒼然たる名訳なのでわかりにくい部分もあるが、『ファウスト』は相良守峯氏や手塚富雄氏ほかいろいろな人の訳本があるが、おそらく最新版である池内紀氏の訳を見ると、「意」(こころ)の部分は「想い」、「業」(わざ)の部分は「行為」と訳されている。

これでちょっとはわかりやすくなったかもしれない。

要するに、ヨハネの福音書の冒頭「はじめに言ありき」の「言」の部分は、ファウスト博士つまりゲーテは、「言葉」でも、「意」(こころ=想い)でも、「力」でもなく、「業」(わざ=行為)と訳すほうがふさわしいと判断したということだ。

何だか、先に私の今後のパーパー発言の自戒に絡めて、艮の金神の一連の神諭ではおなじみの「口・心・行」とも奇しくも似たような話になってきたが、艮の金神は「口」つまり「言葉」が最初であり、その「言葉」の方向というか響きというか性質というか、要するに最終的にどう現象化するかは、その「言葉」を生み出す「心」の方向というか響きというか性質によると言うわけだ。これもややこしいが。

いったいどっちが最初なんだよ?ということだが、これもリニアな時系列では表現しにくい部分があるが、あえて簡略化して言えば、ものごとが現象化する「口・心・行」というシステムのようなものとしては、現象化させる力のもとは「口」(言葉)にあるのだが、その「口・心・行」のシステム自体を成立させている大もとの磁場というか、領域みたいなものの響きとか方向とか、波動とか言うしか私にはないのだが、それによっては、現象化したものでもエントロピーの渦に巻き込まれ、形あるものはやがて壊れるといった構造とともにやはり滅びることになり、またそうではない響きとか方向、波動であれば永続的な維持発展の運動サイクルとともに在ることになるということだ。

で、ファウスト博士は、「業」=「行為」を最初にもってくるべきだと判断したということである。

しかし、ここでちょっと考えなくてはならないのは、ファウスト博士は知識に倦み、もはや自分の心を動かすものはないだろうという、ニーチェはまだ生まれてもいないが、どこか虚無的な思念に悩まされているようなのだが、いきなり「霊」の助けを得て、「業」だとひらめいたわけだ。

この霊とは何なのか。

そして、ご存じのように、ファウスト博士が「業」と書いたとたん、部屋に連れてきていた捨て犬がうなり、吠え出したかと思うと変身して、われらがメフィストフェレスが現われるのである。

そして、ファウスト博士とメフィストフェレスの問答になるのだが、メフィストフェレスはファウスト博士に問われて自分自身をこう語る。

 

メフィストフェレス  常に悪を欲し、却(かつ)て常に善を為す、彼力(かのちから)の一部です。

ファウスト  ふん。その謎めいた歌詞(ことば)の意(こころ)は。

メフィストフェレス  わたしは常に物を否定する霊(れい)です。そしてそれが至当です。なぜと云(い)うに、一切の生ずるものは滅しても好(よ)いものです。して見れば、なんにも生ぜぬに如(し)くはない。こうしたわけで、あなた方が罪悪だの、破壊だの、約(つづ)めて言えば悪と仰(おっし)ゃるものは、皆わたしの分内の事です。

ファウスト  君は一部だと名告(なの)る。そして全体で己(おれ)の前にいるのか。

メフィストフェレス  それは少しばかりの真理を申したのです。人間は、気まぐれの小天地をなしていて、大抵(たいてい)自分を全体だと思っていますが、わたしなんぞは部分のまた部分です。最初一切(いっさい)であって、後に部分になった暗黒の一部分です。

暗黒の生んだ驕(おご)れる光明は、母の闇夜と古い位(くらい)を争い、空間を略取しようとする。しかしいくら骨折ってもそれの出来ぬのは、光明が捕われて物体にねばり附いているからです。物体から流れて、物体を美しくする。

そしてその行く道は物体に礙(さまた)げられる。あれでは、わたしの見当で見れば、光明が物体と一しょに滅びてしまうのも遠い事ではありますまい。

ファウスト  そこで君の結構な任務は分かった。君は大体からは物を破壊することが出来んので、小さい所からなし崩しにこわし始めるのだな。

メフィストフェレス  そうです。勿論(もちろん)それが格別役にも立ちません。無(む)に対して立っているある物即(すなわ)ち不細工な世界ですな。こいつには、これまでいろいろな企(くわだて・たくらみ)をして見ましたが、どうにも手が著(つ)けようがありません。海嘯(つなみ)、暴風(あらし)、地震、火事、どれを持って行っても跡には陸と海とが依然としているですな。それからあの禽獣(きんじゅう)とか人間とか云(い)う咀(のろ)われた物は、一層手が著けられませんね。

今までどれ程(ほど)葬ったでしょう。それでもやはり新しい爽かな血が循(めぐ)っています。そんな風で万物は続いて行く。考えると、気が狂いそうです。空気からも、水からも、土地からも、乾いた所にも、濡れた所にも、熱い所にも、寒い所にも、千万の物の芽が伸びる。

もしわたしが火と云(い)う奴を保留して置かなかったら、これと云(い)う特別な物がわたしの手に一つも無い所でした。

 

この問答もなかなか興味深いものがあるが、ファウスト博士に「業」と解釈させるようにそそのかしたじゃない、助けた霊がメフィストフェレスだとすると、個人的にはとても面白いのだがいかがだろう。

また、メフィストフェレスという悪魔はなかなか可愛いヤツでもあり、帰る段になって、ファウスト博士がどこからでも好きなところから出て行けばいいと言うと……

 

メフィストフェレス  悪魔や化物には掟があって、這入って来た口から、出て行かなくてはならんのです。初(はじめ)にすることは自由ですが、二度目は奴隷になるのです。

 

と宣うのだ。うーむ。

まあ、『ファウスト』は、ファウスト博士をめぐって神とメフィストフェレスが賭けをする話だが、神はどれだけファウスト博士を誘惑しようとしても無駄だろうと、悪魔にこう語るのである。

 

  あの男の霊(れい)を、その本源から引き放して、お前にそれが出来るなら、お前の道へ連れて降りて見い。だがな、いつかはお前恐れ入って、こう云(い)うぞよ。「善(よ)い人間は、よしや暗黒な内の促(うながし)に動されていても、始終正しい道を忘れてはいないものだ」と云(い)うぞよ。

 

そして、さらにメフィストフェレスに対してこうも言う。

 

主  己(おれ)は本(もと)からお前達の仲間を憎んだことはない。物を否定する霊(れい)どもの中で、己の一番荷厄介にしないのは横着物だ。一体人間のしている事は兎角(とかく)たゆみ勝ちになる。少し間が好いと絶待的に休むのが好きだ。そこで己(おれ)は刺戟したり、ひねったりする奴を、あいつ等(ら)に附けて置いて、悪魔として為事(しごと)をさせるのだ。

さてお前達、本当の神の子等(ら)はな、生々(いきいき)した、豊かな美しさを見て楽むが好い。永遠に製作し活動する生々(せいせい)の力が、愛の優しい埒(らち)をお前達の周囲(めぐり)に結(ゆ)うようにしよう。お前達はゆらぐ現象として漂っているものを、持久する思惟(しゆい)で繋ぎ止めて行くが好い。

(天は閉ぢ、天使の長等(ら)散ず。)

 

ここで神は、神と悪魔と人間の話をしたあと、岩戸を閉めたわけだ。

もともと『ファウスト』には、その話の原型となる神話があったようだが、もちろんゲーテのインスピレーションによって作品として昇華された。しかも、最初にインスパイアされてから、何十年も経ってから作品は完成した。

ともあれ、悪魔だけではなく、人間にもそれぞれ自分たちの仕事というものがありそうだ。

そして、神が言うように、私たちは「ゆらぐ現象として漂っているものを、持久する思惟(しゆい)で繋ぎ止めて行くが好い」のだろう。

言葉つながりで思い出したと言えば強引だが、ヘレン・ケラーは周知のとおり、対象の名前と、文字と、意味と、イメージがずっと結びつけられなかったわけだが、ある日、家庭教師のアン・サリヴァン先生がヘレンの手のひらに「 water 」と指文字を書くと、突然ヘレンはいっさいのつながりを了解し、狂喜乱舞してそこいらじゅうを叩きまくって、サリヴァン先生がその物の名前を指文字で書いてあげるまで叩くのをやめなかった。

何かのつながりが持続というか維持されていた結果、突然、ヘレンの中でも何かが新しくつながったのである。

『奇跡の人』は日本でも超有名な舞台作品だが、原題は『 The Miracle Worker 』であり、“奇跡の人” とはアン・サリヴァンのことである。

仕事と言えば、『日月神示』の「春の巻」第 19 帖で艮の金神は「使命」についてこう語っている。

 

使命がいのち。
上から、神から命ぜられたことがいのちぞ。
使命はつくられた時に与えられる。
使命なくてものは生まれんぞ。
自分の使命は内に聞きつつ外に聞けよ。
使命果たすがよろこびぞ。
使命果たすには生命がけでなくてはならん。
生命ぢゃからのう。
努力した上にもせなならんぞ。
努力には苦もあるぞ。
苦のない努力はないぞ。
右を動かせば左も動くぞ。
果たせば苦は楽。
果たさねば楽も苦。
重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのぢゃ。
神が主であるぞ。

 

どうにも、艮の金神だ、聖書だ、『ファウスト』の森鴎外訳だとなると、どこか古くさく、説教くさくもなるのがいただけないが、それでもそれらの文献の背後にある横溢した力のようなものが、巨大な龍体となってうねりを打ちはじめたように私には見えるのである。

 

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